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第十六会 「その、花と迎える季節を」

 薄墨を流したような空から、銀の糸を引いて雨が降る。


 いつもなら喧騒のなかにある表参道も、傘をさした人々は誰もが黙々と行きすぎ、雨音ばかりが聞こえていた。


 天水に洗われたケヤキ並木のあざやかな緑が、高級ブランドの路面店の窓ガラスに映る。

 道端の花壇に目をやれば、紫陽花の茎を蝸牛が這っていく。

 街路樹の葉から滴り落ちる緑玉の雨垂れは、蛇の目傘を叩くと、ぽつぽつと軽やかな音をたてた。それはまるで、ドビュッシーの『アラベスク』のようで。


 彩花里(あかり)はメロディを口ずさみながら、千草鼠色の小千谷縮の裾を確かめた。

 草履のすぐ上のあたりは、もう水気を帯びている。今日の空模様と、外出の用件を考えあわせて、縮を選んだのは正解だったと思った。


 東京が梅雨入りした日、彩花里のもとに一本の電話があった。

天寧(あまね)です」と名乗った女性は、彩花里が長く通っている茶道の師範で、毎年恒例の夏の室礼を今年は彩花里に頼みたい、という用件だった。天寧は、入梅した途端に持病の膝痛が悪化してしまったのだと、おだやかに電話口で笑った。


 表参道を下りきったところで右に曲がり、路地を進んだ先に天寧の家がある。

 板塀の格子戸には、「雨情庵」という表札が掲げられていた。

 インターホンを押すと、しばらく間があってから「どうぞ」とやわらかな女性の声が応じた。

 玄関を入ると、迎えに出てきた天寧の目がすうっと細まり、口元が綻んだ。


「素敵な小千谷縮ね」

「はい。今日は、お仕事ですので」


 彩花里の答えに、天寧はさらに目を細めた。


「さすがは華道花心流のお家元ね。先代も先々代も、もう安心でしょう」


 そう褒める天寧が身にまとうのは、象牙色の越後上布で、黒の絣模様が品よく散らされていた。七十をとうに超えているのにまだ豊かな黒髪を、肩口で綺麗に切りそろえた彼女は、上等な日本人形のようだった。

 この方には当分敵わないな、と彩花里は思う。すこし悔しく、けれど、どこか嬉しかった。


 玄関のすぐ隣が、茶道の稽古場だった。

 六畳の和室の中央には炉が切られていて、庭に面した雪見障子は開け放たれていた。

 手入れの行き届いた庭の一角には、小さな花壇が設えてあって、半夏生の横には白いクチナシが花をつけていた。

 しとしとと降り続く雨音だけが、屋内を満たしていた。


 床に目をやると、『雨蕭蕭 時不待人』の掛け軸があった。

 いままでに見たことのないものだった。

 天寧が、かすかにため息をつく。


「歳はとりたくないものね。もう正座ができなくなってしまって……」


 その口調は明るかったが、声にはわずかな弱音が混ざっていた。

 彩花里はゆっくりとお辞儀をすると、「では」と声を張った。


「勤めさせていただきます」



 天寧を居室に送り届けたあと、茶室に戻って室礼にとりかかった。

 まず雪見障子を外し、代わりに簾を掛けた。

 すこし雨脚が強まったようで、さあっという雨音が室内に押し寄せてきた。


 炉を板蓋で塞ぎ、巻物になっていた籐網代を転がすように広げて敷いた。

 足裏の感触が、畳の柔らかさから、籐の涼しさに変わる。


 押し入れから点茶盤を出して組み立て、風炉に釜を据え、水指や茶碗、棗に茶杓と茶筅をひととおり並べる。

 客用の円椅を四つ用意して、それぞれに井草の円座を敷く。

 雨音がよく聞こえる場所を客席にして、それに合わせて点茶盤の位置を決める。

 何度か着席しては点茶盤を動かし、満足した彩花里は、鴨居に南部鉄器の風鈴を吊るし、庭の半夏生とクチナシを摘み取って、床の竹籠に投げ入れで活けた。

 客席に腰をおろして、簾越しの雨の庭にひととき見入る。


 板塀の彼方には、明治神宮の内苑の杜が、雨に霞んでいる。

 山手線の電車の音が聞こえるほどの都会にありながら、この圧倒的に深い緑を目にすれば、深山にいるような心境になる。


 彩花里は、床の掛け軸に目を移した。


『雨蕭蕭 時不待人』


 おそらく、天寧の手蹟だろう。

 声に出さずに読み下すと、ここに初めて来た日のことを思い出した。



 子どものころ、彩花里は梅雨が好きではなかった。

 雨の日の通学は不快だし、外で遊べないのも不満だった。

 けれど、中学生のときに祖母の茶道の稽古に同席してから、雨の日への印象は大きく変わった。


 雨が降ると、天寧は障子を開け放って、点前の指導をした。

 茶室に満ちる雨音に、天寧が茶を点てる音が重なる。どこまでが雨の音で、どこからが茶を点てる音か。彩花里の耳には、そのふたつの音は、たしかにふたつであり、けれど、ひとつであるようにも聞こえた。

 そこに集う者はだれもが、ただ、そのかそけき音とともに、ゆく時を楽しんでいる。

 こんな世界があったのかと、彩花里は目が覚めたような気持ちになった。


 それ以来、ここで何度、天寧の点てたお茶をいただいたことだろう。

 師でもある母や祖母には打ち明けにくい話を、稽古のあとに聞いてもらったことも、幾度となくあった。天寧は、包み込むような笑顔で頷いてくれたり、時にはまっすぐな眼差しでまちがいを諭してくれたりした。菓子の甘さと、薄茶の苦さが、いまでもはっきりと思い出せる。

 思えば、それは、いつも雨音とともにあった。

 そして、雨のあとには……。


 彩花里の心に、天寧への思いが言葉としてかたちをなした。

 戸棚から空白の掛け軸と書道具を探し出し、筆をとってその言葉を書きつけ、床の軸と掛けかえた。


 天寧に声をかけ、茶室に招く。

 ゆっくりとしたすり足で、天寧が歩いてくる。畳を歩くしゅっしゅっという足袋の衣擦れは、網代に乗ればしゃらしゃらと音を変えた。


 天寧が着物の裾を直しながら、点茶盤に着く。

 室礼を見渡す天寧の眼差しが、床の掛け軸で止まった。彼女の唇がちいさく動き、七つの文字を読み下す。


『雨後青山 青転青』


 まるでそれを待っていたかのように、しとしとと続いていた雨音が止んだ。


 梅雨空のわずかな晴れ間から薄日が差して、神宮の杜が瑞々しく緑を深めた。

 微風がふわりと吹き込み、風鈴の短冊を揺らす。

 ちりりんと、澄んだ音色がして。

 その余韻を、甘酸っぱいクチナシの芳香が追いかけてきた。


 天寧は「そうね」と、目を閉じて空を仰ぎ……。


「また、夏を迎えられるのね」とささやいた。

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