第一話 チェス盤の上
「それじゃあ僕は帰るね。」
朝起きて隣に寝ていた知らない男が早々に服着て一声かけてくる。
「あぁ。気をつけて。」
寝ぼけ眼をこすりながら自分の服を探す。
「冷たいんだね。もっとかわいらしく見送ってくれたっていいのに。」
「名前も知らない男をかわいく送り出すなんてむりよ。」
「名前、聞かないんだ?」
「興味ないわ。」
男が小さくあははっと笑う。
「おもしろい人だね君。」
「そう?」
「君みたいな美人を抱く機会なんてなかなかないだろうな。素敵な夜をどうもありがとう。」
そして男はじゃあまたねと言ってドアのぶに手をかけてでていった。
次なんてないのに男はいつも社交辞令でそう言う。
その間もあたしは相変わらず自分の着る服を探し続けていた。
男に興味はなかった。
仕事柄的にも情がうつるとまずいし、なにより好きという感情を抱いたことはなかった。
恋だの愛だのはよくわからない。
してみたい気持ちはあるけど、しなくても生きてはいけるもの。
だから私にとって男と関わるのは一夜だけでいいのだ。
床にくしゃくしゃになっていたダボダボのTシャツを一枚着て、あくびをしながら洗面所に向かう。鏡の前に立つと眠そうな自分がこっちを見ていた。
金の蛇口をひねると澄んだ透明な水がでてくる。
それを顔に浴びせると、とたんに半分寝ていた頭が覚醒した。
ウール100パーセントのフェイスタオルで顔を拭き、顔を上げ再び鏡をみると仕事の顔のあたしが映る。
この瞬間が一番好きだ。
「あたし」という存在を朝と夜でちゃんと使い分けられていると実感できるから。
化粧をしにリビングに戻ると、仕事用の携帯が光っていた。
「嘘でしょ……」
顔をひきつらせながら携帯を手に取る。
とっても嫌な予感がする。
おそるおそる携帯を開くと不在着信一件の文字が浮かぶ。
着信 クイーン
名前を見たとたん嫌な予感は的中した。
すると何を察したのか再び電話がかかってきた。
表示はクイーン。
「……はい。」
「なんだよその声は。」
声からあたしの機嫌の悪さをかんじとったのか、クイーンの第一声はそれだった。
「当たり前でしょ。この時間にあなたから電話がかかってくるなんて予定の変更しかないじゃない。」
「さすがルークのナンバーワン。よくわかってらっしゃる。」
「ふざけないで。今日は仕事はしないわ。」
「まぁまぁ。誰も任務とは言ってないだろ。最後まで話を聞け。」
任務じゃないならなんだというのだ。
今日は次の仕事のパートナーとの顔合わせだけだというから、せっかく午後から買い物に行く予定だったのに。
「だったら用件はなんなの?」
少しイライラしながら先を促す。
「実はだな、今日顔あわせする予定だったパートナーが変わったんだ。」
「なに。そんなことなの?そんなのわざわざ電話で言わなくても……」
「だから、最後まで話を聞けって。その変更になったパートナーっていうのが最近入ってきたポーンの若造なんだ。」
「……」
一気に体の力が抜けた。
まったく。この人はクイーンに昇格してもなんにもかわらないんだから。
「クイーン、いい加減成長して。つまらない冗談言ってないで仕事しなさいよ。」
「おい。ちょっとまてお前。これはマジだ。」
「次の任務はランクAの重要任務でビショップ以上のレベルがないと仕事に就けないってこと、あたしが知らないとでも思ってるの?」
「わかってるよ。だからわざわざ電話したんだろ!」
「いい加減にして。そろそろ怒るわよ。もう切るわ。」
「おい!待て舞花!」
「ルーク01よ。いい加減本名で呼ぶくせ直して。それじゃ。」
一方的に電話を切り、画面に表示された通話時間を見る。
6分35秒。
組織の規定通話時間は5分以内。
クイーンともあろう人が平気で規定を破るのだから溜め息がでる。
ダブルベッドの横にある、文字盤が宝石でできたなんともゴージャスな時計に目をやるとちょうど9時を指していた。
「くだらない電話に付き合ったせいでもうこんな時間じゃない……」
まったくあの人には毎回毎回本当にイライラさせられる。
そのあとは30分で化粧をすませ、衣装ダンスからいつもの顔合わせようの服を選び、一人暮らしには広すぎる家をあとにした。
60階からエレベーターで1階におりているときはいつも不思議なかんじがする。
天上から地上に降りていくようなかんじ。
ゆっくりときが流れる安らぎの時間は終わりで、なにかに追われて予通り動き回らなければならない地上へと働きに出るのだとすごく実感させられる。
家を出るとき、みんな同じようにかんじるのだろうか。
エレベーターやドアひとつで世界がかわってしまうなんて、まるでドラえもんのどこでもドアみたいだなぁ。
順番に下がっていくエレベーターの数字を見ながらそんなことを思った。
エントランスを抜けてマンションの外にでるとすでに迎えのリムジンが止まっていた。
「おつかれさまです。」
黒いスーツに白い手袋の運転手が挨拶をして車のドアを開ける。
「おつかれさま。」
車に乗り込むと、車内には革の上品な匂いが漂っていた。
運転手が乗り込みいつもどおりクラッシックを流してくれる。
ショパンの練習曲作品10-3『別れの曲』。
とても美しい曲で朝にピッタリの選曲だ。
「ルーク01さま。すでにクイーンさまからお聞きでいるとは存じますが、キングさまからの命により本日の行き先が多少変更になりました。」
「……え?」
目を閉じて曲序章に聞き入っていた耳にいきなりの大打撃だった。
「どういうこと?」
「クイーンさまからお聞きではないですか?次の任務のパートナーが変更になったと連絡がはいっているはずなのですが……」
あたしは呆然とした。クイーンの電話は冗談ではなかったのか。
だとすると今回の任務のパートーナーはポーン。新米の中の新米。
ランクAの任務で?
ありえない。キングは一体なにを考えているのだ。
「ルーク01さま?大丈夫ですか?」
「えぇ。大丈夫。それで……行き先はどこになったのかしら?」
「はい。通常の顔合わせで使われるレストランではなく、キングご本人さまの自宅に変更になりました。」
「……わかったわ。だして。」
「かしこまりました。」
車にエンジンがかかり、動き出す。
キングの自宅で顔合わせなんて例外中の例外。これは絶対なにかある。
嫌な予感を抱いたまま窓の外を見る。
高く青い空の中を、真っ白のちぎれ雲が太陽の光を受けて輝いている。すばらしい秋晴れの空だ。
別れの曲は終盤にさしかかり、車内には激しいピアノの音が鳴り響いていた。
毎週月曜日1話ずつ更新していく予定です。
よろしくお願いします。