108 障壁22−1
「レーニエ様!」
二人が市庁舎のホールに入った途端、叫び声を上げてサリアが駆けてきた。
「おや、遅いお帰りで」
回り道をしていた二人より、早く帰りついていたセルバローは厭味ったらしく朋輩を出迎えた。後ろにジャヌーも控えている。
「なかなかお戻りにならないのですもの、大層心配いたしましたわ! ん? まぁ! レーニエ様、お顔が赤ぅございますわ。よもやお熱でも? いったい何があったんでしょうねぇ」
サリアはじろりと主の背後に立つファイザルに流し目をくれたが、男は慎ましく頭を下げるだけで、何も説明しようとしなかった。
「さ、レーニエ様、ともかくお部屋にまいりましょう。御髪も乱れてございますわ」
文句はとりあえず飲み込んで、サリアはいそいそと主の世話を焼きはじめる。
「あ……うん」
サリアが鋭く指摘したように、レーニエの頬は幾分紅潮しており、髪は乱れ、瞳が潤んでいる。
「さ! さぁっ! さぁさぁ!」
「あ~あ。あの子、絶対叱っかられるぞぉ」
泣く子も黙る「掃討のセス」に凄まじい一瞥をくれ、プイっと背を向ける侍女に追い立てられる娘の後姿を見送って、セルバローは大げさに溜息をついて見せた。
ファイザルも苦笑しながら、どちらが偉いんだかわからない主従を見送っている。
「どこで何をしてたんだかなぁ? え? 俺がちゃんと周囲の哨戒人数を増やしてたからいいようなものの、もし何かあったら……」
「レーニエ様は俺が守る」
やれやれ、畜生め。生まれ変わったような顔をしやがって、この野郎!
「なんで、王女殿下のほっぺたが赤いんだろう」
「肌寒い日だからな」
しれっとファイザルは応じ、朋友に背を向けて自室に向かうが、セルバローの追及は容赦ない。
「それにあの、うるうるした瞳は尋常じゃないな」
「風も強いし」
「あの侍女な、さっきまで大騒ぎしてたんだぞ。可哀そうに、お前の従卒は、首を絞められて責められてたんだぜ」
「ほんとうか、ジャヌー?」
ファイザルはさすがに振り返り、若い従卒を見たが、ジャヌーは真っ赤になって両手を振る。
「えっ!? いえっ! 俺は大したことではございません……ですが、司令官殿、それでは、そのぅ……お二人は仲直りされたのですね?」
「……お前にも心配をかけたな……すまん、ジャヌー」
「いいえ! 俺は……嬉しいんです。あの方のあんなに嬉しそうな顔を見られて……本当に……俺は……」
若々しい顔の片側がぐしゃりと歪み、彼は慌てて顔を反らした。
夏の空のように澄んだ瞳に光るものがある。それを振り切るように、ジャヌーは白い歯を見せて笑って見せた。
ジャヌー……忠実についてきてくれたこの青年に、自分は何を返せただろうか……
「すまない。迷惑をかけた」
「……おい」
「なんだ」
「迷惑は俺にもかけただろうが!」
「記憶にないな」
「ちぇっ! どうでもいいが、その締まりのない顔を何とかしろ、気持ちが悪い。今夜話して聞かせろな。洗いざらい」
「ご免蒙る」
「ふぅん……なら、お前が今日アローウィンの城壁で、何をしてたのか言いふらしてやる。確か殿下を赤ちゃん抱っこで降りてきたよなぁ。それでな、ジャヌー」
「お、おい!」
ファイザルを見ないようにジャヌーは下を向いているが、さすがに好奇心がその背中から滲み出ていた。
「なら、諦めろ。酒は上等のを用意してやる。まさか、こんな場所でお姫様の寝所に忍び込むつもりでもなかろう。飲み明かそうぜ。おおっと、剣に手を掛けるのはやめろ。くぉら、ここをどこだと心得るこの無礼者!」
「それではレーニエ様、お湯から上がられる時にお声を掛けてくださいね。それから今夕の晩餐は、お断りになられると伝えてよろしいのですね」
「そうして」
「ではそのように。ごゆるりとお疲れを癒してくださいませ」
「ああ、ありがとう」
レーニエは湯船にゆったりと身を伸ばした。
領主館の浴室ほど大きくはないが、この施設の中で一番良い部屋を自分が独占している。
そのことに対する後ろめたさはあったが、ゆっくり湯に浸れることは風呂好きのレーニエにとって素直にうれしい事だった。
「ん……」
つい先ほどファイザルが触れた場所を、レーニエは指で辿ってゆく。
「んぁ」
湯の中で自分の胸に触れてレーニエは身を捩った。自分の物でないような声が漏れ、驚いてしまう。
だって……だって思い出すと、変になるんだもの……
このまま変になってしまったらどうしよう、とレーニエが真剣に悩み始めた時「失礼いたします」という声と共にサリアが顔を覗かせた。
途端にじゃぶんと大きな音が鳴る。
「レーニエ様? あれ? どうかなさいまして?」
「なんでもっ!」
「はぁ。あの、ただいまシザーラ様がいらして、お目通りを願っておられますが、いかがいたしま……あら、随分お顔が赤いですわ。もう上がられた方がよろしいのでは?」
着替えと体を拭う布を脇に置きながら、サリアは怪訝そうに主人を見た。実は彼女には大方の想像はついている。大切な主に今日、何があったのか。
このところ伏せられることの多かった瞼を凛々しく上げて、見つめる先に誰がいるのかを。
「レーニエ様?」
「あっ、ああ、そうする! え? シザーラ殿が!?」
かなり混乱してレーニエは勢いよく湯船から立ち上がった。
「はい。お疲れだと言って、お断りいたしましょうか?」
「いやいやっ! 会う、お会いするからっ!」
レーニエは慌てて布を体に巻きつけた。