狩人の罪
以前、短編舞台悲劇の脚本として書き、没になったものです。そのまま闇に葬るのも勿体無いと思い、小説に直して投稿することにしました。
視界も霞むような強い吹雪の夜。見渡す限りの白で埋め尽くされた山の中に、木造の山小屋が建っていた。
内装は七、八畳の広さで、木張りの床と壁。屋内の真ん中に囲炉裏。隅には藁で編まれた簡素な布団が一つ。そんな部屋の中、女が一人、囲炉裏の薪に火をつけてその前に静かに座し、暖を取っていた。
火に照らされた女の白い着物と肌は赤に染まり、長く切れた目には憂いを帯びている。火に照らされていても白い肌の中でうっすらと紅が引かれた小さな唇が存在感を放つ。腰まで真っ直ぐに伸びた髪は、青とも、黒とも取れる。
全体像を見れば、男ならば誰もが息を呑むような、儚げな日本美人である。火の前に座る女は微塵も動くことなく、只、静かに揺れる火を見つめていた。
山小屋の中の静寂は、突如として肌に当たる冷たい風に壊された。見つめていた火も傾き、暖も一瞬にして奪われる。
女が風の入ってきた方向……小屋の入り口の方を向くと、笠を被り簑を纏い、弓と矢筒を背負った男が、自らが入ってきた扉を閉めんとしていた。男が吹雪の抵抗に苦戦しつつも、なんとか扉を閉めきると、小屋の中は再び静寂を取り戻した。
「駄目だ……吹雪のせいで周りも見えねぇ」
「では……」
「吹雪が止むまで、ここに籠るしかねぇな」
男は弓と矢筒を外し、笠と簑に付いた雪をぱっと振り落とすと、それらを小屋の隅にまとめて置く。その後、火を挟んで女に向き合うようにどっかと座ると、先程までの女のように、火をじっと見つめだした。
女はそれまでの男の挙動を見つめていたが、男が座ると、視線を火に戻した。
……山小屋の中は、長い間沈黙が支配していた。
それからどれほどの時が経っただろうかと、男はそれまでぼうっとしていた意識を覚醒させて考え始めた。
耳に入るのは、囲炉裏の炎がパチパチと火の粉を散らす音と、木の壁を介して聞こえてくるごうごうと吹き荒ぶ吹雪の音。どうやらこの山小屋は頑丈に出来ているらしく、板が軋む音はない。小屋が壊れ吹き飛ぶことはないだろうと、男は安堵した。
次に男は、炎を隔てて目の前に居る女に目線を向けた。女は相も変わらず、俯き気味に火をじっと見つめ続けている。
(しかし……)
こうして改めて見ると、本当に美しい女だ、と男は思った。
今は火によって朱に染まってはいるが、それでも白いと分かる肌。青とも黒とも取れる艶やかな長い髪。黒い瞳は、何を胸に抱いているか読ませないが、それ故に何かを訴えているようにも思え、男心を擽る。純白の着物と、火と共に揺れる明かりが、その儚さを更に強調しているように思えた。それこそ、白雪の如く、灯火の如く、吹けばふっ、と消えてしまいそうな……。
「どうかなさいましたか?」
女が俯かせた顔を突然上げたため、思わず目が合った男は言い様もない羞恥に襲われ、何でもない、と顔を背けながら吐き捨てた。それがおかしかったのか、女は僅かに目線を緩ませ、くすりと笑みを浮かべた。
(笑った……)
男は、初めて見る女の笑顔にまた、見惚れた。
男の顔から羞恥の色はすぐには消えなかったが、自分が女の笑みに安堵していることにも、男は気が付いていた。
なんせ、この女と男は本来知人でもなんでもない。男が山で狩りをしていると風が吹いてきたため、吹雪になると予測し一旦狩りを切り上げ、山小屋に駆け込もうとした道中、この女が歩いていたため吹雪の危険があることを説明し小屋に案内したのだ。
なので、男も女も、互いの素性は一切知らない。特に、何故女はこんな山中に一人居たのか……。
「な、なぁ……あんたはどうして、こんな山ん中に迷い込んでいたんだ?」
男が訊ねると、女は浮かべていた笑みに、少しだけ陰を落として俯いた。触れてはいけなかっただろうか、と男は内心慌て出し、無理に話さなくていいと喉から出かかったが、先に言の葉を紡ぎ出したのは女の方だった。
「私の家族は、つい先日賊によって殺されてしまいました」
「!」
「私は、山奥の湖の近くに住んでいました。人と比べ貧しいながらも、水は澄み、木々は茂り、芝生は優しい……そんなところでした。
しかし……その穏やかな暮らしも、地も、賊によって奪われました。
賊は芝生を踏み荒らし、汚れた足で水を濁し、枝を折ることも辞さずに掻き分け、私達を何処までも追い詰めました……。
そして、賊の持つ、黒く鈍い筒が裂けるように鳴き、火を吹く度に、私達の仲間が、一人……また一人と……。
私は三日三晩、無我夢中で逃げました。そして、この山へと辿り着いたのです」
男は迂闊にも、女の思い出したくなかったであろう辛い出来事に触れてしまったことを悔やみつつも、最後まで聞き届けた。触れてしまった以上はきちんと聞く責任があると思ったからだ。
しかし、男には女の壮絶な体験を前に、掛けてやれる言葉がなかった。
「貴方は、何故このような山に?見たところ狩人のようですが、この時期に獲ることが出来る獲物など限られているでしょうに」
女が自分のことについて聞いてきたのは、黙するしかなかった男にとって幸いだった。
「あ、あぁ……実は……俺の村は今、疫病が蔓延していてな……
……あ、俺にはかかってねぇから安心してくれ」
男は、続けて語った。
「村には今、湯が沸く程の熱に吐き気で寝たきりのヤツがどんどん増えてんだよ……俺のかかあも含めて……な……
んで、俺含めてまだ無事な狩人が村を離れて、この山に住まうっつうある獲物を探してんだ」
「ある……獲物……?」
「あぁ……
『青鶴』……ってんだ。
海みてぇな青い羽根を持った鶴でな、なんでもこいつの血を煎じて飲みゃあ、あらゆる病をたちどころに治しちまうって噂なんだ。
俺達は村の皆を救うために、そいつを取っ捕まえにゃあならん、てぇ訳だ」
「……だから……こんな雪の降りしきる山を……」
「あぁ……」
それからしばらくは、再び沈黙の時が続いた。女は家族を失い途方に暮れ、男は村全体の危機に瀕している。互いのことを慰める術を知らない両者は、口を閉じ、心中で憐れむ他なかった。
幾時が過ぎたか、女がようやっと口を開いた。
「お聞かせ願えますか?その村は……どのようなところなのか……」
女が、気を遣うように投げ掛けた言の葉は、驚きの風を以て男に受け止められた。しかし、このまま気まずい沈黙が続くよりはいいだろう、と思い至り、男は自分の村や家族のことを話しだした。
それから二人は、先ほどの沈黙が嘘のように会話を弾ませた。故郷のことや暮らし、日々の何でもないことまでも。時間も、吹雪の不安も忘れるほどに、語り合い、笑い合った。
やがて、窓から差し込む日の光が、二人を現実へと引き戻した。
「ようやく治まったようだな。もう出歩いても問題ねぇだろうよ」
「そのようですね」
夜が明けるまでの長い間語り合ったためか、ぎこちなかった二人の距離はいつの間にか縮まっていた。いつからかは定かではないが、二人は寄り添って小屋の隅に寄りかかっていたのだ。
「あんた……この後どうするんだ?」
「北の方に向かおうと思います。知り合いがいるので……」
「そっか……じゃあここでお別れだな。達者でな」
「はい」
「おぉ〜〜い!!」
遠くから、やまびこのように聞こえてきた声は、狩人の仲間のものだった。その声に、男はようやく助かった、と心から安堵する。
「おお、ここだここだぁ!!」
男が応えると、仲間の呼ぶ声は段々と近づき、やがて男と同じように簑と笠を着けた、男より三つ四つほど若い狩人が姿を現した。ただ、背負っているのは、男の矢筒と違い、より無骨で、鈍く輝き火を吹けば一瞬で命を奪う……火縄銃だ。
「よく生きてたなぁ、いきなり吹雪来てお前が見えなくなったから焦った焦った。心配したぞ?
……あれ、この人は?」
「そこで会った旅の娘さんだ。この人と一緒に、そこの小屋で吹雪をやり過ごしていたんだ」
「へぇそうか……っと、お前弓と矢筒を小屋に置き忘れてるな。取ってきてやるよ」
仲間はそう捲し立てると、男と女を残してさっさと小屋に入ってしまった。
「せっかちなやつだ」
取り残された男と女は笑い合った。
さて、小屋に入った仲間はというと、すぐに弓と矢筒を見つけていた。隅の壁に立て掛けてあったのだ。矢を溢してしまわないよう両腕でしっかりと抱えて、外に出ようと戸の方に身を翻したその時、
何かを見つけてしまった。
『それ』を見た仲間はくっ、と息を呑み込み、呆然と立ち竦んでしまった。その手に抱えている物があることを忘れるほどに全身の気が抜けてしまい、支えを失った弓と矢筒は仲間の両の腕からするっと落ち、がらんがらんと音を立てて小屋の床に転がった。
木張りの小屋で、木製の物を落とした音はなかなかに大きく、僅かにではあるが、その音は男と女にも聞こえた。
「おーい、大丈夫かぁ?」
「如何なさいましたか?」
男と女が仲間に声をかけ、何があったのかと小屋の入口前にやって来た瞬間であった。
仲間は突如、目を血走らせた怒りの形相で二人を見ると、流れるような動作で背負った銃を女に突きつけ、火縄に火をつけ火蓋を開けた。引き金を引けば、すぐにでも鉛の弾丸が女の喉笛を貫くだろう。
何の前触れない仲間の行動に、当然二人が驚かない訳がなかった。特に女の方は顔を青ざめ、足もがくがくと震えている。
「その女から離れろ」
仲間が男にそう言った。仲間が銃を女に向けていることから察するに、女を撃ち殺すから巻き込まれるなということだろう。
「な、なんだ!?なにやってるんだ!!」
状況は把握出来ていても理由が分からない。男の疑問は当然だった。仲間は、銃を構えた姿勢を崩さず、目線もしっかりと女を捉えながら言いはなった。
「その女……『青鶴』だ」
女の血の気が、更に引いた。
「何言ってんだお前……気でも触れたのか!?」
女が顔を青ざめていることなど知らず、男は仲間に吠えた。そうであってほしくない、嘘であってくれと嘆願しているようでもあった。
「小屋の隅っこ見てみろ……揺るがねぇ証拠が落ちてっぞ」
男は仲間の言うように、おそるおそる小屋の隅に目を配ると……
それはあった。羽根だ。美しい毛並みが光を反射して青く輝き、まるで宝石を見ているかのようだった。
その羽根が、部屋の隅の方に幾枚か落ちていた。
ああ、あそこは確か、二人身の上を語り合った時に、女が寄りかかった場所だ。
それきり男は、金縛りにあったかのように動かなくなった。ただ目を見開き、口からああ、ああ、と感嘆を溢すだけだ。
「分かっただろ、こいつは俺達の獲物だ。あの湖から追って追って、やっとこさこの山に追い詰めたんだ!女に化けて誤魔化そうったってそうはいかねぇ!あとは殺るだけだ、それで俺達の村は助かるんだ!さぁ、どけぇ!」
仲間は怒りとも興奮ともとれるような口調で捲し立てた。
それを聞いた男の中で、繋がってしまう。
鮮明に思い出す、この山に来る前の、狩りの光景。
女が話していた、賊の正体
それは……
「うわあああああああああああああああああっ!!!」
突如、錯乱した男の咆哮が仲間の耳を突き刺した。一瞬怯んだ仲間は次に、正気の色を無くした目で、弓矢をこちらに構える男の姿を視界に映す。
「な、何をする……」
仲間の額に深々と突き刺さる矢が、彼の言葉を途切れさせた。悲鳴も上げずにあっさりと命を失った仲間の体は、糸が切れた人形のようにふらりと崩れ始める。
しかし、仲間が最期に、引き金に加えた力は、尽きる前に役目を果たした。
男は、小さな爆音にようやく冷静さを取り戻した。男の脳は状況を整理しようと急速に回り出すが、二度と動かぬ仲間と、その原因である、額に射られた矢。
なんということをしてしまったのだ。
男の感情はそれで満たされた。自らが犯した罪、自らが殺した人の命。
獣を殺せても、男にとって人の命の重さは余りにも重過ぎた。
「……ぅ……」
掠れるような、しかし何処か澄んだ呻きが、男の隣から聞こえた。ばっ、とそちらを見ると、男はまた、取り乱し始めた。
女の雪のように白い着物が、左胸の部分から赤く染まり、広がっていた。
仲間が今際に放った鉛弾が、女を貫いたことは一目で分かった。
同時に、致命傷であることも。
「あ……ぁぁ……!」
嗚咽を漏らす男。再びパニックになっている。いや、表面的にはそうでも、頭では理解しているのだろう。心の何処かには、まだ冷静な自分が少し残っている。
「おい…お前……!大丈夫か……?」
男は、女を心配する言葉を吐いた。
そこに、ついさっきまで抱いていたいとおしさは無かった。女が『化け物』だと、『狩るべき獲物』だと知ってしまったからだ。
「おい、しっかりしろ!おい!!」
しかし、それでも男は、その『化け物』に声をかける。それは自らが一度でも好意的に思った愛情ゆえか……
否。男の姿は、さながら『自分を庇って欲しい』と泣きじゃくる童にも見えた。
仲間を殺し、その罪悪感に押し潰されんとしていた男は、女に自分の心の居所を求めたのだ。
「…………」
女はぼそぼそと口を動かした。何を言っているのかを聞き取ろうと、男は耳を傾ける。
「……こ……」
「なんだ!?何を言ってんだ!?」
「……こ………」
――――この期に及んで………
何を嘆いているのです………
それは男にとって、さながら鉄槌で頭を殴られたかのような衝撃だった。
「これまで……数多の命を奪っておきながら……今更……たかが一つの命に……嘆くのですか……」
息も絶え絶えになりながらも発される女の言葉が、男の精神を責め、蝕んでいく。
女は震える左手に力を振り絞り、床に散らばる矢の一本を掴んだ。そして右手で男の手を掴むと、その手にしっかりと、矢を持たせた。矢じりの先は女の喉元に向けられている。
その時だった。男に矢を掴ませたままの女の手が、ゆっくりと青く染まり、羽毛が生えてきた。着物も、髪も、肌も青く染まり、羽毛へと変わっていく。それと同時に女は人間の形を失い、嘴が生え尾も見え出す。やがて、女は、窓から差し込む光で毛並みをさながら蒼玉のように輝かせる、美しい青い鶴へと変わった。
しかし、鉛弾を受けた胸部は変わらず赤に染まっており、その海原のように生命力の溢れる羽毛にも関わらず、青鶴の羽毛の奥の皮膚が冷たくなってゆくのを、男はしっかりと感じていた。
――私を哀れとお思いですか……?
青い鶴は女のものと変わりない声色で、男に語りかける。
――ならば私を楽に……
これまでのように……
いっそのこと、私を楽に……
男には聞こえているのだろうか、男は呆気にとられたように口を開け、目に涙の色を浮かべながら震えるのみであった。
青い鶴が、男の手と矢を握る羽根に、最後の力を込めた。
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男は、手に握った矢を伝って流れる赤く温かな液体の感触を感じながらも、それから逃れるように、意識を閉ざした。