第十会 「その、花とともにあるときは」
雛飾りを片付けた次の日、東京に名残の雪が降った。
庵の露地や植栽も、うっすらと雪に覆われて、その趣を一変させていた。表通りから聞こえるはずの音も、雪に吸われて消えたようだった。
わたしは、紬の作務衣に雪下駄を履いて露地に出た。さくりさくりという心地よい足音に誘われて、かろやかに歩を進めていた足が、待合の前でふと止まる。
蹲の上に咲いている紅白の椿が、雪を被って首をかしげていた。
この椿は、先代家元がこの場所に植えた二本のつがいのような低木で、寄り添うように伸ばした枝に赤と白の花を咲かせる。その愛らしい姿が、わたしは好きだった。
けれど、桃の節句が終わると、まるで示し合わせたかのように、両方の花が揃って落ちる。
先代といっしょにこの庵で暮らし始めてから、毎日のように露地で遊んだり手入れをしたりしてきたが、この椿が落花するところは見たことがなかった。気づいた時には、蹲の水面に二つの花が浮かんでいた。わたしは、それを見るといつも残念な気持ちになった。
一重の肉厚な花びらに、そっと指を添えてみる。落花は今日だと、花が教えてくれた。折よく、訪問の約束も来客の予定もない。
わたしは、この花につきあってみようと思った。
蹲の前に、籐の腰掛を置いて腰を下ろす。
吐き出した息に、清涼な空気がかすかに白く濁る。一瞬だけ椿の花が霞み、すぐに濃い緑の中に紅白の明瞭な輪郭を取り戻した。
先代――母は、よくこの場所に立ち止まっては、椿の花を見ていた。わたしには、けして見せない表情を浮かべながら。
いまから思えば、華やかではあったが穏やかとはいえない自身の境遇を、椿の名を負う女性の物語と重ねていたのかもしれない。けれど、母がどんな気持ちで椿の花を見ていたのか、わたしには想像することもできない。ただ、いつも近くにいてくれた母が、その時だけはとても遠くにいるように感じられた。そんなとき、幼かったわたしは、母の着物の袖を引いて甘えたものだ。そうすればいつも、母はわたしを優しく抱き寄せてくれたから。
陽射しが急にまぶしくなって、わたしは思わず目を細めた。
見上げると、空を覆っていた雪雲は消えて、青空が広がっていた。
暖かな陽光を浴びた雪が溶けて流れて、厚みのある緑の葉先に小さな雫を作る。すこしずつ膨らんだ水滴は、自分の重さに耐えられなくなると、葉の先からぽとりと滴った。
重みを失った椿の葉が、ほんのすこしだけ顔を上げる。
きらりと光った雫は、椿の花弁に当って赤と白の色を宿した飛沫を散らした。
一滴、また一滴。
椿の花がわずかに揺れるたびに、わたしの胸は震えた。いつまでも、このままであってほしいと願った。
しかし。
静寂の時を鳥の声が破り、ひときわ大きな雫とともに、椿の花は枝を離れた。
赤い椿と同時に、白い椿も落花した。
蹲の水面にふたつの円が広がり、赤と白の花が、ゆらゆらと揺れながら水面を漂う。
わたしは、思わず蹲に手を差し入れた。水面に波紋が広がって、浮かんでいた椿の花がくるりと回転した。
冷たい水が肌を刺す。けれど、わたしはその手を動かすことができなかった。 水面に咲いた椿の花に、どうしようもなく魅入られてしまっていた。
――この華を活けることは、わたしにはまだできない。
そう思ったとき不意に、先代が好きだった言葉が脳裏をよぎった。
落花流水。
それは、男女がおたがいを思い合う心。けれどそれは、ゆく春の情景であり、過ぎる時への惜別でもある。だから……。
『どんなときも、美しさとともにありなさい』
先代は、あでやかに微笑みながら、それがわたしたちの務めなのだから、と告げた。その黒髪には、赤い椿の髪飾りが鮮やかに咲いていた。
わたしは、あっと声を出しそうになった。
蹲に浸していた手を、そっと持ち上げる。掌が椿の花を掬い上げ、花の涙のように滴った水滴が、紬の作務衣の袖を濡らした。
寝間に戻って、箪笥から江戸小紋の訪問着を取り出し、沈香を焚き染める。
作務衣を脱いで黒漆塗りの鏡台の前に座ると、鏡の中から年齢よりも幼く見える顔がこちらを見つめ返していた。
化粧道具を取り出し、丁寧に下地を整える。できるかぎり薄く、そして自然に。筆で眉を描き、最後に、唇に紅を差す。鏡の中で、わたしが化粧の下に消えて、代わりに華道花心流家元の水無瀬彩花里が現れた。
彩花里は、その顔に微笑みを乗せてから、沈香が染みた江戸小紋に袖を通し、髪に椿の飾りを着けた。
釜の湯がたぎる音が、茶室に広がり、そして消えていく。
床に目を向けると、紅白の椿を浮かべた織部の水盤があった。
薄茶を点てながら、彩花里は今日という日をかみしめる。
椿の花とともに、過ごした時間を。花が枝を離れ、赤と白の軌跡を空中に描いて蹲の水面を揺らせた瞬間を。そして、そのときどきに抱いた感情の意味は、これから知っていかなければならないのだということを。それは楽しみであったが、同時に不安でもあった。
けれど、と彩花里は思う。来年もまた、あの椿の花と向き合おう。そのとき、あの花はどのように見えるのだろうか……。
彩花里は、紫檀の硯箱を取り出して墨をすり、手漉き和紙の半紙を広げた。そして、ひとつ息を整えてから、楷書をしたためた。
終筆の払いを終えて、彩花里は筆を置く。
「落花流水」
ささやくように読み上げて、彩花里は姿勢を正す。その胸元で、江戸小紋がするりと衣擦れの音を立てた。




