5.狩猟
<旅程>
8日目
浮き岩台地→猟師小屋
9日目
猟師小屋
10日目
猟師小屋・狩り→ラポ川野営①
11日目
ラポ川①→ラポ川野営②
12日目
ラポ川②→大滝側野営
13日目
大滝→イクスミラレス
第一部 旅路図
翌日の日暮れ近くに猟師小屋に着いたが、七人程の猟師一行を迎えるには、更に一日待つことになった。その猟師頭はマルキウスという大男で、カラックから紹介されたアシェルは、彼から腕が抜けると思うほどの握手を交わされた。
早速仕事の話が始まる。最近の大王牛、赤豚の生育具合と猟の成果、それぞれの大きさと頭数、取引価格や搬送方法など。アシェルは傍で聞きながらエナムスの指示に従い、決められた事柄を書類に記録していった。時折強い口調の応酬もあったが、どうやら決着がついたようだ。最後に同じものをもう一枚書くように言われ、それが済むと一枚が猟師頭に渡され、読み合わせが行われる。契約内容の確認が取れると、双方に締結の印が押されて取引は終わった。
「相変わらず、ラスタバンの王様はシブチンだな。祝い事なんだから、もうちっと色をつけてもよかろうが」マルキウスは契約書を乱暴にたたむと、チョッキの内ポケットに押し込んだ。「エナムスよ。牛にしろ豚にしろ、こんなでっかいモノを殺さず仕留めるのがどんなに大変か、お偉いさん達はわかってんのかね」
「その代わり、不猟だった時の保障が付いている」こちらは丁寧に契約書を書類入れに収めたエナムスが、じろりと頭を睨む。「そちらこそ、ちゃんと仕事をしてもらいたいもんだ。お前達の薬師の不手際で、こちらがどんなに迷惑したか通達は来ているだろう。修理費の請求が来てないだけ、ありがたく思え」
「ははあ、あの特注の大王牛のことか」
マルキウスはとぼけたように両眉を上げた。
「あれは悪かったと思ってるさ。あん時の薬師はとっくにクビにしている。腕のいいのが入ったんだ。イブライ」
周囲を陣取っている猟師達に声をかけると、肌の浅黒い青年が立ちあがった。屋内なのに暗い色の外套を着たままでいる。
「渡りだが大した腕だ。こいつが来てから、絞めどころか筋切りさえ一度もしていない」
「そりゃ、すごい。大王牛や赤豚が無傷なら、さぞかし高額の取引で大儲けだろう、マルキウス」カラックが例によって体を曲げ、興味津々に薬師の顔を覗き込んだ。「渡りは長いのかい?」
「そこそこです」新顔の薬師は穏やかな笑みを浮かべた。「よろしくお願いします。カラックの元締」
イディンの獣は対する人の思いに反応するが、またそれは獣自身の体にも影響した。怒りと恐怖で死んだ獣の肉は腐敗が速く、火を通した上の乾燥肉にするのがやっとであり、当然値が落ちるので、猟師たちは絞める(殺す)ことを極度に嫌う。そこで麻酔薬を塗った弓矢で捕えるのであるが、調合には極めて高度な専門知識と腕が要求され、この資格者である薬師の数は非常に少なかった。大抵は薬師紛いの手によったが、その紛い者さえ少なく、多くの貧しい猟師たちの一線を行くのが筋切である。
エナムスの以前の生業であるこの仕事は、腕を頼りに渡るローティ(路上の民)に多く、危険も大きかった。向かってくる獣の四肢の筋を素早く切ってその動きを止め、怒りを抑え眠りに誘う薬――安送薬を飲ませるのだが、強い経口麻薬であるこれだけは、昔から彼らにも作ることができた。
マルキウス
当たり前のように酒宴となった夜、座は顔を赤くしたマルキウスによって仕切られ、手下の猟師たちがその命によって、歌ったり踊ったりしている。アシェルは何を気に入られたのかマルキウスの腕にがっちり捉まり、押しつけられたカップに生のウルム酒をなみなみと注がれた。
「いや、シーリアの御仁が、こんな山奥までおでましとは珍しい。是非、お近づきのしるしを受けてもらいたいもんだぜ」
溢れるばかりの紫の液体を鼻先に突きつけられ、アシェルは軽くしゃっくりをした。匂いだけでも目が回りそうだ。恐る恐る猟師頭の顔を窺うと、酒で血走った目に浮かんだ残忍な笑みが、彼を見下ろしている。緊張に喉を鳴らしてカップに口をつけた途端、舌先から上は鼻腔、脳天へ、下は喉から胃へと走る衝撃。慌てて身を引こうとするところへ、マルキウスがカップを押しつけたので、たちまち紫の大波が顔面を襲い、否応なく鼻から口から侵入して容赦ない刺激を撒き散らした。
激しく咳込みながら床に転がる若者に、周囲から喝采と嘲笑が起こる。
「おお、こりゃ失礼。ついぶつかってしまったぜ」マルキウスが空々しく手を差し出し、アシェルを引き起こした。「せっかくの酒が台無しだな。仕切りなおしだ」
「い、いえ……もう結構で」
首を振って辞退するアシェルの手元に、再び強引にカップが押しつけられ、酒瓶が傾けられる。
「そう言わず、最上級のウルム酒なんだぜ。きっと気に入ると……」
「アシェル」
酒瓶を持つマルキウスの腕を、エナムスが掴んで止めた。見習いに言う。
「外のロバと馬の様子を見てこい」
周囲の喧騒が収まる。アシェルは目を瞬かせると、ゆっくりマルキウスから身を引いた。
「はい、親方」
頷いてカップをテーブルに置き、一同の注視の中を小屋の外へ出て行く。扉が閉じると、エナムスは猟師頭の腕を離した。
「すまんな」マルキウスのぎらつく眼差しも意に介さず、何事もなかったように自分の席に戻る。「仕事中に大酒をかっくらうような教育を、俺はしてないんだ」
小屋の外へ出たアシェルは水場に行き、顔にかかった酒を洗い流した。幾度となく鼻をかんで、鼻の奥のひりつきがようやく収まる。顔を上げて目を渡すと、浮き岩を映したまだらな月の影が、台地の草原から森へと続いていた。
小屋近くに繋がれているロバや馬の一頭一頭を確認して、さてどうしようかと考える。マルキウスの新兵苛めのような行為は大した事もないが、戻ったことで親方と猟師頭の軋轢が強まっては不本意だ。しばらく時間をつぶそうと見回したところ、小屋脇に薪置き場の屋根が渡してあって、夜風をしのぐには丁度良さそうである。そこへ途中まで進みかけ、足を止めた。
積まれた薪の影に何かが動き、アシェルは剣の柄を握って身構えた。
「誰だ、そこにいるのは?」誰何するが、返答がないので剣を抜く。「答えないと……」
「へえへえ! 怪しい者ンじゃありません! ご勘弁を!」影が両手を挙げて悲鳴を上げる。「マルキウスのお頭に雇われている勢子でごぜえやす!」
月の光の中に現れたのは、怯えた表情を浮かべた犬族の獣人だった。
ティムリアの都ではちょくちょく見かけた獣人も、キャベルを過ぎた辺りから稀になっていた。知った港町では当たり前のようにいたが、内陸の獣人は人とは別の集落を作って暮らしていると、昔聞いた話を思い出す。
「あ、あの……ラスタバンのティムリアから来た御方でごぜえやすよね?」
獣人がびくびくしながらも、探るような目を向けた。
「ああ、そうだよ」
頷くアシェルに、黒い毛で覆われた顔面がいくらかほっとして緩んだ。今度は丸い黒い瞳を忙しげに動かして周囲を見回す。
「ええ……その…」一大決心をしたように、ごくりと喉が鳴る。「……カラックの元締も一緒で?」
「元締に用なのかい?」剣を鞘に収めながらアシェルは獣人へ微笑んだ。「呼んできてあげるよ」
「いえいえいえいえいえ!!」小屋に行きかけた彼の腕を、獣人があわてて掴んで止める。「いえ、結構で!!」
アシェルは怪訝そうに首を傾げた。
「でも、何か話があるんだろう?」
「あ、はい……」
もじもじと煮え切らない。
「……俺でよかったら、聞くけど」
薪置き場の渡し屋根の下に共に腰を下ろしながら、アシェルは促した。
「あ、はあ……」大丈夫だろうかと、獣人が上目遣いにぼつぼつと話しだす。「あの……勢子のお代を……その、ちゃんと頂けねえかと……」
「お代? 勢子の報酬かい?」アシェルは先ほど記録した契約内容を思い出した。「マルキウスから渡っていないのかい?」
「お頭が言うには、ここんとこお上の懐具合が悪くなって、勢子代にも事欠くようになっちまったって……」
丸い目を伏せて悲しそうな長い溜息をつく。
「……事欠く?」
アシェルは眉を寄せて訊き返した。
「それであっしら、とても暮らしていけませんで……」月明かりの向こうにある黒々とした森指して、あの向こうに村があると言う。「ガキ共はみんな腹を空かしてんですが、大人も食わんと勢子の仕事ができんので……」
それはそうだろう。勢子は野山を駆け巡り、獣を追いたてる重労働だ。
「まあ、みんなで話し合って、カラックの元締に掛け合おうと、あっしが来たんでやすが……」
獣人は顔を上げて切なげに訴えた。要するに――
――ピンハネか……
アシェルは立ち上がった。
「そういうことなら、すぐ話した方がいい」
「いえいえいえいえ!!」獣人がまたも慌てて止める。「いえ! とんでもねえことを話しちまった! 忘れておくんなせえ!」
そこへ猟師小屋の扉が軋み音を立てたので、獣人は飛び上がった。戸口に人影を認めて急いで草原へ駆け出し、しばらく行った所で振り返って叫ぶ。
「黙ってておくんなせえ! お頭には! お願えしやす!」
見る間にその姿は、暗い森の中へ消えて行った。
「なんだ、勢子のルゼが来てたのか?」小屋から出てきた長い外套の影は、薬師のイブライだ。「何か話があったのかい?」
「いえ、別に……」アシェルは首をすくめた。「そちらは?」
「ああ」頷いたイブライが愛想よく言う。「君を呼びに来たんだ。お頭が酔って寝たから、もう安心して入っていいよ」
「寝た……もう?」
アシェルが驚いて訊き返すと薬師は白い歯を見せて笑った。
「そう、ぐっすりとね」
ルゼ
朝靄の消えた森の方から、犬の鳴き声が微かに聞こえ、しばらくすると遠吠えが長く尾を引いた。
「クランの組が、赤豚の群れを見つけたようでやす。涸れ谷の方へ追い立てていると」
ルゼの報告に、マルキウスが頷く。
「よし、森から出たところで勝負をかけるぞ。そのまま追えと伝えろ」
勢子頭が遠吠えの連絡を返す間に猟師達は一斉に馬の腹を蹴り、マルキウスを先頭に、朝日の照らす草原を疾走して行った。赤豚狩りが始まったのだ。
ラスタバンの一行も速足ながらその後に続き、最後尾を行くアシェルは、彼を追い抜くルゼと目が合った。懇願する眼差しは、昨夜のことだろう。そして、その理由も分かっていた。
ここでマルキウスの不正が糺されたとしても、今後彼が従うとの保証はない。それどころか、このような監視の目の届かない辺境では却って恨みを買い、今以上の酷な扱いを受けるのが関の山だ。第一カラックにしてもエナムスにしても、所詮はラスタバンの下級官吏にすぎず、マルキウスを糺す警察力があるとも思えなかった。
しかしこの早朝、集まった獣人達の痩せた体を見たアシェルは胸を突かれた。何とかしなければならないと思いつつも、一体何ができるだろう。
「アシェル、遅いぞ。もっと急げ」エナムスがロバを止め、遅れがちになる彼を振り返った。「何をぼんやりしている」
先頭のカラックも気がついて、馬を返してくる。
――親方達なら、どうするのかなあ……
見習いの無言の切ない視線を受け、年上の男達は当惑げに顔を見合わせた。
全速力で着いた涸れ谷では、ちょうど森から出てきた赤豚の群れに猟師達が矢を放っていた。それを二、三本受けただけで、獣たちは次々と地に転がる。
「や、すげえな、こりゃ」カラックが感嘆した。「ありゃ、相当強い薬を使ってるぜ。死んじまわないのかね」
「その辺の細かい匙加減が出来るんだろう。たいした薬師だ」エナムスも頷く。「弓矢だけで足りるとは、マルキウスは随分楽をしているぞ」
薬師のイブライは猟師達の間を駆け巡りながら、放つ矢を指示している。矢ごとに、薬の強さが違うのだろう。
「逃げた!」猟師のひとりが叫ぶ。「お頭! でっかいのが、また森へ入っちまった!」
「間抜け! 一番の上物じゃねえか! 追うんだ!」手下が不安な表情を見せたので、マルキウスは狡猾な笑みを浮かべてエナムスに声をかけた。「……と言う訳だ、親方。森ん中じゃ矢は当てにならねえ。ここは、あんたの腕を貸してくれねえか?」
一同の視線が集まる中、エナムスは肩をすくめるとアシェルについてくるように合図し、森へ向かった。カラックがその後を追い、猟師達が更に続く。
森へ入るとそれぞれ馬を下り、いくつかの組に分かれて獣人の鼻と耳を頼りに獲物の痕を追い始めた。エナムス達の勢子には、ルゼがつく。彼は油断なく周囲に気を配り、時折低いうなり声で仲間たちと連絡を取り合った。しばらく進んで囁く。
「近いでやす」そして心配そうに続ける。「一人で大丈夫でなんで?」
通常であれば、いくら腕のいい筋切でも射手の援護なしで立ち向かうことはない。猟師を一人も付けなかったのはマルキウスの悪意であったが、エナムスは軽く笑って頷いた。山刀を握り直すと、アシェルとカラックに下がるように手を振り、ルゼの肩を叩いて二人して藪の中へ入って行く。そのままゆっくり時が過ぎた。
緊張した空気の中を、長閑な春の木漏れ日が差している。
「親方、火傷は大丈夫かなあ……」
アシェルが囁いた時、唐突に獣の鋭い叫びが上がり、衝突音が地を揺るがした。が、それも尻すぼみにすぐに収まる。
元締が目くばせをしたので、見習いも彼に続いてエナムス達が進んだ藪に分け入った。少し行くと小さく開けた場所に出、エナムスと傍に倒れている大きな赤豚、それを囲んで猟師達が集まっている。赤豚に駆け寄ったひとりの猟師が、様子を調べて困惑気に顔を上げた。
「死んでますぜ、お頭」
「なんだと!?」マルキウスは凶暴な視線をエナムスに放った。「えらいことをしてくれたな、おい!」
「助けを求めたのは、そっちだ」素知らぬ顔をしてエナムスは、山刀をアシェルの差し出した手拭いで拭い、鼻を鳴らした。「王宮務めで鈍ったかね」
「ああ、こりゃ近場の市場までももたないな。獣人達に依頼して干し肉にするしかない」獲物を覗き込んでいたカラックが腰に手を当て、背を反り返してマルキウスに言う。「それにしたって、こんな辺鄙な所じゃ手数料だけで足が出るぜ。どうだい、ラスタバンに引き取ってもらうってのは。ええ? 親方」
カラックに振られてエナムスは頷いた。
「干し肉代くらいなら、払ってもいい」
眉間に深い皺をよせたマルキウスは、猟師のひとりに目を向けた。計算高そうな小太りの男が首肯する。会計係なのだろう。
「干し肉代を忘れるなよ」
マルキウスは苦々しげに言い捨て、猟師達と共に去って行った。しかし、一人残っている男がいる。薬師だ。獲物に近づいたイブライは膝をついて赤豚を慎重に探っていたが、しばらくして立ち上がり、獣人達を見回してエナムスに目を止める。
「これは……仕方ありませんね」
薬師は猟師達の後を追い、藪の向こうに消えた。それを見計らって、カラックが周囲の獣人達へニヤニヤ笑いを向ける。
「屠殺の仕方は知っているな」
ルゼが喜色満面で、強く頷いた。
谷川の両岸にそそり立つ崖に、カラックの笑い声が甲高く響いた。
「『王宮務めで鈍った』はよかったな!」
エナムスの言葉を思い出して、また噴き出しのけぞって笑い続ける。あまり体を反るので、結んだ黒い髪が馬の尻に付きそうだ。
今下っているラポ川は、浮き岩台地へ上ったウリトン川と水源を同じにしていたが、逆の真西に向かって流れていた。台地を出るころの小さな流れが、今はいくつもの流れを集めて谷の深さを増している。
「そんなに笑うと、顎が外れますよ」アシェルは前方を行く逆さまの顔に眉を寄せた。合点がいかない表情で続ける。「あの赤豚がほんとは死んじゃいなかったのは分かったんですけど……」
「おや、不服かい?」
カラックは苦しい息を整えながら体を起こすと振り向いたが、そこでまたもや笑いに取りつかれる。
「……あん時の、こいつの顔ったら!」今度は体を折って、馬のたてがみに顔を寄せる。「捨てられ子猫みたいにべそっかきで……はっはっ! まあ、情けねえ! 今にも、『にゃあ』と鳴きそうだったぜ!」
「マルキウスにばれないかってことだろう?」エナムスは、カラックの収まらない発作に苦笑しながら、見習いに応えた。「何、解体してしまえば分かりゃしない。大体あいつらが獣人の村へなぞ行くものか」
あまりの笑いに立ち止まってしまったカラックの馬を追い抜いて、二頭のロバは進む。
「でも干し肉にするよう、獣人が請け負ったことになってますよ」
アシェルの不安にエナムスは微笑んだ。
「ラスタバンへの搬送業者が来たら、ルゼには干し肉分の値と同じ塩漬け肉を渡すよう言っておいた。現物はともあれ、帳尻が合えばいいのさ。こんなことは日常茶飯事だ」
親方の言葉に、アシェルの心はようやく落ち着いた。塩漬け肉は干し肉の五倍はするから、獣人の手元にはかなりの肉が残ることになる。
「市場で売れば、ふた月はもつだろう」
「ふた月……」アシェルは呟いた。――たったふた月。けれど、その先は……。
「ふた月もありゃ、マルキウスはお払い箱だ」立ち直ったカラックの馬が、軽快な足取りで追い付いてくる。「あの根性の悪さに、あちこちで文句が噴出しているからな。長がそろそろ手をつけるだろうよ」
アシェルは仲介人の元締めを見上げ、首を傾げた。
「長……?」
「御母堂が動いてくれれば、万々歳だ」
エナムスの言葉に、カラックが目を見開いて驚きを浮かべた。
「知っているのか?」苦笑して鼻を鳴らす。「さすがはラスタバンの調達人だな」
イディンには国はあるが、都や町の周辺といった拠点的なものにすぎず、国の警察権が及ばない土地の方がはるかに広い。ここに多く住むのが『外の者』と呼ばれるヴァルド、シーリアであり、それぞれに山や森、川、海での生業をもつ人々を統括する者――長がいた。人にしろ、獣人にしろ長を頂点とする社会に属し、一定の生活の保護と引き換えに、緩やかではあるがその支配を受けていた。
この辺り一帯を治めるのは、『東長』とよばれる女性であった。
「つまり元締は、ヴァルドの若長ってことですか?」
この日の野宿場所である樫の木の下で火を起こしながら、アシェルが訊いた。
「さてね……」ヴァルドは気のない返事をして、食料袋から燻製肉の塊を取り出した。「兄弟は五人いるから誰が継ぐかは分からん」
「そんなにいるのか。東長が子沢山だとは知っていたが」
エナムスが面白そうに顔を向けると、カラックは肉切りナイフを振った。
「加えて妹があと三人」
「はあ!」アシェルの驚嘆。
「おまけに全部父親が違うときてる」
「ほう!」エナムスの感嘆。
「どうして、ああも惚れっぽくて、飽きっぽいんだろうな」
燻製肉を切ろうとしたところで、突然刃先が止まった。
エナムスも開きかけた水袋のふたを閉じ、腰の後ろの山刀に手を回した。ゆっくり立ち上がって、幹の向こうの暗がりを見つめる。
しばらくの沈黙の後、揺れた下生えから見覚えのある外套の人影が現われ、妙に明るい声が届いた。
「やあ、やっと追い付いた。今日の内に出会えてよかったですよ」浮き岩台地にいるはずの薬師――イブライはにこやかな笑みで、不審顔の一同を見渡した。「熱烈歓迎を期待するのは、ずうずうしいでしょうかね?」
「ここから先は近づくなよ」
焚火の光がやっと届くところの楢の根元に薬師を追いやり、カラックが凄む。
「やれやれ、信用が無いんですね」イブライは心外そうに首を振ったが、大人しく言われた通りの場所に荷物を置いた。「初対面でありますまいに」
「馬鹿言え。たかが昨日今日の付き合いの上、お前さん、自分がいかにアヤシイのか分かっちゃないのか?」カラックは腰に手を当てて、薬師を見下ろした。「あのな、『流れ』でその腕ほどの奴を、俺が知らないってこと自体おかしいんだよ」
「この辺りにお世話になり出したのは、ごく最近なもので……」イブライは肩をすくめ、荷物から出した小さな敷物を地面に広げた。「外の者は素性を問わないのではないんですか?」
「寝首を掻かれない程度には用心するさ」再び焚火のそばに腰を下ろしたエナムスは、新参者から目を離さずに夕餉の支度の続きに取り掛かった。「マルキウスのように眠らされる位なら、まだいいがな」
カラックの代わりに燻製肉を手にしたアシェルが驚いて顔を向けると、目の合った薬師は苦笑した。
「その見習い君が、ちょっと気の毒になったのでね」
「赤豚を見逃したのも獣人が気の毒だからか?」
問うカラックを、一瞬挑戦的に見上げたイブライだが、すぐに穏やかに答える。
「いけませんか?」
どうしたものかと厳しい顔で仲間を振り返った元締めは、見習いの若者の表情を認めた途端に、がくりと肩を落とした。
「『にゃあ』だよ……」呟いてから気を取り直し、人差し指を薬師に突き付けながら強く迫る。「とにかく、今夜はここを動くな。イクスミラレスまでの道中を付き合ってもいいが、こちらの言うことは聞いてもらうからな!」
「感謝します」
微笑む歯の白さが肌に映え、イブライは小壜とカップを取り出すと、さっそく気安げに声をかけた。
「ところで、お湯を頂けませんか? ベオル酒をお湯割りにしたいので」
「お断り!!」
ヴァルドの邪険な答えに、気落ちして溜息をつく。
「冷たいんですね」
道は森に入りながらもラポ川沿いを下っていき、中流に栄えるイクスミラレスへと続いている。個人領主ナスラン・ヴァルエンド・デル・イクスミラレスが統治する、西街道の中でも繁栄を誇る城塞都市である。
その特産は、なんといっても豊富な種類を誇る薬草の数々だろう。ファステリア王の見舞いというラスタバン姫君たちの訪問理由が建前とは言え、王の健康の優れないことは事実だったので、祝宴のメニューには薬膳が盛り込まれており、また貴重な薬も贈答物として調達目録に入っていた。一方イブライも、狩りに必要な薬が足りなくなったので、買い足しに出てきたのだと言う。
「往復一週間はかかるのに、よくマルキウスが許したな」
前を行く薬師に、カラックが相も変わらず疑いの視線を向けたまま声をかける。
「いくら横暴な頭でも、背に腹は代えられませんよ。一応私がいなくても使えるような薬は、置いておきましたし、多少手間はかかりますが、筋切に頼るよりずっと楽にできるはずです。もっとも親方の筋切は、薬以上ですがね」
そこでイブライは彼らを振り返った。
「ねえ、もっと前に出てきたらどうです? もう、話しにくくてしようがありません」
「おっかなくて、お前さんの横や前を歩けねえんだよ。信用できねえって、昨夜言ったろ?」
元締の胡散臭いもの言いに、いささかうんざりしたように薬師が肩をすくめたところで、見習いのロバが歩を速めて彼の馬と並んだ。おや、と眉を上げる男に、若者は気安い笑顔を向ける。
「まだ、助けてもらったお礼を言ってなかったからね。ありがとう、早くに小屋に入れて助かったよ」
イブライの驚きの目が柔らかくなり、彼は帽子を取って軽く首を曲げた。
「どういたしまして」
「その帽子」アシェルの視線が、薬師の頭に再び収まった帽子に向かう。「学生さんみたいだ……というか、イブライは元は外の者でないんだろうね」
率直な言葉をいきなり受けて、薬師は小さく顎を引いた。見習いが更に続ける。
「言葉遣いからして俺達と全然違うし、ただの町の者とも違うし……だとしたら貴族しかないけれど、どうなんだい?」
もちろん彼を少しでも観察すれば分かることなのだが、それを本人を前に面と向かって言うことには、元締も親方も憚れていた。つきつめれば、その正体を問い質すことになり、外の者の仁義に反しかねない。
「肌の色も……以前行った南の国の人がそんな感じだったし。南の国の、貴族の、元学生の……」
「見習い君……アシェル。もう勘弁してくれ」
イブライは大きく息をついて、若者を見下ろした。しばらく見つめた後、口端を上げる。
「ホントにそうかな? ……それならそれで、あまりに見え透いてると思わないか?」軽く首をすくめる。「まあ、肌の色は隠せないがね。帽子から、言葉遣いから、物腰から、そう見せているだけかもしれないと思わないか?」
胸元に手をあてて身を乗り出してきた相手に、アシェルは目を瞬かせ、小首をかしげた。
「そう言われてみれば、そうだけど……でもなんで、わざわざ……」
「胡散臭いのも、この世界を渡る武器になるのでね」薬師はちらりと背後に目を走らせた。「実際、正体が知れないと君の親方達は近寄ってこないだろう? はったりも、マルキウスみたいな人間には結構通用する」
「……お前」カラックが馬の歩調を速めて近寄り、薬師の顔を覗きこんだ。「マルキウスを甘く見ていると、痛い目に遭うぞ」
相手を探り合う視線が交わされると、イブライは今までとは似つかわぬ不敵な笑みを浮かべた。
「御忠告、有り難く受け取っておきます」
浮き岩台地を出発して三日目の朝、遠くに鳴り出した低い唸りはその日の夕刻には、地を揺るがす轟音となった。薬と共にイクスミラレスを有名にしている、大滝に近づいてきたのだ。表街道から街に入ると、その城壁のはるか向こうの崖からの大瀑布が一望に見渡せる。またそれを中心に山肌からはいくつもの小さな滝が落ちていて、イクスミラレス周辺に湖沼地帯を作っていた。
大滝の音を共にしながら一夜を明かし、裏からこの街に入る道をとる。滝脇のつづれ折の道は滑りやすく、旅慣れた彼らでもガレ場以上に難儀する場所だ。それでも晴天続きで山水も少なく、ところどころ乾いた地もあって昼前には下りきることができた。
湖沼沿いに進んで行くと、街の方から楽隊の音が風に乗って聞こえてくる。街の裏門に近づくにつれ、城壁の上の色とりどりの旗が鮮やかに翻っているのが見えてきた。そこでアシェルは、ブルブランの告知板に張られた公開書を思い出した。
イクスミラレスでの公開果仕合の日、モリエラの聖日は明日に迫っていた。
イブライ