一話「あれからとこれから」
俺は多分、自分に酔っていた。
初めて自分が「これだ!」というものを見つけ、一つの目標に向かってひたむきに努力する。そのために周囲の人間の力を借り、暇な時間を削って練習をした。
周りには隠していたけど、「俺、凄いだろ? こんだけやれば絶対に大丈夫だろ?」と一生懸命な自分の姿に満足し、浮かれていた。
オーディション当日と前日の自信は不安を隠すため、前向きに考えるためのポジティブ思考――と言っていたが、実際はそうでなく本当に自信に満ち溢れていた。
才能があるならまだしも、ただの凡人がたった二ヶ月の努力で入部時から一年以上努力を続けている人間に勝てるはずがない。それを考慮せず、むしろこれだけの短期間で「勝ったぜ、どうだみたか」なんてドヤ顔をひっそりとしてたのだと思う。
つまり今回の敗因は今までの怠惰と傲慢になりすぎたことの二つが原因だと思う。
あの日から数日間、失意に呑まれていた。
特に比奈にはあの日の俺を目撃されてる分心配をかけた。頻繁に連絡をくれて、励ましてくれて。顔を合わせると他愛も無い話をして笑ってくれた。ただ会話が終わった時などの一瞬に、悲しそうな顔を浮かべていたのも俺は見てしまった。
いくら嘆いても決まったものは決まったのだし、仕方ない。それにあくまで主演が取れなかっただけで自分は準主演のポジションである。俺の未来は確かに失われた。だけどそれは少し前までの俺には予定調和な未来であったし、部活だって文化祭が終わるまで辞めるわけにはいかない。
そうやって前向きに考えることで俺は平静を取り戻していった。
少しずつ日常に戻っていったが、親父への報告もきちんとしなければならない。
あの日の勝負の結果については沙良を通して親父に伝わっていた。だから俺は罵倒される覚悟で親父の元を訪れた。
「……お前は失敗したんだな」
だが親父はそれしか言わなかった。彼の言葉に頷くと「そうか」と短く呟き、
「では、今後のH&C社はお前に託したぞ」
と続け、今回の件には全く触れずにこれからのことを話した。
「いくら受け継がせるといっても今のご時勢、学歴がないと認められん。だからお前の実力に丁度いい大学に入れ。成績もそれなりに良いようだし、推薦で入るのを奨める。大学入学後は、大学に通いながら並行して経営などのやり方を教授していく形になる。高校を卒業したら当分自由な時間はないと思え。だから残りの高校生活ぐらいは自由に楽しくやることだ。今お前に伝えることはこれだけだ」
親父はそれで話を打ち切った。そのスルーっぷりに退室してもいいと言われたのに俺は親父の前で立ち尽くしていた。
「……どうした? 不服そうな顔を浮かべているが」
「あ、いや……何で親父は俺の失敗について何も言及しないんだって思って……」
「失敗したからお前をここに呼んで今後のことを話したんだ。これ以上何かお前に言わなきゃならないことはあるのか?」
親父は逆に尋ねてくる。
「それは……ないけど」
「それともお前は罵ってもらいたいのか。驕っていた自分を誰かに咎めてほしいのか」
「…………」
その通りだった。俺は誰かに怒ってもらってほしかった。貶してほしかった。お前は愚かだ、と一言言ってくれれば自分が抱えるだけよりも楽になる気がした。
「和晃、お前は何か勘違いしてるようだ。俺は別にお前にH&C社を受け継いでもらいたいわけではない。何度も言うが、中途半端な人間になるなと言ってるんだ。そして悲しいことに人間には努力だけじゃ決して埋まらないものがある。今回それはあまり関係ないが――しかし人には絶対に無理なものが存在する。お前は他の未来を歩むことは無理だった。ただそれだけだ。今のお前は特別な存在じゃない。甲子園出場を果たせず、プロ野球選手になる夢も叶わなかったごく普通の一般人だ。そんなお前に親の俺から言える言葉は――今までお疲れ。これぐらいしかない」
親父は俺の努力を労ってくれた。
それは嬉しいことのはずだ。なのに、なのに――どうしてこんなに虚しいんだろう。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「あー……ただでさえ暑いのに知恵熱で熱中症になりそう」
部屋で由香梨がぼやいている。だらしなく顔を天井に向ける幼馴染に一言申してやろうかと悩んだが、勉強頑張っているから今回ばかりは見送ることにした。
一学期が終わって夏休みに入った。とはいっても、休みだ、さあ遊ぶぞ、とはならない。それはこの学年は受験が控えているからだ。去年までと同じようにはいかない。
……ま、俺は推薦だからあまり関係ないんだけど。
夏休みは週に一度、俺んちで勉強会が開かれる。参加者はいつものメンバーに恵ちゃんをプラスする感じで、後はそれぞれの予定次第。
この中で一般受験をするのは由香梨、若菜ちゃん、直弘、恵ちゃんの四人だけで案外少ない。頭のいい久志と芸能人で中々勉強の時間が取れない比奈は推薦だ。沙良に関しては高校卒業後、H&C社に戻るためそもそも論外である。
勉強会では一般受験組に俺達推薦組が分からない所教えるなどしてサポートする。久志は理系のため若菜ちゃんにつきっきりで、俺は文系科目を中心に教えている。オールマイティーなのは沙良で、俺も久志も分からなくなったら沙良に頼るといった風だ。で、比奈はというと勉強の支援ではなく、飲み物の提供とか環境を整えたりとか雑務系の支援を行っている。本人は勉強出来ないから仕方ないと笑っていた。
「お疲れ様」
比奈が運んできた麦茶をテーブルの上に置いていく。
「あと一ヶ月近く勉強漬けの日々が続くと考えると……」
「そんなに嫌なら推薦受ければよかったんじゃないですか? 由香梨の成績ならそこそこのレベルの大学に入れたはずです」
「でもうち金ないから。奨学金使えばどうにかなるにしても、お金かけたくないのは確かだから狙えるなら公立に賭けてみたいのよ。……ただまあ、少し受験舐めてた感はあるけどね」
由香梨は長いため息をつく。
「そういうこと言ってる暇があったら勉強した方がいいんじゃないのかなー? この中でも一番焦ってるのは由香梨お姉ちゃんなんだし」
そしてここぞとばかりに煽って行く恵ちゃんである。由香梨はぐぬぬと悔しそうな顔を浮かべるが反論はしなかった。
「まあ、菊池の場合は俺らよりも遥かに高いランクの大学を狙っているからな。こちらはちょっと有名なレベルの私立大学……高校受験を経験したといえど、三年前とはまた違うからいまいち受験に真剣になりきれてない感はある。今だってひたすら勉強してるだけだしな」
「今からやらないといけないってわかっていても、やっぱり半年先のことだから、実感がいまいちわかないのもあるかもね。結局やらなきゃやらなきゃって焦る気持ちばかりが先行して、空回りしちゃいそうだ」
「……そうでなくても空回りすることもある」
しっかりとした考えを持つ男子達。ただ若菜ちゃんはもうちょっと頑張れ。
「一般受験じゃない私が言うのはおこがましいかもしれないけど、適度な休憩が必要だと思うんだよね。目標は決まってるんだから一歩一歩確実に歩んでいくのが大事だよ、きっと」
「俺も比奈と同意見だ。頑張りすぎは痛い目を見るって言葉もあるくらいだし」
「……和晃、自虐ネタにしても今のあんたには返ってくるブーメランがでかすぎるんだからやめときなさい」
俺は由香梨の言葉に苦笑しかできなかった。
「でもそうよねえ。三月の受験に向けて頑張るぞーってのもいいけど、その前に小さな目標みたいなものは欲しいわね。そっちの方がやる気出るだろうし」
「というよりも必要なのは気分転換ですね。いつも部屋に閉じこもって勉強勉強……そんなの誰だって飽きるに決まってます。辛いのなら、楽しくやればいいんです。そうですね……例えば日が出ている間は思いっきり遊んで、夜は徹底的に勉強――幸せな心持ちで勉強を始めたのならモチベーションも上がると思うんですが」
「その通りだと思う。でも、その気分転換をどうするかが問題だよね」
「あ、私海行きたい! 夏だし皆でパーッとやりたいなあって思ってたの! ね、ね、名案じゃない? 泊まりにすれば夜勉強って項目も出来るし!」
「夏に相応しい遊びをした後、勉強会か……ふむ、悪くない」
「でしょでしょ! さっすが直弘君話分かる!」
照れくさそうに笑う直弘の肩を叩く恵ちゃんであった。
「……でも近くに海はない」
残酷な真実を若菜ちゃんはずばりと言う。
「……県を跨いで行くにしても移動する手段は限られてるし、お金もかかる。そもそも私達だけじゃ責任者がいないから駄目だと思う」
「確かに責任者がいないのに高校生の男女が遠くの地で外泊……というのはあまり良い想像が浮かびません」
「いっそ日帰りにすればいいんじゃないか? その日だけは勉強しない休日ってことで。少しでも多くやらないといけないのは分かるけど、だからって何も手付けない日が一日くらいあってもいいだろ?」
「そうかもしれないけど、不安なのは確かなのよね。日が経っちゃうと昨日はサボちゃったなあって思っちゃうかもしれないし。そこらへんは個人の考え方なんだろうけど」
皆、難しい顔を浮かべる。
未来に対して不安を抱いているのは決して俺だけじゃない。ここにいる皆も高校卒業後の進路という大きな分かれ道に悩んでいる。
きっと俺は今の皆の将来の心配を大きく誇張して、一足早く先に経験していただけだ。
親父の言ったとおり、俺は特別な人間じゃなくて、どこにでもいる一般人なのだなあとつくづく思う。
休憩終了後、一般受験組みは頭を悩ませながら、推薦入試組みもこれから一層努力しないといけない彼らに何ができるのか頭を悩ませながら、今出来ることを取り組んだ。
けれどこの日、夏休みに海に行けるかどうかは決まらなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
横になって天井を見上げていた。白い天井を視界に入れたままぼーっと見つめる。
「海かあ……行きたいな」
いつしか青い空に健康的な白い雲を天井に映して小さく呟いた。
この前の勉強会で海の話題が出たのと、ラジオでも海のことが話題に上がったから、少し意識しちゃったんだろう。実際、皆で行けたら楽しいだろうしな。勉強で張り詰めている由香梨とかにも良い息抜きになるのは確かだろうし。
「切なそうに呟いて……そんなに海に行きたいのかい?」
視界を遮るように慶さんの顔が現れる。
今日は慶さんに稽古をしてもらっていた。主演を逃してしまったけれど、本番はまだだから。折角の彼の厚意を無駄にはしたくないし、望まぬ役でもここまできたならしっかりとやり遂げたいという思いがあった。
なのであの日以降も時間が空いた時にこうして特訓している。
「行きたい。けど、行く手段がなければ、金もないし、高校生だけで行くってのもちょっとな。受験も控えてるし一日中遊んでるわけにもいかないってことで計画保留中なんだ」
「ふーん、そうなんだ」
慶さんは簡単な興味を示して顔を引っ込める。
「和晃君が望むなら、行く手段は提供するけど?」
「……へ?」
慶さんは体を伸ばしながら自然と言った。
「僕、実はこの前車を買ったんだ。お金が結構溜まったから、少し奮発して大人数乗れるワゴン車ををね。僕の運転でよければ和晃君やその友達を海に連れて行ってあげるけど。あと、高校生で行くのもって言ってたけど、良かったら僕が責任者としてついていくのもありだね」
慶さんはまあ、と続け、
「予定が合えばの話だけど」
こういうのを棚からぼた餅というのだろうか。ほんとに全く期待してなかった分、彼の提案にびっくりした。
「え……いいのか?」
上半身を起き上がらせる。
「構わないよ。今のところ空いてる日は予定入ってないし。それに弟子が懇願してるんだ。弟子の望みを叶えてこその師匠だろう」
うんうん、と慶さんは一人で頷いている。彼は確実に師弟関係の解釈も色々こじらせてるな。
「なら慶さんの空いてる日を教えてくれ! こっちは夏休みだからいくらでも予定合わせられるだろうし」
「ん、わかった。それにしてもいいねえ、若い少年少女と海……芸術的だ」
慶さんの目がキラキラ光っている。
「ちなみに何人ぐらいになるんだい?」
「そうだな……全員来れると仮定すると、慶さんも合わせて九人かな」
「ちなみにその中に比奈は含まれてるのよね?」
「ああ、勿論」
「なら私も行くしかないわ! 全部で十人よ!」
「……へ?」
いつからそこにいたのか、俺の背後に比奈のお姉さんである博美さんが立っていた。
「な、なんで博美さんがここに!?」
「河北君に少し用事があって寄ったのよ。そしたら中で海がどうたらこうたらって話してるじゃない。比奈もその中に含まれてるなら私も行くしかないじゃない」
どんな理論ですか。
「河北君、私がついていっても構わないよね?」
「僕は反対しないよ。それに大人の女性がいたほうが女の子も安心できるだろうしね」
「よくわかってるじゃない! ただでさえ高校生という盛り時なのに、海という開放感溢れる地で若々しくて健康的なピッチピチの肌を存分に晒した水着姿の国民的アイドルがいたら、誰でも野獣になるものよ!」
「……なあ、博美さんを連れて行くのが一番危険じゃないか?」
「否定しきれないね」
心配する姉というより、ただのシスコンになってるような。
「まあ……不純異性交遊をしようとしたら僕が止めるさ。何度も言うけど、これでも常識はわきまえてるし、責任者になる以上はしっかりするつもりだ。過剰なスキンシップは駄目だからね?」
「そんなの言われなくてもわかってる」
「ああ、でも僕に対しての過剰なスキンシップなら……許すよ」
「何ですって!?」
「意味深に間を空けるな! お陰で博美さんが獲物を見つけた獣の目になってるじゃねえか!」
――こうしていつものメンバーに慶さんと博美さんを加えた十人で海に行くことが決定したのだった。
 




