十話「祭りの終わり」
その日、何か特別なことがあったのかと聞かれると「特に何もない。一週間後には何してたか忘れるような普通の日だった」と言い切れる自信があった。
そんなどうでもいい日が俺にとって――願わくば彼女にとっても――生涯忘れられない日となった。運命の出会いとか人生において特別なことが起きる日は案外こういった普通の日に突然起きるものなのだ。
特にこれといったこともせず、一学期は終わりを迎え、夏のうだるような暑さと共に夏休みがやって来た。
しかし夏休みといっても普段の休日と何ら変わらない。ただ余りある時間を適当に街をぶらついて消化するのみだ。
その日も目的なく街中を歩いていた。喉が渇いたら適当な喫茶店や飲食店に入ってアイスコーヒーを注文した。二件目の店を出て少し進むと商店街の中では異質な小さな公園が目に入った。彼女はその公園の屋根がついた休憩所の柱に寄り添うようにして立っていた。
白いワンピースから覗くスラリと伸びた肢体は芸術作品のように美しく、見るだけでこの暑さが消えてしまいそうな清純さが漂っていた。サングラスをかけているため顔の詳細を知ることは出来なかったが、彼女が美人であることは容易に想像が付く。
だからそんな彼女に男が群れてやってくるのも別段おかしくないわけで。
男達と少女のやり取りは長く、拒否を続ける少女にイラついたのか男達は無理矢理腕を引っ張ろうとした。傍観を続けていた俺は流石にマズイと思って、間に割り入った。そして適当な嘘をつき、全員がアホみたいに呆然とするなか、彼女の腕を引いて逃亡した。
目に付いた細い路地に入ったところでようやく足を止め、初めて彼女の素顔を見た。それはそれは美貌で、見惚れるとはこういうことなのか、と知るほどだった。
だが、それが運の尽きだったといえよう。俺と彼女は謎の男に写真を撮られた。俺はよくわからなかったが彼女は酷く慌て――彼女に引っ張られるように付いていくと車に乗せられ、ようやく少女の正体を知った。
少女の名前は香月比奈。職業はアイドル。
それが彼女との出会いだった。
* * * * *
わあああああ、と体育館から歓声が届く。凄い熱狂だ。人はこういった盛り上がる催しがあるとテンションが吹っ切れ、普段から想像も付かないような熱を見せる。しかもそれが何十、何百単位になるとこうして離れた場所にも熱気が伝わるぐらい、一致団結の力を見せる。
文化祭は今日の夕方を持って終わりを告げた。細かい後片付けは明日やることになっていて、大半の生徒達は体育館で後夜祭を楽しんでいるはずだった。
後夜祭の主なイベントは軽音楽部などの音楽系の部活達のミニライブだったり、三日間の文化祭で人気のあった団体をランキング形式で発表したりと、祭りが終わってもなお冷めぬ熱にさらに火をつけるようなものが行われる。
今年は実際に演劇部に力を入れ、またその盛況ぶりもこの目で見ていたため、うちの部活がどれくらい人気があったか気になりはしたが……後夜祭に参加する気は起きなかった。
体育館から少し離れたベンチで秋の夜風を浴びていた。今日一日の熱をいい具合に涼しく冷ましてくれる。心地よかった。
「カズ君、ここにいたんだ」
清涼な声の主は比奈のものだった。彼女は優しく微笑みながら顔を覗き込んできて、すぐ隣に腰掛けた。
「比奈は後夜祭に参加しないのか?」
「どうしようか迷ったんだけど、こうして静かにのんびりしたいなあって。それにいつの間にかカズ君いなくなってたでしょ? 何となく、ここにいるかなあって思ったんだ」
「そっか」
風がふわりと俺達二人を包み込む。
「今日の公演どうだったかな? 成功っていっていいかな」
「見た感じだと、観客は概ね満足って感じだったよね。部員の皆も感極まってたぐらいだし失敗したということはないと思うんだけど」
「だよなあ。梨花さんなんて涙ぐんでたもんな」
「あれはちょっとビックリしたよね」
アハハ、と二人して笑う。
「そういえばカズ君は社長……お父さんに会った?」
「いいや。そういや親父見にきてたんだっけか。忘れてた」
「アハハ……。実はさっきカズ君のご両親に会ったんだよ」
「何か言ってた?」
「ううん。労いの言葉と、カズ君はどこにいるか尋ねられただけだった」
「家に帰ったら色々言われそうだ……」
嫌そうな顔をしてみせる。けれど内心では親父と言葉を交わすのを楽しみにしていた。
比奈とのんびり話しているとふと会話が途切れる。でもそのちょっとした沈黙も嫌いじゃない。むしろ気持ちいいとさえ思う。
耳を澄ます。体育館から音楽が流れている。あのステージの上で生徒という観客達に己の成果を披露するグループはどんなことを考えながら演奏しているんだろう。ちょっぴりそんなことを考えた。
「あそこで俺、演じたんだな」
口から勝手に漏れた呟きだった。比奈は口を開かずに柔らい眼差しでこちらを見ている。
「ステージに立ってる時、とても心地よかった。気持ちよかった。上手く言葉に表せないけど、こう……観てくれた人達が場面ごとに表情を変えてさ、星の輝きが常々変化したっつーか……」
「初めての主演なんだよね。上手く出来た?」
「ああ、そりゃ勿論。やればやるほど、自分とどんどんシンクロしていって、熱や気合が注入されてったんだ」
途中から青年の物語がまるで自分の心情を表現しているような感覚だった。
「主人公は色々な葛藤を抱えてた。ちょっと前の……比奈と出会うまでの自分みたいに」
それをきっかけに俺は過去をポツリポツリと語り始めた。親父と約束を交わしたあの時から、比奈と出会うまでの自分を全て曝け出した。彼女はただジッと黙って傾聴してくれた。
「そんなことがあったんだね」
話し終えると彼女はそんな感想を呟いた。
「ああ。でも、今思えばこれらの悩みや苦しみは特別なものじゃくて、誰もが抱えるものじゃないかって思うんだ。この時期に先の事を考えて行動してるやつってそこまで多くないと思うんだ。楽しい日々を過ごす中で、自分はこのままでいいのか、自分のやりたいことはなんだろう――そんな疑問を持つときがあると思う。俺はその誰もが持つ疑問を拡大解釈したに過ぎない。今ならそう思えるんだ」
「カズ君の言うとおりかもしれないね。部活をやってる子は特に感じるかもしれないけど、三年間部活のことに身を捧げても、そこでやったことが大成されることは稀なことだし。苦しい現実を知って楽しいことに逃げることも普通のこと。そんな自分に嫌悪を抱くこともきっと普通のこと。きちんと考えているからこそ、悩んで苦しんで、その場に踏みとどまるんだよ」
問題はきっとそこから先なのだ。その場に踏みとどまったまま、大人になるか。答えを見出して先に進むか。大半が前者だ。大学に入ってやりたくもない仕事をして、しかしそれでも家庭を持つなどささやかな幸せを掴み取る。後者は後者で大変だ。進んだ道の先に障害物はたくさんあるだろう。そのどこかで躓けばすぐさま前者の人達と同じ道を辿る。最奥に進めるのは一部の稀有な人間だけだ。
だけどその稀有な人間が近くにいてくれると彼らは多大な影響を与えてくる。その最たる例が今まさに隣に座る人物……比奈だろう。
* * * * *
半年も経てば怠惰に過ごす日々にもなれ、諦観で埋め尽くされた心は鎖のことを考えることすら放棄していた。
そんな時に突如として現れた非日常、それが彼女との出会いだ。
新鮮な日常もたまにはいいかも、と考えた俺は軽い気持ちで公開恋愛を引き受けた。
でも、俺は無知で幼稚だった。彼女が一体どんな必死な思いで荒唐無稽な策に臨んでいたのか俺は知らなかったのだ。
それを知ることになるのは公開恋愛が一度失敗した後だ。彼女がアイドルに至るまでの経緯を知り、本音を聞き、初めて己の愚かさを自覚した。
そこからは俺も本気になった。彼女のため出来る限りのことをしようと思った。自分の身を危険に晒してまで彼女を救おうと思った。
案の定、思いついた策は成功し、公開恋愛は続けられることになった。
そのご褒美というわけではないが、彼女を救ったという充足感を満喫しながら、彼女と共に日常を歩むようになっていった。
しかし彼女と過ごす日々はいつも波乱万丈だった。
ある時は彼女は孤独であることを知った。
ある時は道を諦めた少女と対決したこともあった。
ある時は彼女の願いを果たそうと身を投げ出したこともある。
ある時は悲惨な過去を持つ大人たちの思いを知った。
ある時は心に秘めた想いを爆発させたこともある。
本当に色々なことがあった。当時は大変だったけど、今となっては輝かしい思い出達だ。
* * * * *
「去年の文化祭覚えてるか?」
「忘れるわけがないよ」
だよな、と分かりきったことを口にして笑みを作る。
「比奈を迎えに行く前、祥平とひと悶着したって話したことあったっけ?」
「何かあったことは知ってたけど、詳細は知らないかな」
「まあ、あまり知られたくない内容だったからな……。でも今なら言える。あの時、俺はほんの少しだけ本音を吐き出したんだ。自分は未来を真っ直ぐ見ることが出来ない、なんて言ってて恥ずかしくなるようなことをさ。でもさ、お陰でその時自分にようやく素直になれたんだ」
ずっと未来に怯えていた。そんな自分が彼女に対してだけ一生懸命になれた。その訳を知った。
「俺はあの時、祥平にこう言ったんだ。彼女は俺にはない何かを持ってる、俺はその正体が知りたいってな。その彼女っていうのは比奈……お前のことなんだ」
演奏が一段落着いたのか、再び歓声が湧いた後、一瞬の静寂が訪れる。
「君といると俺は何かと心を扇動された。君といると過去の自分の醜さを強調された。君といると絡み付いてた鎖が解けていった。そして俺はようやく探していた『何か』の正体を見つけたんだ」
* * * * *
俺が彼女を救ったんだと思っていた。
事実を知る者はきっとそのように思うんだろう。
でも、本当は違った。俺は自惚れていた。
彼女が俺を救ったのだ。
彼女はこの数年間俺を縛りつけ、苦しめた『約束の鎖』から解放してくれた。
彼女が俺の未来を照らしてくれた。
* * * * *
「その『何か』は誰もが持っているものだった。しかもシンプルで思いつきやすいものだ。けれど――その中身を見つけることが非常に困難な、扱いに戸惑うものなんだ」
この先の言葉を口にしたら。
『何か』の正体を口にしたら。
その瞬間、俺の青春とやらが始まるだろう。
そしてすぐ、その青春が終わりを迎えてしまうことに気づいてしまうだろう。
酷い後悔に襲われるだろう。
喜びや嬉しさに満たされるだろう。
嬉しさと悲しさがごっちゃになって、滅茶苦茶になるだろう。
それでも構わない。
その言葉を、正体を、俺は彼女に伝えたい。
「俺は見つけたんだ。『夢』をさ」
たった一つのシンプルな答え。夢。
俺がこの数年間必死に探していたものの答え。
器はあっても中身はなかった。だから中身を探したけど、いつの間にか器も失くしてしまった。
けれど彼女と出会い、器を見つけて、中身も一緒に見つけたのだ。
「どうして今まで気づかなかったんだろうな。演劇はやってて、他のものとはちょっと違う感覚があったことは気づいていたはずなのに。これは違うだろうって決め付けて斬り捨てた。ちょっと素直になればすぐ気づけたはずだったんだ」
俺は夢を必死に探すあまり、夢ってやつを神格化させてしまった。だから身の回りにあるはずのそれをこれも違うと斬って捨てた。そうして迷走だけが進行して、何もかも見失った。それが己の失態であり、罪だった。
「馬鹿だよなあ、俺。手を伸ばせばすぐに掴めたのに、自分からそれを放棄して。比奈が隣にいなかったら最後まできっと気づけなかったと思う。比奈がいたから夢を自分の手の中に納めることが出来た」
でも、多分、見つけられたことはきっと良いことなのだ。例えその夢が叶わないと知っていても、夢を見逃すよりは全然マシなはずなのだ。
だから、俺はきっと比奈にこう言うべきなのだ。
「ありがとう、比奈」
今日が終われば俺はもう、この夢に向かって努力をすることが出来なくなるけど。
夢に向かって努力し、新たな問題にぶつかることはもうないけど。
夢の実現に近づく喜びを味わうことは出来ないけど。
今日という短い一日だけでも、夢を見られて俺は幸せだった。
「カズ君」
彼女がふわりと俺を包み込む。優しくて暖かくて、とても落ち着く。
「夢を叶えてない人にも泣く権利はあるんだよ」
ああ、その通りだ。
罪悪感に苦しむ人間でも、罪に塗れた人間でも、敗北した人間でも、悲しくても、嬉しいときも、辛いときも、人間にはいつだって、誰にだって泣く権利はある。
俺みたいに夢を見つけ、それが叶えることの出来ない儚い幻想だということを思い知らされた人間でもきっと。
だから、俺は泣いた。
この身に潜む黒い塊を削げ落とすかのように、何もかも吐き捨てた。
「ああ、くそ……畜生……ちくしょう……! どうして、どうしてなんだよ……こんなの納得いかねえよ……! 俺だって本当は、もっと夢を見ていたかったのに……! こんなところで終わりだなんて……そんなの……認めたくない……!」
魂の叫びは空に弾けて消えていく。
体育館からはバラード調の音楽が流れていた。
もうすぐ文化祭が終わる。
もうすぐ楽しい時間が終わる。
もうすぐ青春が終わる。
もうすぐ夢が、未来が終わる。
一際高い楽器の音が鳴り響くと、最後に生徒達の歓声が一瞬の輝きを生み、そして萎んでいく。いつしか音は消えてなくなり、祭りは終わりを告げた。
「――まだ終わってないよ」
誰かが、静寂を切り裂いた。




