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ラスタバン王の給仕  作者: 平 啓
第一部
6/38

4.夢見の竜

 

<旅程>

5日目

 ブルブラン

6日目

 ブルブラン→ウリトン川野営

7日目

 ウリトン川→浮き岩台地野営


挿絵(By みてみん)

第一部 旅路図


 夜半からの風が雨雲を追い払い、翌朝のブルブランは青空が広がった。

 この日の出立は一日延ばされ、半日は寝ているようにと言われたアシェルだが、痛みが後頭部の腫れだけになると寝台から起き上がった。前日泥で汚れた衣服を持ち、宿から盥を借りて水場に向かう。

「おい、寝てなくていいのか?」

 カラックが煙草をふかしながら、後に続いて宿から出てくる。

「たんこぶだけだから、大したことないです」井戸の水を汲むと、アシェルは洗濯を始めた。「すみません。俺のために遅れてしまって」

「日数はあるからな。一日や二日の遅れはなんてこともない」井戸縁に腰かけたカラックが、思い切り吸った煙草の煙を、のんびりと青空に向かって吐き出す。「それより仕事の中身を知って、びびったんじゃないのか?」

「そりゃ多少は驚きましたが……」ごしごしとシャツをこすりながら、見習いは肩をすくめた。「それならそれで、こちらも心構えをしますから」

「おお、さすがにデブアの眼鏡にかなっただけあって、頼もしいこった」

 元締が目元にしわを寄せて、人懐こそうに笑う。

――いろんな笑い方をする人だな。

 彼と出会ってからのいくつもの表情を思い返し、アシェル自身の顔も緩んだ。それにしても昨夜の言葉が気にかかり、首を傾げながら訊く。

「『ラスタバン王の給仕』ってだれなんです?」

「それが分かったら、ゴンドバルも苦労はしないさ」カラックが片眉を上げる。「だから、お前さんが襲われたんじゃないかと思う。それらしい怪しきは、片っ端から片付けようとな」

 随分乱暴な話だが、不条理を訴えても聞くような相手ではないのだろう。

「ファステリアの王子とラスタバンの王女が一緒になるってことは、両国の結びつきが強くなるってことだ。ゴンドバルにしてはおもしろくないし、脅威だろうさ」カラックは身をかがめて、流れた洗濯水で煙草の火を消すと、近場にあったごみ入れに放り入れた。「ぶち壊そうと思うのは目に見えてる」

「そこで、俺達調達人の出番なんですね」アシェルは井戸端に備え付けの物干し竿に、シャツと胴着と下着を干しながら言った。「ゴンドバルがどういう動きをするか探れ……とか」

「察しが良くて助かるぜ」

 二人して春風に翻る洗濯物を見上げていると、宿の窓からエナムスが声をかけた。

「アシェル、出歩いて平気なら、市へ得物を買いに行くぞ」


 ブルブランの市は十日に一度なのでついていたと、道すがらカラックが言った。街道を西へ向かう町の入り口に、大小さまざまな露店や出店が並ぶ。前日とは遥かに多い人出の中を、擦れ違う人々毎に会釈を送ってくるので、ここでもヴァルドが顔役であることが知れた。気安くそれに答えながら、大股にゆっくり歩を進めるその背には、旅の始めからの長い剣が負われている。外の者には珍しい得物だ。

「あいつの背が高いから目立たないが、あれは騎士並みにかなり長いぞ」

 アシェルの視線に気づいて、隣を歩くエナムスが言葉をかけた。騎士の大剣は常人に扱える代物ではなく、それを愛用しているとはかなりの遣い手なのだろう。

 途中笑顔で近寄ってきた子連れの女が、何度もカラックに礼をした後、手に持っていた春リンゴの実を渡して、これも頭を下げながら去って行った。それを目で追いながらエナムスが呟く。

「ヴァルドには不釣り合いな所がある奴だ。妙に品があるというか」

「ぶっ!」

 思わず噴き出したアシェルは、顔に飛び散った鼻水を慌てて手拭いで覆った。

「汚ねえなあ。人をネタにして、何話してんだ」

 ほらよと言って、元締は貰った春リンゴを二人に投げてよこした。つやつやと陽光を返している果実をかじると、春の爽やかな酸味と香りが口いっぱいに広がる。

 と、急に周囲がざわついて、空を見上げた何人かが指を差した。つられて振り仰いだ遥か上方を、銀色に輝くものが二つ、薄青の中を西の山岳地帯目指して悠々と横切って行く。

「竜だ……!」

 見習いは感嘆して呟いた。

 暫く歩いた先に目的の刃物屋があり、声をかけると店主が顔を見せた。これも親しそうに挨拶を交わしてから、カラックが振り向く。

「アシェル、喜べ。お前をこんな目にあわせた詫びに、代金は親方の奢りだってよ。何、こんな辺鄙な出店に大した代物はありゃしないから、遠慮はいらないぜ」

 驚き顔の見習いと目が合うと、親方は口端を上げて頷いた。


 アシェルの選んだのは、普通の剣に比べて短めではあるが、シーリアのよく使う得物に近い幅広の反り身の深い仕様だった。ベルト、鞘一式揃えてもらい携帯すると、このところ忘れていた重みが腰に蘇る。

 そして今、三人は街道を逸れてウリトン川沿いの道を北に遡っていた。

「お前にも礼を言わんとな」エナムスは横を行く馬上を仰いだ。「しかし、いいのか? 九割も値切ったりしたもんで、とんだ災難だと店主が嘆いてたぞ」

「いずれ、見返りはしてやるさ」カラックが澄まして言い、後ろの見習いに視線を走らせる。「それにしても、素人じゃないと分かって良かったぜ。遅まきながら、調達人試験は合格かい」

「ああ、自分の使い慣れた得物に近いのを選んだ。こんな内地じゃシーリアの得物なぞ無いからな、似た物と言えばあんなものだろう。少なくとも、自分の身は自分で守る腕はあるじゃないか?」エナムスは頷き、喉の奥で笑った。「マニーの御仕込みは、間違い無いってことだ」


 先日の雨で増水した川は、あちこちで早瀬の音を響かせていたが、旅慣れた一行は川を横切る際にも難儀することなく、変わらぬ速さで進んで行く。

 この道筋を一日半行き、さらに尾根を登り切ったところにある広大な台地が、大王牛と赤豚の絶好の狩り場だった。ここの猟師達とラスタバンは取引の長い付き合いで、狩り場にある猟師小屋で彼らと落ち合う約束になっている。

 山間に迫る早い日暮れ。彼らは川沿いの道を外れ周囲を物色した後、張り出した岩陰を今夜の宿と決めた。


挿絵(By みてみん)


「ここら辺で襲ってくる獣って何ですか?」

 夕食後に、焚火の前で指先を動かしながらアシェルが訊いた。カラックは岩陰の入り口で月を見上げ、エナムスは黒茶のカップを片手に、それぞれ煙草とパイプで寛いでいる。

「ああ、そうだな、たまに逸れた赤豚が出ることもあるが、たいしたことはない」カラックが物憂げに答える。「ま、一番気をつけなきゃいかんのは人間様だ。お前さんの言う追剥」

 アシェルは唸った。

「結局どこへ行っても、そうなるんですかね」

「獣には縄張りがあるが、金目のものがある限りどこでも出没するね、そういうのは」

 ヴァルドの男が手にした剣を鞘から抜くと、月光がその刃を滑った。

「そういや、賊相手の活劇もこのところ無沙汰だな。腕が鈍っちまったんじゃないかと心配だぜ」振り向いて、奥にいるエナムスに声をかける。「親方、どうだ。狩り場に着いたら、一丁手合わせしてみないか?」

「お前さんの遊びにつきあう気はない」エナムスはパイプの最後の一吸いを終えると、吸いかすを焚火の中に落とした。「こっちは忙しいんだ」

「ちっ、つまらねえ。十分暇そうじゃないか」再び見習いに顔を向ける。「ふんじゃ、物足りなくてもいいや。アシェル、お前が付き合え」

「え、ええ? 勘弁してください、俺なんかきっと元締めの相手になりませんよ」

 手元の作業から目を上げた若者が、いささか迷惑そうに眉を八の字にした。

「ああ? 弱くはないと豪語したのは、どこのどいつだよ!」

「うんと……強くもないんです」

「なんだ、そりゃ!? 親方見習いそろって、まったく面白くもねえ奴らだぜ!」

 カラックは不機嫌に剣を鞘に納めると、手持無沙汰にぶらぶらと近寄ってきて、アシェルの手元を覗き込んだ。

「で、さっきから何を細かいことやってるんだ?」

「繕いですよ、切られた服の。まだ夜は寒いんで、着ない訳にはいかないです」顔を上げた見習いが縫い目を見せる。「もう少しかかりますから、最初の見張り番は俺がします。先に寝てください」

 年上の男達は顔を見合わせ苦笑すると、荷の中から旅用の毛布を取り出した。

「じゃ、お言葉に甘えてお先に失礼するぜ」カラックが、岩壁に身を落ちつかせながら入口を示す。「あそこに月がでてきたら、俺と交代だ」


 春の夜の静寂の中、谷川のせせらぎが岩壁に響き、時折焚火の小枝がはぜた。背後からはエナムスとカラックの浅い寝息が聞こえてくる。針を動かしながら今までのことをぼんやり思い返している内に、じわりと寒さが忍び込み、アシェルは思わず身を震わせた。繕いを早く済ませて着込まない事には、風邪をひいてしまう。

 ようやく針仕事を終えて顔を上げた時、岩陰に射す光に気づいた。月にしては早すぎると怪訝に思い、剣を手にしてそろりと入口へ歩み寄る。

 月は東の空を中天に上りかけていた。しかし山肌に濃い影を投げ掛けているのは別の光だ。谷の向かい尾根を下りる輝く白光。その動きに沿って陰影が逆の方向に延びる。と、中途で止まり、突然の煌めきを放って空中に浮かびあがった。見るだけで気圧される光の雫が四方に舞い、一直線にこちらを目指して近づいて来る。溢れる光が目を射抜いた。

――竜だ!!

 叫んで奥へ戻ろうとした途端、足がもつれた。頭に黒い真綿の塊がのしかかるように、いきなり強い睡魔が襲ってくる。岩地に腕を突っ張らせ、何とか前に進もうとするが、自重に耐え切れなくなったように体が落ちた。

――親方! 元締!

 意識は激しく叫びつつ、たちまち視界が遠ざかって行く。重い帳。


 夢が下りてきた。


 

  *  *  *



――寒いよ、父ちゃん

 子どもは囁いた。どこまでも続く白い凍える世界の真中に、ただ体が触れ合っているところだけが暖かい。子どもを抱く腕に力が入り、一層身を固く引き寄せられる。それで、子どもは少し安心する。

 厚い胸に頭をうずめていると、風の咆哮も低く歌われる子守唄に変わっていく。

 子どもは白魔の先を、穴のあいた手袋で指差した。

――ほら、おねむの精霊が来たよ。

 色のない世界に黄色の小さな点が現われ、灰色の影が近づいてきた。



  *  *  *



――暑いよ、母ちゃん

 子どもは言って後悔した。自分を愛する者は、全てを与え尽くして動くこともできない。周囲には、容赦のない獰猛な光が岩山を打ちつけ、僅かながらの日蔭が命の綱だ。大好きな優しい首に細い腕を回し、子どもはすすり泣いたが、涙はこぼれる間もなく乾いていく。どうしてここにいるのかわからない。

――来て……お願い、誰か来て……

 子どもは悲しみの祈りを繰り返した。

 岩地から立ち上る、陽炎の揺らめきが一段と強くなる。それは幾重にも重なり合い、大きな影となった。



  *  *  *

 


――怖い!!

 子どもは悲鳴を上げた。しかし周囲には誰もいない。

 真っ直ぐに進みなさい――その言葉が子どもを支配していたが、膝まであるぬかるみがそれを阻んでいた。頭上を重く覆い、悪意あるざわめきに揺れる太い木々の梢。幹の影から覗く赤い二つの光は、後を追い続けて離れない。転んでしまうと、もう動けなかった。獣の喜びの唸りが、湿った空気を震わせる。

 子どもは恐怖と絶望に叫んだ。

――来ないで!!

 風を切る音がして、突然影が現われた。



  *  *  *


 

 音のない衝撃が地面を突き上げる。反射的に身を起こしたアシェルは、立ちあがる寸前に強い力で肩を抑えつけられた。膝をついたところで動きが止まる。顔を上げると山刀を手にしたエナムスが、彼の肩をつかんだまま身動き一つしない。奥ではカラックが背を岩壁に押しつけて、これも彫像のように固まっている。いずれの視線も彼の背後で停止し、なにより岩を震わす唸りがそこから響いてくる。激しい動悸が胸を打つ。震える奥歯を噛締め、岩陰の入り口を振り返ると――

 月の光の色をした影――竜がいた。

 

 親方の手がアシェルの腕をつかみ、ゆっくり彼を引き立たせた。そのまま庇うように自分の背後に回らせると同時に、山刀の切っ先が上がっていく。

「エナムス!」奥からカラックが鋭く声をかけた。「刀を捨てろ!」

 岩陰の中を巡っていた竜の光の眼が、エナムス達に注がれる。その唸りが次第に高くなるに従い、大気が震えて轟きだし、竜から発せられる輝く雫が岩壁に激しくぶつかって、閃光をいくつも放った。

「……!!」

 アシェルは声にならない叫びをあげ、エナムスにしがみついた。動きと共に返る刀の刃が、竜の怒りを映して白く目を射る。

「早く捨てるんだ!」

 カラックの再度の呼びかけに、エナムスは山刀の動きを止めた。しばらく竜を見据えていたが、やがて徐々に身を屈めると山刀を岩地に置いた。

 竜の窺い探るような硬質な目が、彼らの上を幾度となく行き過ぎる。見えない白刃が心の奥底まで刺し通し、胸の内に冷たい感触を残していく。アシェルはエナムスの肩越しに、竜から流れ落ちる光の雫を、固唾を飲んで見つめていた。

 ふと気付くと、いつの間にか眩い光は弱まり、唸りの調子も低くなっている。不意にそれが途切れるや、竜の長い首が大きく谷の方へと回った。身を翻した翼の一振りに、風の大渦が巻き起る。光の雫を吹き散らしながら、月光の真中に浮かびあがる白銀の巨体。姿はすぐに岩陰に隠れて見えなくなったが、続いて二度三度空を打つ羽ばたきが聞こえた。

 それきり後は、谷川の流れのみの静けさが戻ってくる。

 とうに消えた焚火。月が暗い岩陰を仄かに照らす。揺れるものが何一つない。

 やがて硬直した首を不自然に動かして、アシェルが気の抜けた声を発した。

「竜……いっちゃいましたね……」

 それを合図に三人の大きな息がもれ、雁字搦がんじがらめの緊張が一度に解けた彼らは、岩地にがくりと腰を落とした。


挿絵(By みてみん)


 夜が明けての一行の動きは緩慢に進んで行った。あれから一睡もできなかったが、体力よりも緩んだままの緊張を、なかなか取り戻せなかったからである。

 それでも、急な尾根道で一歩ずつ注意を配っている内に、徐々に気力も引き締まり、高原台地への最後のガレ場を登って行った。

「あんなに近くに野竜を見たのは、何年振りかな」下りた馬の手綱を引きつつ、カラックが声を上げた。「あれが、話に聞く夢見の竜らしい」

「……夢見の竜?」

 二番手を行くアシェルが、息を弾ませながら繰り返す。

「ごくたまに、人を眠らせ夢を見させる竜がいるんだ。何のためか分からんがな」最後尾のエナムスは躊躇するロバを叱咤しながら、言葉を継いだ。「夢を見たろう?」

「あれが、そうなのかな。子どもだった頃の夢……」

 アシェルの呟きにカラックが顔を向ける。

「お前もか。俺もガキんときの思い出したくもないことを見せられたぜ」声音をあげて、離れたエナムスに訊く。「親方もそうか?」

「ああ、すっかり忘れていたが……」浮き石を踏み損ねたエナムスが、危うくバランスを失いかけ、小さな落石の音が周囲の山壁に響いた。「今更、何だってあんなものを……」


 切り立った門のような岩柱の間を抜けるといきなりガレ場が終わり、草地が遥かに広がる高原に出た。カラックに続いて足を踏み入れたアシェルが、その空にあるものに目を奪われ声を上げる。

「浮き岩だ!」

 中天の陽の光を受けつつ、大小さまざまな岩が草原の上空に浮かんでおり、帯のようになって遠く西に連なる雪の峰々の方角に伸びていた。浮き岩は殆ど海上には現れず、これ程の数を手に取るように近くで見るのは初めてだ。

「空中船は、あれを削って作るんですよね」

 奇観に眼差しを巡らしながら、アシェルは王宮厨房の裏庭でみた空中船を思い出した。

「親方は乗ったことあるんですか?」

 同じく軽快な歩調でロバを走らせながら、エナムスが頷きを返す。

「小さいやつならな。旅をしてると乗らねばならない時があるが、何回乗ってもどうも尻が落ち着かん。お前はどうなんだ?」

「まだ、一度もないです。でも、そうかあ……この仕事だと、いつかは乗れるんですね。楽しみだな」見習いは嬉しそうに呟き、今度はヴァルドの男を振り返った。「元締は?」

 しかし目にしたのは、浮き岩を見上げている渋い顔だ。カラックは何かを吹っ切るように強く首を振ると、馬の腹を蹴って先へ進みながら一言放った。

「聞くな」

 調達人二人は顔を見合わせ、親方が囁く。

「心地悪い思い出があるらしい」


 岩々が地に落とす数え切れない影を横切り、台地の中央を貫いて西へ進む。なだらかな草地の丘がいくつも重なる南側とは対照的に、北側は山裾まで森が広がり、その最深部からは突然地から生えたように灰色の岩塊が天に向かって突き出していた。北と西へ延びる険しい尾根は、やがては雪を頂く高峰へと続いている。

 陽が傾き山の影が夕映えに濃くなると、彼らは森から少し離れた林に荷を下ろした。空身になった馬とロバを休ませ、林の中の小さな泉から汲んだ水が、熾した火に熱くなる頃には、木々の枝の間から銀砂の星が覗いていた。

 エナムスが黒茶を入れている間に、カラックが短剣に刺したチーズを火にかざす。溶けてきた所をパンに乗せ、それぞれに渡しながら再び竜の話を口にした。

「今までいろいろ竜に会ってきたが、起きぬけに目の前ってのはさすがに初めてだったぜ。加えて肝も冷えたな」チーズを長く引きながら、ぱくついている見習いに目を向ける。「どうだった? 竜に睨まれた気分は?」

 アシェルは口いっぱいのパンを急いで飲み下すと、昨夜の衝撃を思い返した。

「そりゃ、心臓が口から飛び出しそうでしたよ。周り中びりびり震えてて、びかびか光ってて……」眉を寄せて少し考える。「肝が冷えたっていうより、冷たい細い何かが入り込んできて、なんだか……自分の知らないところをほじくり返されたって感じで……」

 出し抜けに派手な音と煙が上がり、あたりが急に暗くなる。弾かれたように身構えたカラックが、傍の剣の柄に手をかけた。

「悪い。鍋をひっくり返した」

 暗がりから親方の声がして、燻した臭いが立ち込める。元締の吐息が聞こえ、しばらくして熾し直された焚火の上に、三人の顔が浮かんだ。

「また水を汲んできます」エナムスから鍋を受け取とうとしたアシェルが目を見張る。「親方! 火傷したんですか?」

 え、と声を上げた親方の、大したことはないと言うより先に見習いが駆け出して行く。その背をぼんやり見送ったエナムスは、赤くなった右手に目をやった。言われてみれば、傷跡のある掌に痛みがゆっくりと上ってくる。それを他人事のように感じていると、水に濡らした手拭いがその手を包んだ。

「冷やすと早く治るんだって、マニーが言ってました」

 かいがいしく手当てをしながら養母の知恵を得意げに語る見習いに、年かさの男達は軽い笑顔を見交わした。今度は鍋を持ったアシェルが再び泉へ向かう。遠のく姿を一瞥したカラックは、戻した目をエナムスに向けた。

「どうしたい。お前さんらしくないぜ……昨夜も、いつものあんたにしちゃ変だったし」

「変? どこが?」

「とぼけるなよ。竜相手に山刀上げるなんて、考えられんだろう?」

 元締の訝しげな視線に、エナムスは薄く笑った。

「俺をギージェかと訊いたのはそっちだぞ」

「分別がねえって言ってるんだよ」

 カラックは鼻を鳴らすと、泉から戻って火に鍋を掛けている見習いに顔を向けた。

「おい、いくら素人のシーリアでも、竜に対する心構えくらい知っているよな?」

「心構えって……ああ、『竜の歌』ですよね。イディンの者なら皆知ってますよ」

 若者は頷いて、疑問顔で年かさの男達を交互に見やった。

「そうだよ。皆知ってるんだ」元締は長い脚を伸ばし、うりゃっと言って親方の靴先を蹴飛ばした。「お前さんはどうなんだっての」

 エナムスは、懐から煙草入れを取り出しながら、にやにや笑いを浮かべているヴァルドの男を睨んだ。次いで、見習いが小鳥のように小首を傾げる様子に小さく笑い、手拭いの巻かれた自分の手に目を落とす。息をつき、焚火に向けた瞳が炎を映して、その口から静かに歌が流れ始めた。



イディンは叫びに満ちている。

喜び、悲しみ、そして怒り。


人よ、決して怒ってはならない。

イディンの報いは、その身に及ぶ。

怒りは火のように焼き尽くし、

憤りは返る万本のやいばとなる。

そこには永劫の滅びだけがある。


しかし人よ、怯んではならない。

栄光はイディンの内にある。

誉れは勇者に与えられる。

帯を締めよ、剣を取れ。

今こそ、イディンに名乗りを上げる時。


かしらを上げて、心を静めよ。

見よ、暁は玉座、蒼天は大路。


――竜が来た  



 響く低い声が、夜風に乗って台地の上を渡って行く。

 枝の合間に、焚火の炎の内に、星々の煌めきの下に、幻の竜の影が通り過ぎ、各々の心の内に密やかな感触を残した。

 歌が終わると、アシェルは思わず感激の拍手を送り、カラックも満足そうな笑みを浮かべる。焚火の明かりが、はにかんで目を伏せたエナムスの顔を照らしたが、やがて深い息と共に暗い声が呟かれた。

「――まあ『栄光』も『誉れ』も、俺とは関係ない」」



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