104 障壁19−1
「俺は……」
どのくらいの時間が流れたか、やがてファイザルは呟くように口を開いた。
「俺は酷く腹を立てていました」
「私に?」
「それもある。だが、それだけではなかった。柄にもなくこの一年、無我夢中で働いたのは、全てあなたを手に入れるためだったのに」
ファイザルは腕を伸ばしてレーニエから身を引き、強い力で両の肩を掴んだ。
「例えこの身が罪に塗れようとも、あなたを乞える立場に近づきたかった……俺には戦う事しかできなかったから、戦って、勝って……ひたすら勝って地位を得ようとした」
「存じている」
「それなのに、その願いも叶わぬ内に、あなたはここにやって来られた。あれほど隠しておられたご身分までも明らかにされ、王女として立たれた。俺にはどうしたって手が届かない遠い存在になって。その上、和平の絆を確かなものとする、ご婚約の話まで持ち上がる始末だ」
「でも、それは」
「だが、それでも俺は、あなたを守らなければならなかった。少し前までこの地は戦場だったのです。ドーミエの心酔者の情報もあった」
レーニエに言葉を挟むことを許さず、男は続けた。
「俺は戦を終わりに導くことには成功したかもしれない。しかし、その裏で無性に腹が立ち、混乱し、絶望していた。そして」
精悍な眉が険しく歪む。
「あの王子の出現だ! 金の王子に銀の王女。皆は口をそろえて褒めそやす。俺には無い身分も、若さも、美貌も、全てもったあの男の傍に立つあなたを見て、俺は気が狂いそうだった!」
「……」
「王女殿下。あなたは紛れもなく、女王陛下のただ一人のお子だ。そして陛下は、あなたを公式に認められるおつもりだという。例え王子との婚姻の話が白紙に戻ったとしても、あなたにはこれからも、降るようにご縁談が持ち込まれるだろう。俺の出る幕などありはしない。だからさっさと思い切ろうとして……なのに……くそっ!」
言葉とは裏腹に彼は腕に力を込める。衣の下の折れそうな骨を指に感じた。
「……できなかった! どうしても!」
「ヨシュア?」
「あなたはご立派でした。お母上とお父上のお子だと、皆もそう思ったはずです。平和は成るでしょう」
「あなたが命がけでもたらした平和ではないか」
「俺はただの人殺しだ」
「違う! あなたこそ命を掛けて……」
「俺は国の為に戦ったんじゃない! 我欲です。こんな汚れた手で、あなたに触れる事もおこがましいのに! あなたが俺のものになる訳がない。なのに、諦めきれない! 無様で未練がましい男です。俺は……」
限りなく苦々しい頬笑み。
「さっきこの場所に立つあなたを見て、俺が一瞬、何を思ったか白状いたしましょう」
「……」
「あなたを抱いてこの城壁から飛べば」
「わ!」
突然ファイザルはレーニエを掬い上げ、絶壁へと一歩踏み出した。レーニエの真下にはもう地面はない。
「あなたを誰にも渡さずにすむ」
レーニエは腕を伸ばして、逞しい首にしがみついた。
「ふ……申し訳ありません」
元の場所に後退し、そっと彼女を下ろすとファイザルは皮肉に笑った。
「だが、そうすれば、あなたを誰かに奪われるのを見ることもなく、あなたをこの腕に永久に閉じ込められる」
ファイザルはレーニエをしっかり抱きなおしたが、その肩が細かく震えていることを感じた。
「すみません。怖かったでしょう?」
驚かせ過ぎたとファイザルが。レーニエの顔を覗き込む。腕の中の娘は、大きな眼に一杯の涙を溜めていた。
「申し訳ありません。悪い冗談でした、俺があなたを傷つけられる訳がないでしょう?」
慌ててみても、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ出すのを堰き止められない。
弱々しく見える割にめったに泣かないレーニエの涙に、ファイザルはだんだん心配になってきた。
「お許しを、レナ」
手袋の先で零れる雫を吸ってやる。レーニエは自分でも睫毛を瞬いて涙を払った。
「ご……ごめんなさい。でも嬉しくて……」
「え?」
「思わず泣いてしまった!」
無垢にレーニエは笑った。
「は?」
何を言ってるんだ、この子は。
たった今、俺に殺されそうになったのじゃないか。
「あなたは、私を嫌いじゃないんだ……」
まだ濡れた瞳が微笑みを浮かべる。
「たった今、愛していると言ったでしょう!」
聞いてなかったのかこの子は。
彼は腕の中で微笑んでいる娘を見下ろした。涙の痕はまだ、頬から消えてはいない。
「あなたを失うと、考えるだけで狂ってしまいそうなのに」
「え!? 本当? でも怒っているともおっしゃったし」
「だからそれは俺が、うわ!」
突然腕の中に柔らかいものが飛び込んできた、と、同時に掴んでいたマントが靡いて彼の視界を覆う。
こんな華奢な娘に飛びつかれてもびくともしないが、いきなりの事で心構えができていなかった。
しかもこの強風、この高所で視界を遮られては危険だった。
「危ないではないですか! 風に飛ばされたらどうするんです」
たった今、自分がした事を思い出すと、強くは叱れないファイザルは、慌ててレーニエを支える。
マントが大きく風を孕むと、目方の無い娘は容易くよろけてしまうだろう。
「飛んで見たい」
太い首にしがみつくとつま先まで浮いてしまう。
それでも娘は構わずにぶら下がっている。二年前のあの頃でさえ、こんな風にされた事はなかった。
「離しなさい」
「嫌……」
「離す」
「……や」
「レナ!」
終に雷が落ちた。途端に形の良い眉が思い切り下がる。
ファイザルは身を屈め、ぶらぶらしているつま先を石の上に下ろしてやる。レーニエは渋々体を離した。
「いい加減にしなさいよ。ほらちゃんと外套の裾を持って! そうだ、思い出した。あなたにどうしてもお聞きしたい事があったんだ」
「え?」
レーニエはびくりと身を竦ませた。この人がこう言うものの言い方をする時は、たいてい叱られる時なのだ。
「あの時、なぜお逃げにならなかったのです」
「あの時って?」
「路地での襲撃の際のことを言ってるんです。射手が狙いをつけていたでしょう?」
「ああ、あの時。ええと……後ろに小さい子がいたから」
「例えそうであっても、身を竦めるとか頭を庇うとか、やりようはあったはずだ。なのにあなたは」
真正面から静かに敵を見据えて。
「あの時あなたは。射手を前にして動こうともしなかった! まさか死ぬおつもりだったのですか?」
「……わからない。忘れた」
あの恐ろしい一瞬を思い出すだけで、大の男がぞっと身を震わすものを、姫君はあっさり「忘れた」とか宣う。
「忘れた?」
「う……ん、よく思い出せない。ただ逃げるわけにはいかなかった。声をあげたら誰かが怪我をするかもしれなかった」
相変わらず自分の事には無頓着な娘に、ファイザルは大きな溜息をついた。
「全て俺の責任です。確かに全力で、あなたに嫌われるように振る舞ってきたし」
レーニエに自分を見限らせ、自らもレーニエを諦めるために、つまらぬ茶番を演じてきた。
「もう大丈夫。へいき」
レーニエは大きく頷いた。
「はぁ?」
一体、どういう自信の持ち方だ……
「二度とあんな真似をなさらないでください。寿命が縮みました」
「ごめんなさい」
「全くあなたと言う方は……俺はこれから一生振り回されるのかなぁ」
ファイザルはこれで何度目かわからない溜息をついた。
「一生?」
その意味を解しかねてレーニエは小首を傾げた。
「一生です。あなたは俺のものになってくれると言うのでしょう? 自分でも愛想が尽きるほど度量が狭く、嫉妬深い男ですが」
「……私はとっくにあなたのものだ」
一生の意味を考え込みながら、しかしレーニエは受け合った。
ああ、敵わない。一体どうしたらいいんだ。