第三会 「その、花に託したものは」
一面の金色の中に、緑の葉と青紫の花が、連なり重なりそしてたゆたう。六曲一双の屏風に描かれた、杜若の群落。一本一本はシンプルな図柄なのに、その律動は無限に変化しながら、屏風という有限の枠を超えて、空間の彼方に消えていくように見える。それはまるで、楽譜のようで……。
彩花里がハミングしたメロディに、落ち着いた男の声が重なった。
「ジムノペディだね」
その言葉を受けて、澄んだ女性の声が続いた。
「彩花里ちゃんらしいわね」
振り向いた彩花里の前には、ネイビーのブレザーにギンガムチェックのスラックスを隙なく着こなした壮年の男性と、クリーム色のスカートスーツに身を包んだ女性が並んで立っていた。
「愛花伯母さま、雄一郎伯父さま。お久しぶりです」
「ああ。彩花里くんとは、家元襲名の披露宴以来かな」
「はい。いつも茶室を使わせていただいて、ありがとうございます」
紬の訪問着の袖を重ねてお辞儀をする彩花里に、愛花が微笑みかける。
「いいのよ、どうせ空いているんだし。それより、エントランスの生花、彩花里ちゃんにお願いしてよかったわ。ねえ、あなた」
呼びかけられた雄一郎は、わずかに目を細め口角を持ち上げた。
彩花里の伯父にあたる羽津雄一郎が館長を務めるこの美術館では、毎年五月の杜若の開花に合わせて、所蔵している『燕子花図屏風』を特別公開することが恒例となっている。『燕子花図屏風』は、伊勢物語の三河八橋の場面を描いた尾形光琳の傑作だ。国宝にも指定されている名品で、この時期にはそれを目当てに訪れる客が多い。来館者を出迎えるエントランスの生花は、毎年、華道花心流の家元が活けることになっていた。
「ああ、素晴らしい杜若の生花だ。ありがとう、彩花里くん。じつは、これから家内と食事をする予定なのだが、彩花里くんもいっしょにどうかな」
突然の雄一郎の誘いに、彩花里は即答できなかった。このあと、とくに予定が入っているわけではなかった。だが……。
「お誘いいただいたのは嬉しいのですけど。あの、私、お邪魔では?」
彩花里の言葉に、愛花がくすりと笑った。
「いいのよ、気を使わなくて」
ありがとうございます、と答えようとした彩花里の背後から、事務的な女性の声がした。
「館長、お客様がお見えなのですが」
うむ、と短く答えた後、雄一郎はその女性職員に確認するように告げた。
「夕方まで予定は入れないようにと、言っておいたはずだが」
それが、と口ごもった女性職員が、一枚の名刺を差し出す。手にとった雄一郎の表情が険しくなった。
「すまないが、急用ができた。ランチは、二人で楽しんでくれないか」
雄一郎の言葉に、愛花の表情がさっと曇る。
「一ヶ月前からの約束なのに」
「断れない相手なのだ」
愛花に短く答え、雄一郎は彩花里に向き直った。
「彩花里くん、すまないが、これで失礼する。庭の杜若が見頃だから、ゆっくりしていきなさい」
雄一郎は、二人に背を向けると、女性職員とともに足早に展示室を出て行った。その背中を見つめながら、愛花は深いため息を漏らした。
美術館の建物を出て、深い森に続く細い石畳を下る。
彩花里にとってここは、子供のころから遊び場のように馴れ親しんできた庭だった。けれど、ところどころに置かれたエキゾチックな石像や、木立の中に建っているいくつもの茶室は、見る度にそのたたずまいを変え、いつもどこか別世界に誘われているような気持ちにさせられた。
石畳の下り坂はやがて、褐色の水を湛えた池に行き着いた。水面から緑の葉をまっすぐに伸ばした杜若の群落が、今が盛りとばかりに青紫の燕を思わせる花を咲かせていた。ここまでやってきた来館者は、展示されている『燕子花図屏風』とともに、この花を愛でることができるという趣向だ。
杜若を眺めながら、愛花は何度目かのため息を落とした。見かねた彩花里は、伯母さま、と声をかけた。
「伯父さま、お忙しいみたいですね」
愛花が、はっとしたように彩花里に目を向ける。
「だめね、私ったら。ごめんなさい」
その表情は一見穏やかそうだったが、目元にはかすかな翳りがさしていた。
「実業家の妻になんて、なるものではないわね。いつも一生懸命なあの人を助けてあげたくて家を飛び出してまで一緒になったんだけど。毎日すれ違いばかりで、今はあの人の心がどこにあるのかさえ、わからなくなってしまった。今日の約束だって、ずっと楽しみにしていたのに」
「寂しいですか?」
愛花は、彩花里からはずした視線を、再び杜若の花に向けた。
「ええ、そうね。寂しいのかもしれないわね」
なにかを諦めたような薄い微笑をその顔に張り付けて、愛花はそれきり口をつぐんだ。
都会の喧騒とは無縁の庭に、静かな時が流れた。
遠くを見るような眼差しを杜若に投げている愛花の横顔に向けて、彩花里は口を開いた。
「伯母さま、伯父さまにその気持ちを伝えてみませんか」
首を傾げる愛花に、彩花里は池の杜若を指差して言葉を継いだ。
「杜若の花を、二本いただけますか。それと、白いハンカチを一枚」
愛花がうなずくと、彩花里は花鋏を懐紙で清めて、手近にあった杜若を切り取った。形の整った一本はそのまま残し、もう一本からは花だけを切り取る。そして、丁寧に取り外した花弁を、愛花のハンカチに擦り付ける。白い布地に青紫の色が広がり、鮮やかに染み付いていった。
まあ、と愛花が感嘆の声を上げる。
「草木染めね」
「はい。普通の草木染は色を煮出すのですけど、杜若はこうするのです」
彩花里は、残した一本の杜若に、ほどよく染まったハンカチを括りつけて、愛花に差し出した。
「『住吉の 浅沢小野の杜若 衣に摺り付け 着む日知らずも』 これを、伯父さまに」
「万葉集ね。でも……」
一瞬のためらいのあとで、愛花はその花を受け取った。
「あの人に、届くかしら」
青紫に染まったハンカチと、杜若の花びらが、愛花の手の中でうなずくようにゆらりと揺れた。
庭園の散策を切り上げた彩花里と愛花は、美術館の本館に並ぶように建てられているカフェに入った。ショコラシフォンケーキとアイスコーヒーの並んだ窓際のテーブルには、大きなガラス窓の外に広がる森の緑が映りこんでいた。
窓から見下ろす庭園の石畳を、手を繋いだ若いカップルが談笑しながら歩きすぎる。その様子を眺めながら、愛花がぽつりと漏らした。
「彩花里ちゃんは、優しくて大事にしてくれる人を見つけるのよ」
「伯父さまは、いい方です。きっと伯母さまのこと、わかってくださるはずです」
彩花里の言葉に、そうかしらと返す伯母の目が、彩花里を通り越した先に向けて大きく見開かれる。その視線を追うと、ガラスの扉を開けてカフェに入ってくる雄一郎の姿があった。
彩花里たちを見つけた雄一郎は、早足でテーブルに歩み寄ると、一本の杜若を愛花に差し出した。
「『から衣 きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ』」
そこで言葉を切った雄一郎は、咳払いをひとつ挟んで言葉を継いだ。
「同席させてもらって、いいだろうか」
憂いを帯びていた愛花の顔がほころび、その頬が見る間に朱に染まる。彩花里は、ショコラシフォンケーキを食べ損ねたことを悟った。
「私、エントランスの生花を見てきますね」
彩花里は、そう告げて席を立った。
「ありがとう、彩花里くん。いろいろと、すまないね」
雄一郎は、照れたように口ごもった。ブレザーの胸ポケットからは、青紫に染まったハンカチが、はにかむように顔を覗かせていた。