四話「電話越しの激情」
『いよいよ明日ですね』
文化祭を前日に控えた夜。沙良から着信があった。
『いざ本番となると少し緊張しますね。ただでさえ私も大きく関わってきますから……あの、アキ君。私はちゃんとしてましたよね? 大丈夫ですよね?』
沙良が不安な表情を浮かべているのが電話越しに伝わった。
珍しいように見える沙良の弱音だけど、中学生までの彼女はいつもこんな感じだった。
外国で今までの普通とは違う非日常に揉まれ、人間的にも社会的にも成長した彼女は周囲から見たら頼れる超人だ。しかし、本当の彼女は超人でもなんでもない。むしろ誰よりも女の子らしい女の子だ。
「心配いらないって。皆、沙良についていってたじゃないか。沙良のことを信じて、練習して、今では本職に勝るとも劣らない立派なメイドになってたよ」
『本当に皆さん、素晴らしくなりました。見事に嵌まっていて、彼女達の動作には美しいとさえ感じます。けど、不安を拭いきれないんです。本当にこれでよかったのか。このようなもので、由香梨に勝てるのだろうかどうか……』
二人の勝負にもこのような心配を抱いているのも、彼女が由香梨の強さを知っているからだ。
『それに、皆さんにとっては今年が最後の文化祭なんです。もしもこれで失敗したら最後の最後で苦い思いをすることになります。そんなの嫌です、私。終わった時、皆さんが笑顔じゃないと嫌なんです』
彼女が真に感じている不安はこれだ。彼女の今までの行いが正しかったかどうかもここに帰結しているから。
沙良は自分が高校生活を送っていなかったことにコンプレックスを持っている。だから、彼女はクラスメイト達に憧れを抱いている、と彼女自身から話を聞いた。
自分と同じ年代だけど眩しすぎるクラスメイト達。
彼らの最後の青春を沙良が先導するのは彼女にとってプレッシャーの何ものでもない。
だけど、俺は大丈夫だと信じて疑わない。
彼女の知りえないところで彼女の評価を聞いている。そのほとんどが、沙良のお陰で学生の域を超えた素晴らしい出し物に出来ると。
直接伝えるのもありだけど、その言葉は文化祭が終わった後の打ち上げで伝えるとクラスメイト達は言っていたから、この場ではやめておく。
代わりに俺の成功談や嬉しかったことを彼女に伝える。それが彼女を喜ばせるものであると知っているからだ。
高校に入学してから一ヶ月ぐらいしか経っていない時、沙良は慣れない環境にいたせいで、今では信じられないほどの弱々しい姿を見せていた。このとき俺は自分の身の回りであったハッピーなことを伝え、いつも彼女を励ましていたんだ。
* * * * *
沙良が日本を発ってから一週間程経った頃、彼女から初めて電話がかかってきた。
彼女の名前が表示された携帯を慌てて手に取る。
『アキ君……ですか』
電話先に出た沙良の声には覇気がなかった。
「ああ、俺だ。高城和晃だ。どうした、何かあったのか?」
『いえ、何かあったわけではないです。ただアキ君と話したかったから電話したんですが、迷惑でしたか?』
「そんなわけないだろ」
わざとははは、と笑う。
内心は笑えなかった。少し前まで俺のことを励ましてくれていた沙良が憔悴しているのがわかったからだ。
あちらで何があったのだろう。仕事中の親父は人が変わるから、想像以上の厳しさに参っているのかもしれない。
そこからしばらく近況を語り合った。けど彼女は事実だけを語り、自分の感想はまるで話さなかった。俺はそのことを言及するつもりはなかった。
『また時間が空いたら電話してもいいですか?』
「ああ、もちろん」
前に約束したしな。
それに彼女は大変な思いをしている。俺と通話することで気が少しでも紛れるというなら、いくらでも付き合ってやる。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それから先、定期的に彼女の方から連絡があった。
最初の方は隠していた弱音も回数を重ねるごとにポツリポツリと彼女の口から漏れ始めていた。
辛いです。日本に帰りたいです。アキ君や由香梨に会いたい、親に会いたい――。
それらの言葉は彼女をその道に引き込んでしまった俺にグサグサと突き刺さった。
その一方で彼女は引き換えに楽しい話を要求してきた。
アキ君の明るい話を聞いてたら、私も何だか救われるんです、と。
幸い、話の種に困ることはなかった。新鮮で慣れない高校生活は話題に事欠かなかったし、沙良も高校生になったような気持ちで聞けたという。
けれど、それも長くは続かなかった。
彼女は元気を取り戻すどころかどんどん悪化していった。
でも自分には彼女をどうにかする力はなかったから、せめて彼女の望んだ楽しい話を提供するしかなかった。
今日もいつものようにトークを繰り広げたのだが、沙良の反応が返ってこない。
『どうして……ですか』
少しして悲痛な呟きが聞こえた。
『どうして私だけこんなに辛い思いをしてるんですか。私だってアキ君や由香梨と同じ年齢で、本当なら今頃は華やかな制服を着て、友達もたくさん作って、何気ない話で笑い合ってるはずなのに……。私は毎日、目上の幾つも年が離れたおじさんに頭を下げて、慣れない仕事に会長に何度も何度も怒られて、時にはないがしろに扱われて、そんな日々が毎日毎日朝早くから夜まで続いて……。この違いは何なんですか。私と高城和晃という二人には一体どんな差があったというんですか。どうして、どうして……。こんなことなら、アキ君の誘い出も断れば良かった……!』
唇をギュっと結ぶ。やるせない気持ちが湧いて来る。
今の彼女に掛けられる言葉は持ち合わせていなかった。無力な俺はただ立ちつくすしか出来ない。
俺はどうしたらいいんだろう。弱音を吐くな、頑張れと彼女を叱咤すべきなのか。ごめん、と今の境遇にさせてしまったことを謝るべきか。それとも君の気持ちは痛いほど伝わってくると上辺だけの同情を訴えればいいのだろうか。
答えは見出せない。分かったのは、人の裸の激情は感じてる本人とはまた違った痛切な思いを抱かせるものなんだということぐらいだった。
* * * * *
『演劇部の方はどうなんですか?』
今度はお前の番だと言わんばかりに沙良が話を振ってきた。
「どうって聞かれても一概に答えられないんだよなあ」
『ならばアキ君自身の調子はどうですか?』
「そうだなあ……ちょっと前まで最高によかったけど、ここ最近は少し落ち込んできてる」
『何かあったんですか?』
「心配されるようなことじゃない。親父が舞台を見に来るって言うんだ。企業の大将としてじゃなく、人の親として。親父が来るって聞いてからそれを意識するようになっちゃって、なんか気分が乗らない」
見るなら見るで構わないから、俺に告げずにこっそり観て欲しかった。本番数日前に息子を動揺させるようなこと言うなよ。親父はそういった細かいことは気にしないんだろうけど。少しは繊細な息子の気持ちを考えて欲しい。
文句を心の内で吐き出していくうちにメラメラと親父に対して怒りの炎が湧いてくる。誰でもいいから、内に溜まった鬱憤を出してしまいたい。だからといって沙良に愚痴を言っても仕方ないから、自制するけど。
二年前のこともある。あの時はこれ以上の、抑えられないほどの感情が溢れていたから止める術がなかったので仕方ないと言えば仕方ないが、また下手に感情を暴露してあの時の悲劇を繰り返すつもりはない。
あれは苦い思い出だ。過去も自分の一部とはいえ、(あの時期、追い詰められてたとしても)あれを自分の一部だとは思いたくなかった。
* * * * *
次は何をする。どこまで学習して、どの辺で手を止めればいい。
俺は自分が焦り始めているのを感じていた。
この前、バイクでツーリングに出かけた。
そこで己が途方もない迷宮に囚われていることを自覚した。
急がねばならない。立ち止まっている余裕など、考えあぐねている時間などない。
一刻も早く多種多様な物事にチャレンジして、その中から自分に一番相応しい何かを見つけないといけない。
時間にして既に二年近く経とうとしている。
親父から「約束」を取り付けられたのが中学二年の冬。その頃から俺は先を見据えて対策を練ってきた。
大雑把な考えでは中学から高校に入っての一年間は多くの資格を取得。二年生になったら、自分が一番興味を持った分野に深く突っ込み、出来たら結果を残す。三年生は結果を残すために全力を出し、親父に話して認めてもらう――予定だった。
だが、この一年のうちに目標としていた資格の数を達成するのは到底不可能だった。そして、予定ではこの頃から一つの分野が気になり始めるはずだった。なのに、やらなきゃやらなきゃという気持ちが先行して、また、本当にこれでいいのかなんていう未来への不安がよぎって、結局手を引くということを繰り返している。
本当に大丈夫なんだろうか。三年の終わりまでに間に合うんだろうか。
既に二年をポジティブに考えたらまだ二年。まだ、期限の半分以上が未来に残されている。
どんなに前向きに考えようとしても不安は拭いきれない。
だって、例えやりたいことが見つかっても一定の成果を残さないと親父は取り合ってくれない。その一定の成果とはどのくらいなのか分からないから、とにかくいけるとこまで行く必要がある。内容によったら毎日出来るものじゃなくてある季節でしか記録を残せないような活動もたくさんある。なので、成果を残したいなら早ければ早いほどいい。
そう考えるとこの三年間というのはあまりにも短い――。
急がなきゃ。
俺は専門書のページを捲る。独学もいいとこで、何が重要なのかわからないから目に入ったものを片っ端から覚えようとする。けれど内容は頭に入ってこない。常に頭を独占するのは、早く読み終わらなくちゃ、と気持ちの先走りだけだ。
大して中味を覚えていないことを自覚しながら先に進もうとした所で携帯がピリリと鳴った。
こっちは取り込んでる最中なのに、誰だよ。
チッと舌打ちしながら電話に出る。もしもし、という声は自然と荒くなっていた。
『もしもし、私です。沙良です。今お時間大丈夫ですか?』
「ん、何だ、沙良か。……そうだな、ちょっと頑張ってたし、休憩でもいいか。少しぐらいなら大丈夫だぞ」
沙良の声には穏やかさが戻っていた。
夏になる前は今にも泣きそうな声をしていたのに今ではすっかり元通りになっている。
自分の置かれている環境に適応し、自然体の自分を取り戻せたんだ。何も出来ずやきもきしてたから、こうして元気になってくれたのは本当に嬉しい。
彼女との会話は身近な期間で起きたことの報告し合い、それと両者の問題に対する進捗状態が主な内容だ。
今までは俺がそのどちらに対しても明るい話を、沙良が深刻な話だった。しかし、最近はそれが逆転した。
仕事に慣れた彼女は普通の高校生が経験できないような面白い体験を話す。対して俺は感じている不安を語るようになってきていた。
『まだ時間はあります。焦らずいけば、きっと何か見つかるはずです。ファイト、アキ君!』
「ああ、ありがとう。沙良のほうこそ、気を抜いて変なミスするなよ」
ははは、と笑ったが、この笑いも嘘だ。
少し前でこれでもかと不幸のどん底に落ちていた彼女。今は俺も彼女と同じ穴に落ちかけている。なのに彼女は先に穴を抜け出してしまった。嬉しいことのはずなのに、裏切られたようにも感じて、怒りが心の奥で燻り始めていた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「あんた最近嫌なことでもあった? そんな不機嫌な顔して」
「うるさい。別に何もねえよ」
口調は攻撃的になってるし、顔もむすっとしてるだろうから、言葉の意味なんてあってないようなものだった。
「分かりやすい態度ね。なんからしくないわよ。相談あったら乗るけど?」
らしくない、なんてこと俺自身が一番分かってる。
相談ね、本当にどうしようもなくなったらするよ、とぶっきらぼうに返す。
心配と不安の入り混じった顔で由香梨は俺のことを見ていたが、それを無視して一人で歩き出した。彼女はついてこなかった。
さっきと違って話し相手がいないから周囲の音が耳に入ってくる。
後ろからは女子の哄笑が聞こえる。話の内容は明日には覚えていないような下らないどうでもいい話だ。あんなに大声で笑って、一体何が面白いというんだ。
ベンチには運動着の男子二人が座って談笑していた。「あーマジで今日の練習辛いって」「こんな練習無茶だろ」と汗一つかいていない姿でドッと笑う。屈託のない笑顔で辛いとか、言葉と状況が矛盾してることに気づいてないのか、こいつは。
周りには俺のように思いつめた顔をしているやつは誰一人としていない。
無意味な会話を繰り広げて声を上げる者。
努力をしてるようには見えない者。
日々を無作為に過ごし、何の成果も得ずに一日を終える者。
そんな救いようのない人間しか周りにはいない。
俺は違う。
俺は努力してる。一日も無駄にしないように生きている。少しでも自分の大事なものを掴もうと必死に進もうとしている。
毎日、毎日毎日専門書と机に向かい合って、時に将来に役立ちそうなイベントがあったら周囲に不審に見られても参加している。
本当に頑張っている人間に「頑張れ」という言葉は余計な一言であるらしいが、まさにその通りだと思う。
今日も帰宅したら、ご飯の準備だけ簡単に済ませ、すぐに机に向かう。
先人達の残した膨大な知識を頭の中に蓄えていく。自分のものにしようとする。
けど、上手く集中できない。周りの生徒達の酷さを知ったせいか、そちらにばかり意識がいく。
あいつらは、こうして俺が必死に訳の分からない単語が並んだ本を読んでる間、自分の好きな時間を過ごしている。
飯や洗濯、それ以外のほとんどの家事も親に任せて、テレビや漫画を見てゲラゲラと下品に笑っているだろう。
未来のことを考えて、頭を抱えることもまずないだろう。その日一日一日の楽しかった記憶だけを残して、授業で習ったことも頭の中から排除しているだろう。
俺はこんなにも頑張っているのに。
俺だけはこんなにも頑張っているのに。
あいつらは楽して、何も考えず生きている。
怒りが心に炎上する。鎮火するための水はどこにもない。
炎は燃え草を求めて心の隅々まで燃え広がっていく。
ピリリ、と携帯が鳴った。乱暴に手を取り、力任せにボタンを押した。
『あ、アキ君! 今日、嬉しいことがあったんです』
沙良はいつもの前置きもなしにダイレクトに用件を言おうとしていた。声は聞いたことがないくらい弾んでいる。
『あのですね――』
俺が何か言う前に沙良は事を話し始める。何でも、今日初めて親父に褒めてもらえたと思う。ここまで散々辛辣な言われようだったのに、その相手に実力を認められれば誰だって喜ぶに決まっている。
だが俺は親父を――俺をこんなことにしてしまったあいつに憤怒しか感じていなかった。
『私がここまでやってこられたのもアキ君の応援があったからです。アキ君がいなかったら私はすでに潰れていたと思います。ありがとう、アキ君――それとあなたにも同じ喜びが訪れるって信じてます』
頭の中で何かが切れた。
――私がここまでやってこられたのもアキ君の応援があったからです。
ああ、そうだろうな。ただでさえ罪を感じているのに、お前は弱音を吐いて、俺をも傷つけていることに気づかず、ずっとやってきたもんな。
――アキ君がいなかったら私はすでに潰れていたと思います。
これもその通りだろうな。お前は周りから見たら醜いと思えるほど衰弱していた。そんなお前を悶々とした気持ちを抱いて支えてきたのは誰だと思う? 俺はお前の恩人だ。恩人に対して偉そうな口、聞きやがって。
――あなたにも同じ喜びが訪れるって信じてます。
俺にも沙良と同じ喜びを?
はは――笑わせんなよ。
「――お前、俺の苦しみを理解してないくせに、よく言えるな」
言葉が、感情が、爆発した。
心のダムが倒壊する。
もう止められない。
「お前と俺を一緒にすんな。誰がお前を救ってやったと思ってる。俺は二度もお前を救ったんだ。俺がいなかったらお前の父親はまだ病院にいたんだぜ? で、折角大嫌いな親父に金を出してくれってみっともなくせがんで、訳の分からない『鎖』を取り付けられてよ。まあ確かに最初は舐めてたよ。否定はしない。けどどうだ。期間は経った四年間。しかも学生の身で自由な身とはいえない。ただでさえ夢を追うには四年なんて短すぎるくらいなのに、他にも制限があるんだ。それでも俺は前向きに考えて行動したさ。その過程でお前の下らない泣き言を聞いた。自分の事で精一杯なのに、だ。お前のことを心配させないためって理由もあった。俺が弱ってる所を見せて、お前をこれ以上追い詰めないように気を配ってた。なのに、どうだ。辛い日々が続いて、かつての恩も忘れて、俺に不満をたらたらと話しやがってよ。誘いを断った方がよかった? なら、そこから逃げ出してタイムマシンでも作って、過去の自分に断るよう言えばいい。そうすれば俺も沙良も救われる。また一緒に過ごせるぜ? もちろん、由香梨ともな。いいか、お前はこの誘い出をこうなると分かった上で承諾したんだ。なのに親父に怒られたくらいでピーピー喚きやがって。自分だけ気の済むまで言葉を吐いて、勝手に見切りをつけて。それでようやく仕事が軌道に乗りはじめて仕事が楽しくなってきた所で、今までのことはなかったかのようにして。段々と追い詰められる俺を励ましてさ、一体何だよ。立場が逆転したと思ってんの、お前? 自分だけ調子いいからって俺を上から見下げてよお。ふざけんなよ。俺がどんだけ我慢してお前の言葉を聞いたと思ってんだよ!? その裏で俺がどんだけ必死になってたと思ってんだよ!? お前も周りの無能なやつらと一緒だ。今の自分さえよければそれでいい。後はお構いなし。動物と違ってちゃんとした考えが出来るのにしようとしない。未来を考えない。俺は違う。俺だけは未来を見続けてる。目の前に広がる道を進もうとしてる。『鎖』を外す鍵を探してる! そんな俺の苦しみを、『鎖』に囚われた俺のことなんか、お前なんかが理解できるはずねえだろ! 下手な同情を押し付けんじゃねえぞこの野郎!!」
決壊したダムは止まることなく溢れ続けた。
彼女の声は返ってこない。代わりに静かな嗚咽だけが電話越しから聞こえてくる。
『ちが、違うの、アキ君、そういう意味で言ったんじゃなくて――』
「黙れ! お前の声はもう聞きたくない! 二度とかけてくんな!」
強く握り締めた携帯を床に叩き付けた。ケースが外れただけで、携帯自体が無事だったのが無性に腹が立った。
荒くなった息を整え、投げつけた携帯を見つめる。
沙良は泣いていた。俺の言葉を聞いて泣いていた。あの綺麗な声は震えていた――!
大切なものを壊すというのは、案外気持ちいいらしい。燃え上がった炎と同じ分量の爽快さがあった。
部屋に飾ってある鏡に自分の姿が映る。
にんまりと笑っていた。不気味なほどの笑顔だ。歪んだ、醜悪な笑顔だ。
それを見て急速に気持ちが冷えていくのが分かった。崩壊した自分の欠片が元の姿に形付けられていく。
――今、俺は沙良に何を言った……?
床に落ちた携帯を呆然と見つめる。
ついさっきまでの自分の醜態が浮かんでくる。けど、それは本当に自分自身が起こしたものだったのかわからない。まるでテレビの中で行われた活劇のように感じた。
全身が震えていて、携帯を拾うのに随分時間がかかった気がする。照準の合わない手でもう一度沙良に連絡を試みる。
――ただいま、電話に出ることができません。ピーっと鳴ったら……。
何度かかけなおしても、無機質な機械音声しか聞こえなかった。
沙良に電話が繋がらない。
これだけのことなのに、つい今しがたの暴走は誰のものではない、自分のものであると確定した。
「ちくしょう!」
携帯を床に投げつけようとしたが、それではさっきの壊れた自分と同じだ。ギリギリで踏みとどまって、ベッドにたたきつけた。
「俺だってそういうつもりじゃ……あんな酷い暴言言うつもりはなかったんだよ……」
一体何が俺をこうさせた。
一体何が俺を壊した。
一体何が――
――不意に鎖に繋がれた自分の姿が思い浮かんだ。
俺はここでようやく親父の言葉を理解する。
お前に未来の鎖をつけてやろう。
それはつまり、こういうことだったんだ。
「違う……違う……そんな、そんなこと……あるわけ……違うんだよ……」
崩れ落ちる。
頬には涙が伝っていた。止めることなんてできなかった。
情けない声を出しながら、嗚咽を上げる。心の中では、ごめん、沙良、ごめんよといつまでも謝罪を繰り返していた。
* * * * *
それ以後、沙良からの連絡はめっきり減った。本当に重要な用件がある時ぐらいで、それも事務的な口調だった。まともな会話をするようになったのは二年になってから……公開恋愛を始めてからだ。
あの時、沙良に行った行為は俺の罪だ。
たとえ彼女が許しても俺はこの時の過ちを決して許してはいけない。
だが、このような苦い経験からも学んだこともある。
人の後悔とは一生取り除けないんだって。
このことと結びつけるのは少々訳が違うのかもしれない。
でも、後悔という言葉のみにおいては同じだ。
最後の文化祭。
泣いても笑っても最後だ。
失敗は許されない。
後悔は残したくない。
最後の文化祭が、崎高祭が、いよいよ始まる。
突然ですが、暫くの間更新を停止します。
細かい期間はまだ分かりませんが、長くて一ヵ月程空くかもしれません。
詳細な理由は活動報告で説明します。
突然のことで本当に申し訳ありません。
しばしお待ち頂けると幸いです。