第十一会 「その、花が選ぶ答えは」
「しない」
ささやくような少女の声がした。
その指を離れた白い花びらが、東屋の土間に舞い落ちる。
少女の指が、もう一枚の白い花びらに触れて、ためらいがちにその花びらをちぎる。
「する」
色もかたちも幼く薄い唇から、かすかにため息が漏れて。
「……しない」
残っていた最後の花びらが、ちぎり取られた。
少女は、茎だけになったマーガレットを、そっとごみ箱に落とした。
東屋の枠を額縁にした杜若の群落が、少女の輪郭を紫と緑で鮮やかに彩っていた。
「絢芽ちゃん」
彩花里の呼びかけに応えるように、その少女――羽津絢芽が顔を上げる。セーラー服の襟にかかる黒髪が、葉漏れ陽を吸い込んで艶を深めた。
「あ、彩花里さん」
絢芽は腰掛から立ち上がり、おひさしぶりですと言って頭を下げた。
半年会わなかっただけなのに、従妹の背丈はまた伸びていた。小柄な彩花里とは、もういくらも違わなかった。
どうしてここに、と言って首をかしげる絢芽を、彩花里は東屋の腰掛に誘う。日陰に入ると、浅緑色の江戸小紋の単衣に、細かな木賊模様が浮かび上がった。
「美術館のエントランスのお花を活けに来たの。そしたら、雄一郎伯父様と愛花伯母様から、絢芽ちゃんが来ているって聞いたから、ここかなって思って。それよりねえ、さっきのって、花占い?」
えへへ、と照れ笑いを浮かべて、絢芽は手に持ったもう一輪のマーガレットに目をやる。ネイビーのプリーツスカートの上に、白い花が鮮やかに咲いていた。
「中学生にもなっていまさらって、思うんだけどね」
彩芽の言葉と、湿り気を含んだ木と土の匂いが混ざり合って、彩花里の脳裏に古い記憶が甦った。
ここ羽津美術館の庭園は、都心にありながら喧騒とはほど遠く、ひとり静かに時をすごすのには、もってこいの場所だ。
人目も少ない場所だったから、彩花里もよくここでマーガレットを使った花占いをした。そのころはまだ、花弁の枚数が一定の摂理によってほぼ決まっていることなど知らなかった。ただ、回数をこなすうちに「すき」から始めれば、「すき」で終わるということに気がついた。それはまるで、世界の秘密を垣間見たかのように、彩花里の小さな胸をときめかせた。もっとも、数えきれないほど「すき」と出たにもかかわらず、占いの相手には思いを告げることもないままだったが。
「私も、よくやったよ。でもさっきのは、すき、きらい、じゃなかったよね。何を占っているの?」
絢芽が目を伏せて、マーガレットを両手で抱くように胸に当てる。セーラー服のスカーフを持ち上げる膨らみは、その内側に秘めたものを思わせるように豊かだった。
「うん。あのね、告白するかどうかなんだけど……」
そこで言葉を切った絢芽は、視線を泳がせた。それから、
「自分で、決められないから」と、細い声で告げた。それはたんに踏ん切りがつかない、というだけではなさそうな事情をうかがわせた。
「よかったら、やってみて」
彩花里の言葉に頷いて、絢芽はまだ花弁が揃ったマーガレットを手にした。そして「しない」と言って、花びらを一枚ちぎった。
「ちょっと待って」
彩花里の制止に、白い花びらをつまんだままで、絢芽の手が止まる。
「絢芽ちゃん、もしかして、ほんとうは告白したくないんじゃない?」
「わかる?」
「うん。花占いはふつう、好き、から始めるでしょう。でも、どうしてなの」
「あのね、好きになったのが、友達の彼氏なんだ」
憂いを帯びたまなざしを彩花里に向けながら、絢芽は言葉を選ぶようにゆっくりと話し始めた。
相手は、小学生のころから、気になっていた男の子だった。
都会の子にしてはめずらしく、木や花の名前をたくさん知っていて、いつも優しげな笑顔で彩芽に話しかけてくれた。
修学旅行の自由行動で、親友の女の子と、その男の子と三人が同じ班になった。短い時間だったが、華厳の滝や中禅寺湖の畔を、三人で観光して回った。男の子は、歴史の話や自然の話をたくさんしてくれた。ガイドや先生の話より拙くても、それは絢芽にとって、いちばん心に残る思い出になった。
それ以来、よく三人で遊ぶようになった。
中学生になって、自分が抱く思いが「好き」という感情だと気づいたときには、男の子は親友の女の子と付き合い始めていた。女の子は、絢芽から見ても可愛いらしい子で、二人はすごくお似合いだと思った。けれど、二人が楽しそうに話していても、かつてのように無邪気に加わることもできなくなったし、並んで下校する二人を見ると、胸が締め付けられるように苦しくなった。
「私も、あの子や彩花里さんみたいに、綺麗だったらなぁ」
絢芽が、ぽつりとつぶやいた。
「そしたら、彼が絢芽ちゃんに振り向いてくれるのかな?」
黒髪を左右に揺らし、わかってるよと言って、彩芽はマーガレットに目を落とした。
「でも、私が告白することで、今の関係を壊すのは嫌なの。ずるいよね、そんなの。わかってるんだ。だから……」
絢芽は、そこで口を閉ざした。
花占いにすがりたかった絢芽の気持ちを、彩花里は卑怯だとも幼稚だとも断じることはできなかった。誰よりも絢芽自身が、そのことに気づいているのだから。
彩花里は、花弁を一枚なくしたマーガレットに目をやった。
それはありふれた一輪のように見えたが、彩花里はすぐにそれに気づいた。そして、そんな花が選びとられていたことが、たんなる偶然だとは思えなかった。
「ねえ、絢芽ちゃん。私が言ってあげられることは少ないけど、したことに対する後悔より、しなかったことに対する後悔の方が辛いものよ。でも、ときには花占いに選択を委ねることも、必要なのかもしれないわね」
うん、と絢芽は頷いた。
「これで『する』って出たら、勇気を出してみるよ」
絢芽が、ひとつの花びらをつまむ。
「する」
花びらが減っていくたびに、絢芽の声が小さくなっていく。
しかし、花びらの残りが数えられるほどになると、絢芽もそれに気づいたようだ。見る間に、その頬に赤みがさしてきた。
「しない」
そして絢芽は、かすかに震える指先で、最後の花びらをつまんだ。
戸惑いと、嬉しさと。
そんな感情が入り混じったような絢芽のまなざしが、彩花里に向けられる。彩花里が笑顔でうなずくと、絢芽はその花びらをちぎった。
「するっ」
絢芽の指を離れた白い花びらは、薫風に乗って、梅雨の合間の青空に舞い上がっていった。




