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ラスタバン王の給仕  作者: 平 啓
第一部
5/38

3.笛吹き

<旅程>

2日目

 キャベル→ベントナ

3日目

 ベントナ→ツェガ

4日目

 ツェガ→ブルブラン


挿絵(By みてみん)

第一部 旅路図

 キャベルのチェアリの花も、盛りを過ぎようとしている。絶え間なく花弁を散らす枝越しに朝日が昇る頃、調達人と仲介人の一行は町を出発した。

 この日も春の陽光の注ぐ長閑な日で、しばらく行くと街道の両側には、刈り取り間近の麦畑が広がっていた。

「ここらでは、麦がこれからなんでやすね」

 ポニーに跨ったジャッロが、左右に目を渡しながら言った。

「ジャッロは、本街道の出身ではないのかい?」

 並んでロバを進ませ声をかけてきた見習いに、赤毛の小男は頷いた。

「さいで。昨夜も言ったように、南街道辺りがあっしのシマなんでやすが、一度はティムリアの花祭りを見てみたいと上ってきたんでさ」照れ笑いをして、頭をちょこんと下げる。「で、いろいろありやして、懐が怪しくなってついアシェルさんの袋を……へえ」

「あ、それは、もういいんだけれどね」シーリアの若者は頬笑みを送った。「俺も船を降りたばかりのお上りさんで、本街道は初めてだからさ。それどころか陸の長旅も初めてだな」

「シーリアで初めて陸に上がっての奉公なら、そうでやんしょね」ジャッロが彼らの前を進む、調達人の親方と仲介人の元締の背を交互に見る。「でも、あのお二人と一緒なら、まず追剥の心配はありやせんから、大船に乗った気持ちですわ」

 まあね、と頷いてアシェルはロバをポニーへ寄せた。いささか声を落として訊く。

「ねえ、カラックの元締って、どんな人なんだい?」

 不安そうな物言いに、ジャッロはにんまりと口端を上げた。

「いい人ですぜ。口は悪いでやすがね。都であっしがスッカラカンだと知って、あっしのハナシを買ってくれたんでさ。おまけに金も貸してくれやしてね」ごそごそと外套の内側を探って、小さな笛を出す。「お陰で、これも手に入りやした。ホントはこっちが本業なんで」

「ジャッロは笛吹きなんだ」

 意外との驚きを向けた若者に、さいで、と小男は丸い目をくるりと回した。

「これで、地道に稼いで借金を返せと」

 と、今度はジャッロが声を潜める。

「で、そちらはどうなんで? 街道一の筋切の親方ってのは?」

 アシェルは目を瞬かせ、小首を傾げた。

「え? どうって……別に普通だよ。他の親方はどうだか知らないけど」

「だって、筋切エナムスといえば、南まで聞こえてやすからね。一睨みで大王牛もビビりまくりって、昨夜の話を聞いたらその通りじゃありやせんか」

 確かに料理人見習いが震えるくらいの眼力はあるし、しつこいほど視線を送られたこともあるが、威圧感を覚えたことはない。逆に先日の拳骨も、彼だからあの程度で済んだのかもしれない――と思う。

「俺は、普通のいい人だと思うな」

 ジャッロは若者の笑顔に目を丸くし、小さく唸った。

「案外、肝っ玉が座ってんじゃないすか? アシェルさん」


 夕刻ベントナの宿に着いた。街の名前と同じその店はまずまずの広さで、本街道を行き交う旅人で繁盛していた。公用私用の男達(ラスタバンの彼らもそのうちの一つだ)、大道芸人の男女の連れ、祭りを渡る見世物小屋の一行や従者を連れた田舎騎士などが、店内を賑わしている。時折、店隅にある上がり台のリュートの演奏に、拍手と歓声が上がっていた。

 テーブルに着いて食事を終えると、ジャッロがカウンターに向かい、店の主人らしき者と話を交わし始めた。

「さっそく商売を始めるんだな」給仕に麦酒を注文したカラックが、煙草を取り出して言う。「さて、どんな腕前なんやら」

 了解を得たのだろう、ジャッロがこちらに小さく手を振ると上がり台に向かった。リュート奏者といくつか言葉を交わして、客席に向き直る。何度か指を動かし軽く唇を舌で湿らすと、笛に口をつけた。

 その一声で、店内のざわめきが鎮まった。

 澄んだ音色は、春の喜びを歌う小鳥のさえずりそのものである。丸々とした指が、どうしてそんなに奇跡的な動きができるのか、凄まじい速さで華麗なコロラトゥーラが紡ぎだされていく。リュート奏者も初めは驚きを隠せずいたが、これは手を抜けないと思ってか、顔を引き締め自分の楽器に向かい、笛の合間、また合奏に一層の花を添える。最後は二つの楽器が掛け合いながら山場へと突き進み、煌めいた音が花火のように輝いて締めを飾った。

 満場の拍手。上がり台に次々と小銭が飛び交う。

 アシェルは興奮して、痛くなるほど手を叩きながら元締に声をかけた。

「こんなに凄いのに、ジャッロはどうして笛を手放したりしたんですか?」

 カラックは鼻を鳴らして、ゆっくりとした拍手を送った。

「馬鹿などうしようもねえ病気があるのさ。まあ……これほどとは思わなかったが。まったく思わぬ奴が、思わぬ芸を持っているもんだな」

 最後の言葉に添えて親方に横目を送るが、エナムスの方は揚がり台に顔を向けていて、元締めの視線には気付かない。見習いが小首をかしげていると、拍手が止んで、奏者たちが次の曲の用意に入った。

 そこへ突然、怒号が店内に響く。

「止めろ!」

 客の視線が一斉に、立ち上がった田舎騎士へと注がれた。

 髭の手入れも碌にしていない、汚れた胸当てをつけたその騎士は、上がり台の奏者を指さして叫んだ。

「止めろ、止めろ! 花のティムリアのあるラスタバンの街で、どうしてこんな小汚い奴が揚がり台に立っているのだ!」

 客達は、互いに顔を見合わせた。

「小汚い……」カラックが口の中で小さくつぶやいた言葉が、それぞれの思いである。「そりゃ、そっちだ」

「お前、そう笛吹きのお前だ!」

 騎士の言葉に、ジャッロは自身を示して首を縮めた。

「髪だけでなく赤いその顔、お前」騎士の顔に蔑みの表情が浮かぶ。「その血は、人間だけではなかろう。ええ、入っているのは、犬か、猿か? どのみち人様の前に出られるほどの、出自ではなかろうが!」

 店の空気が一瞬にして嫌悪で覆われる。しかし店の主人がカウンターから出ようとした時、すでに騎士の前には赤毛の若者が立っていた。

「あの……それは、関係ないと思います」

 ラスタバンの見習いだ。元締と親方は虚を突かれ、そこで自分達の隣が空席になっていることに気がついた。若者は緊張しながらも、人懐こそうな笑みを浮かべている。

「生まれが何であっても、今のは素晴らしかったなっと。だから、もっと聞きたいと俺は思うんですけど……どうですか?」

 騎士も思いもかけない展開に、いささか面喰っているようだ。真っすぐ注がれる若者の視線にどう答えたものかと、顎を引き喉の奥で低く唸った。

「確かに……悪くはなかったが、いかんせん演者がな」落ち着きのない目を、上がり台の笛吹きに向ける。「良い演奏というのは、やはり見た目にもそれなりの格というものが無いといかん。お前達、外の者には必要ないかも知れんが」

 貧しい身なりの相手へ、虚栄の眼差し。

「騎士ともなると、それだけでは満足せんのだよ。いや、まったく物足りん」

「騎士?」若者は目を瞬かせた後、騎士の頭から体、身につけているものからその手にあるものと順に目を送った。「……あ、ホントだ」

 ぼんやりした声に周囲から思わず失笑が漏れ、たちまち髭の密生した騎士の頬に朱がはしる。それに気付かないのか、若者は悠長に頭を下げた。

「すみません、騎士様でしたか」

 心からの謝意の邪気のない分、怒りは余計募ったのだろう。騎士の口端が次第に痙攣を始め、音が聞こえそうなほど奥歯が噛締められたかと思うと、剣を手に憤怒の形相で叫んだ。

「この……無礼者!」

 剣の柄に手が懸かった瞬間、その手首を掴まれ動きを止められる。いつの間にか席を離れたエナムスが、騎士の剣にぴたりと身を寄せていた。

「……申し訳ありません、騎士様」その口から洩れる低い抑揚の声。「私の連れが大変ご無礼を致しました。できますなら、外でお詫びをお聞き願えないでしょうか? ここでは殊更、皆様に御迷惑をおかけしてしまいますので」

 エナムスだ、筋切の――と、周囲から小さな囁きが起こる。それが聞こえたのかどうか、騎士は頬を引きつらせ頷くと、ぎくしゃくとした動きでエナムスと共に店の外へ出て行った。扉が閉まり、店内に上がる不穏なざわめき。

 と、突然、小鳥のような陽気なさえずりが短く走り、客達の視線が揚がり台の笛吹きに一斉に集まった。

「諸君、楽しいところを邪魔してすまなかった!」

 続いてかかるカラックの元締の一声に、そちらへ向きを変える顔顔。二度手が高く打ち鳴らされ、長い腕が左右に広がる。

「お詫びにテーブル一つにつき、ベオル酒一本御馳走させてくれ!」

 喜びを歌う笛の音と共に、客たちの歓声が一時に上がった。カラックは、カウンターの端で笑みを漏らす店に主人に手を上げて挨拶を送ると、まだ呆然と突っ立っていた見習いを、椅子に引き戻した。

「おら、お前の尻拭いをしてやったぞ。感謝してほしいもんだな」

 アシェルはしきりに青い目を瞬きさせ、はあ、と言って首を下げた。

「あんな輩はな、ほっときゃいいんだ。店の主人が何がしか渡せば、おとなしく出て行くんだから」

「でも、ジャッロが……」

 上がり台で、客の注文に応じて流行りの曲を奏でている小男に目を向ける。その視線に込められたものに気付くと、元締は見習いの肩を叩いた。

「奴はそんな柔じゃないさ。ま、お前の心意気はわかった」給仕が持ってきたベオル酒を受け取ると、そのラベルを見て舌打ちをする。「あの野郎、高いのを配ったな」

 ほとんど気配を立てず、エナムスが戻ってきた。各テーブルに配られている酒瓶に目を渡して、カラックに頷きを送る。

「随分張り込んだもんだな」

 元締は黒い瞳をくるりとまわして片眉を上げ、掌に拳をぶつけた。

「どうだ、一発かましたか?」

「まさか。お前じゃあるまいし」親方は心外そうに眉をひそめた。「この辺りで、今後無法をしないように、お願いしただけだ。給仕長の名を出してな」

 カラックが呆気にとられて口をあんぐり開ける。

「ひでえ。蟻を潰すのに、重砲をぶっ放すようなもんだ」

「親方、すみませんでした」

 エナムスは、小さくなっている見習い前に空のグラスを置くと、ベオル酒を注いだ。

「何、気にするな。後始末をきちんとつければ、こっちは文句はない」

「後始末?」

 若者が顔を上げた時、足取りも軽い店の主人が何かの書付をカラックに渡し、愛想のいい笑顔を振りまいて去って行った。

「そのとおり……こういうところの仕入れ値は七掛くらいか?」書付に目を通した元締がエナムスに訊くと、頷きが返ってきた。「じゃあ、大まけにまけて仕入れ値でいいや。俺が建て替えとくわ」

 書付の裏に懐から出したペンを走らせ、ほい、と見習いの前に差し出す。

「そら、名前を書け」

 アシェルは目を丸くして、書かれた癖のある文字を読んだ。

「上等のベオル酒十八本分か」親方がぼそっと言う。「仕入れ値とはいえ、調達人見習いの給料の何カ月分になるかね」

 文字の一番初めは『借用書』と書かれていた。


 翌朝は重い雲が垂れこめていて、アシェルは自分の心のような空に溜息をついた。それに気付いたジャッロが、ポニーを寄せてくる。

「アシェルさん、どうしました? 顔色が優れませんぜ」

「あ、なんでもないよ」若者は顔を上げると、慌てて作り笑いをした。「昨夜は御免よ。なんだか余計な事をしてしまって」

「いいえ、とんでもございやせん! どうして謝ったりなさるんで」ジャッロは強く首を振ると、深い感謝の笑みを向けた。「こちらこそ、ありがとうごぜえやす。ホント、嬉しかったでやすよ。あんたさんは、やっぱり相当肝っ玉が座ったお方だ。それに心根が真直ぐでおられる」

 アシェルは苦笑して、借用書の代償である賛辞を受けた。

「そういうお方はえてして、若い頃は損ばかりするもんでね。でもいずれ、凄い出世をなさいますって。あっしが昔、お仕えしたお方がそうでしたからね」

 ジャッロは以前、田舎騎士の従者をしていたと言った。

「昨夜みたいな、胡散臭い騎士じゃありやせんぜ。真面目な、志に燃えた田舎騎士でしてね。そりゃ、あんたさんみたいに真直ぐなお方でした」

 世の人々に尊敬されている騎士にも階級がある。

 頂点が竜を狩った竜騎士で、大抵は王侯、領主の庇護の元にあり、次が王侯、領主のお抱えの公認騎士、主人を持たず各地を修行している騎士を田舎騎士といって、この場合の田舎は蔑称ではない。

「大分前にお別れしましたが、どうしていらっしゃるか。風の便りに、竜騎士におなりなったと聞いたでやすが、どこのお家にお仕えしてるかまでは分からないんで」

 ジャッロは深く息をついて、昔を懐かしむような、幸福そうな眼差しを麦畑の遠くに向けた。

 街道は変わらず黄金色に色付き始めた畑の中を走り、曇天の下でも旅人が切れることなく行き交っている。その中で速い歩調で進むラスタバンの男達は、朝早くベントナを発った見世物小屋一行の馬車の列を追い抜いた。先を行くカラックが、御者や馬上の男達に声をかけて挨拶をしているところをみると、顔見知りなのだろう。それで馬車の荷台に乗った何人かが、通り過ぎるこちらに目を向ける。アシェルも彼らを見上げながら、荷車の横を抜き進んだ。

 と、その中の一人に目が止まった。すっぽりかぶっている頭巾は目出しになっているが、影になって目の動きは良くは分からない。しかし、自分を捉え注がれる視線の鋭く強い気配には気づいた。あまりの執拗さにこちらも目を外せなくなり、馬車の一行を追い抜いた後も、体をひねって幾度も振り返らずにはいられなかった。

 午後から雨が降り出した。


 その夜の街ツェガでも、ジャッロの笛は大盛況だった。テーブルの上でずっしりと積まれた小銭を、店への払いや顔役へのみかじめ料などと分けて行く。

「んじゃ、元締。取りあえず、今回の返済の分でやす」

「おう」受け取ったものの、カラックは掌にのった小銭の山にうんざりした。「なんだか、財布が膨れてみっともねえなあ」

「贅沢を言うな。金は金だ」そう言うと親方は見習いに顔を向けた。「イクスミラレスに着けば、今月の給料が送られているから、お前も忘れず渡すんだぞ」

 それを聞いて、ジャッロが目を丸くする。

「アシェルさんも、借金があるんでやんすか?」

「い、いや、ちょっとね!」アシェルは慌てて身を乗り出し、話題を自分から逸らすべく急いで言葉を継いだ。「でもジャッロ。この調子なら旅の終わる頃には、全部払い切れるんじゃないか?」

 すると笛吹きは元締と顔を見合わせ、残念そうな口調で言った。

「それが、アシェルさん。あっしは明日のブルブランでお別れなんすよ」

 見習いが驚いて目を見開いたところへ、元締が後を続ける。

「ブルブランを過ぎたら、俺たちは街道を逸れて浮き岩台地に向かう。街なんて一個もない所だからな。ジャッロは当分この辺りで、稼ぎに精を出すって寸法だ」

「そう、なんだ」

 いささか気落ちして、若者は肩を落とした。


 雨も二日目ともなると相当気分が落ち込み、自然口も重くなる。それでも、ぬかるみ道の泥をはねながら突き進む元締と親方の速さは変わることなく、アシェルは顔にかかる雨をしばしば拭いながら、その後を懸命に追った。昼過ぎに雲が薄れて雨脚も落ち着いてきたので、漸く少し楽になった。

 夕刻前に着いたブルブランで、全身ぬれ鼠のようになって宿に入る。旅人のために広間の暖炉があかあかと燃え、その前に宿泊人の濡れた服が幾重にも吊るされていた。ラスタバンの一行も荷の中のなんとか濡れずに済んだ服に着替え、早くに開いた酒場のカウンターから、暖かい飲み物を受け取って一息つく。

「ひょう!」

 と、宿の広廊下にある告知板を見上げていたジャッロが突然声を上げ、隣のアシェルの肩を叩いた。指さす先に、ひと際上等な皮紙の公開書が張られており、美麗な書体がこう告げている。


公開果仕合の告知

 竜騎士アブロン・デル・レオドーテと公認騎士バルガス・ポワトゥ・ジョンドの公開果試合をここに告知する。

 日時 四の月 モリエラの聖日

    一の刻より

 場所 イクスミラレス城前 滝の広場

イクスミラレス領主  

  ナスラン・ヴァルエンド・デル・イクスミラレス  


「このアブロンという方が、あっしの昔の御主人なんでやす!」

 ジャッロは目を輝かせて叫んだ。


「それじゃ、もともとここまでとのお話でしたし」

 まだしっとり湿っている外套に身を包み、下ろしかけた荷物を再びポニーに積みながら、ジャッロは見送りの三人を振り返った。

「あっしは、これで発たせてもらいます」

「気をつけて。また、会えるといいね」

 アシェルは小男と名残惜しそうに握手した。

「アシェルさん、是非そうあってほしいもんです。なんだか、あんたとはお別れしがたい」

 妙にしんみりした笛吹きに、カラックが首をすくめて笑う。

「随分、仲良しさんになっていたからな。おう。イクスミラレスならいずれ通るから、また会えるさ」

 ジャッロは手を振ると手綱を引き、ポニーに声をかけた。小馬はぬかるんだ道を歩み出し、丸々とした影は西への街道を霧雨の中に消えていった。


「竜騎士の知り合いがいるとは、人は見かけによらないな」

 宿の階段を上がりながらエナムスが呟き、見習いに振り向く。

「これから買い出しだ。雑貨屋に出かけるぞ。そうだな……」少し考えてつけたす。「念のために研ぎにも出すから、得物も持って行け」

「あ、それ。俺、持ってないです」

「何!」

 気の抜けた見習いの返事に、親方と元締は声を揃えて叫んだ。カラックが目をむいて、若者に詰め寄る。

「おい、冗談じゃねえぞ。国境越えの旅に丸腰で出たってのか?」

「ええ。だって凄腕の親方と元締めが一緒ですから、これ以上の安心は無いですよ」アシェルは無邪気な笑顔を向けた。「それに自分のは船に置いてきたんです。王宮の厨房勤めには剣はいらないと、マニーが言うもんで」

「また、マニーか……」

 エナムスが呆れたように呟き、カラックは両腕を大きく振って床を蹴飛ばした。

「そんなこと非常識だろが! するってえと、なんだ? この前の汚い騎士に得物無しで向かったってのか」振り返り、今度はエナムスに食ってかかる。「デブアはボケたのか? こんなど素人を推薦するなんて、どうかしてるんじゃないのか?」

「え、俺、剣の腕は弱く無いですよ」アシェルが暢気に続ける。「ただマニーが言うもんで」

「なんだよ! マニーって!」

「こいつの養い親だそうだ。船じゃ一目置かれている小母さんらしい」

 エナムスはいきり立つカラックの肩を抑えて言った。

「アシェル、変な行き違いがあった所を見ると、マニーだって旅に出るとは思ってなかっただろうさ。明日、市が立つから朝一番に買うんだな」そこで急に厳しい表情になり、人差し指を若者の胸元に押しつける。「ただし、これから宿の部屋にこもって鍵をかけ、俺達が帰るまで一歩も外に出るな!」


 親方の厳命を受けて、アシェルに思わぬ空き時間ができた。しばらく窓ガラスを流れる水滴を眺めていたが、荷物を開いて紙とペンを取り出す。奉公のために上陸して以来、マニーに手紙を書いていないことを思い出したのだ。彼女は今もアシェルが王宮厨房で働いていると思っているだろう。それが、あてがわれた仕事が調達人であること、ファステリアへの長旅に出ていることは知らせなくてはなるまい。

 室内はしばらくペンを走らせる音のみの静けさで、時折表通りを走る馬車の車輪のきしみがこれを破った。

 やがて手元の暗さに気がつき顔を上げると、窓の外には夕闇が迫っている。

「……遅いな。親方達」

 宛名を書いた手紙の封をしながらアシェルは独り言ちた。

 窓辺へ寄り外を窺う。二階の部屋の真下は薄暗い路地で、窓から首を伸ばして見たその先は、表通りに出た真正面が郵便駅舎になっていた。

「なんだ、すぐ傍か」

 呟いたアシェルは上着を羽織り、手紙をポケットに入れながら扉の取っ手に手を掛けた。一瞬躊躇したものの、構わず外へ出る。

――追剥が出るには、まだ早すぎるしな。

 今まで何度か上陸のたびに注意点を聞かされてきたので、町での勝手は心得ていた。宿の裏口から出ると雨は上がっており、暗い中でも何とか地面が見える。水溜りにはまらないよう足元に注意を向け、調子をとって進んで行ったが、ふと人の気配で歩を止めた。

 正面の駅舎の明かりを背景に、いつの間にか現れている黒い人影。と思う間に、身を屈めて地面を擦るように近づいてくる。二、三歩後ずさりし、アシェルが身を翻して今来た道を駆けだすと、たちまち背後から水の跳ね音が恐ろしい速さで迫ってきた。突然、頭上を覆う黒い気配。

――え?

 上からの鋭い風。咄嗟に足を止めた直後、胸先を冷たい白い光が一直線に落ちた。続く頭への衝撃。俄かに視界が失せ、世界の上下が無くなる。

 怒号。乱れ行き交う足音。――誰かが呼んでいる。

――親方だ……

 意識が沈黙の世界に降りて行った。



 暗い宙に浮いている。いつもあるはずのものがない。船板を打つ波の音。

 静かで……こんな静寂は知らない。

――知らない? いや……

 しかし、あの時は匂いだけはあった。体を優しく包む潮の匂い。

――? あの時?

 今はどちらもないが、それは

――ああ……俺は陸に上がったんだっけ

 そう思った時、暗闇の奥から何やら聞こえてくる人の呟き。

――親方と……元締?



 いきなり襲う激しい頭痛。

「いててててて!」

 たまらなくなって上体を起こし、頭を抱える。

「アシェル、大丈夫か」

 ぼんやりした目を向けると、親方のずんぐりした影とカラックの細長い影が彼を覗き込んでいる。どうやら寝台の上らしい。何度かゆっくり瞬きをしているうちに、目の焦点が合ってきて、親方の顔がはっきりしてきた。

「すまん、俺の責任だ」

 エナムスのおもてに悔いが浮かんでいるのを認め、アシェルは慌てて意識をかき集めて首を振った。

「言いつけ守らなかった、自分のせいです」頭全体の痛みが徐々に集まって、後頭部が脈打っているのがわかった。手で探ると、分厚い湿布が当てられている。「まさか、あんな時間に追剥が出るとは思わなかったんで……」

「追剥じゃない」カラックが険しい声で言う。「お前は命を狙われたんだ。エナムスの言う通り、これは調達人の親方の責任だ」

「ええ?」

 言葉の意味を掴めないでいるアシェルに、カラックは枕元にあった見習いの服をつかんだ。 

「これを見てみろ」

 目の前に差し出された服は、胸元がすっぱりと下着まで切られていて、アシェルは愕然となった。

「幸い皮膚には達していない。あいつら、毒を使うからな。掠っただけでも命にかかわる」

「どどど、毒? あいつらって」

 今更ながらの見習いの戦慄に、エナムスは深い息をつき、寝台の傍に椅子を引き寄せた。

「多少の危険はいつものことだが、まさかいきなりこんな強行に出てこようとは思わなかった」

「き、危険? 調達人て、危険な仕事なんですか?」

 辺境の旅では、それなりの危害を受ける可能性は誰もが持っている。追剥や野獣にいつ命を奪われてもおかしくないことは、外の者の常識だ。しかし仕事自体の危険性は、考えたこともなかった。

「俺達が集めるのは食材だけじゃない」椅子に深く腰掛けたエナムスは、腕組みをして低く言った。「見えないものも王の元に届けられる。親父殿――給仕長を通して」

「給仕長ネヴィド・アシュタル・タニヤザール」カラックが芝居がかったように、長い両腕を広げる。「ラスタバン王の懐刀。ラスタバン諜報機関の黒幕さ」

「……諜報」締め付けられるような喉元の緊張に、声がかすれる。アシェルは身を乗り出した。「でも、俺は調達人の見習いですよ。陸には不案内の田舎者のシーリアだ」

「しかし、デブアの紹介状を持ってきた」一瞬エナムスが上目遣いに鋭い視線を寄こす。だが、それはすぐに外され肩をすくめた。「が、どんなに優秀でも、俺より駆け出しのお前を狙って何があるかとも思えん。まあ、それで俺も油断したわけだが……」

「余計な老婆心だったな。一緒にいた方が、まだ無事だった」カラックはそこで鼻を鳴らすと、折りたたむように腕を組んだ。「あいつらがここまで出るってことは、もしかしてアレかもしれない」

 エナムスが訝しげに見上げる。

「心当たりがあるのか?」

「ふん」蔑んだ表情をちらりとよぎらせ、カラックは言葉を続けた。「あいつら――ゴンドバルの計画を頓挫させるために、タニヤザールが機関の精鋭工作人を放ったってことだ」

 誰へともなく凶悪な笑みを浮かべる。

「『ラスタバン王の給仕』をな――」

 




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