105 障壁20
「あ~あ、一体どういう事だよ。これは!」
赤子を抱えるようにレーニエを抱き、城壁を出てきたファイザルに、セルバローは不承知だと言うように思い切り眉を顰めた。
しかし、ひくひくと口元が歪むのを隠し切れていない。彼は心の底から面白がっているのだ。
「イキナリ駆けつけてきたと思ったら、ヒトサマの部下に勝手に動くなと命じた挙句、自分だけ美味しいとこ持って行きやがって! 俺には訳を聞く権利があると思うんだけどもな!」
「ないな。これっぽっちも」
そっとレーニエを地面に下ろしながら、ファイザルは戦友の顔をまともに見ようとしない。
それを兵士達が遠巻きにしながら興味深げに眺めていた。
「待たせてすまなかった」
地面に降ろされるなり、セルバローに駆け寄ったのはレーニエだった。
意外な出来事に、ファイザルが僅かに頬を強張らせる。彼等がこれほど親しい仲とは知らなかったのだ。
「直きに戻ると言ったのに、思わぬことになって……」
「ま、別によろしいです。それほど野暮ではなし」
セルバローは、生まれ変わったように清々しく微笑む娘を見つめた。
「あれ? なんだか、お肌つやつやですね。何でかな?」
「うん?」
「口を慎め、ジャックジーン。王女殿下の御前だぞ」
厳しい声が飛ぶ。
そのやんごとなき王女殿下を、ついさっきまで我がもののように腕に抱いていたのは、一体どっちだよ、という突っ込みを飲み込んで、セルバローはファイザルに視線を送った。
しかし、ファイザルは彼の視線を逃れ、自分が乗ってきた馬の手綱を解こうとしている。
つまるところ照れているのだ。
こぉれは面白いと、にやりと笑って、セルバローは片目を眇めた。
「すみませんねぇ、姫殿下」
「ジャックジーン……それがあなたの名?」
レーニエが小首を傾ける。
その様子は、出会ってからセルバローが見てきた憂いを秘めた美姫ではなく、素直な好奇心を瞳に滲ませた若い娘だった。
セルバローには城壁の上で何があったかなんとなく理解できた。
ファイザルの奴め、何をどうしたんだか……腹立つわ~。
だが、彼はいかにも殊勝らしく頭を下げる。
「左様でございます。姫」
「ジャックジーン……きれいな響き。美しいあなたによく似合う、ぴったりの名だ。私のことも名で呼んで欲しい」
ファイザルの背中がぴくりとなるのを、面白そうに感じながら、セルバローはこの風変りな娘を眺めた。
これまで何度か会って話もしているはずだが、今初めてレーニエは、セルバローを個人として認識したようである。
「うつくしいって、俺のことですか?」
男前だと言われた事は数えきれないがなぁ。
「そうだ。私はこんなに美しい殿方を見たことがない。ねぇ? ヨシュア、あなたもそう思うだろう?」
「思いません」
ファイザルは憮然と答えた。
「どぉして? セルバロー殿は大きくて、燃えるように鮮やかな色を、幾つも生まれながらにして身に纏っていらっしゃる。羨ましいことだ。あのぅ……よければその御髪に触れてみてもよいか?」
夢見るような大きな瞳にうっとりと見上げられて、セルバローはまんざらでもない。
しかし、眼前の男は殺気を発しながら彼を睨みつけた。だが、雷神は、このめったに見られない面白い一幕を逃すほど堅物ではなかった。
「どうぞ姫。いくらでも、触りたいだけ」
そう言って彼は、レーニエが触りやすいように長身を折ってやった。
「きれい……本で見た獅子のたてがみのよう。それに黄柱石のような金色の瞳」
指先で毛先を弄んでレーニエはうっとりと微笑んだ。
「私の髪や瞳も、こんな色だったらよかったのに」
「そのぐらいにしておかれませ、レーニエ様。ただでさえ自信過剰なこの男が、益々調子に乗りますので」
セルバローの頭から細い指先をもぎとるように、ファイザルはレーニエを自分に向き直らせた。
「あなたの髪はこのお色以外に考えられません。さぁ、もう戻りましょう。ここは風が強い。体が冷えてしまう」
「そうか、ではそうしよう。ありがとう……セルバロー殿……ああ、私もジャックジーンとお呼びしてもいい?」
よほどその名が気に入ったのか、レーニエは自分からそんな事を言った。
「どうぞ。是非そうなさってください」
「ん。ありがとう」
レーニエは素直に肩を抱かれながら、ファイザルに従う。
ああ、と言うようにファイザルは肩を落とした。
そう言えば、この娘は以前から大きくて、派手目なものが大好きだったのだ。
久々にそのことを思い出し、ファイザルはこっそりため息をついた。だから色素が薄く、中背で痩せ型のアラメインが美男に見えなかったのだろう。
俺と会ったときにも名を褒められたな。まさかこの子、ガタイの大きい男には誰にでもこんな風なんじゃ……
知らず不必要に腕に力を込め、セルバローの視界からレーニエを隠すように寄り添う。
セルバローは大きな肩を震わせていた。
「どうされた? ご気分でも?」
不思議そうにしている姫君。
「なんでもありませんよ……いやそのでもただ、もう我慢できない。だはははははは!」
「さ、行きましょう」
突然の笑いの発作に襲われた朋輩を無視して、ファイザルは自分の馬にひょいとレーニエを乗せた。
「ん? 私の乗って来た馬車はそこに」
「大丈夫です。後であいつが引いてゆきます。目立たない方がいい」
「ちょ、おい!」
俺か? と言うように、セルバローは自分を指差した。
「王女殿下は俺がお送り申し上げる。お前たちは囮になるように空馬車を守って帰れ。索敵を怠るなよ。さぁ、参ります。はいっ!」
そう言うと、愛馬ハーレイに手綱を入れてファイザルは一気に駆け去った。
腕の中に銀色の恋人を抱き込んで、どんな男の目からも隠すように、自分のマントですっぽりと覆う念の入れようだ。
何が起きたのかさっぱりわからないセルバローの部下たちは、呆然と彼等を見送った。
「あ~あ、行っちまった」
やってられんわ!
セルバローは諦めて広い肩を竦めると、馬車の方を振り返った。
さて誰が一番、気の毒だったでしょう?