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第二会 「その、花を贈ることは」

 

 その泣き声は、渋谷の雑踏の中にあっては、聞き逃すほどのかすかなものだった。けれど、幼い少女の震えるようなその言葉は、はっきりと彩花里の耳に届いた。

「お花が……」

 足を止めて辺りを見回した彩花里の目に、このあたりでよく見かける小学校の制服を着て、赤いランドセルを背負った少女が映る。その手には、一本の赤い花が握られていた。

 少女に近寄り、膝をかがめてその顔をのぞきこむと、掌と頬に赤いすり傷が見えた。紺の上着と吊りスカートの制服も、すこし埃にまみれているようだ。

 彩花里は、少女の顔を見ながら、優しい声で話しかけた。

「だいじょうぶ?」

 見知らぬ和装の女性に声をかけられたせいだろうか、少女は鼻をすすりながらいぶかしむような眼差しを彩花里に向けた。

「私は、水無瀬彩花里というの。お花の先生だよ。えっと、お名前は?」

 彩花里が名乗ると、安心したように少女は答えた。

「あゆ。後藤あゆ」

「あゆちゃんね。どうしたの?」

「転んじゃったの。そしたら、お花が」

 涙を拭ったあゆの右手には、折れて俯いた赤いカーネーションが握られていた。透明なセロファンに包まれ、リボンがかかっているところをみると、母の日のプレゼント用なのだろう。

「ちょっと触ってもいい?」

「うん」

 あゆが差し出した花に、彩花里はそっと触れる。

 そのカーネーションが、もうだめになってしまったことは、すぐにわかった。転んだ拍子に下敷きにでもなったのか、花はその形が変わるほどに大きく傷ついていた。花弁は痛み、がくは押しつぶされ、花首は折れていた。このままでは、明日までもたないだろう。

「ママに、プレゼント、するために、学校で、育てた、お花なの」

 あゆは、しゃくり上げながら言葉を繋いだ。

 母の日のプレゼント、そして、痛めてしまった花。彩花里の脳裏を、幼いころの忘れられない出来事がよぎった。


 それは、彩花里が幼稚園に通っていたときのことだった。

 ゴールデンウィークが終わったばかりの週末、彩花里は母と一緒に渋谷に出かけた。

 ランチと買い物を終えて百貨店を出ようとした彩花里たちに、フラワーショップの店員がセロファンで巻いた赤いカーネーションを差し出した。

「ママにあげてね」

 彩花里の手にカーネーションを握らせた女性店員は、にこやかに微笑んでそう言った。振り向くと、母は笑顔でうなずいた。

「ありがとう」

 お礼を言って、彩花里はその花を受け取った。

 五月の第二週の日曜日が「母の日」で、プレゼントや花を贈る慣わしだということを、彩花里はそのとき初めて知った。

 もらったカーネーションはまだ花が開ききっていなかったので、帰宅した彩花里は、太陽の光がよく当る南の窓辺に置いた。植物は太陽の光に当ると育ち、花が咲くのだと教わっていたからだ。

 けれど、水につけていなかったカーネーションは、強い日差しで乾燥し、気がついたときにはすっかりしおれてしまっていた。

「きれいに咲いたお花を、ママにあげたかったの」

 泣きじゃくる彩花里を、母は優しく抱きしめた。

「あらあら、かわいそうにね。お花はだめになっちゃったけど、ママは彩花里ちゃんの気持ちが嬉しいわ。じゃあ、これはドライフラワーにしましょう」

 母は、彩花里から受け取ったカーネーションの茎を切り取ると、砂のようなものと一緒にガラス瓶に入れて蓋を閉めた。

「これは乾燥剤といって、お花をきれいなままで置いておくためのお薬なのよ。一晩こうしておけば、きっと、素敵なドライフラワーになるわ」

 彩花里はその夜、カーネーションの入ったガラス瓶を枕元に置いて眠った。今度こそきれいなままであってほしいと、心から願いながら。

 翌朝、母はガラス瓶からカーネーションを取り出した。色はすこしあせていたが、花弁はふわりと開いていた。

「まあ、なんて素敵なドライフラワー。彩花里ちゃんが、お祈りをしてくれたからだわ。ありがとう」

 母は目を細めると、乾燥剤をふるい落とした赤いカーネーションにピンをつけて、ブラウスの胸に刺した。母の笑顔とともに、クリーム色のブラウスの上に赤い花が咲いた。


「お花さん、ごめんね」

 あゆの涙声が聞こえた。

 彩花里は、甘酸っぱい追憶を小さな痛みとともに胸の奥に沈めると、あゆのカーネーションの状態をもう一度確かめた。

 花首のすぐ下で折れた茎は、もう元に戻せそうになかった。活かせるとしたら、花の部分だけだ。さいわいなことに、百貨店の画廊に飾るアレンジメントフラワーを作った帰りなので、ある程度の材料や道具は持ち合わせている。なんとかなりそうだった。

「お花だけなら助けてあげられるけど、それでいい?」

 彩花里の問いかけに、あゆは黙ってうなずく。目元に溜まっていた涙が、零れて落ちた。

 懐紙で清めた花鋏を、カーネーションの茎に当てて目を凝らす。痛んでしまった部分とまだ生きている部分の境目を見極め、そこに鋏を入れる。さくっという軽い手ごたえとともに、茎と花は切り分けられた。切り口を湿らせたコットンパフで包み、つぶれた花を傷めない程度に整形しながら、ワイヤーとフローラルテープで補強する。

 彩花里の手許を見ていたあゆの泣き顔が、すこしずつ笑顔に変わっていく。

 花鋏をニッパに持ち替えて太めのワイヤーを切り出し、フローラルテープを巻きつけてから、クリップのような楕円形の二重の輪を作る。そこに整形した花をフローラルテープで括りつけると、生花のコサージュが出来上がった。

 彩花里は、赤いカーネーションのコサージュを、あゆの制服の胸ポケットに差し込んだ。

「こうやって服に飾るの。今日一日だけなら、お花は咲いているわ」

 紺の制服に咲いた赤いコサージュから目を上げると、あゆは心配そうに首を傾げた。

「ママは喜んでくれるかな」

 彩花里は、あゆの澄んだ瞳をまっすぐに見つめる。そして、その瞳に映った自分に話しかけるように、言葉を紡いだ。

「あゆちゃん、お花を贈るということは、気持ちを贈るということなのよ。このお花のために泣いてくれた、優しいあゆちゃんの気持ちは、きっとママにも届くわ。だいじょうぶ。ママは喜んでくれるわ」

 あゆの瞳がすうっと細くなり、満面の笑顔が浮かぶ。

「ありがとう、あかりおねえちゃん」

 制服のスカートを抑えるように両手を下げてお辞儀をすると、あゆは何度も笑顔で振り返りながら、道玄坂の人波に消えていった。

 あゆの背中が見えなくなってから、彩花里は暮れはじめた空を見上げた。商業ビルの群に切り取られた茜色の空を、ひとすじの飛行機雲が横切っていた。

 彩花里の胸が、きゅっと締め付けられる。

 ――お母さん。

 今は遠く離れたあの人だけれど、あのとき、赤いカーネーションと一緒に、私の想いは届いていたのだろうか。そして、あの笑顔は、私に向けられたあの人の心だったのだろうか……。

 夕空から地上に視線を降ろす。それを待っていたかのように、スクランブル交差点の歩行者信号が青に変わった。

 小紋の襟を直し、背筋を伸ばして、彩花里は足を踏み出した。

 つかのまの感傷を優しく拭い去るように、暖かい風が彩花里の頬をふわりとなでた。

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