1.行商人
ラポ川はイクスミラレスの湖沼地帯を過ぎても西へ伸び、本街道もこれに沿って行く。しかし、ラスタバンの一行は再びここから逸れ、途中のつり橋を渡って南への支道に入った。一応山ウズラの調達のためパシャンに向かうが、昨夜の情報から不猟は変わらないようで、その先のデドロン谷行きは必須と思われた。
「デドロン谷か……ラポ川から南のこっちはパシャンがせいぜいで、その先はちと不案内だぜ。親方もそんなもんだったか?」
カラックが呟いて横のエナムスへ言葉を掛けた。
「ああ、山ウズラの大掛かりな調達は管轄外なんでな。ジャッロがいない以上、パシャンで案内人を雇うしかない」
エナムスはそこで、後ろをぼんやり付いてくる見習いに視線を向けた。
「シーリアの若造がこんな山奥を知っているとは思えんが。おいアシェル! パシャンの辺りは詳しいか?」
親方の呼び掛けに我に返ったアシェルは、思わず背筋を伸ばして前を行く男達を交互に見やった。
「え……え? パシャンて……あの、ここからどの位なんですか?」
カラックとエナムスは顔を見合わせて、互いに肩をすくめた。
道は緩やかな登りの坂道が続く。川から遠ざかるにつれ、頭上を覆っていた木々がいつしか姿を消し、まばらな低い灌木が生える赤土の光景と変わっていった。
「で、昨夜の情報は山ウズラだけかい?」
カラックが目だけを向けて訊いてくる。エナムスは一息置いて口を開いた。
「ゴンドバルの密偵の動きが相当活発らしい。ラスタバンの方も、『給仕』が確実に動いている。要請があったら援護しろとのことだが……」
「誰が密偵やら『給仕』やら分からなくちゃ、援護のしようもないわな」
深い溜息のカラックをエナムスは振り仰いだ。
「ヴァルドはラスタバンに協力するのか?」
「……さあ。俺個人としては、一応ラスタバンの嘱託だからそこそこ手を貸すが、あんまり当てにしてもらっても困る」
あいつも初仕事がエライのに当たっちまったよなと、後ろの見習いを顎で示したところで、ふと思いついたように相好を崩す。
「……で、あいつをあそこに連れて行ったんだろう? どうだった?」
エナムスは迷惑そうに顔をしかめた。
「そんな恐ろしいことができるか。俺はマニーが怖い」
「はあ?」カラックが裏返った声を上げる。「マニーって、お前までなんだよ。あいつはもう十八だぜ? 連れて行ったって、ちっともおかしくない。知らない訳ってことも無かろうが」
「そりゃそうだが、俺はそのお役はご免こうむる。お前は忘れているかもしれんが、あいつは一度命を狙われているんだ。そんな所で襲われた日にゃ、助けたくても面倒臭いことになるに決まってる」
カラックを睨んで後ろを振り返ると、気がついた若者が無邪気に笑顔で応えた。
「もっと気楽な時に、お役が回ってくればよかったんだが……ついてない奴だな」
こんな時俺の見習いになるなんて、とエナムスは薄く笑った。
「ふうん……てっきり親方と一緒だと思っていたんだが、留守番だったか」カラックは自分の顎をなでつけ、揉上げをひっぱったりしていたが、しばらくして呟いた。「じゃあ、昨夜は一晩どこへ行っていたんだろうね。あいつ」
エナムスが顔を上げて眉をひそめる。しかし、無言のまま視線を前方に戻した。
イクスミラレスを発って二日目の夕刻、西から射す陽が岩の多くなった大地をますます赤く染め、パシャンの石造りの家並みが道の彼方に見えてきた。
街に着くと、彼らは暗くなる前に捕獲された山ウズラの囲いを見に出かけた。昨今の不猟にしては数も形も良い方だと、猟師頭がしきりに売り込んできたが、王宮の条件には程遠いものである。
「そこをなんとかなりませんか、親方。今年に入って実入りが半分になっちまっているんですよ」
哀れな声を出した猟師頭に、エナムスは首を横に振った。
「町の肉屋に卸す訳じゃないんだ。お偉方が駄目だと言うのだから仕方ない」
遠巻きに様子を見ていた猟師達から、落胆の溜息が洩れる。
「ところで、デドロン谷への案内人はいないか?」
エナムスの問いに、彼らの間でさざめきが起こった。
「……あそこには、獣人の部落しかありませんぜ」
「それがどうした? 山ウズラの大きな群れが来ていると聞いている」
「……ここら辺の者は、あの辺りへ行かないもんで……」
歯切れの悪い猟師達の応答に、傍で聞いていたアシェルは訝しんだ。ゆっくり彼らを見回すエナムスに、誰もが顔をそむける。業を煮やしたカラックが進み出て、猟師頭の肩を掴んだ。
「誰かいないのか? なんならお前がついて来い」
彼はとんでもないと首を強く振った。
「勘弁してくださいよ、元締。あっしだってホントに勝手が分からないんで……」そこで心当たりがあったか、人差し指を上げる。「そうだ、レスコ……うん。レスコーがいますです!」
「レスコー? デドロンに詳しいのか?」
元締が問うと、猟師頭は卑屈なへつらい笑いを浮かべて頷いた。
「ええ、なにしろ先頃まで、デドロンの部落へ行商に出かけていた奴で。はい」口調に嘲りがこもる。「竜の心臓を持ってると、大法螺を吹いている奴ですがね」
ラスタバンの一行は互いに顔を見合わせた。
レスコーの居場所を聞くと、村で一軒しかない酒場だと言うので、彼らは夕食も兼ねてそこを訪れた。ほとんどの客が街の猟師とあって、素っ気ない店内には大テーブルが無造作に置かれているだけである。探り顔の店の主人にレスコーを問うと、壁際の椅子にぼんやり座っている酒瓶片手の男を示す。カラックが大股に歩み寄り、例のごとく体を折って顔を覗いた。
「お前さんが行商人のレスコーかい?」
男は焦点の定まらない瞳を上げ、ゆらゆらと乾いた麦のような髪を揺らす。
「デドロン谷までの案内を頼みたい。手間賃を弾むが、どうだ?」
「デドロン……? 三日はかかるぜ」レスコーは投げ出していた足を引くと、体を起こした。「あんた達は何者だ?」
「ラスタバンの調達人だ。デドロンの山ウズラがほしくてな」
エナムスの言葉に、彼は喉を引きつらせて笑った。
「ああ……ここいらの山ウズラが獲れなくなったと言ってたな。ざまあみろだ」憎悪をこめて店内を見回してから、小狡い目を調達人達に向ける。「こちらの言い値でなければ、いやだと言ったら?」
エナムスと素早く視線を交わしたカラックは、テーブルにあった水差しを手に取ると、酔っ払いの胸ぐらを掴んで引き上げた。
「別に構わんさ。そのかわり、こちらの言うことにはすべて従ってもらうぜ」水差しの水をレスコーの頭にぶちまけ、椅子に突き放す。「さっさと酔いを醒まして帰ったら、支度をしろ。明日一番に出かける」
元締は水を滴らせ唖然とする男の額に、人差し指を突き付けた。
「加えて仕事中の酒は一切飲ません」
レスコー
翌日の早暁、調達人の一行が酒場二階の宿泊所から表に出てみると、レスコーが外套にくるまって待っていた。
「よう、感心なこった。もっともそうでなくっちゃ、言い値の価値は無いがな」カラックは行商人に声をかけると、店先につないでいた自分の馬に荷物を載せた。「道中、井戸はあるのか?」
「あまり使われていないが、今の時期なら水が枯れているということはない」レスコーは口の中でもそもそ言うと、傍にいる自分のロバに跨った。「これが夏だったら、相当きついがね」
エナムスが見習いの支度が整ったのを見届け、案内人を振り返って訊く。
「真夏の赤岩原野の厳しさは聞いているが、旅慣れていてもそんなに難儀か?」
「旅慣れていたら、真夏に原野を通ったりしないさ」
レスコーは鼻を鳴らした。
四頭の影を長く引きながら、彼らは赤土の大地を歩み出した。この赤い道は、その色をますます濃くしながら正面の岩山を突き抜け、夏は太陽が地を焼く赤岩原野の彼方へと続いている。
明け方は寒いくらいだったが、陽が昇ると地面が熱を帯びてきた。乾燥しているので暑いと言うほどではないが、ところどころに陽炎が立っている。少し先を行く案内人の揺れる後ろ姿を見ながら、アシェルがエナムスに声をかけた。
「パシャンの猟師達は山ウズラが獲れなくなって、どうするんでしょうね?」
「聞いてどうする?」そうは言ったが、親方は言葉を続けた。「目先の儲けに走った自業自得だ。ラスタバン以外にも取引先を広げて、自分の首を絞めたんだ。しばらくは山ウズラが戻るかどうか、待つしかあるまい」
「……戻らなかったら?」
続く問いかけに、前方を見詰める親方の答えが短く返る。
「知らん」
若者の悲しげな溜息が脇で漏れたが、しばらくして、また語りかけてきた。
「デドロンの山ウズラを獲りに行けないんですか? 遠すぎますか?」
「……行けたとしても獣人の部落がある限り、あいつらは行かんだろう」何か言いたそうな見習いを振り返る。「生計にかかわっても、それはご免だという輩もイディンにはいるんだ、アシェル。獣人のマニーに育てられたお前には理解できんだろうが」
アシェルは口を引き結び、憂いの目を手元の手綱に落とした。
調子の良い馬の蹄の音が近づいてきて、調達人達のロバの間に割り込んでくる。
「なんだ、なんだ、社会問題か? ああ、イヤだよね。心が狭いってのは。それで俺達も、どんなに苦労をしているか」
カラックが大仰に顔をしかめて見せ、顔を上げたアシェルと目が合うと、ひょうきんに口端を上げて目くばせした。若者に戻った薄い笑みに頷いて、反対側のエナムスを見下ろす。
「獣人相手にラスタバンが直接取引するか?」
「まず、無理だな」
再び悲壮な顔つきになりそうな見習いに、エナムスは苦笑した。
「心配するな。こっちだって山ウズラがほしいんだ。方便はいくらだってある」そこで思い出したように呟く。「我らが親父殿――タニヤザールに考え付かない方便はないのさ」
岩山の谷をたどって峠を越えると、赤い岩盤と砂地の重なり合う原野が眼前に広がっていた。見上げても空には無言の白い太陽があるだけで、動く影も見当たらない。まだ岩山を抜けきらないうちに、レスコーが三人を振り返った。
「日が沈むまで、ここで少し眠るんだな。このまま昼に進んで行けないこともないが、そろそろ陽がきつい頃合いだから、夜の方が足がはかどる」
それぞれ馬とロバを下り、岩山の影の差す窪みに身を落ち着かせながら、カラックが訊く。
「夜通しの進行になるかい?」
「ここではそれが当り前だ。もっともデドロン近くになれば、また岩山が高くなって谷川もあるから、昼も余り難儀しないが」
「デドロンまで三日と言っていたな。どんな道行きだ?」
アシェルの切り分けたチーズとパンと受け取りながら、エナムスが顔を向ける。
「暗くなったらここを発って、明日の朝まで行った所に井戸があるから、そこでまた昼をやり過ごす。それからもう一晩進んで、岩間の湧水近くで休憩。そこからはたいしてかからない。昼過ぎに発てば陽が沈んですぐにアムダルカに着く」
「アムダルカ?」
「獣人の村だ。雑貨用の小屋があるから、夜に着いても何とかなる」
そこでレスコーは、眼の前に差し出されたチーズの切れ端に気がついた。目を上げると、調達人の若者の親しげな顔がある。
「フスマのパンだけじゃ、力が出ないだろう?」
雇われてはいるが食料は自前なので、彼の手元にあるのは灰色の味気ない塊だ。それでも金がない中での急の出立で、やっと手に入れた食料なのだが。顔を向けた先の調達人の親方が、気のなさそうに頷く。
「食料係がいいと言っているのなら、もらっておけ」
レスコーは怪訝な視線を若者に戻し、短く礼を言ってチーズを受け取った。
大した夢も見ることもなく、遠くの鳴き声が鹿かなとぼんやり思った時、足を軽く蹴られてアシェルは目覚めた。カラックが顎をしゃくり、行くぞと言って馬に乗る所だった。最後の夕映えが岩山の高みに残り、地表はすっかり夜の帳が下りている。慌てて荷物をまとめてロバに乗せ、先を行く男たちの後を追った。
月が出るまでは足元も暗く、思わぬ穴に落ちかねないので、案内人の道筋を外れないように前を行く影をたどって進んで行く。ロバに揺られながら満天の星に首を巡らせていると、船のマストの上で過ごす夜なべの時を思い出した。荒くれの兄イ達に教えてもらった星を確認するうち、無意識に位置を海図と照らし合わせ、来たこともない土地を自分が進んでいるのを今更ながら実感する。
間もなく下弦の月が昇ってきた。星空の下では闇に沈んでいた大地が、ぼんやりと青白く浮き上がってきて、昼間の無情な赤さが嘘のようだ。月の色は、今のアシェルの内では竜と繋がっている。目を射るのだが、見つめ続けずにはいられない光。心の奥底に真っ直ぐ入って来る、薄刃の感触。
「あれ?」
急にあげたアシェルの声に、前を行くカラックが振り返る。
「どうした?」
「いえ、あの……竜のことを思い出していたんですけど」若者は眉を寄せて首を傾げた。「あの後、何かありませんでした?」
「あの後? どの後だ。月の下に竜が出てきて、俺たちが固まってたら行っちまったの、どの辺だ?」
「え……あの……?」
顛末を簡単に述べられた途端、アシェルのひっかかった『何か』は雲散霧消してしまった。それからは取り残されたように、いくら月を見ても皓々とした光が記憶の上辺を滑るばかりだった。
東の空が白み始めたころ、風が出てきた。外套が翻り、時折砂埃が立ち上る。張り出した岩陰に、珍しく低い灌木の茂みが見え、レスコーはそこに一行を誘った。乾いた枝の揺れる木の傍には、平たい大きな石が置かれている。先にロバを下りた案内人がそれを動かそうとするのを、アシェルは急いで駆け寄って手伝った。下からは深く穿たれた岩の割れ目が現れ、耳を澄ますと風音の間から水のせせらぎが聞こえてくる。
「ここは年中夏みたいなもんだが、山の方は春だからな。水量が多い」
レスコーが示す方向に目を向けると、赤砂の煙る彼方に雪の山脈が幻のように浮かび、赤岩原野の奥底を流れる地下水の源流は、あそこだと彼は言った。
馬とロバに汲みあげた水を飲ませ、人間達も休息に入る。今度はチーズと干しリンゴをレスコーに渡したアシェルが、彼の隣に腰を下ろした。案内人はしばらく無言で口を動かしていたが、食事が終わると若者に顔を向けた。
「竜に遭ったんだって?」
どうやら先ほどの話を聞いていたらしい。アシェルは水を一飲みすると頷いた。
「十日ばかり前に、ウリトン川の川沿いでね。こんな傍まで来られて生きた心地がしなかったよ」腕を伸ばしてその距離を示す。そこで、期待のこもった表情を浮かべながらレスコーの顔を窺った。「パシャンの猟師達が、竜の心臓を持っている行商人だって言っていたけど……」
パイプと煙草にそれぞれ火をつけていた親方と元締が、動きを止めてこちらに顔を向ける。行商人は意表を突かれたように若者を見つめていたが、苦笑して首をすくめた。
「大法螺とも言っていたろう?」砂の舞い上がる日向へ視線を移して呟く。「持ってたさ。もう、とうに競りに出して売っちまったがな」
アシェルの胸の内に、ジャッロの言葉がよみがえった。
――何カ月か前、デドロンの雑貨屋から出所不明な、古い竜の心臓が競りに出されたって言うんでさ……
デドロン谷のアムダルカ村に、長く行商に出ていたのはレスコーの父親だった。もとはシーリアだったが、若い頃に海を離れ、三十年ほど前この辺りに流れてきて、パシャンの女と一緒になった。レスコーが幼い時に男寡となり、その頃からデドロンへ行商に出るようになったと言う。当然、獣人村との交渉を絶っているパシャンでは浮いた存在となり、レスコーは父親に連れられるまま、デドロンとイクスミラレス周辺の街道を行き来して成長した。
十六の時に父親の元を飛び出し、十年以上音信不通だったが、一年前、風の便りで父親が死んだことを知ってパシャンに戻ってきた。
夏の間だけ父親が雑貨屋を開いていたアムダルカでは、獣人達から行商に来る者がいなくなって不便だと懇願され、成り行きで仕事を受け継ぐ事にしたそうだ。放浪中借金が嵩んでいたので、金目のものは無いかと店小屋をあさっていた所、金庫の中から見つけたのが竜の心臓だった。
竜の心臓は竜騎士以外でも稀に手に入れる者もいたが、意義や用途の重要性から、来歴はどれも明らかなものばかりである。普通は日付と場所、仕留めた者が記録されるが、金庫にあった心臓の添え紙には十年前の年と月のみで場所は記されず、後は父親の筆跡で『ギージェか』とだけあったと言う。
「つまりは親父さんも知らなかったのか。しかしそれならそれで、誰から手に入れたか書けばよかったんだが」
二日目の夜行の歩を進めながら、カラックが前を行く案内人に声をかけると、彼は皮肉めいた笑みを浮かべて答えた。
「たぶん、えらい低値で買い叩いたんだと思う。高値で売り払う時、下手に知れて文句を言われないように証拠を残さなかったんだ。パシャンが敬遠する獣人相手に行商をしたのも、情け心よりも商売敵がいないもんで、他より多少は高値で売れるからさ……業突く張りだったよ、あの親父は」
それを聞いてカラックが鼻を鳴らす。
「それが家出の原因かい? で、まあその親父さんの貯め込んだものとか、なんたって竜の心臓を売ったんだ。なのに大法螺吹きの汚名まで着て、この体たらくはどうしたい?」
意地の悪い軽笑を受けて、レスコーは顔をしかめた。無言でいる彼に、エナムスが訊く。
「もしかして、本街道の辻賭場へ行ったのか?」
他の面々の疑問顔に、イクスミラレスの連絡員に聞いた話だがと彼の言葉が続いた。先頃たちの悪い胴元の賭場が立ち、掛け金が大きい上イカサマの使い方が絶妙で、玄人でも見抜けなかったようだ。アシェルに頷きを送る。
「ジャッロもここでやられたんだろうな。果仕合を控えてイクスミラレスの領主が兵を向けたが、もの抜けの殻だったそうだ」
レスコーが小さく悪態をついて首を振り、そんな彼にカラックは追い討ちをかけた。
「突然の大金を増やそうとしてスッテンテンか。借金だけが膨らんじゃあ、酒で憂さを晴らすしかないよなあ」
「借金はない!」レスコーはムキになって振り返った。「俺だって馬鹿で無いからな。ただ支払いを済ませたら、行商を始める元手が足りなくなっちまったんだ……」
エナムスが脇のアシェルに囁く。
「……いくらの遺産か知らんが、えらい額の借金だったらしい」
明け方近くになって、それまで平坦だった原野に岩場の起伏が目立つようになってきた。陽が昇ると前方に灰色の山塊が姿を現わし、あの向こうにデドロン谷があるとレスコーは言った。
この朝荷を下ろした地は岩の大きな裂け目の傍で、奥には大量の地下水が流れているらしく、激しい水音が少し離れた所でも響いて聞こえる。アシェルがレスコーと共に水を汲みに岩間を下りて行くと、裂け目の底で岩の穴から噴き出した流れが、もう一方の穴へと吸い込まれていた。水の勢いに流されないよう慎重に革袋に水を入れ終え、アシェルは腰を伸ばしてぼんやり流れに目を向けた。戻りかけたレスコーが気付いて声をかける。
「どうした?」
「真夏になると、水は少なくなるって言っただろう? とすると、あそこは人の通れるトンネルになるのかな?」
若者が示した岩穴に目をやって、レスコーが頷く。
「ああ。でも、奥へ入ったことは無いな。流れはデドロン谷へ続いていることは確かなんだが」
「デドロンへ……」
アシェルは呟いて水流の消える先を見ていたが、やがて案内人の後を追って岩棚を上って行った。
午前中に仮眠をとり、軽食を取って昼過ぎには早々に出立した。岩山に着くころ、照りつける西日が峰筋に最後の光芒を放って沈んで行く。山道は比較的穏やかであったが星の光も届かない山影で、それぞれ馬とロバを下り、ランタンの光を頼りの山越えとなった。周囲が全く見えない中、それまで上り坂だったのが下りに転じたことで、峠を越えたことが分かる。しばらく進むと、明らかに岩を削って作ったゆるい階段を下っていた。左下の暗闇から水音が聞こえてくる。
「デドロンのアムダルカ村に着いたぜ」
先頭のランタンの灯が上がって、照らされたレスコーの顔が宙に浮いた。
着いたと言われても、分かるのは星空を遮って黒く浮かぶ岩山の形だけである。レスコーはこの崖沿いに家があると暗がりを示したが、窓から漏れる光も無く、谷は川音のみの静寂に包まれている。一行を率いて案内人は、下りの細道沿いにある石小屋に近づいた。扉の取っ手に掛けてあった鎖の錠前を外しながら、ここが夏用の店だと言う。
「長く空けていて荒らされることは無いのか?」
馬の荷を解きにかかったカラックの問いに、レスコーは苦笑いを浮かべた。
「そんな連中はここにはいないよ。生前親父から預かったと言って、イクスミラレスの両替商の預り証書を、証文印と一緒に俺に渡したくらいだ」鍵が乾いた音を立て、鎖を解きにかかる。「証書と印の意味を知らなかったのか、懐に入れる度胸が無かったのか、馬鹿正直だったのか……」
軋む扉が開き、持っていたランタンを掛け金に吊すと、雑貨屋の狭い店内が浮かび上がった。埃をかぶった作りつけの棚と、小さなカウンターが見て取れ、その脇の扉の無い入口から奥の部屋に入って行く。
「あいにく宿屋で無いんで、寝転ぶ長椅子が一つあるきりだ」
「かまわんさ。野宿よりマシだし、雑魚寝は慣れてるし、案内人にそこまで要求はしない」
夕食の後、火熾し場所を聞いたアシェルは、外の小屋脇の小さな竈に案内された。傍にあった僅かな薪をくべ、案内人がどこからか汲んできた鍋の水を竈に置く。炎の揺れるのを見ていると、急に声を上げたレスコーが落ちつかなげに身を彷徨わせ、小屋の中に入って行った。間もなく酒瓶とランタンを手に出てきて、目の合ったアシェルに、はにかんで言う。
「アムダルカの知り合いが起きていたみたいでね。しばらく振りなんで、ちょっと行ってくる」
レスコーが示した先には、先ほどには無かった灯りが、暗闇の向こうにぽつんとある。明日でもいいはずなのに、待ちきれないとは余程気心の知れた相手なのだろう。
「……だから」岩の削り階段を下って行く彼に、アシェルは声を掛けた。「行商を続けようと思ったんだろう?」
振り返ったレスコーが目を見張り、照れくさそうに手を振って、暗闇の中に消えて行く。ランタンの光だけが、揺れながら目的の灯り目指して動いて行った。
黒茶を入れたカップを持って小屋に入ると、親方と元締めが奥の部屋の隅にある金庫から何かを取り出していた。
「レスコーはアムダルカに友達がいたんですね」
エナムスはカップを受け取りながら、見習いの言葉に頷いた。
「ああ。まあ、案内もひとまず終わったし、酒瓶は祝儀だな。報酬の値を受けたら、大喜びでこの店の物はなんでもくれるとさ」
「と言っても、大した物はありそうもないな。そもそも金目の物は、とうに売っ払っちまった後だろう」
カラックが黒茶をすすって満足そうに唸った。
「親方、あんたが黒茶にうるさくて良かったぜ」そして、床に置いた両手に乗るほどの古びた箱を示す。「……でも、なんか面白そうなものがあった」
箱は素っ気ない頑丈そうな作りだが、鍵は壊されていて、カラックが蓋を開けてみると、大小さまざまな石が無造作に入っていた。どれもが、くすんだ色の平たい丸い形をしている。値打ち物は無いと知りつつ、多少は期待を持っていた見習いが落胆の息をついた。
「レスコーも、そうやってガッカリしたんだろうな」エナムスは若者を見て笑い、箱に目を戻した。「そいつは何だ?」
バラ石の中に革袋に入ったものがある。カラックが拾い上げて中身を取り出すと、やはり同じような石だが、どの石よりも大きく、いくらか新しいようだ。それをじっくり眺めている元締に、エナムスがふと思いついて声をかける。
「おい、これはもしかして……」
「ああ……」カラックは頷いて、革袋から取り出した石を親方に渡した。「竜石だ。たぶん、レスコーが競りに出した竜の心臓を狩った者の石だろう」
「竜石……これが?」
アシェルは竜騎士の胸にあった輝きを思い出し、そのあまりの違いに驚いた。親方の言った『問答無用の証文』の意味が、これではっきり分かる。
「おい、これを見てみろ!」
カラックが、蓋の裏側に刻まれた文字を見つけて声をあげた。エナムスが眉を寄せて呟く。
「古い竜文字だな。ちょいと読めんが……」
「『ギージェの竜石』」カラックが短く言うのを、二人は驚いて顔を上げた。「……そう書いてあるんだよ」
しばらくの沈黙が流れた。ランタンの芯の焦げる音が、微かに聞こえる。
「……本当か?」
エナムスが目を眇めて疑わしそうに訊くと、カラックは肩をすくめた。
「だからそう書いてあるんだって。中身がホントかどうかは知らないぜ。テキトーな石を拾ってギージェの竜石だと言われても、ギージェがいなくちゃ確かめようがない」
エナムスは深く息をつくと唸った。無精髭の生える顎に手を当てて、もう片方の手のくすんだ石を見定めていたが、やがて軽く頷いた。
「とりあえず、こいつを頂こうか。十年前なら、まだ持ち主が生きているかもしれんから、親父殿が面白がる」ひょいと見習いに投げてよこす。「荷の中に入れて、調達目録の端っこにでも記録しておけ」
「あ……はい」
アシェルは慌てて石を受け取ると、カラックから渡された革袋にそれを収めた。
光が窓の木枠の隙間から洩れてくる。このところ昼夜逆転の日々だったので、久しぶりの起きぬけの朝日だ。アシェルが身を起こした途端、彼をまたぎ越そうとしたカラックの脚が頭に当たって、目から火が出た。
「お、わりい……」
悪びれた様子も無い寝ぼけ声で呟き、元締は小屋の扉を開けて外へ出て行った。お陰ですっかり目の覚めたアシェルが小屋の中を見回すと、親方のふかすパイプの煙の中にレスコーの姿は見えず、昨夜は戻らなかったようだ。窓を開けて光を入れ、朝食用に食料袋を探り始める。
と、小屋の入口が乱暴に開き、速足で戻ってきたカラックが押し殺した声で言った。
「おい! レスコーが死んでる!」