100 障壁15
「宿舎までお送りいたします」
市庁舎のホールでファイザルは、ジキスムントとその孫娘にそう告げた。
「そうか。悪いの」
「俺も行く」
暗いホールの壁にもたれていたセルバローも身を起こす。ファイザルは黙って頷いた。
闇にまぎれて、小さな馬車と騎馬の一団が広場を横切った。
宿舎はこの少し先の商人宅である。広場に人気がない。さすがに夜は危険だと、市場の人々は帰ったのだろう。
僅かな時間で目的地に着く。
丁寧に礼を述べてジキスムントは部屋に引き取ったが、シザーラは行きかけた階段を降りてきて、ファイザルを呼びとめた。
「少しよろしいかしら」
「なんでしょう?」
シザーラは、つと横に立つセルバローに鋭く視線を流す。あまりに明確なその意図にセルバローは苦笑した。
「俺は先に戻っている」
「ああ」
そう言うと、セルバローはシザーラに魅力たっぷりに会釈をくれて外に出た。
「面白い方ですわね、あの方。軍人らしくなくて」
雷神が出てゆくと、周りに人がいないのを確かめ、シザーラはファイザルに向き合う。
「どうも無礼な奴で、見ているこちらが冷や冷やします」
ファイザルは口の端だけで僅かに笑った。
「あなたはどこから見ても軍人ね」
つけつけとシザーラは言い放った。
小柄な彼女は顔を振り上げないと、ファイザルに向きあえない。だが、シザーラは構わなかった。縮れた頭髪をゆすって男を見据える。
「恐れ入ります」
「これは悪口なのよ」
「……恐れ入ります」
「ふん、まったくカチコチね。どうしてこんなつまらない男を、レーニエ様はお好きなのかしら?」
これでも落ち着き払っていられるかと、挑戦的な黒い瞳がファイザルを睨みつけた。
シザーラの思った通り、泰然としていた軍人の頬が強張ったのが薄暗い明りの下でもわかった。
「何を仰せで」
「あなたは、レーニエ様の恋人なのでしょう?」
「何のことでしょうか? 訳がわかりません。高貴な血を受け継がれる殿下が、一介の軍人など、相手にされるわけがありません」
一瞬崩れかけたかと思えたが、そこは、いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた司令官である。すぐに沈着な表情を作った。
穏やかな微笑を浮かべたファイザルの様子を忌々しそうに睨み、シザーラは続けた。
「そ。ならそれでいいわ。なんにも知らない振りをして、私の言う事をお聞きなさい」
「……」
「レーニエ様は、あなたに会いに行かれたのでしょ?」
ファイザルは動かない。
「だって、私がそれを勧めたのだもの」
シザーラは尊大に言い放つ。
「あなた、レーニエ様が傷つかれるような事を言ったのね。いいえ、言わなくても大方の事は想像できるわ。それで傷心のあまり、レーニエ様は表に出られた。それでこの騒ぎね」
彼女の言葉は、まるで細い枝を次々に折るような調子で、ぽきぽきとファイザルに投げつけられる。
「……何がおっしゃりたい?」
低くファイザルは問うた。既に彼に余裕の微笑の影はない。
「私はね! とっても責任を感じて心が痛むの。だってあの方、本当に心がおきれいなんですもの。見た目だってお美しいんだけど、なんて言うか……余りに心がおきれいすぎて! だからいつもご自分が傷つかれるのだわ。私でさえ守って差し上げたくなる程に」
シザーラがレーニエと接したのは僅かの時間だが、彼女は既にレーニエの性格を看破している。
「……殿下とお話なされたのか?」
「ええ、少しだけだったけど。私だって、まさか自国を打ち負かした戦勝国の大使の姫に、こんな感情を抱くなんて思ってもいなかった。私はこれでも政治家なのですよ」
「そうでしたな」
「あなたにだけ言っときますけど、レーニエ王女殿下とアラメイン王弟殿下の婚姻はありませんことよ。信じようと信じまいと勝手だけれど……おや、やっと顔が変わったわね。愉快だわ」
意地悪そうにシザーラは、にいっと笑う。
「何を仰せられます。将軍達はもう決まったことのように話されておりましたぞ」
「そうね。もしかしたら国民向けに一時的に、婚約の振りくらいはするかもしれないけれど」
「振り?」
「結婚はありえない。レーニエ様は両国の為に、他の方法で尽力する、そのようにソリル二世陛下に伝えるとお爺さまに約束された。髪を切られたのはその証し」
「ふ……レーニエ様が何をおっしゃられたか存じませんが、国同士の約束事に、個人の意志など挟む余地があるはずがありません。例え、王女殿下が母君に願われたとして、陛下はそのような私情を政治に持ち込まれる方ではないし、例え陛下が承れたとしても元老院が承知しません」
「あなたは信じておあげにならないのね?」
「ありえぬことだと申し上げているのです」
「そう。なら別に構わないの。確かに先の事は分からない。私はあなたにこの事を伝えたかっただけ。ただ――」
「ただ?」
「お爺さまは話し合いの末、レーニエ様を信用された。あの老獪なザカリエ宰相がね」
「……」
「あなたの事は知らない。勝手にされるがいい」
ふん、と鼻で笑い、蔑むようなきつい瞳がファイザルに向けられる。柄にもなく、押され気味な事を彼は自覚した。
「一つお伺いしてもよろしいか?」
「なんです?」
「なぜ俺にそんな事を?」
「言ったでしょう? 私はレーニエ様を守って差し上げたいと思ったの。私が男なら、国を捨ててでもエルファランへ婿入りするわね。自分でも驚いているけれど。私、あの方の事がとても好きになったのだわ」
「……」
「だから私は、あなたの事が嫌いです。これは……」
そう言うとシザーラは不意に背伸びし、腕を伸ばしたかと思うと、華奢な手の甲で男の頬をぴしゃりと打った。
「……」
充分避けられただろう女の手をあえて避けず、ファイザルはシザーラを見下ろした。
「レーニエ様の替わりにした事ですわ。あの方はお優しすぎるから」
「……左様でございますな」
「ではそう言う事で。言いたい事はこれで終わりです。送って下さってどうもありがとう。お怪我お大事に」
シザーラはそう言い捨てると、くるりと身を翻して階段を昇って行った。
「よう」
闇の中から、ぬっと派手な赤毛が姿を現す。
「なんだ。先に帰ったんじゃなかったのか」
「まぁいいじゃないか。夜は物騒だしな。二人の方がいいだろ」
「ぬかせ」
お互い危険などモノともせず、自分の身を自分で守れる男たちだ。
「見てたぞ。あのちっこい娘は一体何をケンカ売ってきたんだ?」
「俺がつまらない男だとさ」
ファイザルは首を竦めた。
「はははは! それは慧眼だ。間違いないわ」
「うるさい」
「しかし、恐れげもない娘だな。『掃討のセス』相手に平手打ちとは、やるもんだ……一言もいい返せなかったじゃないか」
「その通りだからな」
「へえぇ~、お前にしては重畳だ。で、どうする?」
「いちいち聞くな。答えようがない」
「ふぅん、この期に及んでばっくれる気か? お姫様を奪って逃げるか?」
相変わらず前置きもなく、セルバローはあっさり言ってのけた。
「お前までいきなり何を……」
「やりゃぁいいじゃないか」
「あのな、おかしかないか? なんで皆、俺と王女殿下を結びつけたがるんだ」
うんざりしたようにファイザルは唸った。
「そら、わかるからだろうな」
「何をだ」
「お互い、ぞっこんだってことがさ」
「……」
「まぁ、お前はともかく、あのお方は隠し事にはさっぱり向いてないわ」
事も無げに受け合う戦友に、ファイザルは太い溜息をついた。
「で、どうなんだ?」
「何がだ!」
「国王の一人娘を恋人に持つ気分は」
「死にたくなければその口、噤んでいろ! 俺とあの方は何の関係もない」
「まだ言うか、お前……最低野郎だな」
「お前が言うか?」
「言うんだよ。あ、さっきあの赤毛の娘が殴ったのはこっちだったか?」
語調をがらりと変えて、セルバローはファイザルの左頬を指した。ファイザルが応じられぬ間に巨大な拳を彼の右頬にめり込ませる。
完全に不意を突かれ、ファイザルは激しく石畳に叩きつけられた。
「なっ!」
すぐさま起き上がり、体制を整えたファイザルはセルバローに向き合った。しかし、雷神は愛想を尽かしたように肩を竦める。
「シザーラ嬢の言うとおり、つまらない男だよ、お前は! 精々麗しの王子さまの横に立つあの子を指を咥えて眺めていろ! やーい!」
楽しげに赤毛の男は馬に飛び乗るや腹を蹴る。そのまま哄笑しながら闇の中へ駆けていった。
「……」
セルバローの笑い声の残滓と石畳に響く蹄の音が、にがり切ったファイザルの耳朶を打った。
どいつもこいつも勝手な事を!
俺は生まれもつかぬ卑しい軍人で、あの方は国王陛下の一人娘で、あんなに清らかで美しい……
突然、ファイザルの脳裏に、弓矢に前にしたレーニエの姿が鮮やかに浮かび上がった。
「あの時なぜ……」
ファイザルは先ほど言わずに置いた問いを繰り返す。
なぜあの人は逃れようとしなかったのか?
レーニエが自分の命を軽視する傾向にある事は、以前から知っていた。おそらく幼いころに受けた精神的外傷が原因だろう。
まさか死のうと?
そんな事は許されない。何より自分が耐えられない。だが、レーニエを傷つけたのは自分なのだ。
望まぬこと、諦める事に慣れた魂。その瞬間、不意に浮かんだ微笑みの理由は?
レナ……俺は!
シザーラの言葉の真偽とレーニエの本意。
全ての事柄がファイザルに、もう避けられないところにまで来ている事を示めしていた。
「畜生!」
誰よりもこの俺が一番無様だ!
だが、このままではいけない事はわかっていた。
ヒーロー、二回殴られました。
この辺りが底の底です。