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愛しのアニー

作者: 吉野華

僕はずっと彼女のことばかり考えていた。

騎兵隊の一員として北の戦場を目指すさなか、枯れ野を、冬の峡谷を、吹雪の峠を進んでいく死への行軍のさなか、僕のかじかんだ凍える手が思い出すのはアニーの、僕のアニーの柔らかな手触りばかりだった。

そしてアニーの笑顔。

君はそばかすだらけの顔や赤毛を恥ずかしがっていて、僕と見つめあってくれるようになるまでには随分時間がかかった。そのことを、後になって君は随分申し訳なさそうに話していたけど、僕はそんな君だからこそ好きになったんだって、君にちゃんと伝えられていただろうか。

僕は、いつも何だか自分の気持ちを正直に話すことが照れくさいことのような、子供じみているような、まるで弱い者のすることのような気がして、何だか誤魔化してしまうことが多かった気がするよ。アニーは、いつもそんな僕を笑って許してくれていた。だから僕はつい調子に乗って、男とはそういうものだなんて言い訳をして、ちゃんと君と向き合うってことを避けてばかりいたんだ。

だけどもし、僕がもっと君の気持ちを考えてあげられる男だったなら、アニーはあんなふうに困った表情を僕に見せることはなかったんだろう。いつだって、君の泣き出しそうな大きなブラウンの瞳が、僕の胸を締めつけるんだ。

ねえアニー、いま僕の胸の中に浮かぶのは後悔ばかりだよ。

僕はいつしか自分の人生が上手くいかないことを、君のせいだと言わんばかりの振る舞いをするようになってしまっていた。強情を張って、大声を出して君を怒鳴りつけて、つまらない理由で男のプライドを傷つけたなんて言いがかりで僕が怒り出すとき、アニーはいったいどれほど悲しい思いをしていたんだろう。

連日のようにラジオや新聞紙面は王国北部の国境戦争に関する報道を欠かさなかった。戦線が激烈を極めていることを理由に、召集令状が軍人ではない一般の成人男性に届き始めている頃、僕たちは行きつけのレストランでささやかな婚約式を行った。

幼い頃から生粋の小作人である僕と、町の学校の優秀な教師であるアニー。傍目には、まるで二人は不釣り合いに映っただろう。

だけどアニーは白いワンピース姿で僕に微笑みかけてくれた。

「ああ、アンソニー、わたし、世界一の幸せ者だわ。貴方を愛しているわ」

僕のほうこそ、世界一の幸せ者だって言いたかったのに、愛してるって微笑って人目も憚らずに君を抱きすくめたかったのに、集まってくれた人たちの手前、農民の僕のほうが彼女にぞっこんだなんて知られたくなくて、僕はそんなことすらしてあげなかった。

亭主関白を気取って、僕が彼女を征服したんだってことを彼らに喧伝することにばかり気を取られていたんだ。

仕方がないから結婚してやるという最悪の態度だった。

僕に召集令状が届いたのは、その三日後のことだった。



リドブルグ王国軍に所属することになった僕は、僅かの戦闘訓練の末、馬を操れるからなんていうだけの理由で騎馬兵部隊に配属されることになった。それだけでも、この国の戦況が非常に不利で、軍がどれだけ疲弊しているかということを示していた。

国境争いが発展しての大規模な戦争は、かれこれ二年目に突入しつつあった。

敵対するボークス王国は大陸北方の雄とされる大国で、有数の魔法王国としても知られている国だった。当初はリドブルグみたいな小国は物の数にも考えていなかったのだろうが、この戦争は彼らにとっても予想外なほど長引いてしまっていた。近頃では戦争を終結させる目的で、ボークス陣営は彼らの主力部隊である魔術師部隊を戦線に投入しつつあった。

ボークスの魔法使いの中には、一瞬で数百という人間を灰にすることができるほどの実力者もいるという。

そして魔法に対して何等有効な対抗策を持たないリドブルグ王国が、僕らのような民間から召集した騎馬兵部隊に充てた役割は、所謂捨て駒というやつで、丸腰で魔法を詠唱する敵の主力部隊に突撃を敢行するということだった。

不運にも厳しい冬の季節に令状を受け取り、遠征の果てに北の戦場に到着した僕らは、休憩も、痩せ馬の手当てもそこそこに、既に草の根さえ残らない有様となっている国境ゼンビア平原にて隊列を組まされた。

逃亡者は銃殺に処すという教練指導官の恫喝が、気弱で善良な民間人である僕らの脆弱な思考を停止させることに大きな役割を果たしていた。

足もとには前日の戦闘の犠牲者と思しき屍骸が無数に横たわり、ここに比べたら死刑場さえ天国に思えるだろうと僕は他人事のように考えた。

初冬のあの絶望的な曇天の下、突撃のラッパが吹き鳴らされ、僕は百十三名の運命を同じくするはめになった仲間たちと共に、既に疲れ切った下士官の背中を追ってただ馬を駆った。そこらじゅうに満ちていたのは激突する不快な金属音と血の匂い、狂気のような怒号と戦歌と人馬の大群が縦横無尽に戦場を行き交い、戦場は既に混乱の様相を呈していた。流れ矢や、側面部から現れた敵陣の遊撃部隊の追撃に心底怯えながら、僕は手綱を握り締めてアニーのことを考えていた。アニー、君のことばかりを。

もっと君に優しくしてあげればよかった。

僕がこんな恐怖を味わうはめになったのは、口答えをしたなんて理由で君の頬を撲つなんてことにさえ何の罪悪感も持たなかった僕への神罰なんだろう。思い通りにならない相手を暴力で制するなんてことが、ましてや抵抗さえままならない女性相手にそんなことをするっていうことが、どれほど残酷で醜く、愚かなことであるかを僕に思い知らせるための神様からの罰なんだろう。

たとえばあの鬼のように気の強い、筋肉の塊のような大柄な指導官を、アニーにしたように突き飛ばす勇気なんてないくせに、アニーを屈服させることで力強い男になったような気がしていた僕は本当に最低の男だった。

「目標の魔法師団確認! 突撃用意!」

僕らを率いる下士官の号令が聞こえた。前方の丘には確かに魔術師と思われる数十名と、それを護衛するための膨大な数の兵士や騎士の姿が見えた。魔術師自体はいかにも体力とは程遠い風貌の者ばかりで、中には年端のいかない子供の姿まであったが、周りを固める戦士たちはいかにも屈強で、とてもあれを突破して魔法使いたちを駆逐することができるとは思えなかった。

実際、僕らの突撃は失敗に終わった。

全速力で進軍する僕らの存在に気がつくと、魔術師を守る連中は一斉に僕らに向かって馬を走らせて来たし、馬を持たない者も各々の武器を手に何としてでも僕らの生命を削り取ろうと切り込んできた。しばしの乱戦。戦闘に関してまったくの素人である僕らの部隊が手練の彼らを相手にできる道理はないことを知っている僕らの班長は、死んでもいいから目標に向かって突撃することだけを繰り返し叫んでいたが、もうこれ以上は耐えられないと後方の何人かは早々に戦場から離反しようとしていた。

そこへ、例の魔法使いたちからの魔法攻撃というものが照射された。何が起こったのか分からないが、一瞬激しい光が起こったかと思うと、僕らの部隊の半数はもう激しい炎に巻かれて燃え上がっていた。暖炉にくべられた枯れ枝のように、あえなく炎上する仲間たち。体内の水分が蒸発し、油が爆ぜて、真っ黒な煙を上げながら人体が急速に炭化し縮れていく地獄の有様だった。

それを見た僕は言葉を失い、我を失い、恐怖に青ざめて、もうどうしてもこの場所から逃げ出そうとして馬の尻を叩いたのだけれども、そのときには僕の馬は既に何本もの槍を突き立てられて絶命していた。

間もなく僕は地面に叩き落され、激しく背中を打って地面に横たわった。恐怖と、呼吸困難のために身動きが取れない僕にとどめを刺すために、何人もの敵の兵士たちが僕の周りに集まってあの灰色の冬空を覆った。彼らは僕の顔面や心臓や腹部を狙って複数の剣や槍を次々と突き下ろしていった。次々と、躊躇うことなく。

まるでバーベキューのとき、肉の塊を串刺しにするみたいに、躊躇いなく。

そのまま僕の世界は永遠の暗闇に閉ざされた。

でも僕は、きっと生きては帰れないであろうことを最初から覚悟していたつもりだったし、ああ、これでやっとこの恐ろしい場所から立ち去れるってことを思って、恐怖の次に沸き起こった感情は何と言っても安堵だったんだ。

これが悪い夢だったらもっとよかったんだけど、きっとそうではないだろうということは分かっていた。何と言っても寒かったし、痛かったし、悲しかったからだ。

アニーにもう二度と会えないことが悲しかった。

ねえアニー、本当は、僕は君のことが大好きだったんだよ。

君よりも、僕のほうが君のことを大好きだったんだよ。

君と結婚できることになって、いちばん嬉しかったのは僕だったんだよ。



先刻から、僕を呼ぶ声がしていたことには勿論気がついていたけど、僕はいつまでもその静かな深い眠りから目覚めようとは思わなかった。

何しろ、僕の心は深く傷ついていたからだ。

幼い頃から生粋の小麦畑の小作人である僕には、他人に誇れるような学がなかったので、中心街の大衆酒場に集まるちょっと気取った連中が話しているような世の中の難しいことは何も分からなかった。

僕は多くの地方農民たちが数百年も昔からずっとそうだったように、新聞の見出しを読むどころか、自分の名前を書くことさえやっとのことだった。

そもそも自分を取り巻く社会の情勢になどまるで関心がなく、自分はただ、親や、更にその親たちがずっとそうして来ていたように小麦や野菜を育てることだけ考えていればいいと思っているような男だったんだ。

僕は人生が最初から最後まで春風のように平穏で何事もないことを心から望んでいる小市民に過ぎなかった。

僕はただ、ただ静かに暮していたかっただけだったんだ。

町の学校で教師なんかやっているアニーに出会いさえしなければ、僕は自分がこれほどまでに愚かだって現実に気づかずに人生を送ることができていたはずなんだ。

彼女に恋さえしなかったら、こんなに胸が苦しくなることだってきっと永遠に味わわないで済んだだろう。

彼女の周りには鼻持ちならないインテリ男たちがたくさんいた。気取った帽子を被って、仕立てのいいスーツを着て、偉そうに高価な葉巻なんか燻らせて、愚にもつかない政治や経済の話を熱心に、さも楽しいことであるかのように話し合っていた。アニーが彼らの話を聞きながら、彼らと同じタイミングで笑っているのを見たとき、僕がどれほど惨めだったかアニーはきっと知らなかっただろう。

確かに僕はアニーをたくさん傷つけたけど、アニーだってそうやって僕を傷つけていたんだ。誰にも非難されない巧妙なやり方で、僕が無能な男だってことを嫌というほど僕に思い知らせていた。

「あのさあ、だったら、なんで別れなかったんだ?」

僕の頭上でさっきから聞こえる声の主が言った。

「戦争に行くのを契機に、彼女のこと解放してやりゃよかったじゃん。そんなにムカついてんなら」

「……」

「ま、どうせおまえが戦場で死んだのをいいことに、彼女はインテリで金持ちな男と結婚して幸福な人生を送っただろうさ。彼女に相応しい知性を備えた優しい男とね」

その言葉を聞いて、僕はいたたまれずに恐る恐る顔を上げた。

もう随分長い間、この暖かい場所でまどろみながら、もしかしたら僕は死んだんじゃないかと疑っていたんだけど、いよいよそれが本当なんじゃないかということを聞いて怖くなったんだ。

久しぶりに身体を起こして辺りを見まわしてみると、あの呪わしい戦争も、凍える冬ももう何処にも見当たらなかった。代わりに、目の前に広がっていたのは春だ。気持ちのいい太陽の光、緑あふれる草原と、晴れ渡った青空がどこまでもどこまでも続いている。

そして僕のすぐ側には、真っ白な服を着た美少年が立っていた。驚くべきは、彼の背中には純白の翼があったってことだ。

ということはやはり、僕は死んでしまったということなんだろうか……。

その美少年は僕と目があうと、こちらが釘づけになってしまうほど美しいその顔を、愛らしく微笑ませた。

「いつまでも現世にしがみついてんじゃねえぞ、このクソ野郎。

てめえのせいで、こちとら課題が遅れてんだ。アニーとおまえの子供として生まれる予定だったのに、おまえがグズグズしてやがるせいで生まれ損なったんだぞ。

今度こんなことをやらかしたら、ぶっ殺すぐらいじゃ済まさねえからな。おまえのあそこを毟り取ってやる」

彼の口の悪さは、天使様の降臨に感動する間を僕に与えなかった。

「え? 天使?」

「まあな」

「僕とアニーの子供に生まれる予定だったって? 本当かい?」

僕の質問に、天使はもったいぶって腕組みをしてから横柄に答えた。

「そうだ。だがおまえがグズだったために生まれられなかった。

なあアンソニー、生まれるっていうのはなあ、本当に大変なことなんだぞ。随分前から計画して、よっぽどタイミングを見計らって、やっと赤ん坊の身体に入り込んで人生を始められるんだ。

父親なんてのは、ただ種を仕込むだけで、妊娠の負担もないし楽なもんじゃねえか。女のご機嫌とって、ちゃっちゃと済ませてくれりゃあよかったものをよ」

「ああ、うん……」

「まあ、終わっちまったことは仕方ない。と言うわけで、行くぞグズ」

そして天使はいきなり遠慮なく僕の腕を掴むと、そのまま大空へ飛び立とうとした。僕は慌てて両足で大地を踏みしめ、彼を引きとめた。

「ちょっと待って、どこへ行こうって言うんだ?」

すると彼は振り返りざま呆れたように肩を竦めた。

「おいおい、天国に決まってるじゃねえか。

アンソニー、おまえはもうとっくに死んでるんだぞ。いつまでもここにいたところで何になるんだよ。

おまえのおかげで、こっちはまた最初から計画を練らなきゃならないんだ」

「だけど死んでるって言っても、実感がわかないよ。

だってほら、僕は元気だし、身体だってちゃんとあるし」

僕はそう言って、自分の胸や腹、それに足を触ってみせた。僕の身体は透き通ってもいなかったし、病気でもなく、バーベキューの肉のように扱われたことが嘘のようにどこにも怪我だってしていなかった。服装は野暮ったい軍服のままだったけど、どこかが破れていたり、汚れていたりすることもなかった。

「おまえの実感なんか俺の知ったことか。

おまえの地上の肉体はとっくに雨風に晒されて、さもなけりゃ動物に喰われるかして土に還ってる事実があるだけだ。

おまえな、おまえが死んでから五十年経ってるってことを忘れんなよ。もしおまえが本当に生きてるってんなら、おまえは今頃きっちりジジイになってるはずだろうが」

「五十年だって? まさか、そんな馬鹿な。

だって僕は、ほんの数日休んでいるだけだと思っていたのに」

「おいおい、時間の流れが必ずしも一定だなんて思ってるんじゃねえぞ。それは地上と天国ってな意味だけじゃない。同じ時代を生きている同種族の個人の中に流れる時間でさえ……、ま、おまえみたいな馬鹿には、言っている意味さえ分かんないだろうけどな」

「……いいよ。どうせ僕には学がないんだ。難しい話は分からない」

「そういうところが了見が狭いって言ってんだよ。

なあアンソニー、そいつはおまえの悪い癖だ。

そうやって不必要に卑屈になるな。心配しなくても、おまえは正真正銘素晴らしい奴だ。

大丈夫。おまえは本当は、他の連中に負けないだけ頭だっていいんだよ」

「……慰めてくれてるのか?」

「事実を言ってるだけだ」

「天国は、こんな僕を受け入れてくれるのだろうか……」

「天国の門は常に平等に開いてるよ。さあ、行くぞ」

そして再び僕の腕を掴み、青空に向かって飛び立とうと翼を広げる彼の腕を、僕は逆に掴んで引きとめた。大人である僕よりも少年の彼の身体はやはり軽く、彼はバランスを崩して地面に頭から墜落しかけ、振り返ってから激しく僕を睨んだ。

「この馬鹿野郎、何なんだよおまえっ!」

「ちょっと待ってくれよ。アニーは……、アニーはどうなったんだ?

天国へ行く前に、僕は彼女が今どうしているか知りたい……、できれば、もう一度会って話がしたい」

「無茶を言うなよ、さっきも言ったろ、アニーは他の男と結婚して幸せになったんだよ。

はっきり言ったらおまえが傷つくかと思ったからちょっとぼかしたけど、おまえが戦死したって報せがあった後、彼女は町の有力者の息子と結婚したんだ。インテリの金持ちだよ。

そいつはアニーのことをずっと前からいいと思っていて、恋人が死んで悲しんでいた彼女を慰めていたところから交際が発展したようだ。おまえと違って、理性的で穏やかな男だよ」

「そうか……、じゃあアニーは、幸せになったんだな。

僕と結ばれるよりもずっと……」

「ああ、その通りだ。分かったら、もう行くぞ」

「分かった。だけど……、だけどその前にやっぱりもう一度彼女に会いたいよ。

僕らのことを、まるでちっとも大した問題じゃなかったみたいにこのまま終わらせてしまうなんて嫌なんだ。

このままアニーと離れてしまうなんて嫌なんだよ。

天国へ行く前に、一目でいい、遠くからで構わないから、会って一言謝りたいんだ―――」

「あっ、おいっ、あんまりワガママ言うもんじゃねえぞ、大概にしろ、コノヤロー!」

僕は両手を振り上げて怒る天使を背にして、全力で走り出した。あの絶望的な冬の日、馬の背に揺られながら行軍した道を僕は風になって戻って行った。天使の言う地上の肉体ではないこの身体は、自分の意思を思い通りに反映させて好きなだけ進んで行くことができた。春の息吹にあふれる峠を、新緑の芽吹く峡谷を、無限に広がる夢のような野原を、僕は流れるように戻って行った。

アニー、僕はこんなふうに君のもとに帰っていくことを、まったく夢見なかったわけじゃなかったんだ。きっと死んでしまうだろうと思いながら進んだ灰色の行進、だけど本当は君のところへ生きて帰って、君にプロポーズをすることを想像してみたりもしていたんだ。

ねえ、僕は、繰り返し考えていたんだ、君と一緒に暮らす平穏な日々のことを。

子供たちに囲まれて、たとえ裕福ではなかったとしても、毎日笑顔があふれる家庭、僕は君に気味悪がられるほど優しくして、二人で幸せいっぱいに年をとっていく退屈な人生のことを。

アニー、僕には至らないところが多すぎて、思い返せば思い返すほど死にたくなるほど罪悪感に苛まれるよ。

もし君が僕のことを許してくれなかったとしても、でも許してくれるまで謝り続けたら、君はもう一度僕と出会ってくれるだろうか。もう一度僕に微笑みかけてくれるだろうか。

アニー、愛しているんだ、君だけを。

僕は、君でなくては駄目なんだ。



そして僕は、あの懐かしい中心街のはずれの君の家の前に辿り着いていた。

インテリの金持ち男と結婚をしたのなら、この小さな家に君が住み続けていることはないだろうと思ったけど、僕は幾らか風化した白い木製のフェンス越しに、注意深く前庭を覗き込んでみた。

庭にはさっそく赤毛の少女がいて、僕はそれが一瞬アニーなのではないかと思って心臓が止まるかと思ったけど、僕と婚約した当時でさえ二十二歳だったアニーが、現在ティーンエイジャーであるはずがなく、すぐにそれは別人であるということが分かった。

彼女はそよ風に誘われるように、さもなければ何かを感じたとしか思えない敏感さで僕のいるほうを振り返ったが、彼女の目に僕の姿は映らないようだった。

不思議そうに虚空を見つめる少女の、アニーと同じ色合いの赤毛と、あの大きなブラウンの瞳は、見つめれば見つめるほどアニーによく似ていて、僕を微笑ましくも複雑な気持ちにさせた。

だってアニーは、僕ではない他の男性と結婚をし、結ばれ、彼の子供を産んで、彼と人生を歩んで、いま僕の目の前にいるのは恐らくはアニーの子供の子供であろう少女なわけだ。

少女の透き通った白い肌に、アニーのそばかすは見当たらなかった。

僕の介在しないアニーの人生のすべてを目の当たりにさせられたようで、僕は気持ちが幾らかしぼんでいくのを感じていた。あの天使の言う通りにしていれば、知らなくて済んだ現実がそこにはあった。

「マリー、どこにいるの? お母さんが呼んでいるわよ」

不意に、年老いた女性の声がした。

「あ、はあい、お祖母ちゃま」

マリーと呼ばれた少女は、その指示に従って前庭から小さな家の中に元気よく入って行った。

代わりに庭に現れたおさげ髪の女性、彼女がいったい誰であるのかを、僕は一目見ただけではっきりと理解することができた。

彼女はアニーだった。

あれから五十年の年月を経た彼女は随分年をとって、白くなった髪、曲がった背中、深い皺の刻まれた顔、それでも僕のアニーの気品だけは、若い頃と何も変わっていなかった。

何と声をかけていいか分からなくて、僕は立ち尽くした。

アニーは庭の肘掛けつきの木の椅子に深く腰かけて、すぐ傍に僕がいるということに気がつきもせず、ゆったりとした姿勢で太陽の光や、庭の香木や、木々の間を流れていく春風を楽しんでいる様子だった。

「意外とショックを受けてないな」

先ほどの天使の囁きが背後から聞こえた。

「おまえみたいな直情的な奴は、すっかりヨボヨボになったかつての恋人を見て、幻滅しているか卒倒しているかしていると思ったぜ」

「失礼な、そこまで人でなしじゃない」

「どうだ、これで満足したか」

「彼女には話しかけられないのか?」

「だから、無茶を言うなよ。普通の人間は、死んだ奴の姿なんて見えないし、声だって聞こえやしないんだ」

「謝りたかったんだよ……」

「うん」

「愛しているのに、泣かせてばかりだったんだ。

それに、守ってあげられなかった」

「うん」

「ごめんなさいって言いたかった……」

「ああ。分かってる。

俺にはどうしてやることもできないけど……、せめて心の中で、そう言ってやれ。

言葉にはならなくても強い想いってのは、案外伝わったりするもんだから」

それから僕は、少しの間アニーを想って泣いた。

「なあ天使君、アニーは……、彼女は本当に幸せだった?

相手の男はさ、彼女のことを……大切にしてくれた?」

「んー、微妙」

「微妙? 何だよそれ?」

「まあ、愛していたみたいだけど、傍にはいられなかった感じかなぁ」

「傍にいられなかっただって? 僕のアニーと、結婚しておきながらかい!?」

「んー、いや、結婚はしなかった。できなかったっつうか……」

天使の証言に、僕は相手の男に対して猛烈に腹を立て始めていた。僕のアニーを大切にしなかったなんて、それがどういうことか、僕はもう少しで天使の胸倉を掴んででも事と次第を吐かせるところだった。

だけどその前に、天使はアニーのほうを指差した。庭先にいるアニーのところには、いつの間にか品のよさそうな金髪の中年男がいて、二人は何やら話をしていた。

「母さん、こちらにいらっしゃったのですか。

幾ら暖かい季節になったとは言っても、母さんは病み上がりなのだから、あまり無理をされては身体に障りますよ。昨夜だって、熱を出されていたことをお忘れですか」

「ありがとうアンソニー、でも平気よ。

今日はとても気分がいいの。だって、本当に素敵な夢を見たんですもの」

「夢ですか?」

「ええ、そうよ。貴方のね、お父さんの夢を見たの。

彼は若くて、それに相変わらずとってもハンサムだったわ。

明るくて話し好きで、とてもお洒落で……いつでも大勢の友だちに囲まれていた。彼を知っている娘たちは、みんな彼に熱い眼差しを向けていたものだったの。

わたしは勉強ばかりしている地味な娘だったから、きっと相手にされないだろうって諦めていたけど……それなのに、あの日、声をかけられたのよ。角の雑貨屋で。あの錆びた看板のお店のことよ。わたしはバスルームを磨くためのたわしを選んでいるところだった。そのときはね、青いスカートをはいていたわ、随分時代遅れの。それに顔にはそばかすがいっぱいで……少しもお洒落なんかじゃなかったのよ。美人でもなかった。きっと可愛げもなかったわ。

それなのに彼はわたしに声をかけてくれたの……。

だからあのときは本当に、夢を見ているのじゃないかって何度も思ったものだったわ。さもなければ、からかわれているのじゃないかって。罰ゲームじゃなかったかしらって。

でも、それでも構わなかった……家に戻って、その場面をね、繰り返し何度も何度も心の中に思い描いたの。もし夢だったとしても、決して忘れたりしないために。

あのひととわたしの人生が始まった日のこと。幸せと不安でいっぱいだった頃の……その夢を見たの」

「母さんは、今でも父さんに夢中なんですね」

「ええ、勿論だわ」

「僕は父さんにはお会いしたことがなかったけど、母さんの話からすると、それは魅力的な人だったんでしょう」

「ええ、とても魅力的だったわ。

何しろ彼には、人の輪の中にいても目立つ何かがあったの」

「ハンサムだということ以外に?」

「ええ、そうよアンソニー。ただ少し、怒りっぽいのが玉に瑕だったけど。

でも彼は本当に魅力的だった。彼と一緒にいると楽しくて、嬉しくて……、わたしは物語の中のヒロインにさえなれるような気持ちがしたの。

だってわたしは、どんな群集の中にいてもひと目で彼のことを見つけ出すことができたんですもの。これはとんでもない魅力でしょう?」

「確かに…、ええ、そうですね」

そしてその中年男は優しくアニーの言葉に同意し、彼女に微笑みかけた。

僕は、呼吸をすることも忘れたまま天使を振り返った。

すると天使はしたり顔で何度か頷き、こう言った。

「まあつまり……、アニーが他の男と結婚したなんてのは俺がさっき思いついた嘘で、実際はアニーは生涯、誰とも結婚せずにおまえのことだけをずっと愛していましたってことさ。

そんで、あの中年アンソニーこそ間違いなくおまえの息子。

婚約式の後の夜のことは、勿論憶えがあるんだろ?」

「ま、まあなっ」

「このことを知ったら、おまえがますます現世に執着しそうだったから内緒にしとこうかと思ったんだけど、ま、見ちまったんだったらしょうがないってとこだ。よかったな」

「でもさ待ってくれ。

あの人が僕の子供だって言うなら、じゃあ、君はいったい……?」

「俺? ……んー。

俺はと言うとだな……、もし、アニーとおまえの進展が早くて、間にあったらという条件つきで、アニーとおまえの次男に生まれることになってたんだ。あの出来のいい兄貴はアニーの人生にとって絶対欠かせない騎士役だから、その後にもし余裕があったらってことでさ。

上品な母さんと兄貴の平穏な日常を引っ掻きまわす、甘ったれの、愛すべき父親によく似た次男坊ってのがいても楽しそうだろ?」

「うん……そうだね、すごく楽しそうだ……」

「アニーって、すんごく可愛い女だから、前から目をつけてたんだよ。

俺の母さんになって貰ったらいいなあって、思ってたんだよね」


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― 新着の感想 ―
[一言] 初めまして。アニーさんを愛しているのが、よく伝わり、素敵な作品ですね。  後悔ばかりするアンソニーさんが、逆に可愛く感じました。  天使さんの子生意気な話し方も面白く、死んでも様子を覗きに…
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