第十二会 「その、花の強さのように」
二百十日が過ぎて、東京に降り続いていた雨がようやく上がった。
表参道のケヤキ並木を吹き抜ける風が、彩花里が着ている女郎花色の江戸小紋の袖を心地よく揺らせた。
見上げた青空には白いうろこ雲が、夏はもう終わったと言いたげに浮かんでいた。
近づく秋の気配を感じて、もしかしたら、と彩花里は思った。あのコスモスが咲いているかもしれない。回り道になるけれど、今日も行ってみよう。
青山通りから細い路地に入り、背の低いビルの建つ角を曲がる。
その先にあるお目当ての場所には、すでに先客がいた。お揃いのジャージを着た若い男性と五人の子どもたちで、それぞれの手にはちいさなスコップや如雨露が握られている。近隣にある小学校の園芸クラブの子どもたちと、顧問の教師、井上淳史だ。
会釈をした彩花里に、淳史は丁寧にお辞儀を返してきた。
しかし、短い黒髪の下にある端正な顔には、悲しげな表情が張りついていた。連れている子どもたちの様子も、ひどく沈んで見えた。
「どうかなさいましたか」
彩花里の問いかけに、淳史は「それが」とつぶやきながら、足元に目を落とした。
そこは、コスモスが植えられた花壇で、先週末には蕾がついていたから、あとは花が咲くのを待つばかりのはずだった。だが……。
淳史の視線を追った彩花里は、思わず息を飲んだ。
花壇には、使い古された雑貨や家電品が、これ見よがしに捨てられていた。下敷きになったコスモスは、茎は折れ蕾も潰された無残な姿に変わり果てていた。倒れた木の看板の『ここにごみをすてないでください』という文字が、助けを求めるように彩花里たちを見上げていた。
「ひどい。だれがこんなことを」
涙をこらえる彩花里に、淳史がかぼそい声で答えた。
「心当たりがないわけではありませんが……。一昨日までは、なんともなかったんです。すみません」
淳史が謝罪すべきこととは思えないが、そうしたい気持ちは痛いほどわかった。
ここは、淳史と子どもたちと、そして彩花里が作り上げた花壇だった。
それは、梅雨が明けたばかりの、暑い日のことだった。
庵から表参道駅への道が通行止めになり、彩花里はいつもなら避ける路地を通ることになった。
ガードマンが指差した方向には、青山通りに面した都心の一等地とは思えない、荒涼とした光景が広がっていた。
空き缶やペットボトルが散乱した時間貸しの駐車場と、雑草やごみに占領された空き地に挟まれて、舗装がまだらにめくれた通路が伸びている。その奥には、蔦が絡まった廃屋が、お参りをする者の途絶えた墓碑のように、恨めし気に建っている。風に運ばれて通路を滑ってきた白いビニール袋が、彩花里の草履に当たってがさりと無機質な音を立てた。
かつてこの国が見たという、狂った夢の残骸。時の流れから取り残されたバブルの爪あとを、青空を映した六本木ヒルズの森タワーが、遠くから冷ややかに見下ろしていた。
近くに住んでいるとはいえ、居心地のいい場所ではなかった。
彩花里は、足を速めて路地を通り過ぎた。そしてその先で、空き地のごみを片づけている淳史と子どもたちに出会ったのだった。
「ここは区有地なんですが、狭すぎて使い物にならないのだそうです。だから、放っておくしかなくて、いつの間にかこんなことになってしまったんです」
区役所の許可が取れたのでここを花壇にするんですと話しながら、淳史は粗大ごみを退けた。その下には、隅切りのような台形の土地があった。それを見た淳史はひとつ頷いて、ジャージのポケットから小袋に入ったコスモスの種を取り出した。
「コスモスの語源は、ギリシャ語で『秩序』や『美』を意味する言葉だそうです。僕は、せめてここだけでも、秩序のある美しい場所にしたいんです。そしてそれを、この子たちに見てほしいんです」
淳史はそう言って、目を輝かせた。若い男性にしては線が細かったが、子どもたちに向ける笑顔は温かかくて優しかった。
急ぐ用事もなかったので、彩花里は花壇の整備を手伝うことにした。
ごみと雑草を取り除き、赤いレンガを並べて囲う。半時間ほどの作業で、そこには小さいながらも花壇らしきものが出来上がった。肥料を混ぜて土をならし、コスモスの種を撒いた。そして、子どもたちが作ってきた、『ここにごみをすてないでください』という木の看板を立てた。
彩花里の手は土にまみれて汚れたが、それはとても楽しいひとときだった。
謝礼の言葉に続けて、花が咲くのを楽しみにしながら世話をします、と言い残して淳史は子供たちとともに学校に戻っていった。
「淳史先生。コスモス、咲かないの?」
目に涙を浮かべた女の子の言葉に、淳史は肩を落としてうなだれた。
「これじゃ、もうだめだね。やっぱり、こんなことしても……」
むき出しの悪意を目の当たりにして、淳史の心が傷つき折れいくのを、彩花里は、はっきりと感じ取った。だから、非礼を承知で淳史の言葉をさえぎった。
「待って」
そして、出来るかぎりの明るい笑顔を作りながら、言葉を続けた。
「あきらめないで。コスモスは、とても強いお花なの。たとえ倒されても、そこから根を張って起き上がり、花を咲かせるのよ」
「そうなんですか?」
すがりつくような淳史の問いかけに、彩花里は「はい」と答えた。
「だから手当てをしてあげれば、きっと大丈夫よ」
こわばっていた淳史の顔がわずかにほころび、暗く沈んでいた目にも生気が戻った。そして、淳史の口から、その言葉が出た。
「やってみようか、もう一度」
それを待っていたかのように、子どもたちが、わあっという歓声をあげた。
淳史と男の子たちは、学校から台車を持ってきて、ごみを片づけていった。彩花里と女の子たちは、コスモスの手当てを始めた。
折れてしまった茎は、土の部分から二節ほどを残して花鋏で切り揃えた。傷みの少ない茎や蕾を付けた茎は、先端から三節ほど残して下を切り落としてから、花壇の土に植えた。
最後に、如雨露でたっぷりと水を撒く。雨露のように花壇に降り注ぐ水滴が、ちいさな虹を作った。
「切り株からは、また新しい芽が出てくるわ。植えた方は、十日くらいで根が生えるから、そのまま育てれば花が咲くわ」
手入れが終わった花壇に、淳史と子どもたちは、もういちど木の看板を立てた。『ここにごみをすてないでください』という文字が、健気に彩花里たちを見上げていた。
この看板が、再び倒されないという保証はない。けれど……。
淳史と子供たちの顔には、明るい笑みがあふれていた。
その笑顔に目を細めながら、彩花里は思った。
きっと、淳史と子供たちは、何度でも看板を立て直してくれるだろう。倒れても枯れずに立ち上がる、コスモスのように。




