五話「秋だ! 残暑だ! テコ入れ回だ!(後編)」
「……疲れた」
和晃式水泳トレーニング(練習中に命名)によって成果が出始めた頃、若菜ちゃんが呟いた。
「休憩なしでやってたしな。そろそろ休むか」
「……うん。休みがてら皆の所に行こ」
という訳でプールから上がって、直弘達がいるはずのコースがある方へ行く。
「あ、若菜に和晃。二人とも、来るのちょっと遅かったねー」
向かった先には由香梨がいた。隣には久志もいる。
「遅かったって?」
二人は何も言わずに指し示す。
膝をつき、手のひらと膝を地面に着けてうな垂れている男がいた。文字にするとまんまorzである。
「どうしたんだ直弘」
その男は直弘だった。どうしてこんなことに。
「勝負に……負けた……」
勝負?
視線を上げると比奈がいた。彼女はこちらを見て苦笑いをしている。
ああ、そういえば二人で競泳するとか言ってたな。負けたってそれのことか。
「ただ負けたぐらいで大袈裟な」
「違うぞ、和晃。ただ負けただけじゃない……!」
「は?」
言い訳でもするつもりか?
「俺が勝ったら……今の姿でセクシーポーズをして撮影させてくれるって話だったんだ……!」
「な、何!?」
お前、何てことを……それはプライドを捨ててでも勝ちにいかないと駄目だろ!
「くそっ、何負けてやがるんだ!」
「俺だって……負けるつもりはなかった。しかし彼女、無駄のない洗練された動きで俺を追い抜いていって……」
「比奈が……そんな……」
「勝てるわけなかった。俺には無理だったんだ……ぐはっ」
「直弘……? 直弘!?」
仰向けになった直弘は虚ろな瞳で俺を覗きこんで来る。
「俺はもう駄目だ。和晃、お前に全てを託していいか……?」
「ああ、任せろ。お前の仇は俺が討つ!」
「ありがとう。写真、頼んだぞ。LINEに送っておいてくれ……」
「直弘ぉぉぉおおお!」
直弘はその場で意識を失った。おのれ……よくも直弘を……!
「あの、盛り上がってとこ悪いんだけど、セクシーポーズをする約束はしてないよ……」
「それに意識を失ったというか疲れて眠っただけだし」
ええい、冷静な解説はいらん!
「という訳で勝負だ比奈!」
「え、本当にやるの?」
「ここでやらなきゃ男が廃る!」
「そ、そこまで……」
この勝負は男のプライドと意地と性欲を賭けた戦いだ。絶対に負けるわけにはいかない。
「比奈に勝って、直弘の無念を果たすんだ。というか俺も写真欲しいし!」
「……本音が出た」
言わないで若菜ちゃん。
「でも岩垣君、結構リードしてたのに途中からかなり失速して負けただけで、私が速いわけじゃないよ?」
……ああ、体力尽きただけかあいつ。ま、まあ今更後には引けない。
「だったらハンデありでやろう! それで写真ゲットしてやる!」
比奈はうーんと唸って、
「そうだね、私もカズ君と勝負してみたい。けど私だけデメリットがあるんじゃ盛り上がらないし、カズ君もペナルティつけない?」
「よっしゃ何でも来い」
「ん? 今何でもって言ったね?」
由香梨がニヤッと笑った。あ、まずい。
「お昼全員分奢り」
「あと水着姿で変なポーズの写真とかもいいんじゃない?」
久志まで便乗してくる。
ああ、こりゃあ……。
「比奈、ごめん。ちょっと本気で負けられなくなってしまった……」
「……お互い頑張ろうね」
ノリで変なことをするべきじゃなかったと後悔した。
勝負をすると決まった所で早速準備に取り掛かる。
ハンデに関しては、比奈は一回フルで泳いでいるということもあって俺が泳ぐ距離の半分を泳ぐことになった。それに加えて比奈が五メートル程の先制スタート付き。コースを一往復、つまり五十メートルレース。俺が二十メートルを完全に越した時点で比奈がスタートする。勝敗は当然先にゴールしたもの勝ち。泳ぎ方は自由。
ルールが決まった所で所定のスタート地点に付く。
「準備はいいかい?」
スタートのかけ声役の久志が問いかけてくる。俺は久志を見て、大丈夫だと頷く。
久志も頷き、手を上げる。俺は目の前の水のコースに視線を合わせる。
「よーい、ドン!」
久志の掛け声と同時に飛び出した。激しい音を立てて水の中に進入する。体の力を抜いて、推進力に身を任せる。進めるところまで進んだ所でバタ足を始める。それと同時に腕を回し、水をかく。定期的に息継ぎも挟む。動作をパターン化し、目的の地点まで泳いでいく。
二十五メートルの壁が見えてきたところで、ドボンという音が聞こえた。比奈がスタートした音だ。
水中で一回転し、二十五メートルの壁を思い切り蹴る。けのびでいけるとこまで進む。その時、比奈が泳いでいる姿を前方に捉えた。
――いけるか!?
行きよりも速いペースで泳いでいく。必死に体を動かし、ようやく比奈に追いつき始める。
残りはおよそ十メートル程か。比奈を捉えてからは怒涛の勢いでペースを上げる。徐々に差を詰めていく。彼女の上半身に追いつき、ついには彼女の頭と並び――
「ゴール!」
勢いよくゴールに手をぶつけた。
「いたっ!」
「大丈夫、カズ君?」
綺麗にゴールした比奈はゴーグルを上げてまず心配してくれる。
「まあちょっとぶつけただけだし、気にすることはないよ。それよりもどっちが勝ったんだ?」
最後の最後で彼女に追いついた。お陰で勝てたか、負けたか不明瞭だ。
レースを見守っていた三人は少しの話し合いの末、
「ほぼ同時のためドロー!」
という結果を出した。
「しっかり見てたんだけどね。それでもどっちが先かわからなかった。私含めて三人ともね」
由香梨の言葉に久志と若菜ちゃんが頷く。
「えー……比奈のセクシーポーズはなしか」
「だから最初からないからね」
「……和晃君の写真が……」
「いや、俺の写真とか誰得って話しだから」
不満たらたらな俺と(何故か)若菜ちゃんである。
「でも見てて面白いレースだったよ。熱かった」
久志はそれで満足のようである。
「じゃあ、二人はお疲れ様ってことで……ツーショット写真いきますか!」
で、由香梨はどこから取り出したのかスマートフォンを構える。
「ツーショット写真って……え!?」
比奈がオロオロし始める。
「そのまんまの意味よ。若菜、久志君、二人をもっとくっつけて」
『ラジャー』
俺達二人の意思など考えもせずせっせと事を進められていた。
「ちょ、ちょっと待った! これ以上近づくのはまずいって!」
「中里さん、そ、そんな押さないで……!」
お互いの肌と肌がぶつかり合っていた。ここまで至近距離になったことはない。しかもドサクサにまぎれて、ポヨンとすっごく柔らかい何かが左肩に当たっているんですが。ただでさえ心臓がバクンバクンと高く速く鳴っているのに、無理矢理そのペースを早めさせられる。
「ほらほらー、ちゃんとカメラ目線にならないと終わらないよー」
由香梨はニヤニヤ笑っている。くそ、やっぱさっきまでの身体を気にしていたしおらしい由香梨の方がよかった!
「か、カズ君……」
これ以上ないってくらい顔を真っ赤にさせて、ちょびっと涙目で訴えかけてくる。
俺もきっと比奈と同じような表情なんだろう。
「あ、ああ。わかってる。さっさと終わらせよう……!」
二人でカメラに目線を送る。視線の隅っこで若菜ちゃんもさりげなくピースしているのが見えた。君たちも写り込むのね。
「はい、チーズ」
パシャリという音ともにフラッシュがたかれる。
「グッド! しかし、私が言い出したことだけど、皆ずるい。次は私も入るから!」
「待て! とりあえず比奈に謝罪してあげて!」
比奈は膝を抱えて「もうお嫁にいけない」とぶつぶつ呟いてる。
「……なら私が和晃君の隣にいく」
「ええ!?」
比奈復活。
「じゃあ、撮ろうか。すいませーん、写真お願いしていいですか?」
そんな風にわいわい騒ぎながら、集合写真を撮る。直弘もこのドタバタで目を覚まし、ちゃんと写っている。しかし若菜ちゃんはどうして腕を絡めてきたのさ。
――この後、休憩をとって昼飯タイムになった。ランチタイムの後も六人ではしゃいで、笑って、これ以上ないくらい楽しんだ。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「楽しかったー!」
外は予報通り雨が降っていた。あらかじめ持ってきた傘を開いて帰り道についていた。前回一緒に帰ってわかったことだが、俺と比奈の家は思っていた以上に近い。途中まで道はほとんど同じだった。由香梨の方が家は近いわけだが、あいつは若菜ちゃんの付き添いとして別の道から帰っている。
そういうわけでこうしてまた比奈と二人で歩いている。
「写真もいっぱい撮ったしな。後で送ってもらおう」
「そういや結局セクシーポーズをやらされたしね……」
うむ、あれはエロかった。ただ若菜ちゃんのセクシーポーズには敵わなかったが。
「またこうして皆で遊びに行こう」
「うん!」
比奈は満面の笑みで頷く。
「プールの話もいいけど、恵ちゃんの方はどうなったんだ?」
「うーんと、それがまだ連絡来てないんだよね。まだやってるのかな……」
恵ちゃんのことを気にかけながら歩みを進める。
途中、小さな公園を横切った。いつもは小さな子供達の楽しげで騒がしい声が聞こえるのだが、耳に入ってくるのは激しい雨音だけである。
「そういえば、比奈、泳ぎ上手かったよな。あれって――」
と言い切る前に、話しかけていた相手が隣にいないことに気づいた。
後ろを振り返ると、比奈が公園の入り口で、公園の中を見続けている。
「どうした?」
様子がおかしい。彼女の元に駆け寄る。
「あれって恵……?」
比奈が見つめる方向に目をやる。
雨のせいで綺麗な髪が濡れてぐしゃぐしゃになっていたけれど、あの小さくてツインテールの女の子は……多分恵ちゃんだ。雨の中、傘も差さずに公園の中心で佇んでいる。
異常を察した俺達は跳ねた泥で服が汚れるのもお構いなしに走り出す。
「恵!」
「恵ちゃん!」
「比奈……?」
名前を叫ぶと恵ちゃんはゆっくりとこちらを振り返る。その表情から生きた心地を感じられなかった。目はすわっており、感情を読み取ることができない。
嫌な予感がする。
「どうして傘も差さずに。風邪引いちゃうよ」
比奈は自分の傘に恵ちゃんを入れようとする。だが、
「ごめん。今は――顔を見たくない」
そう言って彼女は逃げるように走り出そうとする。
「恵!」
その腕を比奈はとっさに掴む。そのための動作で傘を落としてしまう。
恵ちゃんは悲愴と憎悪の入り混じったような表情で比奈を睨む。
「離して!」
恵ちゃんは掴まれた腕を無理矢理解放させた。その時、俺は気づいた。
「え……どうして。め、恵!」
逃げていく恵ちゃんを追いかけようとした比奈を今度は俺が止める。すぐに俺の腕を振り払おうとするが、絶対に離れないよう力を込める。
「カズ君、今は止めないで!」
「落ち着け、比奈!」
大きな声を出すと、比奈はビクッとなって動きを止めた。そういや俺が比奈に対してこんな声を出すのは初めてか。俺はなるべく落ち着いた優しい声を心がける。
「今は――ダメだ。追いかけるべきじゃない」
「でも、でも……!」
「気持ちはわかる。けど今彼女を追いかけてもきっと彼女を追い込むだけだ。恵ちゃんは……泣いてた」
比奈の腕を振り払う時、恵ちゃんの目から雨とは違う液体が流れていたのが見えた。見えてしまった。
「泣いてたってそれって……」
比奈の表情もどんどん沈んでいく。
嫌でもわかってしまう。恵ちゃんは、今日――失敗した。アイドルになりそこね、その道を閉ざしてしまったのだ。
「とにかく、落ち着こう。今俺達に出来ることは……何もない」
ようやく日差しがよくなってきたというのに、どうして幸せは長続きしないんだ。
雨はより一層激しくなる。公園で俯く俺達に雨は容赦なく降り注いだ。




