表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/15

第八会 「その、花が結ぶものは」

 

「おめでとうございます」

 おだやかな笑みを浮かべる女性に、彩花里はそう告げた。

 渋谷駅の東口にあるショッピングモールの一角では、ささやかな式典が行われていた。菊花展の入賞者への表彰式だ。

 審査委員をつとめる彩花里は、優秀賞をとったその女性の名前をあらためて確認する。表彰状には、村岡篤子(むらおかあつこ)と記名されていた。

 ――この人で、間違いない。

 彩花里は、篤子に表彰状を差し出した。

「菊の花に、深い愛情を注いでいらっしゃるのですね。咲いたお花を見れば、それがよくわかります」

 篤子は、賞状を受け取るとゆったりとお辞儀をした。

「ひとり暮らしの手なぐさみにと思って、はじめたのですけど。育てているうちに、まるで娘や孫娘を見ているような気がしてきて……」

「まるで? どうかなさったのですか」

 彩花里に問われるままに、篤子は口を開いた。

 篤子は三年前に、長年連れ添った夫と死別した。娘が一人いたが、恋愛結婚で関西に移り住んでからは、会うことも少なくなったという。やがて孫娘が生まれると、年に何回かの行き来をするようになった。

 あのころがいちばん楽しかった、と言って篤子は目を細めた。

 けれど、それも長くは続かなかったらしい。孫娘が中学生になると、クラブ活動や友人との付き合いが増えて、その足も次第に遠のいたのだ。今では、年末年始に顔を合わせるだけだという。

「娘にも孫にも、じぶんの人生がありますから。いつまでも、私にかまってはいられないでしょう。今年で還暦を迎えましたが、幸い私はからだが丈夫なので、一人でも心配はいらないのです」

 篤子はそう言って笑ったが、その表情はどこか寂しそうに見えた。

 彩花里は、篤子の話を聞きながら、母と祖母のことを思っていた。花心流の初代家元だった祖母と二代目家元だった母は、今は彩花里と遠くはなれた場所で、それぞれの人生を歩んでいる。三人のあいだに血の繋がりはなかったが、華道を歩む者という強い絆で結ばれていたから、寂しいと思ったことはなかった。けれど篤子の身の上話を聞くと、彩花里は胸の中に冷風が吹くような共感を覚えた。仕事としてではなく、この人をもてなしてあげたいと思った。

「村岡さん。よろしければ、今度の木曜日に、私の庵にいらっしゃいませんか。旧暦の重陽の日に菊の節句を祝うのですが、なにぶんひとり暮らしなので、いっしょにお祝いする人もいなくて」

 彩花里の誘いに、篤子はすこし考えてから、ではお邪魔させていただきますと答えた。


 約束の日、篤子は菊模様を裾にあしらった朽葉色の付下げでやってきた。上品な若々しさと年齢を重ねた貫禄がまじりあって、色づいた銀杏を思わせるたたずまいだった。

 出迎えた彩花里を見て、篤子は目を細めた。

「表彰式でお召しだった江戸小紋も見事でしたけど、今日の振袖はほんとうにかわいらしいわ。雛菊の柄が、よくお似合いね」

「ありがとうございます。では、こちらへどうぞ」

 彩花里は、篤子を茶室に案内した。

 茶室に入った篤子が、まあ、と声を上げる。茶室の床には内裏雛が飾られ、露のついた白菊の花が一輪、籐の花籠に活けられていた。

「露ながら 折りてかざさむ 菊の花 老いせぬ秋の 久しかるべく」

 床に掛けた色紙に書かれた紀友則の和歌を、篤子はつぶやくような声で読み上げた。そして彩花里に向き直ると、目じりを下げて微笑んだ。

「素敵ね。重陽の節句に雛人形を飾る風習があるというのは、聞いたことがあるけれど」

 彩花里は、蒔絵の入った杯と銚子を三宝に載せて、雛人形の前に据える。

「今日は、村岡さんの還暦のお祝いでもありますから。菊の節句の雛飾りは『後の雛(のちのひな)』と言って、江戸時代まではひろく行われていた、大人のための雛祭りなんです。深まる秋に人生を重ね、豊穣の時を祝う。雛人形は、女性の幸せの象徴ですから」

「女性の幸せの象徴、ですか」

 篤子の眼差しが、ふっと遠くなる。彩花里は、小さくうなずいて口を開いた。

「もちろん、幸せのかたちやあり方に、決まりはありません。ただ、その人が、その時に、幸せだと思えるかどうか。それだけのことだと思います」

「そうですね。貴女のような人と知り合えて、こうしてお祝いしてもらえるというのは、たしかに幸せなことですね」

 答える篤子の顔には、寂しさと嬉しさが同居したような笑顔が浮かんだ。

 彩花里は活けてあった菊の花弁を摘み取り、二つの杯にそっと並べた。その上に銚子から酒を注ぐと、白い花弁が酒の面にゆらりと浮かんだ。

「どうぞ」

 彩花里が差し出した杯を、篤子は指をそろえて受け取った。

「いただきます」

 彩花里と篤子は、互いに目礼をしたあとで杯を干した。甘口の日本酒が口を潤したあとに、ほのかな菊の香りが残った。

「今日の花一会は、ここまでです。このあとは、お食事を用意していますので、お出ししますね」

 彩花里は障子を開けて、用意されていた膳を茶室に運び込むと、篤子の前に静かに据えた。

 漆塗りの膳の上には、織部の皿に盛り付けられた菊の花のおひたしと秋茄子の焼き物、茶碗によそわれた栗ご飯、木椀には菊花の浮かんだ吸い物という精進料理が並んでいた。

「重陽の節句のお料理は、どれも不老長寿の願いが込められているんですよ」

 彩花里はそう告げると、同じ料理の載った膳をもうふたつ運び込んだ。その様子を見ていた篤子が、小首をかしげる。

「あら、他にもお客様がいらっしゃるの?」

 彩花里は、いいえと言って頭を振った。

「今日の花一会のお客様は、村岡さんお一人だけです。でも、お食事は別ですから。……どうぞ、お入りください」

 彩花里の声に招かれて、二人の女性が茶室に入ってきた。その姿を見た篤子の目が、大きく見開かれる。二人は膳の前に座ると、揃って篤子に笑顔を向けた。

「お母さん」

「おばあちゃん」

 二人の声が重なり合う。

「還暦、おめでとう」

 信じられない、と言いたげな表情で篤子が彩花里に目を向けた。

「黙っていて、ごめんなさい。今日のことは、このお二人に依頼されていたんです。思い出に残る還暦のお祝いができないかって。大切なお弟子さんのお願いでしたから、お引き受けしました。でも、このお料理は、材料を揃えるところからすべて、お二人がなさったんですよ」

 篤子の目元が、きらりと光る。目頭を押さえた篤子は、声を詰まらせながら告げた。

「ありがとう……」

 彩花里は、そっと一礼をして席を外した。

 茶室を出ると、いつもは静寂だけがある渡り廊下に、華やかな話し声が聞こえてきた。

 彩花里は、澄んだ秋晴れの空を見上げた。そして、近いうちに時間を作って祖母に会いに行こうと思った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ