一話「特別なこと」
その日、何か特別なことがあったのかと聞かれると「特に何もない。一週間後には何してたか忘れるような普通の日だった」と言い切れる自信があった。
そんなどうでもいい日が俺にとって――願わくば彼女にとっても――生涯忘れられない日となった。運命の出会いとか人生において特別なことが起きる日は案外こういった普通の日に突然起きるものなのだ。
彼女と初めて出会ったその日は夏休みに突入して一週間程経った頃、八月の初旬でとても暑かった。特に目的も持たず街をぶらついていて、喉が渇いたら適当な喫茶店や飲食店に入ってアイスコーヒーを注文していた。二件目の店を出て、少し歩くと商店街の中では異質な小さな公園が目に入った。彼女はその公園の屋根がついた休憩所の柱に寄り添うようにして立っていた。
影があるからといってその休憩所には誰も近づく様子はなく、ただでさえ異質な公園の遊具から少し離れた休憩所にスタイルの良い白いワンピースでサングラスをかけた少女が佇む姿はいささか目立つ。けれどそれ以上の感想は思い浮かず、遠目から彼女を見て立ち去ろうとした時だった。
公園には商店街の道からと商店街から続く脇道の二つの入り口があり、その脇道の入り口から金髪で髪を上げ、果てにはピアスなんかもつけるチャらい男が数人入ってきた。
男達は彼女に近づいて声をかける。
どうしたものかと周りを確認してみるが、誰一人公園での出来事を気にしていない。
視線を再び公園に戻すと彼女は悠然と男達を拒否しているようだった。男達はそれが気に障ったのか腕を掴み、肩を押さえ、いやらしく話しかける。
思った以上の展開の早さに慌てつつ、再び周りを見渡して誰か助けにいかないかどうか確認する。やはり誰も公園での騒ぎに反応しない。
でも反応しないだけで、彼らは気づいている。視線だけは皆きっちり公園に注がれている。けれど自分には関係ないから、面倒なことに巻き込まれたくないから意図的に避けているんだ。
それは自分にも言えることだった。誰かが助けに行くことに期待して周りを見渡すだけで何もしていない。心のどこかで変なやつらと関わりたくない、面倒な問題に巻き込まれたくないという気持ちがある。
男達は腕を引っ張って彼女を無理やり連れ出そうとする。
俺は焦っていた。目の前で緊急事態が起こっているのに誰も助けるどころか連絡すらしない周囲。本気で拒否の態度を見せる彼女の姿。気が立っていらついた顔で彼女に絡む男達。
覚悟を決めた。関わりたくないが、それでも見捨てるにはあまりにも一部始終を見過ぎた。このまま見過ごしたらきっといつかどこかで後悔すると思った。
「やめろよ。彼女、嫌がってるだろう?」
「ああん?」
男達と少女の間に割り込み、強気に話しかける。
「何だよお前。ヒーローぶって助けにでもきたのか?」
「おお、だとしたらかっこいいねえ。ぎゃははは」
ここまで小悪党臭い台詞をよく吐けるものだ。
「これから俺たちは彼女と楽しい時間を過ごすから。君は帰ってくんない? 今なら何もしないで見逃してやるから」
「楽しい時間って何よ。嫌って言ってるでしょ! 放して!」
彼女は力をこめて男の手から抜けようとするが、びくともしない。
「だから何で嫌がるんだよ。悪いようにはしねえって言ってるだろうが」
男は本気でイラついている。これは不味い。こういった奴がキレると、何をするかわかったもんじゃない。
「だからやめろって。彼女嫌がってるんだから放せよ」
「てめえもうるせえな! 部外者は黙ってろ! 本気でぶっ飛ばされたいのか!?」
「部外者じゃないさ。俺はこの子の彼氏だから」
咄嗟に嘘をついた。この状況で何を今更って台詞だったが、予想以上に効果があったみたいだ。
男達は顔を見合わせて「は?」と気の抜けた言葉を発し、彼女の方も「え?」と自分のピンチを忘れているようだった。
その一瞬を見逃さなかった。
掴まれている彼女の腕を男の腕から剥がし、彼女を引っ張るように走り出した。少し遅れて「てめえ!」という声と同時に男達が後ろから駆けてくる。
逃げたのは商店街の方だった。平日とはいえ夏休みであるため若い子が多かったし、主婦が丁度買い物に来るような時間だったので、一度商店街に出れば追ってくるのは難しい。
彼女を引っ張りながら人の間を抜けるように走る。チラッと後ろを振り返ると人の波に邪魔されて思うように進めない男達の姿が見えた。
もしかしたら助けに行かなかったけど、公園での騒ぎを見てた人がわざと男達の行く手を阻むようにしてたのかもしれない。
男達の姿が見えなくなったところで人気のない細い路地に入り、一息つくことにした。
「ごめん、急に走り出しちゃったりして」
「ううん。大丈夫です。それより……」
上がった息を整えながらお互いに顔を見合わせる。
逃げてる最中にサングラスを落としたらしく彼女の素顔が露になっていた。
「助けてくれてありがとうございます」
不意にドキっとしてしまった。遠目からでも可愛い子だろうなっていうのはわかっていたが、想像を超えていた。
大人になりきれない少女の面影だが、雪のような白い肌に艶のある唇は大人の色気を放ち、スラリと伸びた黒髪は端麗な小顔をさらに強調している。それはさながら天使をかたどった芸術作品に命を吹き込んだようだった。
「あ、えっと、その、感謝される義理はないよ。すぐ助ければよかったのに中々踏み出せずに……」
想像以上の美少女にドキドキしてしまい、きょどりながらも何とか言葉を紡ぐ。
「いえ、そんなことないです。助けにきてくれただけでも……」
彼女の言葉の途中でパシャリという音が聞こえた。
二人で音の方を見ると何者かが逃げていくような姿が見えた。逃げる際にそいつがカメラを持っていたのも見えた。
「カメラ? 撮られた、のか?」
何故、と疑問が浮かび上がってくる。
ただ彼女は違った。顔が青ざめ、絶望感のある表情をしている。
「あの、ごめんなさい。少し電話させていただきます」
「はあ」
言い方からとても切羽づまった状況であることが窺える。
電話で誰かと話しているところでバレないように彼女を観察する。
まさかこんな美少女とは。男達が執拗に絡んでいたのもわからないでもない。
ここでふと彼女に見覚えがあるなと思った。理由はこの時はわからなかった。
会話の内容はわからないがとにかく早口で、さっきのおしとやさかが感じられないぶっきらぼうな口調になっていた。
電話を終えるとこちらを振り向き、
「えっと、ごめんなさい。この後少し付いてきてもらえますか? いや、付いてきてください。もしかしたら今後の貴方の人生に関わってくるかもしれないので」
突然のスケールの大きさにすぐに言葉が理解できなかった。
今後の俺の人生? さっきのカメラで撮られたことがどうしてそこまで発展するんだ。
「事情は後で詳しく説明します。今はとにかく急いでください」
今度は逆に彼女が俺を引っ張って走り出す。
――その日、何か特別なことがあったかと聞かれたら今では彼女をチャラい男から助けたことと話しているが……。
「何なんだ? どこに連れて行くんだ!?」
彼女は俺の質問に答えず俺を引っ張って走り続ける。
商店街を抜けて大きめの道路でようやく止まった。
「多分そろそろ来ると思います」
何が、と言おうとしたら車がもの凄いスピードでやってきて、俺たちの前に大きな音を立てながら止まった。
「二人とも早く乗って!」
中から女の人が聞こえ、ここでも少女に引っ張られ無理やり車に乗せられる。
――実際は人気のない路地に逃げ込んだというのが一番の間違いだったんだと思う。
「何が、何が起きてるんです?」
運転手のメガネをかけたいかにも秘書していますというスーツの女と一緒に逃げてきた少女にもはや恐怖を感じながら尋ねる。
「スキャンダルよ」
「へ?」
秘書の女運転手が言う。
「さっき撮られた写真。あれがスキャンダルの元になるの」
少女が説明を加える。
――何故なら、それが全ての始まりであるスキャンダル事件の始まりであり。
「スキャンダル? 何で? どうして?」
「……まさか貴方、この子が誰かわかってない?」
何で当然知ってるみたいな口ぶりなんだ。
だが、先程彼女を見覚えがあると思ったのも事実である。それが何か関係あるのか?
もう一度彼女の顔を見る。
不意に頭に映像が流れてきた。
――流れるテレビ。
――流れる音楽。
――歌う女性。
――いきいきとテレビの中で踊る少女。
「え? 嘘、君、まさか……」
「そのまさかよ」
彼女から視線を外せなかった。ただただ信じられないと驚くばかりで。
「彼女は今芸能界で一番波に乗ってるアイドル――香月比奈よ」
――俺と比奈、二人の物語の始まりだったのだから。