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第四会 「その、花の色のうつろいに」

 

 山門の外は、五月雨だった。

 トパーズのような雨粒が、彩花里の差した赤い蛇の目傘に当って、ぱつぱつと音を立てた。

 極楽寺の切通しに寄り添うように建つこの寺からは、梅雨空の下にセピア色に煙る弓なりの由比ヶ浜が遠望できる。海に向けて下る長い石畳の参道は、青や薄紫や桃色のアジサイに埋め尽くされていた。

 雨に濡れて鈍色に光る参道の中ほどに、その男はじっと佇んでいた。ここは鎌倉を代表するアジサイの名所だが、紺色のスーツを着た若い男が平日の午後にのんびりと訪れるというのは、さすがに不相応だった。

 彩花里がこの寺を訪れたときにも同じ場所に立っていたから、かれこれもう一時間になるだろう。手に持った黒い雨傘を差しもせず、雨に打たれるままにじっとアジサイを見つめている。

 彩花里は、男の様子を観察しながらゆっくりと参道を下り、隣に並んだところで足を止めた。

 もしかしたら、この寺に用事があるのに、訪問をためらっているのかもしれない。思いつめたような表情を浮かべた男の横顔を見て、彩花里はそう思った。

 しかし、「こんにちは」と声をかけようとした彩花里は、突然の出来事に息を飲んだ。男が、持っていた傘でいきなりアジサイの花を薙ぎ払ったのだ。滴とともに、青やピンクの欠片が灰色の参道に飛び散った。

「くそっ」

 吐き捨てるように悪態をついて、男は再び傘を振り上げた。

「だめ」

 男は、彩花里の声など耳に入らないかのように、手まり咲きのアジサイに傘を打ち付けた。当たり所が悪かったのか、茎が折れたピンクのアジサイが参道に転がり落ちた。

 男の傘が、また高く振り上げられる。

 彩花里は差していた蛇の目傘を投げ捨てると、男とアジサイの間に割って入り、両手を広げて立ちはだかった。

「やめてっ」

 彩花里の声は、制止するというより悲鳴に近かった。しかし、まるでそれに気圧されたように、男はびくりと体を震わせると、ゆっくりと傘を降ろした。

 彩花里は、参道に落ちたアジサイの花を拾い上げ、若草色の訪問着の胸に抱いた。ピンク色の花が、雨に打たれて痛々しげに震える。その姿はまるで、非道な振舞いをされた相手に向けて、健気に微笑みを返しているようだった。

 緊張の糸が切れたことも手伝って、彩花里の目に涙があふれた。

「ひどいことを……。この子は、とても弱いのよ。もう、助からないかもしれないわ」

 彩花里の言葉を聞いて、ようやく自分のしたことに気づいたように、男は「あっ」と声を漏らした。

 途端に、張りつめていたような男の表情が崩れ、代わりに悲しげな表情が浮かんだ。その端正な顔を、雨粒がひとつふたつと流れ落ちていく。

「すまない……」

 男は、うめくようにそう告げると、深く頭を垂れた。

 彩花里の前髪を伝い落ちた雨粒が、涙とともに胸元のアジサイに降り注いだ。


「アジサイを見ると、あいつを思い出すんだ」

 住職の計らいで、彩花里と男は寺の縁で雨宿りをさせてもらうことになった。雨宮(あまみや)貴樹(たかき)と名乗った男は、濡れた髪をタオルで拭きながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

「あいつとの初めてのデートでここに来て、一緒に青いアジサイを見たんだ。また二人で来ようと約束したのに。あいつは、俺を裏切って……」

 言葉を切った貴樹の顔が、何かをこらえるように歪む。

「アジサイって花の色を変えるから、花言葉は『移り気』なんだろ。まるで、あいつそのものだよ。だから俺は、あいつもアジサイも大嫌いなんだ」

 吐き出すようにそう告げた貴樹は、彩花里から顔を背けて俯いた。

「それなら、どうして……」

 またここに来たのか、と問いかけようとした彩花里は、貴樹の肩が小刻みに震えていることに気づいた。思えば、貴樹はアジサイを打ち払った時も、かつての恋人をなじった時も、憎悪の表情を見せなかった。その横顔に浮かぶのは、いつも悲しみの色だった。

 ――うつろう花の色、そして、うつろう人の心。たしかなものなど、ない。

 彩花里の心の奥に、疼くような痛みがよみがえる。思い出と呼ぶには、まだ生々しすぎる傷だ。けれどそれは、誰もが受け止め、自分で癒していかなければならないものだ。百八段の石段が刻まれ、二百六十二株のアジサイが植えられた参道で、同じ傷を心に受けた人と出会ったことは、あるいは何者かの導きだったのかもしれない。

「ちょっと待っていてください」

 彩花里は貴樹にそう告げると、アジサイの花を持って寺の台所に向かった。

 住職に頼んで、プラスチックのタッパを分けてもらい、水を張って食酢を少し混ぜる。アジサイの花をその中に浮かべてから、茎ができるだけ短くなるように花鋏で切り取る。アジサイは水揚げが難しいので、生け花には向かない花だ。けれど、うまくいけば、これでアジサイも貴樹も救われるかもしれない。

 彩花里は、貴樹の元に戻ると、タッパに浮かべたアジサイを差し出した。

「アジサイは、もともと藍色の花が集まったものという意味の言葉、『集真藍(あずさあい)』がその語源だと言われているわ。だから、青色がほんとうのアジサイの色なの」

 貴樹は、ピンク色のアジサイが浮かんだタッパに指を伸ばし、わずかな戸惑いを見せたあとで受け取った。

「アジサイは色が変わるお花だから、あまり良い花言葉はつけてもらえていないの。でもね、この子たちは、変わりたくて色を変えているわけじゃないのよ。植わっている土の性質によって、色が変わってしまうの。それは、人間にはどうしようもない、自然の摂理だわ」

 貴樹が、弾かれたように顔を上げて彩花里の顔を見た。まっすぐな、そして、すがるような眼差しだ。彩花里は、ひとつ頷いてから言葉を続ける。

「このお水には、少しだけ酢を混ぜてあります。もしかしたら、酸性の水の影響で、青く色が変わるかもしれません。でも……」

 そこで言葉を切った彩花里は、自分自身に言葉をかけるように続けた。

「たとえあなたの好きな色にならなくても、どうかこの子を可愛がってあげてください」

 彩花里の言葉が終わると、貴樹は静かにうなずいて視線をアジサイに向けた。その横顔には、さっきまで見せていた悲しげな色は、もうなくなっていた。

 まるでそれを待っていたかのように雨が上がり、梅雨空の雲間から薄日が差しはじめた。

「ありがとう」

 貴樹は深々と頭を下げると、見送る彩花里に背を向けて、山門を出ていった。

 色とりどりのアジサイに囲まれて、確かな足取りで参道を下っていく貴樹の彼方には、鈍い輝きを返す海が広がっていた。

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