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第九会 「その、花の願いを」

 ホワイトクリスマスになりそうだわ、と彩花里は思った。

 吐き出した息が、白い塊になってから、冷たい雨の降る空に昇っていった。

 蛇の目傘をすこし持ち上げると、目の前には灰白色の大谷石造りの教会があった。アーチ型の窓がくりぬかれたふたつの尖塔が、雨空の彼方にある天国を指し示すようにそびえていた。

 彩花里は傘をたたみ、赤い加賀友禅の訪問着の雨粒を払ってから、かすかに軋みをたてる木製の扉を押して礼拝堂に足を踏み入れた。

 物音ひとつしない堂内には、清浄な空気が満ちていた。ミサまでまだかなり間があるので、だれもいないと思っていた彩花里は、その人影を見つけて思わず足を止めた。

 淡いオレンジの照明の下で、ひとりの少女が祭壇に向かってひざまずいて、頭を垂れている。近くにある高校の制服を着た少女は、彩花里が入ってきたことに気づいていないようだった。祭壇の奥に据えられたオルガンの銀色のパイプと、壁に掛けられた宗教画の聖人たちが、無心に祈る彼女を見下ろしていた。

 彩花里は、持参したポインセチアの鉢植えを抱えて、静かにベンチに腰を下ろした。

 沈黙が支配するいくばくかの時間が過ぎ、少女はなにかに気づいたように顔を上げた。

 その視線の先には、黒い祭服に身を包んだ男が立っていた。この教会の神父、利光彰人としみつあきとだった。

 彰人は、彩花里の母親、つまり先代の花心流家元の知り合いだった。三十代なかばの穏やかで物静かな人物で、この教会に着任して十年ちかくになるが、毎日のように周囲を掃除したり、昼夜を問わず悩む人の相談にのったりしていたので、界隈の住人からは相当の好意と尊敬を寄せられていた。

 少女は立ち上がると、見守るように立っていた彰人に歩み寄った。いちどうつむいた少女は、なにかを思い切ったように顔を上げて彰人を見つめた。

 ――あら、あの子……。

 彩花里は、少女のまなざしに込められた、隠し切れない想いに気づいた。

 やがて、少女の薄い唇から、囁くような言葉が漏れだした。

「神様にお祈りをしました。わたしの願いが許されて、叶うようにと」

 いつも優しげな微笑みを絶やさない彰人の顔に、深い翳りがさしたように見えた。

「よしなさい、愛理あいり

 静かな、しかし断固とした声でたしなめられた少女――愛理は、瞳を潤ませながらうなだれた。

「ごめんなさい、お父様。……ミサがはじまったら、また来ます」

 声を詰まらせながらそう告げると、愛理は彰人に背を向けた。

 会釈をしながら、足早に彩花里の横を通り過ぎる愛理の頬を、ひとすじの涙が伝い落ちていった。

 彩花里は、思わず席を立つと、愛理の後を追った。

 みぞれ混じりの雨が降る教会の前庭を、愛理の差した赤い傘が逃げるように走り去っていく。門を抜けた彼女の後姿は、ほどなく表参道に続く路地に消えた。


「恥ずかしいところを、お見せしてしまいました」

 ポーチに立つ彩花里の隣から、彰人の落ち着いた声がした。

「私の方こそ、ぶしつけでした。すぐに席を外せば良かったのに」

「いえ、かまいません。事情があって明かしていませんでしたが、愛理は私の養女なのです。……驚かれたでしょう?」

 彩花里がうなずくと、彰人は深く長いため息を落とした。

「思えばこれも、そろそろ心を決めよという主のお導きなのでしょう。私が愛理と出会ったのは、いまから十年前のことです。あの日も、今日のように氷雨が降っていました……」

 それは、スリップした大型トラックが引き起こした、多重衝突事故だった。

 彰人が運転していた車はトラックに弾き飛ばされ、歩道にいた家族連れを巻き添えにして電柱に激突した。彰人にたいした怪我はなかったが、家族連れの父親と母親は即死で、幼稚園児だった愛理だけが生き残った。

 彰人はむろん、責任を負うべき立場ではなかった。けれど事故の場面は、いつまでたっても彰人の心を苛んだ。最初は医師に、最後は神にすがった。そして事故から半年後、彰人は勤めていた会社を辞めて聖職者になった。

 愛理を養女として引き取ったのは、そのころだった。両親のほかに身よりのなかった彼女は、児童養護施設に預けられていた。彰人にしてみれば、それはせめてもの罪滅ぼしのつもりだった。

「愛理を人並みに幸せにしてあげたい、そう思いました。そうすれば、私も救われると。けれど、愛理の十五歳の誕生日を境にして、私たちの関係は狂い始めたのです」

 その日、彰人は過去の出来事のすべてを、愛理に打ち明けた。それは、かねてから心に決めていたことだった。いずれ時が来れば、愛理に知られてしまうことだ。ならば、愛理がそれを受け止められるようになったときに、自分の口から伝えた方が良い。彰人は、そう考えていた。

 それでも愛理は、おおきなショックを受けたようだった。しかし、彼女が負った心の傷は、彰人にとって意外なほど早く、しかも思いもかけない方法で癒されることになった。愛理は、彰人に対して親子の愛情を超える感情を持ち始めたのだ。

 彰人は困惑した。そんなことになるとは、夢にも思っていなかった。けれど……。

「私は、軽蔑されるべき堕落者だ。愛理の気持ちを嬉しいと思い、彼女との未来を夢見てしまったのです。そして私は、自分のおぞましい真実に気づいた。親として愛理の幸せを願いながら、いつの間にかあの子をひとりの女性として愛していたのです。あの子の家族を奪った者であり、あの子の養父であり、そして聖職者であるというのに。私は、なんと罪深い人間なのか」

 消え入るように話を終えた彰人は、そのまま天を仰いだ。嘆きと自嘲が混ざり合ったようなその顔に、降り始めた粉雪が舞い落ちては消えていった。

 彩花里は、泣きながら走り去った愛理のことを思った。こんなに想いを寄せあっているのに、どうして……。

「愛理ちゃんが、ひとりの女性として願う幸せを与えてあげることが、罪になるのでしょうか」

 彩花里の問いかけに、彰人は感情を押し殺したような声で答えた。

「そんなことは社会も法も、そしてなによりも主が、けしてお許しにならないのです」

 粉雪を運ぶ冷たい風が、彩花里の白いケープを揺らせた。その風の冷たさは、人が抱く愛情すら凍りつかせてしまおうとしているように感じた。

 彩花里は涙のにじんだ目を、手に持っていたポインセチアに落とした。

 思いがけないものが、そこにあった。彩花里は思わず声を上げそうになった。もしかしたら、聖なる願いが神様に届いたのかもしれないと思った。

「いいえ。神様は、お許しくださっていますよ。だって、ほら……」

 首をかしげる彰人に、彩花里は笑顔とともにポインセチアを差し出した。ノーチェ・ブエナ(聖夜)の別名を持つ緑と赤の鮮やかな葉の上に、降り積もった粉雪が白いヴェールをかけていた。

「白いポインセチアの花言葉は『祝福』ですから」

 ちょうどそのとき、クリスマスイブのはじまりを告げる鐘の音が鳴り響いた。

 彰人は胸の前で十字を切ると、合掌してひざまずいた。凍えたようだった顔に穏やかな微笑が浮かび、その口がかすかに動いた。

『感謝します』

 彩花里は、彰人の声にならない言葉はそうだったに違いないと思った。

 彰人の傍らに置かれたポインセチアを、まるで天国から舞い降りてくるような粉雪が、真っ白に覆っていった。

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