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第十三会 「その、花の香りに包まれて」

 元日の朝の茶室には、しんとした冷たい空気が満ちていた。

 彩花里(あかり)は床の間の掛軸を外して、代わりに一枚の色紙を飾る。色紙には紀友則の和歌が、達筆の手蹟でしたためられていた。

『君ならで 誰かに見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る』

 この梅の花を、他の誰に見せるというのか。この色と香りがわかる人は、あなたの他には、いないのだから……。

 ささやくように詠みあげた彩花里の脳裏に、ひとりの男性の姿がよぎる。

 ――またあの方に会える。

 そっと手を当てた胸が、熱くそして苦しくなった。


 毎年一度、元日にだけ稽古に来る渋沢章仁(しぶさわあきひと)は、先代家元である愛里紗(ありさ)の親友であり最初の弟子だった。

 彩花里は幼いころからずっと、章仁と一緒に稽古を受けていた。愛里紗が稽古に彩花里の同席を許すのは、多くの弟子のなかで章仁だけだった。

 章仁との稽古の後には、茶席が催されるのが決まりになっていた。そして愛里紗は、必ず手作りの花びら餅を菓子として出した。

 白い求肥のなかにうっすらと紅がさした花びら餅は、見た目も美しかったが、その優しい味わいが彩花里は大好きだった。

 初花の祝いを迎えた彩花里に、愛里紗は花びら餅の作り方を伝授した。母から教わって作った菓子を章仁が口にしたとき、彩花里の胸は高鳴った。

「すこし味付けが変わったね。うん、これは美味しい」

 章仁はそう言って、柔らかな笑顔を彩花里に向けた。愛里紗もまた、彩花里を見て穏やかに微笑んだ。

 この人がお父さんになってくれたらいいのに、と彩花里は思った。けれどそれは、心に秘めておかねばならないものだった。純真な願いの内側に、色づいた想いが透けて見えていたから。

 彩花里は、自分が作った花びら餅をほおばった。味噌餡の甘さのなかに、牛蒡のほろ苦さが隠れていた。

 床の間を飾る和歌の色紙が、かりそめの団欒(だんらん)に集う三人を、ただ静かに見おろしていた。


 茶室のしつらえを終えて庵の台所に立った彩花里は、章仁の笑顔を思い浮かべながら花びら餅を作った。あの日から秘めたままの想いが求肥に包み込まれて、彩花里の手の中でそっと蕾を結んだ。

 白地に梅の花をちりばめた振袖に着替えて支度を整えると、冬の日が西に傾き、来客の時刻が近いことを告げた。

 庵の門まで出迎えに行くと、それを待っていたかのように一台のタクシーが停まり、グレーのスーツに身を包んだ章仁が降り立った。胸を張り背筋を伸ばした立ち姿は、四十台という年齢よりもずっと若々しく見えた。

 新年の挨拶を交わし、茶室に落ち着いた章仁は、彩花里が花材として用意した白梅の枝を手に取った。

「いい枝だ」

 章仁はわずかに瞑想したあと、枝を信楽の壺に挿し入れ、枝先がまっすぐに天を差すように整えた。壺の口から左右に伸びた枝が、角張った曲線を描いて上に向かう枝を支える、力強く均整のとれた活け花だった。

「どうだろうか」

「結構だと思います。ですが、すこしだけ手を加えてみますね」

 章仁に寄り添うように座り、彩花里は白梅の枝に手を伸ばす。章仁のスラックスに触れた袂が、さらりと衣擦れの音を立てた。

 梅の活け花を床の間に飾り、彩花里は花びら餅を菓子に出して濃茶を練った。

 夜の静寂の底に、湯のたぎる音と茶筅の音が、かそけき調べを奏でる。馥郁(ふくいく)とした梅の香りと、おだやかに流れる時が、彩花里と章仁を包み込んでいた。

 花びら餅を口にした章仁は、美味しいと言って目を閉じた。

「来年もこうしてお会いしたいが……」

 行燈の薄明かりとともに、章仁の言葉が揺れる。年月を刻み込んだその貌に、深い陰影が浮かんだ。

「異動の命令が出てね。ソマリアに派遣されている艦隊の指揮を任されることになったんだ。次は、いつ帰国できるかわからない」

 ゆっくりと首を振った章仁の顔に、自嘲の笑みが浮かぶ。

「愚痴を聞かせてしまった。なんだか、娘と話しているような気がしてね」

 娘という章仁の言葉が、彩花里の心に波を立てた。

「お嬢様? ご家庭はお持ちでないと、母から伺っていましたけれど」

 彩花里の問いに、ああと頷いた章仁は、わずかな躊躇のあとに口を開いた。

「私には、家庭を持つ資格などないよ。私はひとりの女性を、そしてもしかしたらその女性の娘を、不幸にしてしまったんだからね」


 高校の同級生だった章仁と愛里紗、そして早川茜(はやかわあかね)は、卒業後も仲の良い三人組だった。

 華やかで恋多き女性だった愛里紗とは対照的に、茜は身体が弱くもの静かな女性だった。

 三人で時を過ごすうちに、章仁と茜は惹かれあい交際が始まった。

 だが章仁が防衛大学を出て、広島にある幹部養成学校に進むと、二人は会うこともままならなくなった。すれ違いが増える日々は、茜の心身をゆっくりと蝕んでいった。

 そんな二人の関係に、決定的な転機が訪れた。任官した章仁が、護衛艦の乗組員としてペルシャ湾に派遣されることになったのだ。敷設された機雷を処理するという、危険な任務だった。

 茜はそのとき初めて、行かないでほしいと章仁に告げた。

 仕事を取るか、恋人を選ぶか。悩みぬいた章仁は、仕事を取った。帰還するまでの半年だけ我慢してくれと、茜に向かって頭を下げた。

 出動する章仁を見送って間もなく、病を得た茜は入院することになった。そして一週間もたたないうちに、茜は病院から姿を消した。

 置手紙もなにもなかったが、身辺がきれいに片付けられていたため、覚悟のうえでの失踪だとわかった。章仁や愛里紗の捜索にもかかわらず、その後の茜の消息はようとして知れなかった。

 そのときの病がもとで茜が亡くなっていたことがわかったのは、彼女が失踪してから数年が過ぎた年の暮れだった。


「茜の縁者から聞いたのだが、どうやら茜は失踪してほどなく、女児を産んでいたらしい。愛里紗くんは、茜を見捨てた私を責めているのか、いまだにそのことには口を閉ざしている。せめて娘には償いをしたいが、その娘が今どこでどうしているのか、なにも分からない。生きていれば、貴女と同じくらいの年齢になっているはずなのだが……」

 そこで言葉を切った章仁は、はっとしたように、眼差しの焦点を彩花里に合わせた。

「すまない、貴女に話すべきことではなかった。つい調子にのって、心ないことをしてしまった」

 謝罪した章仁は、気まずさを振り払うように、床の間の色紙に視線を移した。 その目尻には、行き場をなくした悲しみが、小さな滴になって滲んでいた。

「あれは、愛里紗くんの手蹟だね。『君ならで 誰かに見せむ 梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る』か。いい歌だ」

 独り言のようにつぶやいた章仁が、穏やかな笑顔を浮かべる。それは、三人で花びら餅を食べたときの笑顔と同じで……。

 そのとき彩花里は、不意に思い至った。

 茜はきっと、章仁を悲しませたくなかったのだ。そして、愛里紗はきっと、章仁を愛していたのだ、と。

 色紙の和歌は、章仁が茜や娘を忘れるはずがないことを承知したうえでの、愛里紗からの恋文だったのだろう。そしてあのひとときは、だれも得ることができなかった、ささやかな幸せの代償だったのだ。

 彩花里の心の奥で、秘められていた想いが形を成した。それはきっと、私がなすべきことで、私にしかできないことなのだ。

 寒い冬を越え、枝の先で春を告げる梅の花のように、彩花里は言葉を紡いだ。

「もう、いいのよ」

「もういい?」

「ええ。あなたは誰も不幸にしていないし、誰もあなたを責めたりしない。茜さんも、その子も、それから……母も。だから……」

 彩花里は、想いのたけを込めて、最後の言葉を送り出す。

「もういいの」

 ああ、と章仁は深いため息をついた。そして、何年も積もっていた雪が解けだすように告げた。

「私を許してくれるのか」

 はい、と答えた彩花里の手を、章仁の大きな掌が優しく包み込む。

「ありがとう、彩花里……いや、お家元」

 力強いぬくもりを感じながら、彩花里は章仁を見つめ返す。

「来年も、その次の年も、かならずいらしてください。梅の花とともに、お待ちしていますから」

 彩花里の言葉に、章仁は深くうなずいた。


 退出する章仁を、彩花里は茶室に座ったままで見送った。

 もう少しの間だけ、このぬくもりと梅の花の香りに包まれていたかった。

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