第六会 「その、花が見つめるものは」
あのひと大丈夫かな。
ひまわりの花に向けられた彼女の表情を見て、彩花里はそう思った。
見渡すかぎりの、ひまわり畑。
遠くから聞こえる蝉の声と、足元からたち昇ってくる土の匂い、そしてむせるような草いきれ。うだるような夏の昼下がりだが、目を上げると深みを増した青空のところどころには、秋を予感させる白い雲が浮かんでいた。
ここは、新宿から電車とバスで一時間もかからないれっきとした都内だ。なのに、彩花里の目の前には、まるで古い映画のシーンのような果てしない緑と黄色の海が広がっていた。
この広大なひまわり畑を利用して地元の市役所が開催したイベントに、彩花里はスタッフとして参加していた。好天に恵まれたこともあって、イベントは盛況だった。家族連れや若い男女や年配のグループなど、さまざまな人が、咲きそろったひまわりの花とともに、夏の終わりのひとときを楽しんでいるようだった。
そんななかにあって、彼女――堤清香だけが、まるで取り残されたように沈んで見えた。
清香は、来場者を案内する係として、彩花里とペアを組んでいるスタッフだ。肩口で切りそろえたボブに、黄色いパーカーと麦わら帽子というユニフォームがよく似合っていた。仕事ぶりも真面目で、スタッフの間でも評判はよかった。だが、ふとした拍子に見せる悲しげな表情が、彩花里にはずっと気がかりだった。
しかし、いまの彩花里には清香に構っている時間はなかった。目の前には、三組の家族連れがいて、彩花里の説明を待っているのだ。気もそぞろな様子の清香を一瞥したあと、彩花里は手近なひまわりの花を指差して説明をはじめた。
ひまわりの花は、茶色い粒が寄り集まった円盤の周囲を、鮮やかな黄色い花弁が取り囲み、それがひとつの花のように見える。しかし、じつは粒のひとつひとつが筒状花と呼ばれる小さな花で、周囲の花弁もまた舌状花と呼ばれる別々の花になっている。
花の構造からはじまって実の利用法まで、主催者から依頼されている説明を歩きながら済ませると、ちょうどひまわり畑の真ん中あたりに到着していた。
「難しいお話が続いたので、最後にひとつ、ひまわりにまつわる物語を紹介しますね。こんなに明るくて元気いっぱいなひまわりの花ですが、ギリシア神話のなかに、とてもロマンチックですこし悲しいお話があります。クリュティエという名の妖精と太陽神アポロンとのお話です」
美しい水の妖精クリュティエは、あるとき太陽神アポロンに恋をした。しかし彼女にとって、それは叶わぬ片思いの恋になった。アポロンは、見目麗しく才能にあふれ、そのうえ恋多き神だったからだ。届かぬ想いに身を焦がしながら、東の空に昇ってくるアポロンを待ち、天翔る彼の姿が西の空に消えていくのをただじっと見つめるだけの日々。いつしか、クリュティエの足は地面に根を生やし、その顔は花に変わっていた。
「クリュティエが姿を変えた花が、ひまわりだと言われています。だからひまわりの花を見たら、彼女のことも思い出してあげてくださいね」
解説者としての彩花里の役目は、ここまでだった。あとは清香が引き継いで、来場者にひまわりの切花を楽しんでもらうという趣向になっている。けれど清香は、浮かない表情をひまわりの花に向けたままだった。
「清香さん、お願いしますね」
彩花里が呼びかけると、清香は我に返ったように家族連れたちを見やった。 あわてた様子で説明をはじめたその顔には、不自然なほどの作り笑いが貼りついていた。
彩花里がスタッフ用のテントに戻ると、無造作に並べられたパイプ椅子のひとつに腰掛けた清香の姿があった。彼女は組立式のテーブルに肘をついて、団扇で顔に風を送っていた。だがそれは暑いから扇いでいるというより、ただ無意識に作業を続けているだけのように見えた。
彩花里は、雫のついたミネラルウォーターのペットボトルを、清香の前にとんと置いた。
「どうぞ」
呆気にとられたような顔を彩花里に向けた清香は、すこし口ごもりながら、ありがとうございますと告げた。
「疲れているみたいね」
となりの椅子に腰を下ろしながら彩花里が話しかけると、清香はいえ大丈夫ですと答えた。しかしその視線はふらふらとさまよったあと、斜め前にある運営本部テントの一点に向けられて止まった。
そこには、清香と同じユニフォームを着た若い男の姿があった。男は、遠目に見てもわかるくらいに際立った容姿だった。そして、まるで取り巻きのような女性スタッフたちと、いかにも楽しげに話しこんでいた。やがて男は、清香の視線に気付いたようにこちらを向くと、まるで屈託のない笑顔で手を振って見せた。
清香は、まぶしい日差しから目をそむけるようにうつむいた。
彩花里は、それでおおよその察しがついた。
「あのひとのことが気になっていたのね。もしかして、彼氏?」
「はい。あ、いえ……」
清香は言葉尻を濁し、消え入りそうな声で、どうなのかなと続けた。
「お似合いだと思うけれど」
彩花里の言葉に、清香は力なくかぶりを振った。
それから清香は、彩花里の問いかけに応じるように、ぽつりぽつりと悩みを打ち明けた。彼とは二年越しの付き合いになること、彼には清香の他に付き合っている相手が何人もいること。
「わかっているんです。たいして魅力もないわたしが、彼を独占できるわけがないってことは。でも、彼とは別れられないの。いちどだけそういう話になったんだけど、そのときすごく優しくされて、わたしやっぱりこのひとが好きなんだって。……彩花里さん、クリュティエのお話をしていましたよね」
ええと彩花里は首肯して、清香に話の先をうながした。
「自分とはつりあわない恋人を待ち続けて、最後は花になってしまった、かわいそうな子。でも、クリュティエの気持ちが、わたしにはわかるような気がするの。自分でもばかだなって思うけど、どうにもならないのね」
胸の奥に溜まっていたものを吐き出すように告白すると、清香は深いため息を落としてうなだれた。
彩花里は、切ってきたばかりのひまわりの花を手にとった。太陽に向けてまっすぐに背を伸ばし、健気に咲いた大輪の花。それは、悲恋の象徴には似つかわしくない、たくましい生命の喜びに満ちていた。
彩花里は、小型の花鋏で中央の筒状花をすこしずつ切り取っていった。ひまわりの花が、あたらしい表情を見せはじめる。
「ねえ清香さん。アポロンを見つめるクリュティエは、泣いていたと思う? それとも笑っていたと思う?」
清香がゆっくりと顔を上げる。
彩花里は、細工ができたひまわりの花を差し出した。
「ひまわりの花は、ひとつひとつはとても小さいの。でも、たくさん集まることで、こんなに見事な大輪の花になっているのよ。だから清香さんも自分の魅力に自信を持って欲しい。それに……」
清香がひまわりの花に目を落とした。大輪の舌状花に取り囲まれたそこには、はちきれそうな笑顔が刻まれていた。
「泣き顔より笑顔のほうが、ぜったいに素敵だから」
こわばっていた清香の表情に、ようやく小さなほころびができた。
ひまわりと清香。ふたつ並んだ笑顔に向けて、彩花里は「もう大丈夫だね」と心のなかで告げた。