101 障壁16
「アローウィンの城壁……でございますか?」
「そう……やはりダメだろうか? この間の事を決して忘れた訳ではないのだが……いつかこの地に来る事が出来たなら、ぜひとも行ってみたいと思っていた。もし許されるなら……だけれど」
ドルリーとフローレス、二人の将軍達を前に、レーニエは遠慮しぃしぃ願い出た。
襲撃のあった日から二日後、和平の細かい条件や条文もほぼ決まり、大使一行は都に報告するため、明後日にはこの地を発つことになっている。
あの後、ドーミエ残党の動きもぱったりとなくなった。様々な筋から齎される情報によると、彼等はこの地を離れたようだ。
油断はできないが、警戒さえ怠らなければ、市周辺部の当面の治安は保たれていると言える。
「お気持ちはよくわかります。アローウィンの城壁は、殿下のお父上、軍神ブレスラウ公が……」
フローレス将軍が、その先を言いあぐねて口を噤む。
「亡くなられた場所である」
レーニエは、あっさりフローレスが遠慮した先を続けた。
「お父上の事はよく存じあげておりました」
ドルリー将軍も、禿げ頭を輝かせて頷く。
「若いがご立派で……何と申しますか、不思議なお方でしたわい」
「不思議?」
「いえ、失礼……あの方のすばらしさを何と形容してよいか、この爺ぃの語彙ではわからぬもので」
なぜか嬉しそうなドルリーに、フローレスも同意した。
「素晴らしい武人で、剃刀のようなキレ者。なのに常に己の信ずるところには子どものように素直で、煌びやかなご容姿と共に、その言動で人々を惹きつけておいでで。私のような凡人から見ると、不思議としか言いようのないお方でございました」
「さぞや皆に迷惑を掛けておられたのであろうな?」
言葉を選びながら話すフローレスに、レーニエは顔も知らない父の面影を見たようでふと笑った。
「いや、とんでもない!」
フローレスが慌てて否定するが、ドルリーがすぐさま突っ込んだ。
「だが貴殿は、公に生みたての卵が今すぐ食いたいと言われ、近隣の農家にぺこぺこ頭を下げて貰いに回っていたではないか」
「こ、これ! サイラス! この場で言わんでいい事を!」
いつも上品なフローレスが慌てて朋友を制する。
「あははは」
フローレスの窘めもすでに遅く、レーニエは声をあげて笑っていた。銀の鈴のような笑い声に二人の将軍は目を見はる。
この娘が声を上げて笑っているのを見るのは初めてだった。思わず釣り込まれてしまうほど軽やかな笑顔に、二人の老将も魅入られてしまっている。
「……して、アローウィンの城壁の事でしたな」
先に顔を引き締めたのは、やはりフローレスの方だった。
「そう」
レーニエも真面目な顔を取り繕った。
「つい思い出に浸ってしまいました……殿下、その件承知いたしました……と言うか、是非行かれるがよいと思われます」
「感謝する」
「ただし、一個小隊を護衛につけまする。指揮官は……」
「セルバロー殿ではいけないかな?」
ファイザルには会わない方がいい、そう思ってレーニエは提案する。
あれ以来、彼はレーニエの前に姿を見せていないし、レーニエも会おうとはしていない。
「ああ、ようございます。めっぽう腕は立つし、部下どもにも崇拝されておる、たいそう愉快な奴でございます」
「ではそのように取り計らって欲しい」
その後、道程や細かい注意点などを確認した後、フローレスは恭しくレーニエに向かって頭を下げた、
「では明日、支度を整えておきまする。我らが忘れがたき英雄、ブレスラウ公爵。お父上にお会いされてきてくださいませ」
ドルリー将軍の言ったとおり、その古い城壁は、起伏の激しい自由国境の丘にそびえていた。
堅固に組まれた石の壁は古びてはいたが、いまだに堂々と威圧感を放っている。今は使われることのない、古戦場。過去の遺物。
アローウィンの城壁。
まるで墓標のようだ……。
レーニエが見上げると、早い雲の動きの下、黒々と陰って見える。
雲は厚く垂れこめ、太陽の位置はぼんやりとしかわからないが、雲の切間から黄色い光が帯のように射し込んでいた。風も強い。
この地方には珍しく、初夏だというのに肌寒い日であった。
「すまないが、ここからは一人で行きたい……心配ない。直に戻るから。ここで待っていてくれないか」
レーニエは馬車を降りると、セルバローを振り返った。
彼の命で既に小隊が散開し、要所要所を見張っている。城壁の内部も既に先発隊が入念に安全を確認し、セルバローに報告していた。
「大丈夫でございますか? かなり高くなっておりますが」
セルバローの部下の兵士が大層心配そうな様子で、儚げな姫君に注意した。
その若い兵士にはレーニエがとても自分と同じ人間だとは思えないようである。
男装し、夏用の薄いマントに身を包んでいても、匂いたつような娘らしさであった。
「大丈夫」
「姫君には勇敢であらせられる」
セルバローは陽気な笑顔でレーニエを見下ろすと、勇気づけるように頷いた。
そして、自分の首から小さな呼び子が付いた紐を外し、レーニエの首にかけてやる。
「これを。何かあればお使いください」
「ありがとう。では行ってくる」
レーニエは淡く微笑むと、恐れげもなく城壁に穿たれた唯一つの入口に向かって歩いて行く。
それは暗い口を開け、たちまち華奢な姿を飲み込んでしまった。
とは言ったものの、あの子、本当に大丈夫かな?
セルバローの懸念をよそに、レーニエは暗い階段をどんどん上へ昇っていった。
狭い通路は暗かったが、石段は正確に同じ高さを刻んで造られ、緩んでいるところもなく、一度も足元が危うくなることはない。かなり古い建造物だと聞くが、驚くほど堅固な作りだった。
ゆっくり登り続ける。少し息が切れたところで頭の上が明るくなり、ほどなく城壁の真上に出た。
そこは広い空間だった。
同じ高所に備えられた城壁だからか、ノヴァの地にあるセヴェレの砦を思い起こさせる。ここならば、百人の射手が並んで弓を射ることができるだろう。
端には凹凸のある鋸壁が並んでいる。そこへ午後の光があたり、特徴のある影がレーニエの足もとに伸びていた。
レーニエはゆっくりと鋸壁の方に向かって歩き出した。
風が強い、マントが勢いよくたなびいて体が後ろに引っ張られるが、レーニエは構わずに先に向かって進んだ。
大きな石を互い違いに組み合わせた鋸壁は分厚く、レーニエの腕の幅より広い。それは威力のある矢を放つために強弓を引く、屈強な兵士たちが陣取る場所なのだ。
高い。父上はこんな光景を見下ろされていたのか……。
高所が苦手だと自覚しているレーニエは、用心深く斜め前方に視線を落とす。ここに本陣を張れば、赤い平原はよく見渡せたはずだ。
レーニエの脳裏に見たこともないはずの、過ぎ去った戦いの光景が蘇る。
真下に五万の友軍。
更に五百リベル向こうに敵軍が突撃の体制を整えている。鍛え上げられた精鋭達は、満を持して各々の司令官の進撃の合図を待っている。
そして采配は下され、兵士たちの雄叫びが平原に木霊した。駆け抜ける馬の蹄の音、たちまち巻き起こる土埃は陽光でさえ覆い隠す。
金属のぶつかる音、湧き起こる断末魔、馬の嘶き。
長い時間が過ぎ漸く日が西に傾いた頃、多くの人々が斃れたその上に勝利の鬨の声が響き渡る。
つい先日、生まれて初めて人々が斬り合う恐ろしい場面を目の当たりにしたレーニエは、その何倍も規模の違う戦争の情景をまざまざと思い描いてしまい、身ぶるいを禁じ得なかった。
父上は勝利された。
だが、戦いが収束した時、ここから戦場を見下ろして、父上は一体何を思われたのだろう……
おそらく、この辺りに立たれていたのだ。
それは城壁の中央、一段と大きな石が組み合わされた部分に違いないとレーニエは思った。広大な平原を一度に視界に収めることができる。
突然、父と同じ視点に立って、眼下を見下ろしたいという衝動に駆られた。
風の吹きすさぶ城壁の上に。
いくら幅があっても、手すりもない高所に立つのは酷く恐ろしい。しかし、その時は、何としてもそうしなければならないという思いに囚われたのだ。
「んっ!」
凹んだ部分でさえ、自分の胸までもある鋸壁に両手を掛け、両足で石の床を蹴る。しかし、高すぎてうまくゆかない。
「えっと……」
レーニエは、どうしたものかとしばらく首を傾げていたが、やがてじりじりと後ろに下がった。向かい風だが、助走をつけたらなんとかなるかもしれない。
後ろ足で五リベルほど下がると、勢いをつけて駆けだす。壁の直前でえいやっと跳ぶと、何とか片肘を壁の上につくことができた。
石に肘を思い切りぶつけたが、構わず体重をかけて、両肘をつく。
「……っ!」
後は身を乗り出し、腰、そして足を持ち上げることができたら!
レーニエは真っ赤になってもがきながら、腕に力を込めた。
「!?」
不意に何かに支えられ、体がぐっと持ち上がる。
驚いて振り向くと、湖のような色をした瞳にぶつかった。
「!」
ファイザルが片手で膝を抱えてくれている。
あっと思う間もなく、レーニエはしがみついていた石の上に腰掛けさせられていた。
「ヨシュ……」
答えず、片手をレーニエの横につくと、ファイザルは苦もなく上に飛び上がった。そのまま恐れげもなく壁の上に立ちあがると、レーニエに手を差し出す。太陽が彼の真後ろに隠れた。
「あ……」
「ここに上りたかったのではないのですか?」
レーニエが戸惑っていると、彼は静かに問うた。
「う、うん」
レーニエがおずおずと伸ばした手を掴むと、ファイザルは軽々と引っ張り上げ、自分の横に立たせた。マントが風を孕まぬよう、腰に力強い腕が回される
「どうして……?」
腰に巻きついた腕を意識しないようにしながら、レーニエは彼を見上げた。
「俺を甘く見ないでください」
「……」
彼女を見下ろすその静かな顔には、相変わらず何の感情も伺えない。ただ瞳は彼女から逸らされることはなかった。
風に煽られ、彼のマントがばさりと鳴った。黄色く染まった厚い雲の流れが速い。
「……怒っているのだろう? こんな勝手な事をして、あんな目にあったばかりなのに」
気まずい沈黙に耐えかね、言葉を発したのはレーニエだった。
「ええ。それも酷く」
レーニエは、この場所に立っている理由を忘れてたように項垂れた。
「すまない……でもここにだけは来ないといけないような気がして……それであの、お怪我の方はどうだろうか?」
「……御懸念なく」
そっけない答えに涙が溢れそうになるのを、唇を噛むことで堪える。これ以上無様なところは見せられなかった。
「……よかった」
「昨夜、ドルトン殿に話を伺いました」
「え?」
突然思いもよらぬ言葉を聞き、レーニエは顔を上げる。
「ドルトン殿に? 何を?」
「俺が一番知りたかったことを、です」
白い顔を見下ろしながら、ファイザルは静かに答えた。