102 障壁17
それは昨夜、かなり遅い時刻であった。
「閣下、夜分に失礼いたします」
「ファイザル少将殿かな?」
ザカリエの宰相達を送り届けたその足で、ファイザルはドルトンの部屋の扉を叩いた。
非常識な時刻にも拘らず速やかな返答があり、扉を開けたのはドルトン自身だった。
「このような時刻に押しかけ、申し訳ありませぬ」
「いいえ、構いませんよ。おや?」
ドルトンは彼の切れた唇を見て、面白そうに眼を細めた。言うまでもなく、セルバローに殴られた痕である。
これでは言い訳のしようもない。ファイザルは仕方なさそうに苦笑した。
「お見苦しくてすみません。ついさっき同輩と少々揉めまして」
「ほぉ、『掃討のセス』を打擲するとは、大胆ですな。一体どなたなんだか……」
知っているだろうに、食えない男だとファイザルは思った。
この男は商人や官僚などの色々な顔を持っているが、その実、国の機密事項を扱うハルベリ少将の懐刀と言われている男なのである。
しかもレーニエの補佐を務めているという事は、国王ソリル二世にも拝謁できる身分であることを示している。
「して、何でまたそのような事態に?」
ファイザルがなかなか口火を切らないので、ドルトンから水を向ける。
軍人らしく背筋を伸ばして椅子に腰かけた男は、自分の事を話すのは不慣れな様子で視線を床に落とした。
「これは謙遜ではなく、私の不徳の致すところで」
ファイザルはドルトンの従者が茶を持ってくるのを辞退し、下がるのを待って言った。
「それはそれは。興味深い経緯のようだ……いや失礼。して、私に何かお話があるのでしょう?」
「お伺いしたき儀が」
「何ですかな?」
「ある事柄について、一切の修辞抜きでお伺いすることを許していただきたい」
「ほう……で、それは?」
「先ず初めに、閣下は様々なお顔をお持ちのようだが、そのお心根は国王陛下の忠実な臣下であらせられますな?」
「言うまでもなく」
ドルトンは力強く頷いた。
「と言う事は、レーニエ様の事を、どのように捉えておいでで?」
「あなたのおっしゃりたいのは、私がレーニエ殿下の御味方か、どうかと言う事ですな?」
「約めて言えば、そうです」
「それを先に確かめられると言う訳ですか」
「で、どうなのです?」
「そうであってもなくても、偽りを告げるのは容易と思いますが」
「確かに。ですが、それは私が判断します」
自信ありげに軍人は頷いた。
「ふむ、成程。大した自信ですな。いや、揶揄している訳ではありませんよ。真面目に感心しておるのです。では申し上げましょう。私はアストラ・ドゥー・ドルトン伯爵。代々王家の忠実な臣下ですが、あまり表に出る事のない家です。女王陛下にお仕えしておりますが、レーニエ殿下の事も存じております。しかも、今のところ、王宮内では唯一の味方と申し上げてよい……これでどうですかな?」
応えてからドルトンは、相手の反応を窺うように眉を上げた。
「左様でございますか。率直に答えて頂き御礼申し上げます」
ファイザルは軽く頭を下げた、
「ふ……さすがはファイザル殿。良い眼をしておられる……で、本題は? 前置きはもういいでしょう。伺いましょうか?」
「それでは申し上げます。レーニエ姫殿下とザカリエ王弟殿下の婚約は、国事として成される事になったのでしょうか?」
対峙する二人の男の間に、奇妙な沈黙が流れた。
ファイザルの発した問いの唐突さを思えば当然である。彼は王家とは何の縁もない一介の軍人である。
ドルトンの眼は面白そうに細められたまま、ファイザルに注がれている。
この男はレーニエの味方なのかもしれないが、腹の内を全てさらけ出したわけではない、ファイザルは直感的に感じとった。
「……やはり、教えられないような事なのですか?」
「いいえ。そう言う訳でもないのですが……ファイザル殿」
「はい」
「その事をお答えする前に……失礼ながら、私の方から質問するのですが、なぜあなたがそのような事を気にかける必要があるのか、教えていただきたい」
「俺が答えれば、あなたにも応えて頂けるのか?」
ファイザルは短く問うた。
軍人の言葉は常に簡潔且つ明瞭であるが、ドルトンの熱が感じられない態度が彼の心の琴線に触れたようだった。
「お約束致しましょう」
ドルトンは鋭い光を放つ、青い眼を受け止めながら頷いた。
「それでは申し上げます。身分の差を考えれば畏れ多きの極みなれど、俺はレーニエ様に懸想をしている」
「なんと」
驚いたような顔をしたものの、ドルトンの態度は相変わらず気持ちがこもっていない。
「だから、この問題は俺にとって、非常な一大事なのです」
ファイザルはドルトンを睨みつけるように言い放った。
「驚きましたな」
「御冗談を」
ファイザルは容赦なく切り捨てる。
「あなたは俺が何を言いに来たか、気づいていたはずだ」
「ほぉ、何でそう思われましたかな?」
「あなたとお会いするのは、今回が初めてではない」
「覚えていて下さったか。光栄至極。あれは二年前でしたかな」
忘れるはずがない。
今とはずいぶん風体が異なってはいるが、二年前の春、商人としてノヴァの地を訪れたドルトンに、ファイザルはレーニエからの書状を手渡しているのだ。
その折にこの男は、ただ者ではないと感じとっていた。
「そう、あの折にあなたは、俺とレーニエ様の事を陛下に報告したのだろう?」
「慧眼ですな、その通りです。最早隠しますまい。ちと煩わしいかも知れませんが、順を追って申し上げます。宜しいかな?」
「伺いましょう」
「私は昔から陛下に、レーニエ殿下のお目付け役を仰せつかっておりましてな。ただし、殿下は私の事は知らされてはおらぬのですが……あの方の複雑なご事情も全て承知いたしております。都を出られた経緯も……そして、あの春の日、私はノヴァゼムーリャで久しぶりに殿下にお目にかかって、驚嘆したのですよ」
「驚嘆?」
「ええ。王宮の最奥の小さな屋敷で、いつも物憂げに退屈しておられたあの方が、ノヴァの地で生き生きと領民と交わり、小さな子ども達に慕われておいでになった。それは楽しそうに……そして」
ドルトンは思い返すように一旦言葉を切り、目の前の男を見つめた。
「あの美しい眼がずっと追っていたのは、あなたでした」
「……」
「ええ、間違いありません。レーニエ様はあなたに恋しておられた」
「……それであなたはどうされたのか」
表情をおし隠しながら、ファイザルは尚も問う。
「どうもしやしません。この事は陛下にも申し上げませなんだ。まだ、時期尚早と思いましたのでね……ただ、あなたの事は調べさせていただいた」
「ふん、それならば俺の最低の出自や、好ましくない昔の行状なども全てご存じと言う訳だ」
苦々しげにファイザルは吐き捨てた。
「あなたには甚だ笑止千万だろう。こんな男が国王陛下、ただお一人の姫君に懸想等と」
「私はそのような事は、一言も申し上げておりませんよ。軍人としてのあなたの経歴はご立派なものでした。挙げられたご功績を全て出世に置き換えれば、かつてのブレスラウ公もかくやと思えるほどの」
「……」
ファイザルは黙った。ドルトンも口を噤む。
再び奇妙な間が二人の間に漂った。
「ご婚約はありません」
唐突にドルトンは言い放つ。
ファイザルは顎を引いた。してみるとシザーラの話は彼女の直感ではなく、政治的な事実だった事になる。
「おや、あまり驚かれませんな。どなたからか漏れ聞かれましたかな?」
「……」
「そう、ご婚約はありません。レーニエ様がきっぱりとお断りになった」
「レーニエ様が?」
それまで冷徹を極めていた男の声が上ずったことを感じとり、ドルトンはにやりと笑った。
「はい。ザカリエ宰相に面と向かっておっしゃられた由にございます。私は後で伺いましたが」
「あの髪は……」
「ええ。レーニエ様は婚約は拒否されたが、かの国の事情を慮り、偽りの婚約ならされてもよい、と言われたそうです」
「だが、それでは……」
「左様。お察しの通り、ザカリエ国内は敗戦に加えて、国内事情もいまだ安定せず、民は戦争再開や略奪の恐怖に怯えきっております。ザカリエ国内でこれでは、両国間に広がる自由国境地帯の安定など望むべくもない。国民には明確な平和の証が必要なのです」
ファイザルにもその理屈はよく分かる。
だからこそ、ザカリエ王弟と釣り合うレーニエが大使に選ばれたのだと思ったのだから。
「さもありなん。ならば、婚約が偽りなどと言う事など、到底ありえぬ話では」
「本当ならね。ですが、ここが肝心な部分なのですが」
「……」
「この地に出立直前、女王陛下はレーニエ様のお幸せを第一に考えるようにとおっしゃられ、私にその補佐を命じられたのです」
「なんだって!?」
こんどこそ男は心底驚いたようだった。
「国王陛下……レーニエ様のお母上が、そんな事をおっしゃられたのか」
ファイザルは独り言のように呟いた。静かだった青い瞳が急にもの狂おしく輝きだす。
「左様。ですから、ここからは私の仕事。レーニエ様は、両国の橋渡しの為にできるだけの事はする、とジキスムント卿に誓われた。あの髪はそう言う訳で、口約束の証拠にと」
ドルトンは男の眼の奥に激しい感情が波打ち始めたのを見据え、ことさらに熱の入らぬ話し方をする。
「なにも御髪まで切られる必要はなかったのですが、殿下はああいう……何と言うか、純粋無垢なご気性ですから、仕方なかったかもしれません。私が傍にいたならそんな事にはならなかったでしょうが、卿はいたく感激されておられたので、無意味な事ではなかったと思います」
ドルトンは頷いた。
「そう、でもまぁとにかく、偽りにせよ婚約をしたとなれば、後で正式に破棄しないといけません。しかし後でやっぱりやめましたとなると、先日あれだけウルフィオーレ市民に騒がれたお二人ですから、あまり上策とはいえません。なので後は、ファラミアにこの件を持ちかえって陛下や元老院の方々と協議いたします。ザカリエの事情も鑑みなくてはならず、これは高度に政治の問題で、レーニエ様の手には負えません。ですが、御髪を切る等と言う、多大な犠牲を払われた殿下の面目も立つように取り計らいますので、この件についてはお任せください。ファイザル殿」
「委細承知」
ファイザルの言葉は何時も短い。
「だが、これですべての問題が片付いたという訳ではないでしょう?」
ドルトンはファイザルを値踏みするように無遠慮に見つめ、椅子に掛け直した。
「俺の事、か……」
「その通り。確かにザカリエとの婚姻はなくなったが、あなたもおっしゃられたとおり、レーニエ様は女王陛下唯一の愛娘。今まで隠してこられたが、陛下には今後レーニエ様の存在を明らかにされるおつもりのようです。そうなれば、いかに戦勝の最大功労者と言えど、一介の将校に過ぎないあなたには、万に一つも叶う恋ではない。申し訳ないが」
言外に、身を引けと言う言葉をたっぷり匂わせて、ドルトンは薄く笑った。
「確かにその通りだ。俺などに出る幕などない。こんな人殺しなど」
冴え冴えとした瞳が、危険な色を浮かべて相手を捉えた。
この部屋に入った時に身からは外したが、ファイザルは傍らに剣を置いたままである。ドルトンは思わず姿勢を正した。
「これは私の純粋な好奇心からお伺いするのですがね。あなたは一体どうされるおつもりなのです。まさかとは思いますが、王室に仇なす事になれば、いかに救国の英雄と言えど、ただではすみますまい」
ドルトンとて、ファイザルとは異なる戦場をくぐり抜けてきた男である。ファイザルに発した問いは容赦なきものであった。
「ドルトン殿」
ファイザルは不意に立ちあがった。
座っていてもその長身で威圧感のある男がすっくと身を伸ばし、真正面からドルトンを見下ろしている。
「よくぞ、このような大事を、俺のような男に話してくださった。あなたのご示唆は俺にある啓示を与えてくれた。この点において、俺はあなたにいくら感謝してもしきれぬ程だ。だが」
「……」
今度はドルトンが黙る番だった。
「ここからは俺が考える」
「だから何をなさろうと言うのですか? くれぐれも短慮はお控えられた方が」
「わかっている。しかし、わかっていないとも言える。レーニエ様がご自分の御髪を犠牲にされたのなら、俺も何か代価を支払わなくてはならない。だがこれだけは誓おう。あの方の髪の一筋の方がこの右腕よりも大切だ」
「何をなさる?」
「俺にしかできない事を」
「……あの方を手に入れられるつもりなのですか? できますかね?」
「さぁそれは、やってみないと。これは戦よりも難しい……あなたには心からの感謝を。だが」
不意に男の瞳から火花が発っせられたように感じ、ドルトンは思わず背を反らした。
「俺の邪魔はしないで頂きたい」
そういうとファイザルは、丁寧に一礼し、剣を取ると返答も待たず、大股に部屋を出て行った。
「ふぅ~」
残されたドルトンは大きく溜息をつき、椅子の背に深々ともたれかかった
やれやれ『掃討のセス』か……などほどな。一瞬斬られるかと思ったわい。
レーニエ様も恐ろしい男を望まれたものだ。
じっとり湿った掌を乾かすようにひらひらと振る。
ともあれ、お膳だては整った。後はあの男次第と言う訳か……ふむ、この場に陛下がおられたらどうされるであろうなぁ、ちょっと見てみたい気もするが……。
ドルトンはくくくと含み笑った。
まぁ、明日からまた忙しくなるわい。
レーニエ様には、さっさとここからお引き取り頂いて、ご自分の事だけ考えて頂くようにしなくては――あのお方こそ、お幸せになられなくてはいけないのだから。
ドルトンはファイザルが去った扉を見つめながら一人考え込んでいた。