2.銀竜亭
前日に指示され、揃えた荷物をロバに積み込む。使用人棟の玄関口を覗くと、親方が壁の連絡版に書き込みをしていた。
『調達人 エナムス アシェル 目的地 ファステリア・エルシャロン 四の月スコテの日より五十日から六十日』
「こんなものか……」
呟いたエナムスは手に着いたチョークの粉を払い、顎を上げて見習いに出発の合図をした。
厨房の中庭の空はまだ明けきっておらず、深い靄が立ち込めて十歩ほどの視界しかない。前を進む親方のロバは通常の内門ではなく、水場横のトンネルに入って行った。曲がりくねった暗路にロバの足音が響き、壁を伝う灯りを点々と追う。間もなく頑丈そうな木の扉が現れて、ロバを降りたエナムスが扉の敲き金を鳴らした。小窓越しの二言三言が交わされ扉が開く。
「気をつけてな……竜の守りを」
門番の旅送りを受け、手を振って応えた親方に倣い、後に続くアシェルもぺこりと頭を下げた。踏みだした先は山道の上り坂だ。乳白色の頭上に梢の影が浮かび、足元はまだ濃い闇に沈む。ロバの落ち葉を踏む音だけが単調に繰り返される中、時折鳥が鋭く鳴き過ぎた。
やがて視界が広がり、いつしか果樹園の畦道を進んでいた。微かに風が吹き始め、流れながら消える靄に誘われて振り返れば、ティムリアの都が眼下に白い薄衣を脱いでいく。鮮やかな瓦と白壁の美しい姿が現われ、それと見る間に大海が朝日に煌き、遥かな水平線が臨まれるほどに晴れ渡った。
陽光の果樹園で羽音を立てて飛び回る蜜蜂。前を行くロバの尻に止まった一匹が、尻尾の一振りを受けて慌てて飛び去った。その尻尾の向こうに揺れる後ろ姿を見ながら、アシェルは昨日の出来事を思い出して気が沈んだ。
調達に出かけるとの言葉を受け、見習いは意味が分からず訊いたのだ。
――調達って何ですか?
見開かれた親方の目。
――本気で言っているのか?
頷いた途端、頭に拳骨がとんできた。目を回していると書きつけを渡され、これを揃えておけと言われたきり背を向けられて、以来、碌に口をきいてくれない。
アシェルは大きく息をつくとロバの腹を蹴り、先方に追いついて並んだ。
「親方、怒っているんですか?」恐る恐る声をかける。「俺、頑張りますから」
しばらく前方を見据えていたエナムスは、ぼそりと応えた。
「怒ってはいない、呆れているだけだ」どうしようもないというように、片手を大きく振る。「一夜稼ぎじゃあるまいし、一生ものの奉公に、何の仕事が分からず弟子入りする間抜けがどこにいる!」
「王宮の厨房勤めというから、てっきり料理人だと思ったんです」
エナムスは鼻を鳴らした。
「俺達が調理台の前に立てるか」
「やっぱり、そうなんですよね」いささか落胆しつつも、アシェルは気を取り直した。「でも親方だって解体人の恰好はするし、現に牛を解体してたじゃないですか」
「あれは、暇つぶしの練習みたいなものだ」じろりと見習いを睨みつける。「本当にデブアの紹介なのか? あいつが伝えないとは思えんぞ」
「本当ですよ。あの紹介状は、俺と船長と甲板長とマニーの目の前で書いてくれたものです」
気圧され、アシェルは顎を引いて答えた。
「でも王宮が募集している仕事が、俺にぴったりだって言ったところで、デブアさんが急に……」手元に視線が落ち、口がもそもそした動きになる。「……俺に自分の娘の婿にならないかって、急に言い出して……」
俯いて話しているのだが、エナムスが目を丸くしているのがわかった。
「あんまり熱心なんで、断るのに船長と甲板長とマニーやらで大騒ぎになってしまって、ごちゃごちゃしているうちに、気が付いたら紹介状だけ持って外に出てたんです」顔を上げ、急いで付け加える。「俺は戻ってちゃんと聞かなきゃと言ったんですよ! でもマニーがこれ以上関わったら、口入屋の若旦那になっちまうって、とんでもないこったと言うんで」
途端にエナムスの哄笑が長閑な果樹園に響き渡った。道ばたの草陰から驚いた雲雀が飛び立つ。ロバの上で苦しそうに身を屈め、肩を震わせた親方は、細めた目を見習いに向けた。
「そうか……婿か」
思いがけない反応に見習いは目を瞬かせたが、相好を崩している親方の様子につられて安堵の笑みを浮かべた。
雲雀か空高く鳴き声の響く下を、喉奥に笑いを留めた主人を乗せてロバは進む。畦道がやがて尽き、再び細い山道へ入るところで、アシェルは一列に戻るべくロバを引いた。そこへエナムスが振り返る。
「マニーって誰だ?」
山道の峠越えは、本街道の道のりを二日分縮めてくれる近道である。途中ロバを降りなければならないガレ場もあったが、夕刻にはティムリアの都から四つ離れた宿場町キャベルの灯が見えてきた。ティムリアの衛星都市で、通商拠点として知られている。夕暮の空には弓にしては太った五日目の月が、彼らのキャベル入りを見守っていた。
街の本通りから外れた酒場の前で親方はロバを降り、『銀竜亭』と看板のあるその店を示した。
「ロバと荷物を預けてくる。入って席をとっておいてくれ」指を三本立てる。「三人分だ。仲介人の元締とここで落ち合う約束をしてある」
店の扉を開けると、たちまち陽気な音楽に包まれた。まだ時間が早いせいなのか、演奏者が気を入れている割には客が少ない。手頃な席を探して見回すと、小さなホールで身を躍らせている人影に目が止まった。
見覚えのあるその姿。背丈も手足も細長く、なにより忘れられない黄色のフリルシャツ。
奇妙なステップの度に結んだ長い黒髪が揺れ、マスクの無い今回は肉の薄い頬の素顔が見て取れる。恩人ではあるが口の悪い物言いを思い出し、アシェルは気まずさに目を逸らした。
とりあえず、ここと思われるテーブルに近づき、椅子に手を掛けたところで先客に気づいた。その席が薄暗い上、ちんまりと小造りな体が動かずにいるので見落としたらしい。
「あ、どうも済みません」
頭を軽く下げ隣の席へ向きかけた時、親しげな声が甲高く掛けられた。
「これはこれは、奇遇でございます!」小柄なころころとした体が椅子から飛び降り、素早くアシェルに駆け寄ってその手をとる。「いやあ、お目にかかって、お詫びをしなければと思っていたんです。こんな所でお会いできるとは! その節は、誠に失礼いたしました。あまりの空腹に、つい出来心であんなことを。申し開きの次第もないでございます!」
「は、はあ?」
がっちり手を掴む相手から一方的な謝罪を受け、若者はまじまじと相手を見返した。小さな酒樽の様な体つきに、人懐こそうな顔は髪も皮膚もくすんだ赤。心当たりが全くない。
「あの時は肝も縮んで、元締に労をとっていただきましたが。ここは、どうぞあっしに奢らせてください。いえ、今の懐は温かいんで。何になさいます? ベオル酒の新酒が入ったと店主が言ってましたよ。それとも」
「あ、あの」
強引に自分のテーブルに誘う小男にまくしたてられ、どう答えていいのか分からない。と、自分の頭上を相手の視線が素通りし、振り返ると例の黄色のシャツの男が立っていた。
「ジャッロ、相手方が来たのか?」アシェルを見下ろした男が眉を寄せる。「なんだ、お前は?」
それはこちらの言い分と口を開きかけた所へ、男はまたもぐいっと顔を寄せてきた。
「ああ? 花祭りの時の、お上りさんじゃねえか。どうしてこんな所に」
「アシェル、何をしてる。席は取れたか?」
新たに言葉が重なるが、こちらは聞き知った声だ。親方が外套を脱ぎながら、彼らのいるテーブルに近づき、その面々に目を走らせる。
「よう、カラック。先に着いていたか」顔を突き合わせている見習いと相手の男に、いささか目を見張る。「なんだ、お前達。知り合いなのか?」
どこもかしこも細長いと形容するしかない黄色いフリルシャツの男は、仲介人の元締で、森の民のカラックといった。
先日来た使者との話し合いで、ラスタバンの姫君達のファステリア訪問の詳しい日程内容が決まった。このところ健康がすぐれないファステリア王の見舞いとの表向きであるが、実質は上の姫と上の王子との見合いである。もっともこれも形式的なことで、婚約はすでに内定しており、訪問の夜には祝いの宴が催される予定だ。そのために多くの料理人が、ラスタバンからファステリアに乗り込む。ラスタバン王の贅をつくせとの命によるもので、料理のもとになる食材も最高級のものが求められた。
そこで、調達人のエナムス親方とその見習いの出番となった訳だ。もちろん調達人は国中に数限りなくいるが、王宮厨房付きの調達人は彼らを含め数人しかいない。他の面々が旅空にいる中、この時を見計らって控えていた彼らは、一ヶ月後の姫君たちの訪問に合わせ、食材を調達しながらファステリアへの路を西へ進むことになったのである。
しかし家畜はともかく、珍味の多い野生種はよほどの地元の情報通でないと手に入りにくい。この労を取るのが仲介人であり、元締はその情報管理者であった。
「つまり、花祭りでアシェルの合切袋を置き引きしたが、ジャッロなのか」
手元のグラスにベオル酒を注ぎながら、エナムスは二人へ顔を交互に向けた。
「ええ、でも、慣れないことはするもんじゃありません」ジャッロと呼ばれる丸まっちい男は、干し肉を噛みしめながら頷いた。「首尾よく裏道に逃げたものの、自分のしでかしたことが情けなくなり、もうどおにも済まないキモチになりましてね。かと言って、返しに行くのも怖くて、ウロウロしていたところに、元締が声をかけて下すって」
「お前さんが、置き引き程度で良心の呵責を覚えるなんざ、信じられんがな」カラックは疑わしそうな横目を小男に向けた。「まあ、お上りさんも気の毒だから、返したいというのなら返してやろう、という訳だ」
それなら『取り返してやった』という言葉の誠意は、ずいぶんと薄まってしまう。アシェルはグラスのリンゴ酒をなめながら、マニーの言葉を思い出した。
――陸の者は調子のいい嘘つきだからね、気をつけなきゃいけないよ。
――シーリアは、嘘つきじゃないの?
幼いアシェルの問いに、マニーは灰色の肌をつるりと光らせ、笑って言った。
――シーリアは真面目な嘘つきなのさ。
「……で、エナムス。新しい見習いだって? ジャッロごときに置き引きされるような? こいつが?」
カラックの疑わしげな視線が、今度はアシェルに向けられた。必要以上に上げられる語尾が不審を表している。エナムスは琥珀色の液体の入った手元のグラスをクルリと回し、口端を上げた。
「デブア直筆の紹介状を持ってきた。おまけに……」隣りの見習いをちらりを見る。「デブアの娘婿にと所望されたようだ」
「ははあ」たちまちにたりと歯を見せる笑いが、カラックの顔に浮かぶ。「セラ嬢ちゃんの条件は厳しいからな。七歳ながら、世間を知っている天才児だ」
――七歳?
アシェルは面喰ったが、カラックはそれで納得したように不穏な表情を解いた。
「ま、親馬鹿でもデブアの見る目は確かさ」景気良く注いだ麦酒のジョッキを掲げる。「ダメなら、そん時はそん時だ、さて諸君。先に進んでしまったが、初見えと再会を祝って乾杯といこうじゃないの」
男達が各々にグラスを手に取り、咳払いをして音頭を取る仲介人の元締。
「我ら、ここに集い
杯を傾けて、しばしの喜びを分かつ――」
グラスを上げた面々が、それぞれの視線を交わす。
「――竜の守りを」
男達の低い唱和と共に、グラス縁に店の照明が滑った。
食事を終えると、調達人の親方と仲介人の元締めは、調達材料の目録を元に打ち合わせにかかった。テーブルに地図を広げ、あちこちに書き込みを入れながら、目録を順に追っていく。
「特に難しい食材は無いが、親父殿の強いご所望が山ウズラだ」エナムスが懐からパイプを取り出しながら言った。「王の好物なんだが、このところ質が落ちているんだと」
「うん、今までのパシャンのあたりは乱獲が祟って、数は少なくなるし形も小さくなっちまってな」元締の方は、チョッキの内ポケットから銀の煙草入れを出す。「まあ、そう思って情報は仕入れてある。な、ジャッロ」
「うえ……へへへい!」いささか酩酊状態だった赤毛の小男は、慌てて身を起して頷いた。「へい、山ウズラでござんしょ。抜かりはありませんや。デドロン谷にでっかい群れが来てるそうで。はい」
「デドロンか。一週間ほど遠回りになるが」
パイプに葉を詰めながら、地図を覗いたエナムスが呟く。
「近くに集落があって、一応人足は頼めるから十分間に合うさ」カラックは、なりに合わない上品な手つきで煙草に火をつけると深く吸い込んだ。「そう言えば、ジャッロ。面白い噂にあったって?」
「あ、はぁい!」
待ってましたとばかりに赤い顔がぱあっと輝き、ジャッロは丸い身体を精一杯伸ばした。
「聞いたんでさ」口をすぼめ、もったいぶって一同を見回す。「『竜殺しのギージェ』が現れたそうなんで……」
百年前、イディンには『竜殺しのギージェ』と呼ばれる竜専門の狩人がいた。
騎士以外の者が竜を狩ることなど滅多にないのだが、ギージェは由緒ある騎士ですら不可能なほどの数の竜を仕留め、イディンの宝であるその心臓を手に入れたのだと言う。一説にはローティ(路上の民)出身とも言われ、貴族や騎士、町の者から一段下に見られている外の者――海の民、路上の民、森の民――にとっての英雄であった。
ジャッロの情報は、そのギージェが十年前デドロン近くに現れたという噂である。
「何を言うかと思ったら」カラックは話にならないというように、煙草の煙を小男に吹き付けた。「だいたい時代が違うだろうが。しかも、十年前だと? 話が古すぎらあ」
「ま、あっしもそう思うんですがね」ジャッロが丸っこい肩をすくめる。「何カ月か前、デドロンの雑貨屋から出所不明な、古い竜の心臓が競りに出されたって言うんでさ。その由来が、噂ではそんなんで」
噂って誰がしてるんだよ、と元締が相変わらず胡散臭そうな目線を放つ。
「ソリューレモの闇競りの連中ですよ。ご存じで? ソリューレモ。あんまり知られていませんが、南街道はずれのちょっとした都市ですぜ。まあそこで、田舎の連中には届かない値で、あっちゅう間に売れちまったんだそうでやす。モノがモノだけに、かなり厳しい口止めがあったらしくてね」ジャッロは大袈裟に息をついた。「いやあ、あの連中口が堅くて苦労しやしたぜ」
様子からすると、かなり本物っぽいと、あっしは思いますです、と神妙に付け加える。
「ソリューレモというと……領主の統括都市か」地図を探ったエナムスが唸る。「とすると、落としたのは領主かな?」
「まあ買うとなると、王侯、領主ぐらいなもんだからな。田舎者に手が届かないと言っても、金で買えるなら安いもんだ。しかし、竜の心臓が競りにねえ?」
それでもまだ元締めは小男の情報人に半信半疑の視線を向けていた。
数多いイディンの獣の中で、竜は特別な存在であった。
食料のためであっても、獣の狩り、屠殺、解体は忌み嫌われ、外の者の専門職とされている。
しかし、竜を狩るにはそれなりの身分を必要とし、仕留めた者はイディンの人々の尊敬を一身に集め、栄誉ある者――竜騎士と呼ばれた。竜は、その心のふさわしい者にしか、命を授けなかったからである。そうでない者は、竜の圧倒的な力によって滅ぼされるか、無理に命を奪っても、栄誉の証しである心臓はつぶれて意味を失い、なにより地には深い呪いがかかった。
また竜の心臓は、実利的にも各国の垂涎の的である。そこから引き出される力は、大空と大海の船を動かし、重機兵の重砲を炸裂させ、街々の灯りを点す。だが、力の正体は深い謎であり、また自由な制御方法も見出されていなかったので、今のところ使われている範囲は狭いが、その価値は金銀をもってしても代え難いものであった。この心臓をもたらす騎士を、王侯、領主達がこぞって称賛し歓迎するのは、このような一面も持っていた。
「その歳のシーリアで、野竜を近場で見たことはあるのか?」
あらかた片づけられたテーブルには、黒茶のカップが並べられている。その一つをすすりながら、エナムスがアシェルに訪ねた。
「海竜なら、波間に見た事はありますが、野竜の方は、遠くの空を飛んでいるのを船の上から時々にしか……」若者が期待に目を輝かせた顔を向ける。「竜に会うことってありますか?」
「あるある」
カラックが指にはさんだ煙草を振った。
「人里離れた所に行けば、月に二、三度はお目にかかるな。いきなり出くわして腰を抜かすなよ」にやりと歯を見せる。「大王牛の時みたいにな」
見習いの頬がさっと赤くなり、黒茶を噴き出しかける親方。それを見て、カラックが仰け反って笑い声を上げた。
「やっぱりお前だったか。グラドが、新入りの見習いが腰を抜かしたと言っていたので、誰かと思っていたんだが」
「グラド? 屠殺長のか?」
手拭いで口を拭きながらエナムスが訊き返す。
「おう、ティムリアの酒場でよ。聞いたぜ、エナムス親方。大王牛大捕物の一件」
この数日、都の下町酒場では、調達人親方の大王牛退治の話で持ちきりだと言う。
「街道一の腕は騎士並みだと、あいつが吹聴していたぜ」
「あの、おしゃべりめ……」親方は舌打ちした。「あれは、運がよかったんだ」
「謙遜するなよ。運を見極めるのも名人の腕さ。その腕なら、第二のギージェも夢じゃないよな?」カラックは紫煙越しに思わせぶりな眼差しを送ると、好奇心を丸出しにして身を乗り出した。「どうだ? 十年前、身に覚えがないか?」
「よせ」眉を寄せたエナムスが、相手の体を軽く押しやる。「お前の肴にされるのご免だ」
「ちぇ、相変わらず無粋な奴」
ヴァルドの男は口をとがらせた。