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第一会 「その、花の命を」

 

「桜を、活けるのですか」

 思わず問いかけた彩花里(あかり)の目前で、その男は深い皺が刻まれた顔をすこしだけ俯けて頷いた。男は、地味だが仕立ての良い三つ揃えのスーツを、寸分の隙もなく着こなしていた。その身だしなみからは、長年にわたって染み付いた風格のようなものが滲み出しているように見えた。

「大切な桜なのだ。だが、もう寿命でね。来年も咲くかどうか、わからないのだ。だから、最後のその花でもてなしたい人がいる」

 桜は、剪定されることに極めて弱い木だ。切った枝もそうだが、切られた木の方もそこから痛んでしまう。最近でこそ生け花にする人も増えてきたが、やはり屋外で鑑賞するべき花だろうと、彩花里は思う。

 答えを出しあぐねている彩花里の着物に目をとめた男は、ふっと息をついて目尻をわずかに下げた。

「見事な江戸小紋だ。それは、たしか先代がお召しだったものでは?」

「はい。母から、仕事とともに譲り受けたものです」

 彩花里の母親でもある先代家元は、多方面に人脈を持つ人物だった。家元を継いだ彩花里の最初の客としてやってきたこの男も、母からの紹介だった。挨拶のときに差し出された名刺には、塩野弥三郎(しおのやさぶろう)という名前とともに、有名な製薬会社の会長という肩書きがされていた。

「やはりそうですか。これはどうあっても、貴女にお願いしたい」

 名も功も遂げた人とは思えないほど、謙虚なものごしだ。相当の人物であることは、彩花里のような若輩者にでも丁寧に接するその態度から、じゅうぶんに伝わってきた。正直言って、彩花里にはまだ荷が重い仕事のようだったが、やってみたいという思いが不安をすこしだけ上回った。

「わかりました。未熟者ですが、心を尽くして務めさせていただきます」

 彩花里は、座敷の畳に指先をついて承諾の礼をした。


 その桜は、スカイツリーを遠くに望む、高層ビルの谷間にひっそりと立っていた。

 樹齢は三十年ほどに見えたが、その寿命はすでに尽きかけていた。幹の木肌は干からびていて、手を当てても生気を感じられなかった。けれど、彩花里の背よりすこし低いところからは細い一本の若い枝が伸びていて、淡い紅が差した花弁を重ねた愛らしい八重の花をつけていた。

「平野神社の手弱女(たおやめ)桜ですね……」

 それはたぶん、いや間違いなく、この桜の木の最後の花だろう。

「これを切ってしまったら、もうこの木に花は咲かなくなります。それでも、よいのですか」

 彩花里の問いに、塩野は土気色をした顔を俯けるようにして頷いた。

「挿し木でここに根付いたものだが……もう、いいのだ」

 桜の木に一礼をした彩花里は、花鋏を懐紙で清めてから細いその枝に当てた。意識を集中すると、枝に濃いピンクの線が浮かび上がった。

 彩花里は、過たずにそこに鋏を入れる。

 ぱちん、と小さな音がして、古木の命を宿した枝は断ち切られた。

 切り口を湿らせた脱脂綿で素早く包んでから、彩花里は塩野に向き直った。

「では、明日の午後、庵においでください」

 彩花里の言葉に、塩野は黙ったまま固い表情で首肯した。


  挿絵(By みてみん)


 塩野は、約束の時刻ちょうどにやってきた。のどかな春の午後には不似合いなダークスーツの腕には、ちいさな白い布の包みがあった。

 掃き清めた露地を先導して、茶室に案内する。

 ちんちんと幽かな音を立てる釜を間に置いて向かい合うと、室内を見回した塩野は意外そうな表情を浮かべた。

「桜は?」

 花心流の奥義である花一会を催すために、彩花里は茶室からすべてのしつらえを取り去っていた。床にも壁にも、ひとつの飾りもしていない。いまここにあるのは、塩野と彩花里と、もう一人の客と、そして消えゆく間際の命がひとつ、ただそれだけだった。

「お気づきになりませんか」

 彩花里は、振袖の袂を押さえながら、それを指し示した。床に置かれた織部の茶碗、鹿沼土に挿した桜の小枝を。

「根付く可能性は、とても低いけれど……」

 彩花里の言葉を、怒気をはらんだ塩野の声が遮った。

「花はどうしたのだ。活けて欲しいと、頼んだはずだが」

 気色ばんだ塩野を、彩花里は静かに制した。

「お湯が、良い具合に沸いてきました。もうお一人のお客様にも、おいでいただけますか」

 憮然とした表情のままで、塩野は手に持っていた布包みを開いた。そこには、予想していたとおりの物があった。上等な黒檀の位牌だ。

「奥様ですね。今日が、三十回目のご命日では?」

 彩花里の問いに、塩野は頷く。なぜそれを知っているのか、と言わんばかりの表情だ。

「お招きするお客様のことを知らずに、花一会は催せませんので。……あの桜が植わっている場所は、京都から上京してきたあなた方が、最初に住まれた場所ですよね」

 その言葉を聞いた塩野の眼差しが、ふっと宙を彷徨った。


 妻と二人、駆け落ち同然に東京に出て来た。

 まともな仕事もなく、暮らしは厳しかった。

 たった一間の借家の庭に、妻は一本の八重桜を植えた。それは初めて二人で見た桜を、挿し木で根付かせたものだった。いつか、この桜をまた一緒に見よう。それだけが、苦しい生活の気持ちの支えだった。

 しかし、もともと身体が弱かった妻は、その花を見ることもなく、この世を去った。その喪失を埋めるために、始めたばかりの薬の行商にひたすら打ち込んだ。

 そして今の成功を手にしたが、気付けばもう後戻りのできないところまで来てしまっていた。失ったものは、結局取り返せなかった。

「……いまさら、挿し木で命を永らえたところで、もうその花を愛でる者はいなくなるのだ。私も、もう半年も持たない、と医者から宣告されたからな。誰からも忘れられ枯れてしまう花ならば、いっそ心ある人の手で摘み取られて果てた方がよい。そして、今生の名残に、妻と二人でその花の最期を愛でようと思ったのだ。それを……」

 悔しそうに俯く塩野に、彩花里は静かに語りかけた。

「これから、あの桜を『活け』ます。どうか、心静かにお待ち下さい」

 彩花里は、棗の蓋を開けて、それを取り出す。白磁の茶碗に注いだ白湯にそれを浮かべ、楊枝で形を整えた。湯気に混じって、ほのかな花の香りがした。

 塩野は、白湯に浮かんだ八重の桜花を見て、静かな声でささやいた。

「桜茶……か」

「はい。これが、今日の花一会のすべてです。花も人も、命は巡るもの。摘み取って愛でるものではありません。でも、どうしても失われる命であるなら、せめて貴方の命の一部になさってください。いつか、貴方の命が、もっと大きな命の一部になるのと同じように」

 塩野は、弾かれたように顔を上げると、茶碗に口をつけた。そして、茶碗の中に咲いた一輪の命を飲み下すと、深く長い嘆息をした。

「ありがとう、御家元。もし……いや、来年の春になったら、またこの桜茶をいただきに来ても、いいだろうか」

 背負っていた重荷を下ろしたような安堵の表情が、その顔に浮かんでいた。

 彩花里は、両の掌を畳につけて、深く静かにお辞儀をした。

「はい、お待ちしております」

注:作中のイラストの著作権はユズキさんにあります。

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