表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラスタバン王の給仕  作者: 平 啓
第一部
8/38

6.イクスミラレス

<旅程>

13日目

 大滝側→イクスミラレス

14日目

 イクスミラレス

挿絵(By みてみん)

 イクスミラレスの街中は、果仕合を見ようとする人々と、それに当て込んだ露店であふれ返っていた。ティムリアの花祭りに比べ規模は劣るものの、この辺境によくこれだけの人と物があったと思われるほどの賑わいだ。早々に宿へ向かったが大部屋しか空いておらず、薬師との縁が切れないと元締がくさった。馬とロバ、荷物を預け、再び街中へ出る。

「まいったな。取引先の薬種問屋が開いているといいが……」

 エナムスとカラックが人をかき分け進む後を、アシェルは必死に追った。ともすると地味な親方の姿は見失いがちになり、頼りになるのはカラックの長身だが、装飾品の露店に一瞬目が行ったとたん、これも人ごみの中に消えてしまった。もとよりイブライとは、宿を出た時点で別れている。アシェルは辻脇にある鉄格子に上ると、周囲を見回した。

 イクスミラレスは緩やかな階段状の街で、その坂道は一番高いイクスミラレス城へと続いている。だが、そこを埋め尽くす人の群れに、探し出すのはとても不可能に思われ、逸れた時の待ち合わせ場所が頭に浮かんだ。

「しようがない。大噴水で待つしかないか……」

 柵を降りようとして、ふと強い視線を感ずる。体の動きを止め顔を巡らすと、すぐに覚えのある目出し頭巾の人影に気がついた。辺りが俄かに暗く沈み、その姿だけが大勢の中に浮かび上がる。

 射るように注がれる執拗な目の光。

 困惑した若者の青い瞳が見返した。互いの内を突き通す、一瞬の感触。

 不意に、相手の眼差しが怯んで逸らされた。と同時に午後の明るい日差しが戻り、身を翻した頭巾の相手は、たちまち雑踏の中に紛れ込んでしまった。

 あっと後を追うべく走らせた視線が、今度はこれも記憶に新しい赤毛の小男に止まる。

「やあ! ジャッロだ! やっぱりここへ来てたんだな」

 が、おーいと手を振りかけたところで、いきなり丸い体が何者かによって路地へ引きずり込まれた。その素早さと喧騒の中で気付いた者はなさそうだ。

 アシェルは急いで鉄柵を飛び降り、人の流れる通りを横切って、小男の消えた細道へと向かった。

 両腕を伸ばせば届くような狭い建物の谷間は、表通りの喧騒が嘘のように、暗く静まり返っている。ごたごたと置かれたガラクタを避けながら、さらに左右に伸びる通路に目を走らせていると、掠れた悲鳴が短く空気を裂いた。奥の積まれた樽の陰で何かが動く。

「ジャッロ!」

 駆け向かった先で、小男が背後から体を押さえこまれていた。引きつる顔の喉元に当てられた異国風の短刀。長い外套姿のその持ち主が鋭い眼を上げると、アシェルは驚きに足を止めた。

「これは……見習い君」

 剣呑な行為とは裏腹に穏やかな声をかけたのは、道中を共にした薬師だった。

 

「お前、懲りもせず……どうしようもねえな」

 イクスミラレスでは城の次に目立つ大噴水で、ほどなくエナムスとカラックに出会えた。彼らも薬種問屋が明日の果仕合が終わるまで開かないと聞き、すぐ引き返したのだ。

 アシェルの陰に縮こまっている赤毛の小男を、カラックは険しい顔で見下ろした。

「また手を出したんだな、賭け事に。おまけに、たつきの道具の笛も抵当かたにしちまったわけだ」鼻を鳴らす。「で、この薬師の懐を狙ったと。お前のドングリ眼も随分節穴になったもんだよ」

「警備兵に突き出さなくていいのか?」

 エナムスの言葉にジャッロが情けない声をあげて、アシェルにすがりついた。イブライが軽く肩をすくめる。

「私としては財布さえ戻れば……それにあなた方の御友人となれば、別に構いませんよ」

「叩けば埃の出る身には、殺るか放つしかないだろうしな」

 ますます身を固くするジャッロに、アシェルは苦笑してその肩を叩き、恐る恐る上目遣いに親方と元締に伺いを立てた。

「それでそのう……ジャッロは文無しなんです」

「自業自得だ」

 カラックは不機嫌に言い捨てた。

「急場をしのごうと、また悪いことをするかもしれません」

「それがどうした。俺達には関係な……」見習いと目が合った途端言葉を止め、たちまち苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。「こいつをまた雇えってのか?」

 輝く若者の双眸。それを認めて、元締はいきなり食ってかかった。

「お前! 『にゃあ』と言えば、俺達が何でも言うことを聞くと思ってんのか!? 冗談じゃねえぞ! 少なくとも俺は……」

「カラック! どうした? いいじゃないか。いずれデドロンへの案内が必要だと言っていた所だ」いきり立つ元締の肩を親方が抑える。「それになんだ。その『にゃあ』というのは?」

「お前は気づいてないのか?」カラックは怪訝な眼差しをエナムスに向けたが、溜息をついて手を振った。「まったく甘ちゃんな親方だぜ……もういい、好きにしろ」

 ジャッロはアシェルの手を取ると、涙と鼻水を垂らして感謝した。

 

 無秩序な喧噪の向こうから、楽隊の音と人々の歓声が近づいてくる。

「騎士殿のお披露目行列ですぜ!」

 ジャッロが喜びを満面に浮かべて叫んだ。

 行進の露払いは、道化達がとんぼ返りを打ちつつ、色とりどりの花びらを撒き散らして進む。その後を、この街の愛用色である緑を基調とした制服の楽隊が、勇ましい曲を奏でながら続き、頭上には鮮やかな色の紋章が描かれている旗が幾列にも翻る。

 ジャッロが目ざとく行列を間近に見える場所を見つけ、一同を誘った。

「ほう、竜騎士と知り合いなのか」

 イブライが感心するのに、笛吹きは誇らしげに胸を張った。

「アブロン様が、まだ駆け出しの頃の具足持ちだったんで」

 やがて二頭の馬にそれぞれ乗った偉丈夫が、陽に映える甲冑姿で現われた。栗毛の馬の方の騎士は若く、葦毛の方の騎士は少し年が行っているようで、どうやらこちらが竜騎士アブロンらしい。褐色の豊かな髪と髭のいかにも竜騎士然とした容貌であるが、アシェルの目に留まったのは、その胸に下がるメダルに嵌め込まれた宝石だった。大きなコインほどのそれは、見つめていると妙に輝きが生き物めいており、まるで光の拍動を打っているかのようだ。

「あれが竜石だ。竜騎士の証し」隣でエナムス親方が呟く。「竜を倒した時、心臓と共に残る竜の目とも言われているな。竜を倒した者が身につける時にしか輝かないから、問答無用の証文だ」

「へえ。あの人、ホントに竜を倒したんですね」

 今更ながらのアシェルの納得に、ジャッロは嬉しそうに彼の脇腹を肘で小突いた。

「当り前でやすよ。あの大きさの竜石は、そんじょそこらでは見られませんて」そこでジャッロは近づいてきた騎士に、両手を振りながらその名を叫んだ。「アブロン様あ!!」

 人々の歓声の中であったが、その声はひときわ高く響き、騎士の耳に届いたらしい。こちらに気づいた竜騎士は、驚きとともに笑顔を浮かべ、ジャッロの呼びかけに手を振って返した。隣の騎士に短く言葉を掛け、手綱を彼らの方に向けて近寄ってくる。

「ジャッロ、久しぶりだな。元気か?」張りのある声をかけたアブロンは、馬上から面々を見回した。「この方々はお仲間か?」

「へ、へえ! ラスタバンの者で、お世話になっておりやす!」

 上気したジャッロのうわずった声に竜騎士は頷いた。

「ラスタバン? ……そうか。お前とは、ゆっくり話をしたいものだが……」滞っている行列を振り返りながら言う。「仕合が終わったら会いたい。宿はどこだ? 使いをやろう」

「ええ……と」

「青通りの流水館だ」

 困惑した笛吹きの代わりにカラックが答えた。


挿絵(By みてみん)

アブロン


 青通りの流水館の隣にある食堂で、久しぶりに手の込んだ料理にありつく。薬草が特産なだけに、イクスミラレスは香辛料の種類も豊富だ。この先また野宿が続くとあってカラックが景気良く注文するので、アシェルとジャッロは喜んで相伴に与った。

「しかし、アブロンの旦那はできたお方だな。昔の知り合いとはいえ、こんな奴に気安く声をかけるとは、なかなかの苦労人らしい」

 カラックの言葉に、ジャッロがわが意を得たりと頷く。

「あっしと同郷の田舎領主の三男坊でしてね、早くから故郷を出て、大した後ろ盾もなくイディン中を旅して腕を磨いたんでさ。それが竜騎士となってイクスミラレスの御殿さんに仕えるようになって、いやあ大した出世でやす」

「果仕合って、バルガスって若い騎士と戦うんだろう? 大丈夫かなあ……」

 アシェルの懸念の呟きに、エナムスは笑って答えた。

「なに、アブロンが勝つに決まっている。竜騎士の出る仕合は、だいたいそんなものだ」

「それって……八百長ってことですか?」

 若者が驚いて目を瞬かせる。

「いや、そういう意味じゃねえんだ」カラックが自分の皿に赤豚の酒煮込みをどっかり盛ると、嬉しそうに頬張りながら言った。「だいたい竜騎士との果仕合ってのは、挑戦者が竜に挑むための資格試験のようなもんでな。竜騎士相手にどれだけの腕を見せられるか、どんな戦いぶりを見せるかが大事なわけだ。で、こいつは竜に挑戦するだけの腕があると竜騎士に認められて、初めて竜を相手にできる」

「はあ……」アシェルが困惑げに眉を寄せる。「ただ竜を倒せばいいってもんじゃないんですね」

「『栄光』だの『誉れ』だのの世界は面倒臭いのさ。でも、まあ……」カラックは、自分の脇に立てかけてある自分の長剣を引き寄せた。「こんなのを、力と技の限りでぶん回すんだ。出来仕合とはいえ見ごたえは十分あるぞ。一歩間違えばオシャカって事にもなるからな」


 元締の言う通り、翌日モリエラの聖日の果仕合は歴史に残る大勝負となり、竜騎士アブロンの最期の仕合として、長く人々の記憶に留めるのである。

 

 滝の広場に大歓声が上がり、果仕合の終了を告げるファンファーレが、城壁を越えて大滝の岩肌に鳴り響く。前もって知らされていても、とても出来仕合と思えない程の長い死闘の末、アブロンがバルガスの剣を叩き落として勝負はついた。その後、跪く若い騎士の肩に碧絹の帯が掛けられ、竜騎士がその上に剣を当てて、この者の心技体の正当性を認証し、果仕合の幕は閉じられた。

 城ではこれから祝宴が催されるのであろうが、街中は潮が引くように人々が家路につき、日常の営みへと戻って行く。空いた宿屋の大部屋から小部屋に移ると、カラックとエナムスは昨日行くはずだった薬種問屋へ、アシェルはジャッロと共に、この後の旅のための買い出しに出かけた。

「すごい仕合だったね。あれで勝敗に決まっているだなんて、信じられない」アシェルが果仕合を思い出して、道々ジャッロに話しかける。「なのに、あの若い騎士に結構追い詰められて、アブロンは大丈夫かと心配したよ」

「アシェルさん、そりゃ素人の見方ってもんです」ジャッロは得意げな顔で、若者を振り仰いだ。「アブロン様は竜騎士への試験という果仕合を、マジメーに考えていらっしゃるんでさ。若いバルガス様の腕をいっぱいに引き出して、ホントに資格があるか試したんでやす。体力だって、そりゃ一杯一杯ですって。バルガス様があの後、腰砕けになったのは見たでやんしょ?」

 竜騎士資格者の宣言の後、若い騎士は立ち上がれず、竜騎士にその腕を借りたのだ。

「なんだって金がモノを言いますからね。中にはまったく八百長丸出しの仕合もありやすし、まあ、こんなのに資格を与えるのかって挑戦者もおりやす」

 そのような世界で憧れそのままの竜騎士がいることは、やはり若者にとっても嬉しかったようだ。改めて勇姿を思い出し、無意識に剣の鞘口にかけた手に、ジャッロが気づく。

「そういえば、得物を持ってたんでやすか?」

「うん、丸腰はまずいって親方が買ってくれたんだ。結構良いものだよね。元締がずいぶん口を利いてくれたらしいけど」

 アシェルの抜いた剣を受け取り、ジャッロは矯めつ眇めつ眺めた。

「元締がなんと言ったか、その店の主人に同情しやすぜ」剣を若者に返しながら、ニヤリと笑う。「アシェルさん、腕の方はどうなんで?」

 アシェルの方も剣を鞘に収めながら、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

「今度は俺の懐を狙ってみるかい? 置き引きの時のように行くかどうか?」

「とと、とんでもねえっす!!」

 赤毛の小男は亀のように首を縮めた。


 買い出し表の最後の印を入れて雑貨屋を出た時には、茜色の夕空が街並みの上に広がっていた。いささか寒い山中の春ではあるが、飲み屋の屋台には果仕合の熱気に帰りかねた人々が多く陣取り、その日の興奮を語り合っていた。いつもであればその中の一人となるジャッロだが、今日ばかりは宿へ戻る足を速めて見向きもせずに通り過ぎる。ちょこちょこと先を急ぐ彼の心境を、微笑ましく思いながらアシェルも後に続く。

 と、彼の目が屋台にいる一人の酔った男が止まった。留まるかどうか迷って歩調が落ちたものの、ずんずん前を進む赤毛の勢いに引かれて再び歩を速めた。

 流水館の扉を開けたところで、エナムスと鉢合わせになる。

「やあ、ジャッロ。呼びに行こうと思っていた所だ」親方が振り返ってカウンターの傍にいる少年を示す。「お城からのお客さんだぜ」

 彼はジャッロの待ち人、アブロンからの迎えの使者だった。


「明日の八刻までには戻れよ」

 喜び勇んで出かける笛吹きの背にエナムスが声をかけて見送り、調達人二人は買い出し荷物を部屋へ運んだ。しかし、カラックの細い姿が見当たらない。

「元締はいないんですか?」

「ああ……」見習いの問いに、親方は言い淀んで咳払いをした。「まあ、なんだ。仲介人の元締ともなると、いろいろ忙しいんだそうだ。女性の人生相談も仕事のうちだと」

「はあ……?」怪訝な声を上げるも、とたんに納得して頷く。「はあ」

「そうだ、アシェル。手を出せ」懐から財布を出したエナムスは、銀貨を幾枚か取り出した。「今月の給料だ。ティムリアから手形が送られてきたので、換金してきた」

 掌に銀貨を受け取り、見習いは感慨深げにそれを見つめて笑顔を浮かべた。

「あ、ありがとうございます」

「出先だと多少遅れるが、給料日は満月だ。覚えておけ」

 薬草の取引書類の整理をし、朝発ちのための荷物をまとめる。一通り支度を整えて夕食に出かけるのだろうと思っていたところ、しばらくエナムスが考え込んでアシェルに声をかけた。

「お前……一人で留守番できるか?」

「あ、ええ、もちろんです」若者は意外そうに頷いた。「ブルブランの時のように気を抜いたりしません。親方、どこかへ出かけるんですか?」

「んん……情報を仕入れなきゃいかんのだが、場所が場所で、ちょっとお前を連れていくには……」

 親方のはっきりしない物言いに、アシェルは青い目をくるりと回した。

「もしかして……親方も人生相談を……」

「馬鹿言え。俺をカラックと一緒にするな。そんな呑気な話じゃない」

 心外と手を振ったエナムスは、外套を羽織りながら扉へ向かった。

「まあ、ここはブルブランに比べ治安がいいから、外へ出たらいきなりということもなかろう。夕飯をとったら早々にここに引き上げてこい」

 一旦閉めかけた扉をまた開き、アシェルに人差し指を向ける。

「酒は飲むなよ。鍵を閉めろ」

「あ、あの、親方」

「なんだ?」

 見習いに声を掛けられ、再び閉めかけた扉を止める。

「……いえ、なんでもありません。いってらっしゃい」

 親方は肩をすくめ、今度こそ扉を閉めた。

 エナムスが通りを横切り、いくつか先の路地に消える。それを部屋の窓から見送ってから、アシェルも外套をとった。青通りは行き交う人も連なる屋台も多いので、剣で追いかけられるなどまず無いだろうし、すれ違いざまの一突きなど気にしていたらキリがない。

 流水館を出、先ほど足を止めかけた屋台を目指す。あれからだいぶ経つので大して期待をしていなかったが、その酔漢は変わらずテーブルに着き、他の客たちと陽気に話を交わしていた。

 アシェルは周囲に注意を払うと、その男に近づいて行った。



 耳の奥に響く音は絶え間がない。イクスミラレスに着いてから、ずっと続いている滝の音だ。

 冷たい葉の雫を額に受けて、ジャッロはぼんやり眼を開いた。二日酔いで揺れる頭を持ち上げて体を起こす。身を沈めていた丈高い草が揺れ、強い芳香が鼻を突いた。短い体を伸ばすと、草の合間から街の城壁が朝靄に霞んで見え、城からの時鐘が遠く聞こえる。どこをどう歩いたか、城外の薬草園で寝ていたようだ。

 昨夜彼が通されたのは、城の使用人のたまり場であったが――奥に行けるとは考えてもいない――、アブロンの下で働く者は気の良い面々ばかりで、ジャッロの昔話を興味津々に聞いてくれた。夜更けてからはアブロン自身が姿を見せ、以前の親しさそのままに、ジャッロに酒を勧め話を促した。

 楽しい一夜だった。夢のようなと言ってもいい。なぜなら、このままアブロンの傍にいることはできないと、ジャッロには痛いほどわかっていたからだ。外の者は竜騎士の従者になれない。アブロンの元を離れたのもそのためだ。けれど、アブロンのような騎士の従者をたとえ一時でも務めたことは、彼にとっての誇りだった。

――ええと、鐘はいくつ鳴ったっけ?

 曖昧だが、八刻にはまだ間があるようだ。よろよろと足を動かし、薬草園のあぜ道を街へと向かった。彼の背を越える草むらは途切れることなく、薬草から沼の水辺の葦へと続いている。

 そこで微かな水音を聞く。水鳥かとそちらへ目を向けた時、畔にうずくまる影があった。無意識に息を殺して窺うが、流れる靄でその顔ははっきり分からない。その内に影は立ち上がり、手にしたものを鋭く振った。一瞬の鈍い光と空を切る音。得物を洗っていたようだ。素早い動作でそれを収めると、靄の中に消えて行く。

 影の姿が見えなくなって、ジャッロはそろりと動き始めた。全身を耳にして、何者かがいた場所へと近づいていく。が、その途中で足を滑らし、景気の良い音を立てて沼にはまった。

「ひえっ!」

 悲鳴を上げて慌てて岸に戻ろうとしたところで、ふと水面に目が止まる。水底が波紋に揺れるその先。緩やかな流れに乗って、葦の根元の向こうからゆっくり広がって来るものがあった。

 赤い――筋が伸びて広がって来る。

 その正体を知って、体の芯がすうっと冷えた。固まった四肢を無理に動かして、先へと進む。静かな沼の畔が、にわかに凶暴な様相へと変わって行く。一足ごとに水の色はその濃さを増し、もはや一面の深紅となった中心に――それはあった。

 ジャッロは半開きになった自分の口元をつかんだ。

 褐色の髪と髭を洗う赤い波。仰向けの顔の高い鼻梁は水面に出ているが、沈む目元は窺われない――が、ジャッロはその瞳の色を知っている。その体の大きさも、その服も、その声も、その笑顔も。それは――

 かつて、竜騎士を呼ばれたものだった。

 水際に抜かれていない剣と共に、鎖の切れたメダルが落ちており、以前は輝いていた石が、今はみすぼらしく嵌っている。

 だが、悲しみの衝撃に覆われたのも束の間だった。

 竜騎士をこれほどまでにしたのは誰なのか――先ほど得物を洗っていた影が脳裏をよぎる。

 姿かたちはよくわからない。しかし、靄の中でも鈍く光ったその手にあったもの――その得物には見覚えがあった。

 その途端、空気に毒々しい悪意が満ち、忌わしい意思が、今度は己を狙っている気配に慄然となる。危険を叫ぶ、体半分の獣人の血。すぐさまよろける身を翻し、呪われた地から逃れようと走り出した。

 葦の狭間を突き抜けて、脇目も振らず疾駆する彼の顔や手を、細い葉が薄刃のように切り裂いていく。自分の荒い息と草擦れが、耳元で追い立てる音となって反響した。

――あれは……あの得物は……あいつの……!

 と、脇の草叢から突然大きな影が現われて、ジャッロの行く手を遮った。逃げる間もなくたちまち自由を奪われ、口を塞がれる。目の端に刃物の光がよぎり、彼の悲鳴は上げられることがなかった。


 九刻を知らせる鐘の音が、イクスミラレス城の高い塔から鳴り渡る。

「来ないな、ジャッロの奴」カラックが大欠伸をして唸った。「もういい、行っちまおう」

 馬の腹を蹴った元締めに、アシェルは慌てて駆け寄った。

「もう少し待ってあげても!」

「お前がそう言ったんで、もう一刻も待ったんだぞ。もう何を言われたって、聞く耳はねえ」

 カラックは強く睨むと馬を進ませ、アシェルの前を通り過ぎた。エナムスもその後に続いて、見習いにロバに乗るよう指示する。

「あいつだって子どもじゃないんだ。今まで何とかしてきたように、これからだってどうにかするだろう。イクスミラレスにはアブロンもいるしな」

「はあ……」

 アシェルは眉を寄せて唇を噛んだ。しぶしぶ頷きロバに乗ろうとしたところで身を返し、流水館に走り込む。しばし後に宿屋を飛び出して、勢いそのままにロバに飛び乗ると、先に進んだ親方に全速力で追い付いた。振り返ったエナムスの視線に気づいて、その顔に浮かぶ疑問に答える。

「ジャッロが戻ったら渡してくれるよう、手紙を預けたんです。ティムリアに戻ったら、花祭りの時のあの広場に行くようにって」アシェルは寂しそうに微笑んだ。「それまで、なるべく悪いことはしないようにとも書きました」

 親方は何も言わずロバを寄せると、若者の肩を優しく叩いた。


 紺碧の空の下、本街道を進む旅人の遥か後ろで、イクスミラレスの瀑布が轟いている。




第一部 了




<第1部 主な登場人物>


●アシェル    

 …シーリア(海の民)ラスタバン調達人見習い

●エナムス  

 …ローティ(路上の民)ラスタバン調達人親方

●カラック   

 …ヴァルド(森の民)仲介人元締め


●ジャッロ     …情報屋

●マルキウス  …猟師頭

●イブライ    …薬師

●ルゼ      …獣人の勢子頭


●アブロン    …竜騎士


●グラド

 …ラスタバン王宮付屠殺長

●シムイ

 …ラスタバン王宮付厨房料理人見習い


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ