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第七会 「その、花に誘われた場所で」

 

 また来てくれたんだ。

 その姿が目に入った彩花里は、すんでのところで打ち水の柄杓を止めた。

 庵の庭に二匹の猫が来るようになったのは、二ヶ月ほど前の夏の盛り、この界隈で唯一残っていた空き地に住宅が建ったころからだった。家元を継いでから、ずっとひとり暮らしだった彩花里は、その猫たちに会うのが毎日の楽しみになっていた。

 ふっと笑みを浮かべた彩花里は、ススキと女郎花をあしらった紬の裾にまとわりつく二匹の猫に声をかけた。

「ムーン、バロン」

 彩花里の呼びかけに応じるように、黒と茶色の二匹が顔をこちらに向けた。

 一匹は、小さな黒豹を思わせる体つきで、首輪に三日月を象った鈴をつけていた。もう一匹は、茶色くて精悍な体に大きな耳を持ち、首輪に蝶ネクタイのような飾りをつけていた。ムーンとバロンという名前は、そこから彩花里が勝手につけただけで、ほんとうの名前は知らない。

 二匹は種類も見た目もずいぶん違ったが、その瞳の色はどちらも鮮やかな緑色だった。そして彩花里が話しかけると、その瞳を彩花里に向けて、じっと聞き耳を立てるのだった。アイルランドには、ケットシーと呼ばれる二本足で歩き人語を操る猫の妖精の伝承があるが、まるでそれを思わせるような二匹だった。

 もしかしたらほんとうに私の話を聞いているのかもしれない、と思いながら彩花里は言葉を続けた。

「今夜はお月見だよ。晴れるといいね……」

 花心流の家元は、仲秋の十五夜と翌月の十三夜に、月見の宴を催すことがしきたりになっている。宴といっても、ススキを活けて月見団子を供えるだけの質素なものだが、家元が一人だけで執り行う秘儀とされていた。

「よかったら遊びにおいで。一緒にお月見をしようよ」

 そう言って笑顔を向けると、ムーンは鈴をちりんと鳴らし、バロンは低い声でにゃあと鳴いた。


 渋谷のデパートに飾る生花の仕事を終えた彩花里は、いきつけの和菓子屋で月見団子を買い、花屋でススキの切花を手に入れた。買い物に時間がかかったせいで、地下鉄の表参道駅から地上に出ると、あたりにはもう黄昏が迫っていた。

 青山通りから庵のある路地に入る手前で、彩花里はふと足を止めた。ちりんという、かすかな鈴の音が聞こえたような気がしたのだ。雑踏のなかで、どうしてそんな音が聞き取れたのかわからなかったが、その音に誘われるように振り向いた彩花里は、歩きすぎる人並みのなかにその姿を見つけた。

 見覚えのある江戸小紋の訪問着に身を包んだ、長い髪の女性だった。

「お母さん?」

 彩花里の母、水無瀬愛里紗(みなせありさ)は、今年の春に花心流家元の座を彩花里に引き継がせると、フランスに渡ってパリに居を構えた。彼の地でフラワーアレンジメントの教室を開くかたわら、創作花をいくつも発表して華道家としての名声を高めつつあった。

 公私ともに充実し、多忙な生活を送っている愛里紗が、たとえ月見の宴の日だとしても、なんの前触れもなく帰国してくるというのは考えにくかった。

 ――なにかあるのかもしれない。

 彩花里は、その女性のうしろ姿を見失わないように、夢中で追いかけた。


 耳元で鳴ったちりんという音で我に返ると、彩花里は大きな白い洋館の前に立っていた。

 子どものころから慣れ親しんだ表参道界隈だが、こんな大きな洋館には見覚えがなかった。表通りからさほど離れていないはずなのに、周囲には彩花里のほかに人影はなかった。

 やがて、観音開きの扉が中から開くと、いつの間に着替えたのか、黒いドレス姿の愛里紗が立っていた。

「彩花里ちゃん、あなたをお待ちの方がいるの。こっちよ」

 愛里紗に促されるままに、彩花里は洋館の奥に進む。相当に年月を経た建物のようで、廊下は足の運びにあわせて軋む音を立てた。

 長い廊下を歩いて通された部屋は、大きな出窓のあるリビングだった。重厚な調度品はシャンデリアに淡い輝きを返し、敷き詰められた赤い絨毯はふわりとした上質な感触だった。

 彩花里が部屋に入ると、タキシードを着た西洋人の男が出迎えた。彩花里とそれほど歳も違わなさそうに見える男は、優しい響きのある声で名乗った。

「ようこそ、わが家へ。私はアウグスト・フォン・ブラウベルク男爵だ」

 そして、緑色の瞳を細めると、芝居がかった口調で告げた。

「今宵は、貴女とともに収穫祭を楽しみたいと思って、招待させてもらった」

「でも、私は……」

 月見の宴は、花心流の大切な年中行事のひとつだ。それを勝手に取りやめにすることは、家元を継いだ身ではあっても憚られた。けれど……。

「いいのよ、彩花里ちゃん。今夜は、ここで月見の宴を執り行いなさい。この方は、あなたの花一会をお望みなのだから」

 愛里紗はそう告げると、緑色の瞳を彩花里に向けて微笑んだ。彼女にそう言われるまでもなく、彩花里は今夜この場に招かれたのは、そういうことなのだろうと思いはじめていた。

「わかりました。では、務めさせていただきます」

 彩花里は、出窓の張り出しに懐紙を敷いて月見団子を盛り、窓枠にススキを立てかけさせて形を整えた。窓は東南を向いているらしく、飾り付けが終わると同時に、煌々とした満月の光がススキの穂を銀色に輝かせた。

「それが、この国のしきたりかね。じつに興味深いな」

 男爵はそう言いながら窓際に近寄ると、ススキの穂に触った。その指先からふわりと逃れた銀の穂に、大きく見開かれた男爵の緑色の目が釘付けになった。その指が、右へ左へと穂先を追いかける。

「ほほう、これは愉快な」

 やがて、窓枠に立てかけてあっただけのススキは、男爵の遊び相手には疲れたと言いたげにぱたりと倒れた。

 飾りなおしたススキに再び手を伸ばそうとする男爵に、彩花里は非難を込めた眼差しを向ける。ススキの穂に未練がましい視線を投げたあとで、男爵はひとつ咳払いをした。

「さて、準備も整ったようだ。では、今宵の宴をはじめるとしよう」

 男爵が、ぱちんと指を鳴らす。

 いままでどこにいたのか、リビングには着飾った多くの紳士と淑女が現れていた。モーツァルトのセレナーデが低く流れ、テーブルにはビュッフェのオードブルが並ぶ。料理をつまみワインを飲みながら歓談する人々に囲まれて、黒いドレス姿の愛里紗も笑顔を振りまいていた。

 デザートのモンブランを手に取った彩花里に、男爵がほのかに湯気を立てる白磁のティーカップを差し出した。

「私のスペシャルブレンドだ。気分に合わせて作るので、味は保証しかねるがね」

 うふふ、と彩花里は笑みをこぼした。

 ――どこでそんなセリフを憶えたのかしら。

 カップに口をつけると、ほんのりとした甘味と豊かなベルガモットの香りがあって、アールグレイを思わせる紅茶だった。

「おいしい」

 思わずそう言った彩花里に、男爵は目を細めた。

「貴女は幸運だ。このパーティはどうだい、楽しんでもらえたかな」

 男爵の言葉に、彩花里は笑顔を返す。

「はい、とても」

 表情をほころばせた男爵は、うむとうなずいた。

「また遊びに来るといい。貴女が望むなら、いつでもこの館の扉は開くからね。ではそのときまで、ごきげんよう」

 男爵は、彩花里の横に立つと、再びその指をぱちんと鳴らした。


 まるで映画が終わって照明がともったときのように、視界が一瞬だけ暗転したあと白い光に包まれた。

 気がつくと、彩花里は庵の茶室に座っていた。

 縁側に据えた台の上には、花瓶に投げ入れたススキが飾られ、その横には三方に盛り付けられた月見団子が供えられている。中天にかかった満月から降りそそぐ光が、露地と茶室を明るく照らしていた。

 あたりを見回しても、洋館どころか男爵の姿も愛里紗の姿もなかった。

 ススキの穂が、そよ風にふわりと揺れて、銀色の光の粒をふりまいた。

 彩花里は、夜の静寂のなかにひそやかに佇む、ふたつの気配を感じ取った。

 ――ああ、やっぱり。

 彩花里は、畳に指をついて、ささやくように礼を述べた。

「さきほどは素敵なパーティにお招きいただき、ありがとうございました」

 あるかなきかの風にまぎれて、ちりん、と涼やかな音がした。

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