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第五会 「その、花の咲いた朝に」

 如雨露から撒かれる水に朝日が当たって、光のシャワーのように緑の葉に滴る。葉の上を転がった水玉は地面に落ちて黒い染みになり、蔓を伝って落ちた水滴は植木鉢の土に染みこんでいった。

 彩花里は、すこし丸みを帯びた朝顔の葉を手に取った。蔓も葉も、夏の暑さに負けることなく強い生命力を発散していた。

 彩花里の背後から、感心したような「ほう」というため息が聞こえた。振り返ると、照り付ける朝陽と蝉の声の中に、その老紳士が立っていた。朝顔に向けられた、深いしわの刻まれた目元が、わずかに下がっているように見えた。

 表参道からすこし奥まった住宅街にある彩花里の住居と庵は、招かれた客でもなければ、それと気づかないごくありふれたものだった。近くには往来の多い青山通りがあるが、この路地は人も車も通行が少なく、都会には珍しい閑静な界隈だった。

 その老紳士は、鉢植えの朝顔が発芽したころに初めて路地を通りかかり、それから毎朝のようにやってくるようになった。きちんと折り目のついたワイシャツとスラックス姿だったが、通勤というには年を取りすぎているし、散歩というにはかっちりとしすぎた身なりだった。

 老紳士は毎朝六時になると、ゆっくりと歩いてきて朝顔を一瞥する。そして、立ち止まらずにそのままの足取りで歩き去っていく。朝顔には目を向けるが、花の世話をしている彩花里には興味も持っていないようだった。

 その朝顔は、花心流初代家元である彩花里の祖母が、戦前に九州の友人から分けてもらった種を植えたものだった。とても珍しい朝顔が咲くといわれている種だったが、毎年のように植えても普通の青い花が咲くか、まったく花をつけずに終わっていた。発芽してから二か月が過ぎて、そろそろ花が咲くころになったというのに、蔓や葉が茂るばかりで花芽は出てこなかった。

 今年も、だめかもしれない。如雨露で水をかけながらふとため息を落とした彩花里の耳に、静かな声が聞こえた。

「その朝顔は難しい。肥料も水も、控え目がよい」

 驚いて声の方を見やると、老紳士が目じりを下げて微笑みを浮かべていた。

「はい……あの、この子のこと、ご存じなのですか」

 そう問いかけた彩花里に、老紳士は笑顔のままうなずいた。そしてまた、ゆったりとした足取りで歩き去った。

 翌日から、彩花里は老紳士の言葉通りに、肥料を薄めて水の量を減らした。それから三日ほどが過ぎた朝に、彩花里は葉の間に小さな花芽がついているのを見つけた。

「日が暮れたら、明かりが当たらないようにしなさい」

 花芽をつけた朝顔を見た老紳士は、静かな声でそう告げた。あの日以来、久しぶりに聞く声だった。けれど彼は、彩花里とそれ以上の言葉を交わすこともなく、また静かに去って行った。


 彩花里にとって、忘れられない出来事が起きたのは、花芽がはっきりとした蕾に成長した朝のことだった。

 水遣りのとき、彩花里は、朝顔の蔓と葉にいつもの艶がないことに気づいた。水の量が悪いのか、あるいは肥料が切れたのか。思案する彩花里の前に、いつものとおりに老紳士が現れた。

 朝顔の様子を見た老紳士は、彩花里になにかを告げようとしたが、声を出す前に胸をおさえて蹲った。

「だいじょうぶですか」

 彩花里は、手に持っていた如雨露を捨てて、老紳士の体を支えた。その顔面は蒼白で、苦しそうに肩で息をしている。路面に倒れた如雨露から流れ出した水が、アスファルトの路面を黒く濡らしていった。

「中に入って休んでください。すぐ救急車を呼びますね」

 そう言った彩花里の紬の袖口を握った老人は、苦しげな顔にそれでも笑みを浮かべて見せた。

「大げさにせんでよい。それより、その朝顔だ。害虫のヨトウムシがいるのかもしれん。殺虫剤があるのなら、撒いておきなさい……」

 そして、老紳士は、遠くを見つめるようなまなざしを朝顔の蕾に向けた。

「もうすぐだな。またお前に会えるとは、思わなんだ」

 翌朝、目を覚ました彩花里は、朝顔が花を咲かせていることに気づいた。花びらに乗せた朝露を輝かせた、漆黒の花だった。彩花里は、萎びた葉を摘み取り、朝顔の形を整えた。間もなく、あの老紳士がやってくる時刻だった。

 しかし、その朝に限って、いくら待っても老紳士は現れなかった。朝顔の花は一日しか咲かない。午後にはたぶん、閉じて萎れてしまうだろう。あの老紳士にだけは、この花を見てもらいたかった。

 ふと彩花里の脳裏に、苦しそうにしていた老紳士の姿がよぎった。しかし、あのあと彼は、いつものようにたしかな足取りで去って行った。もしやという嫌な予感を、彩花里はその後ろ姿を思い出して追い払った。

 待つのを諦めた彩花里が玄関に入ろうとしたとき、一台の黒い高級車がゆっくりと走ってきて目前で停まった。助手席のドアが重々しく開くと、ダークスーツを着てネクタイを締めた小柄な初老の男が降り立った。男はすこし目を細めてから、彩花里に向かって深々と頭を下げた。


「私は、松方家の執事を勤めております、九鬼と申します。主、幸太郎は、貴女様がお育てになっている朝顔が咲くことを、心待ちにしておりました。時間がないときも、表通りに車を待たせてでもお通いでした。主は貴女様のことを、朝顔の姫と呼んでおられました」

 床の間に置かれた朝顔の鉢植えに目をやりながら、九鬼はゆっくりと明瞭な言葉を喋った。相手に誤解なく伝わることに徹した、質実剛健な言葉づかいだった。九鬼が信用できる身分の人物であることはそれだけでわかったが、いささか不本意な呼ばれ方に彩花里は無言で抗議をした。

「これは、失礼をいたしました。文字通りの意味でございまして、他意はなかったと存じます」

 彩花里が点てた冷抹茶を、頂戴いたしますと告げてから、九鬼は静かに飲み干した。

「私の知る限り、主があのように我侭を通されたことは、ありませんでした。ひとときも心の安らぐことがなかった人生の最後に、ささやかな愉しみを味わっておられたのでしょう。ですがもう……」

 九鬼の言葉に、重みと深みが加わった。彩花里は正座の膝の上で手を重ねて、九鬼に正対した。

「主は、朝顔を拝見することも、貴女様のお目にかかることも、かなわなくなりました」

 九鬼は、必要にして十分な言葉を、淡々と告げた。だが、そこに込められた心遣いは、老紳士との思い出とともに、彩花里の心に深く染み入ってきた。あふれ出しそうになる涙をこらえて、彩花里は畳に手をついて深く頭を垂れた。

「主からの言伝がございます。ありがとう、と……」

 そのとき初めて、九鬼の言葉が詰まったように乱れた。けれど九鬼は、一瞬でなにかを押さえ込むと、しっかりとした言葉を続けた。

「ありがとうとお伝えせよ、とのことでございました」

 彩花里は、床の間に浮かぶように咲いた一輪の黒い朝顔の花を、懐紙で清めた花鋏で切り取った。

「これを、あの方に」

 朝顔を受け取った九鬼の目元が、障子ごしの柔らかな朝陽にきらりと光った。

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