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【完結・改稿】ノヴァゼムーリャの領主  作者: 文野さと
第二部 故郷は心の住まう場所

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107 障壁21−2

 ハーレイは、短い夏草が茂った乾いた草原を疾走する。

 強風は弱まり、吹き飛ばされた雲が切れて、薄青い空が見え始めている。

 ウルフィオーレの町がすぐ左に見えてくるが、ファイザルは構わず、右にハーレイの鼻先を向けた。

「ところで、あなたは陛下に何とご報告されるのですか? ザカリエの申し出を断られたのでしょう? 俺にとっては僥倖ですが、敗戦国とは言え、あちらにも面子がありますから」

「さぁ、何も考えていない。私が経験したことを、そのまま話そうと思っている」

「お母上は、あなたの幸福を望まれておられると伺いました」

「そう」

「では、偽りのご婚約もせぬ方がいい。後は国に任せる事だ」

「ふ……あなたもドルトン殿も、同じことを言うんだね。ドルトン殿もエルファランの基盤は、私一人の犠牲の上に成り立つほど脆弱(ぜいじゃく)なものではないと言われた。ただ問題は……」

 ファイザルは頷いた。

「ザカリエ。敗戦国としては、何としても国民に知らしめる平和のいしずえとなる証が欲しいのでしょう」

「かもしれない。だけど、ザカリエにだって問題はあったんだ。実は」

「へぇ、それは?」

「フェルからの知らせで、アラメイン殿とシザーラ殿が恋人同士で、以前は婚約していたと教えて貰ってた」

「フェルディナンドが!?」

 心から驚いた様子で、ファイザルは大きな声を出した。

「うん。知らなかった?」

「いいえ。ザカリエ王宮に、ハルベリ大佐の手の者が入り込んでいるとは、わかっておりましたが、そこまでは……そうですか。フェルディナンドが。確かに彼ほどうってつけな人物はいないな。しかしよくあなたが承知なさいましたね」

「最初は大反対だった。だけどセバストに諭されて……」

「セバストさんが? お元気ですか?」

「私がノヴァを出る時までは。オリイもサリアも、私の供をしてくれているから、セバストは今、一人で館を守ってくれている」

「そうですか……俺の知らないところでも、いろいろあったのですね。で、シザーラ嬢とアラメイン殿下が……なるほど。だからあの娘が……そうか」

 レーニエ様のお気持ちが、よくわかったのか……。

 それくらい調べなくてはならなかったな。自分の事で精一杯だったと言う訳だ、俺は!

「あの二人がそこまでの仲とは思いませんでした」

「うん。だから、却って問題は単純になると思った。お互い愛する人がいるなら、意にそまぬ婚姻などする事はない」

「それでよく、あの老獪な宰相が納得しましたね。色恋などと言う、個人の感情の問題で」

「個人の感情の問題なのだ」

 珍しくレーニエはファイザルの言を遮り、きっぱりと言った。

「執政者の心が平安でなければ、国は平らかにならない」

「きれい事です」

 レーニエの一途な気持ちは理解できるが、戦争や外交、政治はそんなに簡単なものではない。

「きれい事でいいのだ。戦は人の心の欲が起こす。なら、心が満たされていればいい。国の平和は形式だけの婚姻に依らない。人々の努力であがなう。ジキスムント殿も最後は納得された。後は国民をどうやって安心させるか……なんでも嘘も方便とか。私はよくわからないのだが、私の言葉を信じて頂くために髪を差し上げた」

「……」

 ファイザルは改めてこの娘を見た。

 美しいだけの人形ではないとは知っていたが、ここ数日、驚かされっぱなしなのだ。

 王家の血筋、故か。

「それで自分から、偽りのご婚約をご提案されたと」

「そう……なるのかな? 正式な平和条約が締結されたら、破棄してもいいと思って。結局あまり良い案ではなかった」

「おさすがです」

「この後はどうなるのかな? ジキスムント殿のご信頼に出来るだけ応えたいのだが、私に何ができるかしら」

「ドルトン殿が全て承知しておられます。おそらく、賠償金額の減額や文化、外交使節や、留学生の受け入れなどの支援がなされるのでしょう」

「私など何もしていないのと同じだな……だけど、母上に我儘を言って、この地に来させて貰ってよかった」

 レーニエは、ことんと後頭を厚い胸にぶつけて言った。

 ファイザルはちょいとその顎をくすぐる。こんな事ができるのも、生きていてこそなのだ。

「確かによくお許しが成ったと思います」

 使者は必ずしも任務を全うできるとは限らない。現に数年前に休戦の機運が高まった時に派遣された使者は、ドーミエによって皆殺しにされている。

 ファイザルは最初レーニエが大使と知った時、今まで日陰の身であった彼女が担ぎ出されたのは、何らかの謀計があっての事だと思っていた。

 もしうまくレーニエが両国の橋渡しになればよし、よしんばその身に万一の事があったところで、王室にとっても国にとっても、大きな痛手とはならないと判断した元老院が、ソリル二世を説得したのだろうと。

 でなければ、自分の存在にすら疑問を持っていたレーニエが、このような国際舞台の表に自ら出てくる訳がない。

 だがそれは、先日ドルトンや、レーニエ自身によって否定されたのだ。

 レーニエが自ら自分の殻を破り、王室も、その股肱も、彼女を認めはじめている。

 自分だけが心の中に障壁を抱え込んでいた。

 その壁をシザーラが、セルバローが、ドルトンでさえ叩いてくれたのだ。後は自分が壊すしかなかった。

 全てはこの娘の行動故か……

「ヨシュア?」

 考え込んでしまったファイザルを、下から覗きこむ姫君。

「え? いや、あなたが無鉄砲なのは知っていましたが、それでも程がある。悪くすれば、殺されるかもしれなかったんですよ。先日の事はもう言いませんが」

「だけど、何かせずにはいられなかったから」


 やがてファイザルは、街を西に望む小さな泉の傍で馬をとめた。

 泉は浅いが地下から湧きだしているらしく、小さな泡が幾つも水底から昇っている。周囲には貧弱な灌木が数本、ひよひよと生えている。

「ここは?」

「むかし鉱山で働いていた者達が、街に帰る前にここで身を清めたり、道具を洗ったりした場所と言われています。去年まではもっと荒れておりましたが、だいぶ回復してきました」

「ここも戦場だったの?」

「数年前はね。一時は泉も枯れておりましたが」

「こんなにきれいなのに、勿体ないことだ」

「……戦とは限りない無駄の集積です」

 ファイザルは周囲に目を走らせて、近づくものがないか確かめている。

 レーニエは黙って水際に進み、膝をついて透明な水に両手を浸した。傍らでファイザルの愛馬ハーレイ号も、鼻づらを突っ込んで水を飲んでいる。

「冷たい」

 レーニエは両手で水を掬くいあげ、頬を濡らした。

「湧き水ですから」

 背後から声が近づく。鉄色の髪が水面に揺れた。

「一層お美しくなられた」

 ファイザルは水面に映るレーニエを見つめたまま呟く。

 振り向いた瞳の虹彩は、外側になるにつれやや黒味を帯び、大きな瞳を更に大きく見せていた。

 しかし娘はただ、そぉ? と言うように首が傾げられるだけで、自分がどのように男の眼に映っているかなど気にもしていない。

「幾つになられました」

「はたち」

 事も無げに答えると、レーニエはぱちゃぱちゃと水を弄ぶ。

「ねぇ、ヨシュア? ノヴァに帰ったら、またあの山の湖に行きたい」

「ああ、あの時も俺は肝を潰したものでした」

 二年前の夏。

 二人は暫し、あの幻のような出来事を想起していた。

「最初は湖に住むという女神が現れたのかと思って……次にはあなたが入水自殺でも図ったのかと……まったく」

「うん。いっぱい叱られたね」

「そんな事しか覚えていないのですか? 俺はあれから暫く、あなたの肌を思い出して眠れぬ夜を過ごしたと言うのに」

「……う」

 自分でも思い出したのか、恥ずかしそうに俯く姫君の指先が、照れ隠しのように水面を滑った。

 ファイザルはその指を捉え、自分の唇に導く。

「あなたは、どこまで俺を骨抜きにしようというんだか……」

 籠絡ろうらくされた男は、指についた水滴を吸い取って口づける。

 レーニエは暫く、指先を男の唇が弄ぶままににされていたが、やがてゆっくりと白い顔を上げた。

「これからも傍にいて」

「またしても」

「え?」

「俺のセリフを横取りする気ですか?」

 ファイザルが言うのは、あの遥かなノヴァでの最後の日、領主館で別れを告げた日の事だ。あの時もレーニエは彼にそう言われた。

「ダメです。ここからは俺が動く」

「何をするの?」

「そうだなぁ。先ずは陛下にお会いしなければ」

「母上に? では私から……」

「無用です」

「……けど」

「俺が動く。あなたは待っているだけでいい。今度こそ」

 ファイザルはひた、とレーニエを見つめた。

「今度こそ俺は間違えない」



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