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第十五会 「その、花を送る夜に」

 

 蝉の声が止み、西陽が空を紅に染めた。

 見上げると、夕空を横切るように、朱色の裏後光が差していた。

 淡い光の道は、彼岸と此岸を橋渡しするようにひととき空にかかり、やがて微かな光芒を残して消えた。

 八月十六日の日が暮れ、盂蘭盆の送り火の夜になった。

 彩花里(あかり)は藍色の紬から、この日のために誂えた秋草色の江戸小紋に着替えた。

 雨入りの万筋に染められた絽の生地から、白い襦袢が透けて見える。パリに住む養母の愛里紗(ありさ)から届いた反物から仕立てたもので、盛夏に相応しい涼やかな装いだ。

 夕闇が落ちた露地に出て、火袋で麻幹を焼き、その火を盆提灯に移す。提灯の障子紙に描かれた菊花紋が、揺れながら浮かび上がった。

 父親も生母も知らない彩花里には、迎えて送るべき御霊もない。だからこれは華道花心(かしん)流の家元として、そして水無瀬(みなせ)家の当主として、果たすべき勤めのひとつだった。

 庵を出るころには、すっかり夜の帳が降りていた。繁華街の青山通りが目と鼻の先にあるというのに、この界隈の夜は意外なほどに闇が深い。

 仄かに点る提灯の火を頼りに、彩花里はゆっくりと足を踏み出した。


 カラン、コロン。

 駿河塗の舟形下駄が立てる足音が、闇の底にさやかに響く。

 裏通りを抜け外苑西通りを渡ると、ぽっかりと開けた暗くて広大な空間が現れた。

 彼方には六本木ヒルズの森タワーが、光をまとった卒塔婆のように屹立している。その足元まで続くかのように見える斜面に立ち並ぶのは、様々な意匠の墓石の群れだ。

 東京都立青山霊園。

 昼間は公園のような雰囲気すら漂う場所だが、ひとけのない夜はさすがに、三世の境界が曖昧になっているように感じられた。

 水無瀬家の墓所がある区画に着いたところで、彩花里は夜風に漂うその香りに気づいた。オリエンタルハイブリッド特有の、甘く艶めかしい芳香。これは……。

 ――カサブランカの香りだ。

 そう思ったときだった。まるで暗闇そのものが語り掛けてくるかのように、秘かな女の声がした。

「もし……」

 カランという下駄の音を残して、彩花里の足が止まる。

 振り返ると緑色の紬の胸に抱かれるように、一輪の白百合が艶やかに咲いていた。だが、その持ち主はというと、まるで闇に溶け込むように佇んでいて、正体が見えなかった。

 昼の名残の熱気を払うように、肌寒い微風が起きた。その風は、彩花里の秋草色の着物の裾を揺らせた。

「姫さま、お懐かしゅうございます」

 感極まったような声は、不審ではあったが邪気は感じなかった。おそらく、たんなる人違いだろう。

「私は、姫と呼ばれるような身分の者ではありません。失礼ですが、どなたかとお間違えではないでしょうか」

 彩花里の答えに、女の声はいいえと応じた。

「そのお着物、その灯篭。間違いござりませぬ。(つゆ)姫さま、(よね)をお忘れでございますか……」


 米と名乗った女性は、何度かの押問答の末に、ようやく彩花里が露という名の女性ではないことを受け入れた。彼女は、落胆したような細い声で告げた。

「露姫さまは、秋草色の着物がことにお好きでしたので、つい……」

 問わず語りの身の上話を聞けば、米は露姫の乳母だったという。

「わが娘も同然と思い、慈しみお育ていたしました。なのに、叶わぬ恋に身を焼き、その心労がもとで病を得て、あたら若い命を……」

 たしかにそこに気配はあるのに、暗闇に慣れた目にも声の主は認められない。まるで花が語りかけてくるように、女の言葉が続く。

「姫さまの思いを叶えてさしあげるためとはいえ、相手の殿方をあの世に送ってしまいました。この身はすでに亡きものでありますのに、その罪のためか往生も叶わず、こうして彷徨っておりまする……」

 やはりそうか、と彩花里は納得した。夢か現か、いずれにせよ、相手はこの世の者ではない。

 女の細い声は、掠れて揺れながら、その想いを訴えた。

「どうかその御手で、わたくしのくびきを断ち切り、あちらへ送って下さりませぬか」

 嘆息まじりにそう告げると、百合の花はわずかに頭を垂れた。

 露姫それに米とくれば、思い当たるのは『牡丹灯籠』だ。米は、死んだ露姫の恋を成就させるべく、あれこれと手を尽くした。結末は悲惨だったが、それは親心にも等しいものだ。

 彩花里は思う。

 私は血の繋がりのない母に、慈しみ育てられた。このひとは、血の繋がりのない娘を慈しみ育て、そして先立たれた。そういう者同士が邂逅したのも、この特別な夜がもたらした奇縁にちがいない。

 それに花一会の客は、生けるひとだけに限らない。花の命を断ち切るのも、人の業を断ち切るのも、おなじ重さのはずだ。

 提灯の柄を帯に差し挟み、彩花里は手を重ねて深くお辞儀をした。

「承知しました。未熟者ではありますが、勤めさせていただきます」

 懐から花鋏を取り出し、懐紙で清める。

 白百合の茎に手を添え、かすかに浮かび上がった赤い筋に鋏を入れた。

 さくりと手応えがあって、百合の花は彩花里の手に切り取られた。

 緑の紬に見えた百合の茎は霧散し、代わりにちいさな緑色の燐光が、ふわりと宙に浮かんだ。

 おお、と深く静かな声が漏れ出す。

「ありがとうございました。これでようやく、姫さまのもとに参れます」

 その声は、喜びに震えているようだった。

 彩花里は、百合の花を胸に抱いて合掌する。

 その眼前で、燐光はゆっくりと夜空に昇っていった。

 まるでその後を追うように、青山霊園を取り囲む家屋やビルから、次々に大小の燐光が浮かび上がった。

 提灯の灯火が、ふっと消える。

 まるで申し合わせたように、幾千の燐光たちがいっせいに、夜空に向かって舞い上がった。

 見上げると、夜空を横切るように、天の川が流れていた。

 淡い光の川は、彼岸と此岸を繋ぐように、地上からまっすぐに天に向かって立ち上っていた。

 手に残った百合の花が、清らかな芳香を放つ。

 江戸小紋の袖口でたゆたったその香りは、折からの微風に乗って、幾千の燐光とともに夜空に消えた。

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