六話「かつて夢を断念した少女」
慶さんから指導を受け初めておおよそ二週間。彼は少ない空き時間を使って熱心に教えてくれている。
最初はちょっとふざけていたりするのだが、集中してくるとかなりのスパルタになる。正直驚いた。
俺も遅れないように必死でついていってるのが現状だ。
今は昨日の指導を思い返しながら登校している最中だった。昨日の夜はへとへとで振り返ってる暇がなかったからな……覚えているうちに復習しとかないと。
「……げ」
前から嫌そうな声を出した子がいた。
「お、梨花さんじゃないか。おはよう」
「……おはようございます」
「何でそんな嫌そうな顔を浮かべてるんだ?」
「朝から先輩に鉢合わせしたのが原因です」
俺の顔を見ただけでげんなりしただと!? 心外な!
「そんな沈んだ顔してちゃ伸びるもんも伸びないぞ。心なしか今日はパッドが控えめだし」
「先輩がそういったセクハラしてくるから気落ちしてるんですよ!?」
「セクハラじゃねえ! 挨拶だ!」
「最低ですね! この変態!」
梨花さんに言われても悪い気がしない。何故だろう。
「はあ……これだから先輩と会いたくなかったんですよ」
「そんな悲しいこと言うなって。俺は朝から梨花さんに会えて幸せだぞ?」
「よく言いますよ。はあ、比奈さんにもこういったことしないのにどうして私だけ……」
梨花さんはため息をはく。
何故彼女にだけこのような接し方をしているのか。きっかけは忘れちゃったけど、梨花さんがこういった絡みが大丈夫と分かり、それ以来いじり倒しているような気がする。見た目や振舞い方と違って彼女の中身が割と残念なことも関係あるだろうか。
というか、他の人に全くこういったことをしないというわけではない。むしろ自分はちょっかいを出したがる性格だ。ただ周りには俺なんかよりも濃い人間がたくさんいてどうしてもツッコミに回らないといけない場面が多々ある。そんな中、安定していじれるのが梨花さんなわけだ。
「梨花さんが好きという証拠さ!」
「この流れで言われても全く嬉しくありませんから!」
こんな感じに梨花さんとお喋りしながら登校した。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……げ」
放課後。部室に向かう途中、またまた梨花さんと鉢合わせした。彼女は朝と全く同じ嫌な顔を浮かべている。
「そんな顔するなって。悲しくなるだろ」
「……先輩が変なことを言わなければこうはなりませんでしたよ」
梨花さんはため息をつきながら隣に並ぶ。文句言いながらも一緒に来てくれるのね。
「今日も部活来るのか?」
「だからここにいるんですよ。一学期も終わりが近くなって練習も本格化してますし、出来る限り行きたいんです」
「……もうさ、演劇部入っちゃえば?」
彼女は部活の常連と化しているのに部活に所属していない。成績表とかにも反映されるんだし、頻繁に出入りしてるんだから入ればいいのに。もったいない。
「考えたことはあるんですけどね。でも好きな人がいるという俗物的な考えで手伝いを始めたわけですし、あくまで練習風景を眺めていたいだけなので別にいいかなと」
「それでもいいんじゃないか? 俺なんかまともに部活出てないのに演劇部所属って書かれてたんだぞ」
「何で自慢げに言ったんですか。胸張って言えることじゃないですよ」
梨花さんは呆れ顔を浮かべる。
ははは、と笑って返すと後ろから俺を呼ぶ声が聞こえた。誰かと思って振り返ると去年同じクラスの男子が俺を呼んでいた。
「おー、どした? つかお前、部活は?」
「俺はもう引退したんだよ。これからは進学目指して勉強の日々さ。んでファミレスで友達と勉強しようぜって話になったんだけど、お前も来るか?」
「すまん、今日はパスで」
「何か用事でもあるのか?」
「これから部活だ。演劇部は文化祭終わるまで引退じゃないからな」
そう言うと友達は目を見開いて驚いた。
「はぁー……噂で聞いてたけど、お前本当に部活出るようになったんだな。去年は帰宅部同然だったのに」
「ま、色々あってね。部活休みの日やテスト週間の時にでもまた誘ってくれ」
「おう、了解。それじゃあな」
友達は手を振って離れていく。
「待たせてすまなかったな、梨花さん……ってどうしてこちらを見てるんです?」
隣でずっと黙っていた彼女に目を向けるとじーっとこちらを見ていた。
「いえ……以前の先輩なら友達の誘いに乗るはずなのに、今は部活優先だなんて本当に変わったんだなと思いまして」
「驚いたか?」
「ええ、今年中に世界が滅びる気がしてなりません」
「酷い言いようだなおい!」
朝と同じように二人で部室に向かった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「部室に忘れ物した……。取りに行くから鍵貸してくれるか?」
「いいけど……俺もついて行くぞ?」
「いや、俺一人で大丈夫。大した用でもないし。鍵は返しておくから先帰っててくれ」
「ん、わかった。じゃあよろしく頼むぜ」
部長から鍵を受け取り部室に戻る。
中には誰もおらず小道具などが部屋に散乱している。
「……よし、やるか」
部室に忘れ物をしたというのは真っ赤な嘘だ。
この閑散とした舞台で慶さんの教えを実行しながら練習したい。そういう意図があってここにやってきた。
家でも簡単な動きとか台詞の練習は出来るけど、ちゃんとした場所の方がやる気が出る。
時間がもったいないので早速取り掛かる。
集中して練習に取り組んでいると部室のドアが急に開け放たれた。突然の出来事に驚いてつい体が固まってしまう。
ドアの方を見るとそこには梨花さんが立っていた。
「あ、あれ、先輩? どうしてこんな時間に先輩が……」
「それはこっちの台詞だよ。どうして梨花さんがここに?」
「私は教科書を忘れたんで取りに来たんです。それがないと宿題出来ないんで……。で、先輩は何してたんですか?」
誤魔化しがきくなら誤魔化していたけど、それっぽい動きを見られてしまっているので本当のことを言うしかないだろう。
「劇の練習だよ。部活だけじゃ物足りないから残って練習してたんだ。本当は誰にも知られるはずの無い秘密の特訓のはずだったんだけど」
「素直に努力している所を見られるのが恥ずかしいって言えばいいじゃないですか」
梨花さんには繊細な男の子の気持ちが分からないようだ。
彼女はこちらに近づいてきて足元に置いてある台本を拾う。
「この台本……先輩のですか?」
「ああ、そうだよ」
「ボロボロじゃないですか、これ」
梨花さんが手に持つ台本は言うとおりボロボロで、何十ページも厚くなっているように見える。
彼女は中身をパラパラとめくる。幾重にも引かれた赤い線や、空いた隙間に書かれたメモ書きがここからでも見える。
「だから人の努力の結晶をマジマジと見るなって……本当に恥ずかしいぞ」
しかし梨花さんは無言で台本をじっと見ている。俺はじれったくなって、練習どころではなくなってしまう。舞台から降りて、梨花さんから台本を奪い上げる。
「外も暗いし、用を済ませて早く帰った方がいいと思うぞ? 梨花さんもちゃんとした女の子なんだから。今日のことは誰にも言うなよ。恥ずかしいから」
背を向けて彼女に手をヒラヒラと振る。
「いえ……私も先輩の練習に付き合います」
「これは秘密の特訓だと何度言えば――」
「外は暗くて、女の子一人じゃ危険です。先輩がそう警告したのに……か弱い乙女を一人で帰らそうとするんですか? 比奈さんが知ったら悲しみますよ?」
比奈を引き合いに出すとはなんとも卑怯な。
ため息をつく。仕方ないと判断して彼女がここに残ることを承諾した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「どうして先輩はそこまで頑張るんですか?」
休憩に入り、梨花さんがお水を渡しながら訊ねてきた。
「俺が頑張るのはおかしいか?」
「以前の先輩を知ってる身としてはおかしいですね」
ですよね。
「先輩が本場の演劇を観て、それに感激した影響で部活に出るようになって精力的になったのは知っています。だけど先輩の場合は過剰というか……必死って感じがします。ただ興味を埋めるためじゃない……いつかのアイドルを志していた頃の私に似てる気がして……」
アイドルを目指していた頃か……。
そういえば比奈もアイドルになる過程で様々な苦労があったと言っていた。憧れの職業を目指しているのに、そこに楽しさや嬉しさといった正の感情がなくなり、いつしか道を辿るのが苦痛に感じるようになる。その辛さを強靭な意志で耐え抜いて今の彼女になったと。
夢を叶えた今は幸せだけど、そこに至るまではひたすらにがむしゃらだった。梨花さんの言いたいことはそういうことではないだろうか。
「まあ、何だ……最初は関心を引かれて参加したのは確かだ。今はちょっと事情が変わってそんな生温い思いじゃ足りない事態になっちゃってさ。だから今はどうしても必死にならざるを得ないっていうか」
「悪いことではないと思いますけど……もしもどこかでつまずいたら立ち直れるかわかりませんよ?」
「かもなあ。でも、それを恐れてたら何も出来ないしな。ま、俺は今まで何事も言い訳つけて適当にやってきたからなあ。それこそ短期間は集中してやったこともあったけど、最初だけだ。少しやったら後は放置。そんな自分が効率のいい方法なんて思いつくわけないからこうして練習量を重ねてるわけなんだけどさ」
気恥ずかしいので視線を逸らして頬をポリポリ掻く。
「先輩の飽きっぽさ……で合ってるかはわかりませんが、その先輩がこうして一つのことに集中出来てるのが異常なんですよ。あ、別に悪い意味ではないんですけど」
梨花さんが慌てて訂正する。
「……多分、俺は臆病になりすぎてたんだと思う。祥平にも同じようなこと言ったんだけど、先のことを見据えすぎて手につかなくなる。きっとどんな事でも本気でやろうとしたなら出来たはずなんだ。でも自分で抑制して逃げてきた」
「じゃあ、今の先輩はその怯えを克服したってことですか?」
「そんなことはないよ。今でもふとした瞬間に俺は何をしてんだろう、こんなことしても将来の役に立つのかどうかわかんない、時間を無駄にしてるんじゃないか――そんな不安が浮かんでくる」
俺がこうしているのも全て親父への対抗心が理由で、結局自分の夢とかそういうのは関係ないんじゃないか。そんな風に思うときがある。
「でもさ、昔と比べてちょっと変わったんだ。それもこれもあいつの――夢を叶えた女の子を一年間、俺は傍で見てきたから……その影響がでかいんじゃないかって思うんだ」
梨花さんはしきりに頷いてくれる。彼女もその夢を叶えた女の子の正体を知っているから、理解してくれるんだろう。
「良い人に出会えましたね、先輩」
「全くその通りだよ。俺にはもったいなすぎるぐらいだ」
「そんなことないです。二人はお似合いですよ」
「そうか?」
「そうです」
梨花さんはフフフ、と笑う。かつて夢を断念した少女の笑顔は美しかった。
「ま、そういうわけだから頑張るってわけよ。もう一度言うけど恥ずかしいから誰にも言うなよ!」
「分かってますよ、高城先輩。私も応援してる身ですしね」
「てっきり祥平のことを応援してるかと思ったけど?」
「それはそれ、これはこれです」
なんとずるい。
「後輩の女の子が応援してくれるんだ、もっともっと身を引き締めないとな」
俺はそう言って彼女に向かってはにかんだ。梨花さんが一瞬動揺する。
「なるほど……比奈さんはこれにやられたわけですね」
「どうかしたか?」
「先輩はやはり嫌な先輩だなと思っただけです」
「俺今何もしてないよね!? なんだそれ、もっと俺にいじってほしいってことか!?」
「何でそうなるんですか!?」
「丁度夜の部室に二人きり――舞台は整ってる!」
「なっ!? こ、来ないでください! 一歩でも近づいたら殴りますよ!? じりじり足進めないでください!」
こうして梨花さんと楽しみながら今日一日を終えた。
……ただ、彼女に叩かれた頬は次の日まで赤く腫れたのはまた別の話である。
 




