第八会 「その、花が結ぶものは」
「おめでとうございます」
おだやかな笑みを浮かべる女性に、彩花里はそう告げた。
渋谷駅の東口にあるショッピングモールの一角では、ささやかな式典が行われていた。菊花展の入賞者への表彰式だ。
審査委員をつとめる彩花里は、優秀賞をとったその女性の名前をあらためて確認する。表彰状には、村岡篤子と記名されていた。
――この人で、間違いない。
彩花里は、篤子に表彰状を差し出した。
「菊の花に、深い愛情を注いでいらっしゃるのですね。咲いたお花を見れば、それがよくわかります」
篤子は、賞状を受け取るとゆったりとお辞儀をした。
「ひとり暮らしの手なぐさみにと思って、はじめたのですけど。育てているうちに、まるで娘や孫娘を見ているような気がしてきて……」
「まるで? どうかなさったのですか」
彩花里に問われるままに、篤子は口を開いた。
篤子は三年前に、長年連れ添った夫と死別した。娘が一人いたが、恋愛結婚で関西に移り住んでからは、会うことも少なくなったという。やがて孫娘が生まれると、年に何回かの行き来をするようになった。
あのころがいちばん楽しかった、と言って篤子は目を細めた。
けれど、それも長くは続かなかったらしい。孫娘が中学生になると、クラブ活動や友人との付き合いが増えて、その足も次第に遠のいたのだ。今では、年末年始に顔を合わせるだけだという。
「娘にも孫にも、じぶんの人生がありますから。いつまでも、私にかまってはいられないでしょう。今年で還暦を迎えましたが、幸い私はからだが丈夫なので、一人でも心配はいらないのです」
篤子はそう言って笑ったが、その表情はどこか寂しそうに見えた。
彩花里は、篤子の話を聞きながら、母と祖母のことを思っていた。花心流の初代家元だった祖母と二代目家元だった母は、今は彩花里と遠くはなれた場所で、それぞれの人生を歩んでいる。三人のあいだに血の繋がりはなかったが、華道を歩む者という強い絆で結ばれていたから、寂しいと思ったことはなかった。けれど篤子の身の上話を聞くと、彩花里は胸の中に冷風が吹くような共感を覚えた。仕事としてではなく、この人をもてなしてあげたいと思った。
「村岡さん。よろしければ、今度の木曜日に、私の庵にいらっしゃいませんか。旧暦の重陽の日に菊の節句を祝うのですが、なにぶんひとり暮らしなので、いっしょにお祝いする人もいなくて」
彩花里の誘いに、篤子はすこし考えてから、ではお邪魔させていただきますと答えた。
約束の日、篤子は菊模様を裾にあしらった朽葉色の付下げでやってきた。上品な若々しさと年齢を重ねた貫禄がまじりあって、色づいた銀杏を思わせるたたずまいだった。
出迎えた彩花里を見て、篤子は目を細めた。
「表彰式でお召しだった江戸小紋も見事でしたけど、今日の振袖はほんとうにかわいらしいわ。雛菊の柄が、よくお似合いね」
「ありがとうございます。では、こちらへどうぞ」
彩花里は、篤子を茶室に案内した。
茶室に入った篤子が、まあ、と声を上げる。茶室の床には内裏雛が飾られ、露のついた白菊の花が一輪、籐の花籠に活けられていた。
「露ながら 折りてかざさむ 菊の花 老いせぬ秋の 久しかるべく」
床に掛けた色紙に書かれた紀友則の和歌を、篤子はつぶやくような声で読み上げた。そして彩花里に向き直ると、目じりを下げて微笑んだ。
「素敵ね。重陽の節句に雛人形を飾る風習があるというのは、聞いたことがあるけれど」
彩花里は、蒔絵の入った杯と銚子を三宝に載せて、雛人形の前に据える。
「今日は、村岡さんの還暦のお祝いでもありますから。菊の節句の雛飾りは『後の雛』と言って、江戸時代まではひろく行われていた、大人のための雛祭りなんです。深まる秋に人生を重ね、豊穣の時を祝う。雛人形は、女性の幸せの象徴ですから」
「女性の幸せの象徴、ですか」
篤子の眼差しが、ふっと遠くなる。彩花里は、小さくうなずいて口を開いた。
「もちろん、幸せのかたちやあり方に、決まりはありません。ただ、その人が、その時に、幸せだと思えるかどうか。それだけのことだと思います」
「そうですね。貴女のような人と知り合えて、こうしてお祝いしてもらえるというのは、たしかに幸せなことですね」
答える篤子の顔には、寂しさと嬉しさが同居したような笑顔が浮かんだ。
彩花里は活けてあった菊の花弁を摘み取り、二つの杯にそっと並べた。その上に銚子から酒を注ぐと、白い花弁が酒の面にゆらりと浮かんだ。
「どうぞ」
彩花里が差し出した杯を、篤子は指をそろえて受け取った。
「いただきます」
彩花里と篤子は、互いに目礼をしたあとで杯を干した。甘口の日本酒が口を潤したあとに、ほのかな菊の香りが残った。
「今日の花一会は、ここまでです。このあとは、お食事を用意していますので、お出ししますね」
彩花里は障子を開けて、用意されていた膳を茶室に運び込むと、篤子の前に静かに据えた。
漆塗りの膳の上には、織部の皿に盛り付けられた菊の花のおひたしと秋茄子の焼き物、茶碗によそわれた栗ご飯、木椀には菊花の浮かんだ吸い物という精進料理が並んでいた。
「重陽の節句のお料理は、どれも不老長寿の願いが込められているんですよ」
彩花里はそう告げると、同じ料理の載った膳をもうふたつ運び込んだ。その様子を見ていた篤子が、小首をかしげる。
「あら、他にもお客様がいらっしゃるの?」
彩花里は、いいえと言って頭を振った。
「今日の花一会のお客様は、村岡さんお一人だけです。でも、お食事は別ですから。……どうぞ、お入りください」
彩花里の声に招かれて、二人の女性が茶室に入ってきた。その姿を見た篤子の目が、大きく見開かれる。二人は膳の前に座ると、揃って篤子に笑顔を向けた。
「お母さん」
「おばあちゃん」
二人の声が重なり合う。
「還暦、おめでとう」
信じられない、と言いたげな表情で篤子が彩花里に目を向けた。
「黙っていて、ごめんなさい。今日のことは、このお二人に依頼されていたんです。思い出に残る還暦のお祝いができないかって。大切なお弟子さんのお願いでしたから、お引き受けしました。でも、このお料理は、材料を揃えるところからすべて、お二人がなさったんですよ」
篤子の目元が、きらりと光る。目頭を押さえた篤子は、声を詰まらせながら告げた。
「ありがとう……」
彩花里は、そっと一礼をして席を外した。
茶室を出ると、いつもは静寂だけがある渡り廊下に、華やかな話し声が聞こえてきた。
彩花里は、澄んだ秋晴れの空を見上げた。そして、近いうちに時間を作って祖母に会いに行こうと思った。