104 障壁19−2
『私はとっくにあなたのものだ』
ファイザルは、頬の筋肉が緩むのを感じ、慌てて引き締める。
「だが、まだ続きがあります」
「続き?」
「あなたと俺では恐ろしいくらい身分差がある。ドルトン殿の話を聞いて考えましたが、たとえうまくいかなくとも、俺はもうあなたを離せない」
「わぁ、攫ってくれるの?」
レーニエは無邪気に尋ねた。
「最後の手段ではね。でも先ずは正攻法」
「なぁんだ」
「なぁんだって……あのね。俺は勝ち目の無い戦はしません。危ない橋は、最後に渡るものです。ここからは性根を据えて本気で動かなければ」
「動く?」
「ええ。俺にだって覚悟があります。あなたを手に入れるためならなんでもします。だが慎重にならないと」
不埒な事を言いながらファイザルは笑った。
「面倒なら攫えばいい」
「まったく……あなたは何も知らないからそんな事をおっしゃるが、俺と逃げたって間違いなく苦労しますよ」
「へいき。こんな役立たずな私だけれども、料理も掃除も何でもしてみせよう」
「はぁ……いくら俺が無能でも、あなたにそんな事はさせられませんが」
ファイザルはやれやれと頭を振ったが、姫君の崇高な自己犠牲発言に思わず厳しい目元が綻んだ。
「ヨシュア、私にできないと思っているな」
馬鹿にされたと思い、レーニエは可愛い唇を尖らせて男を睨んだ。
「あなたがするなら俺の方が上手でしょうよ。だがまぁ、いくらなんでもそこまでは落ちぶれちゃいません。今まで使い道がなかっただけで放っておきましたが、俺にだってある程度の財はあります。これでも最前線で長く働いている」
「そうなの?」
「そうです。さぁ、そろそろ下に戻らないと。セルバローの奴がじりじりしているはずだ。こんな危険な所にうっかり長居をしてしまった」
さっきからずっと危うい城壁の縁に立っていたのだ。その事を完全に失念していた恋人達である。
「あ……待って」
レーニエを支え、壁を内側へ飛び降りようとしたファイザルの腕がちょいと引かれる。
「なんですか?」
「すっかり忘れていたが、私がここに来たのは、父上の最後の思考を辿りたかったからだ。お亡くなりになった同じ場所に立って、同じ風景を見て、感じたかった」
「お父上と……?」
そう言えばレーニエの父、ブレスラウ公はこの城壁の上で射られ、墜落死したと聞いている。
「そう……だから私は下を見たい。ヨシュア、支えていて」
そう言うと、レーニエは矢狭間を一歩前に進んだ。
「わかりました。でも気をつけて。急に真下をご覧にならないように」
「大丈夫。あなたがいる」
「しかし」
レーニエはまた一歩進んだ。足先に敷石はもうない。さっきファイザルが立ったのと同じギリギリの足場である。これで限界だった。
「……」
恐る恐るレーニエは下を覗き込む。
恐ろしさで目が眩みそうだったが、腰にしっかりと回る逞しい腕を感じ、勇気を得てさらに目を開いた。
眼下に地面に向かって垂直に伸びる城壁があった。恐ろしい高さだ。
父の遺骸は美しかったという事だった。
落ちてゆくブレスラウ公爵の体を受け止めたという、ナナカマドの木は既にない。
代りに荒地に適したハイマツが城壁の一部を緑に染めている。後は疎らに草が生えているだけの、ごつごつした平原。
父上……私は来ました。
あなたに会うために、愛する人と共に。
長らく私はあなたの事を忘失していた。だけど、もう忘れない。
私はあなたの娘です。どうかこの恋に祝福を!
レーニエは瞳を閉じた。風がまともに顔に吹きつける。
――愛しい人!
もう直きあなたに会える。戻ったらすぐに結婚を申し込もう。周り道など最早せぬ。誰にも後ろ指は指させない。我らの愛しい娘の為にも。
――直ぐに、飛んで帰るから―――
――俺のアンゼリカ……!
刹那、世界が反転する。
暖かい感情が心に沁み入る。眼を閉じたレーニエの体から、くたりと力が抜けた。
「レナ!」
力強い腕に引き寄せられる。頼もしい広い胸に縋りながら、レーニエは大きく息をついた。
「……ほら、大丈夫だったろう?」
「しかし、御胸が大きく鼓動しています。もう下りたほうがいい」
ファイザルは、手の甲でレーニエの胸に触れて言った。
「もう少しこのままで……ヨシュア、しっかり抱いていて」
「畏まりました。俺の姫君」
厚い胸に抱きこまれる。頬を寄せると規則正しい鼓動が響いてきた。
トクトクトク
生きている……。
レーニエはファイザルに言わず、心に留めたあの一瞬を辿った。
正面に射手を見とめた時。
あなたの心がもう私にないと思って、死んでもいいと考えた……確かにあの刹那、誘惑にかられて射手の前に、身を晒した。
ヨシュアが身を呈してくれなかったら、あのまま死んでしまって、この人の苦しみも愛も、知らぬままに終わってしまったかもしれなかった。
生きている。生きているから、こんなにも胸が苦しい……。
生きていてよかった!
レーニエは、男の呼吸に自分のそれを重ねあわせた。乱れていた心臓の音が収まってくるのがわかる。
ほら……鎮まった。あなたが傍にいてくれるから。
ほっと肩を落とし、レーニエは顎を上げた。彼はずっと見つめてくれていた。
「父上と同じ景色を見たよ。その最後の想いが私に……ヨシュア」
「はい」
「私は示唆を受けた。自分と同じ轍は踏まぬよう、心から望むことに躊躇ってはいけないと」
「……その通りです」
レーニエは暫く彼の腕にもたれていたが、やがてゆっくりと白い顔を上げた。赤い瞳はこんな曇天の下でも、少ない陽の光を拾って不思議に揺らめく。
「そうだ。私はまだ言ってなかった」
「何をでしょう?」
顎がつんと上を向く。
華奢な拳がファイザルの服の胸を掴む。つま先立ちになって必死で体を伸ばし、長身の男に少しでも近づこうとする。
「あなたが好き……大好き。だからあなたが欲しい。あなたでなければ嫌」
いつの間にか風が凪いでいる。
なのに男には、まだ世界が揺れているように見えた。
なんというお方……!
こんな方を俺は諦めようとしていたのか。
無骨な掌が小さな顔を挟んだ。
見つめ合うと自然に唇が重なる。なぜ今まで、このように触れあえなかったのか不思議なくらい、それは二人にとって自然な行為だった。
触れ合った部分から、どんなにお互いを求めているかが溢れるように伝わってくる。
「ん……あ……」
僅かに離れ、また重ねられる。
それは優しく、激しく。長く離れざるを得なかった恋人達が、お互いの存在を確認し合うための儀式だったのかもしれない。
「俺のレナ、あなたが愛しすぎてどうにかなりそうだ……誰にも渡さない」
「そうして」
言葉すら惜しむように交わされる口づけこそ全て。
遠くの雲の切れ間から、夏を告げる最初の光が下りてくる。重なり合った影は、金色の縁取りに包まれながら微かに揺れた。
「帰ろう? ヨシュア、二人でノヴァの地に」
「お心のままに」
かくして恋人達は、いるべき場所をお互いの腕の中に見出したのであった。
ほーめーてー!