10.一日の終わりと掲げられた言葉
刻まれた言葉は光を放ち、人々の上に高く掲げられる
倒れたテーブルと椅子を起こし、乱れた寝台を整えて、アシェルは短く息をついた。腕を組み、まだ外に視線を走らせている薬師に声をかける。
「もう大丈夫だよ。話を聞いてくれる相手でよかった」
「よかっただと……?」イブライが眉を寄せて振り向く。「君は、殺されかけたんだぞ」
「でも、助けにきてくれたじゃないか。よくわかったね。凄いや。さすがだよ」
部屋に点した灯りに、無邪気な尊敬の眼差しが浮かぶ。腕を解いた薬師は小さく首を振ると、椅子を引き寄せ逆向きに跨いだ。
「竜法院の法務局長がなぜ君の命を狙うんだ?」
「さあ? でも誤解だったみたい」
軽く受け流す若者の応えに、イブライは舌打ちした。
「元締なら『とぼけた奴だ』と言うところだな……」背もたれの上で手を組み、低く訊く。「あれは、竜石か? 何が起こっていたんだ?」
青い目元に曖昧な笑みが浮かび、直ぐに消えた。小さく鼻をすする音がして、しばらく沈黙が続く。応えは無いと察した薬師は大きく息をつき、背筋を伸ばした。
「まあ、いい。知らねばならない事なら、いずれこちらの耳にも入る」そこで鋭い視線が走る。「私が見た事は、給仕長に報告するからな」
見習いは頷いたものの、あっと声を上げた。
「今日の所は、やめといた方がいいと思う。久しぶりに幸せな『ちちうえ』になっているんだから、邪魔しちゃ悪いよ」
訝しむ相手に思わせぶりな笑顔を向け、そう言えば、と言葉を続ける。
「……アジャールって何?」
注がれた興味津々の瞳を、イブライは一瞬片眉を上げ睨み返した。が、すぐに何でもないとばかりに首をすくめる。
「アジャールもベルガも虎部族の名だ。北のベルガ、南のアジャールと言って、虎族でも特に勇猛な部族として名が知られてる」付け足される低い呟き。「……母が――アジャールの血を引いていてね」
貴族でも獣人の血の元にあるなら、庶子を意味する。遠い南の国から、一人はるばるティムリアに来た陰には、相応の深い事情があるのだろう。若者は自分の質問の無神経さに気付いて目を伏せた。
「……ごめん」
消沈した声音に、薬師が驚き顔を戻す。
「え? いや、別に気を遣ってもらう程のものじゃない。なにせ母は第六夫人で、兄妹では上から十一番目、男子で六番目なんて環境は、庶子が当たり前の世界だから」
ヴァルドの八人兄妹の話を聞いた時にも驚いたが、こちらの方は想像を絶した。目と口を真ん丸にした見習いを見て、吹き出しながら薬師が後を続ける。
「十九人兄妹と言っても、よく分からないだろうね」小首を傾げ考え込む。「いや……私がここへ来てから何人か生まれたと聞いたから、二十人は超えてるか」
さて、とそこで膝を打ち、頃合いとばかりにイブライは立ち上がった。
「さすがに彼らも、もう来ないだろうし、私も引き上げるよ」
素早く戸口に向かう背に、アシェルの慌てた声が追いかける。
「助けに来てくれて、本当にありがとう!」
厩舎から馬を引き出した頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。アダ・バスレイへは夜道となろうが、生来夜目は利く。月も間もなく上がるはずと空を見上げ、手綱を通用門に向けた時、背後から呼びかけられた。
「イブライ!」
振り返ると、片手を挙げた見習いが、窓から身を乗り出している。こちらも手を挙げかけた所で、夜気が透き通るように言葉が刻まれた。
「竜の守りを――」
小さな閃光が瞬いた。
翌朝、アダ・バスレイの町外れの下宿を出たロジェードは、竜法院へ重い足を運んでいた。
昨日旧友と別れた後、“竜殺し”の竜石を工芸部の部長に預けて昼食をとりに外へ出たのだが、帰ると竜法院中が大騒ぎになっていた。法務局の祈祷師達に何かあったらしい。忙しく駆け回る職員を横目に仕事場戻ったところ、青い顔をした部長から法務局長が呼んでいると告げられた。
午前中に当人の話をしていたので、まさかと思う。高鳴る心臓と共に局長室の扉を叩くと、近寄り難い純白のガウンが出迎えた。執務机に置かれた巨大な竜石。これを細工したのは君かとの問われ、竜石を手渡した際の経緯を詳しく報告するよう求められた。そこで、吹き出た光の奔流、その後の若者の様子や旧友の言葉などを話したのである。
話し終わるや、それまで無言だった局長の目が厳しい光を放ち、ロジェードを震え上がらせた。すぐに退出するよう言われて安堵したものの、仕事場に帰るなり部長が囁いたのだ――この先の進退に関わるかもしれないと。
以来、一夜明けた今でも生きた心地がしない。原因を省みれば、タニヤザールからの依頼を報告しなかった事しか思い浮かばない。事実、彼の名を聞いた局長は、隠せない驚きを顔に浮かべたのだ。
「……とんだ落とし穴だったよな」
深い溜息をつき竜法院の玄関アーチをくぐったロジェードは、仕事場で一番に待っているのは免職通知かと、気に病みながらホールを横切った。と、その耳にざわめきが届く。目を向けたホール正面の壁前に人だかりができている。見上げた竜の浮き彫りを指差し囁き声が交わされる様子に、何事かと近寄って目を見張った。
何頭もいる竜の彫像の一つ、その心臓のあたりに見覚えのあるものが取り付けられている。くすんだ石の周りを、流麗な曲線で金の草花が取り巻く意匠は、彼が“竜殺し”のために設えた竜石だ。
以後、工芸者ロジェード・バルコロル・デスタ=コレの名は、この竜石と共に長く人々に記憶されるのだが、この時の彼には思いもよらない。
今はただ、他の人々と同じように、彼の視線は竜石とその下に添えられた金属板に向けられていた。
そこに刻まれている、古い竜文字の二つの語句。竜法院にいる者なら誰でも分かる言葉である。
ロジェードは、ゆっくりと口に出して読んだ。
――これを、覚えよ。
「ラスタバン王の給仕」後日談「竜石の一日」をお読み頂きありがとうございました。
引き続き続編を書いておりますが、いつになることやら。完成しましたらまた載せますので、よろしくお願いします。
また番外編の短編がいくつかあります。こちらは、ラスタバン王宮が舞台の下の姫を主人公とした長閑なお話です。秋も深まった頃のお話を、ハロウィンにからめてみました。お時間がありましたら、どうぞよろしく。
「エリダナ・チェローミア姫の陰謀」(http://ncode.syosetu.com/n6755x/)ラスタバン王国第二王女、7歳にして給仕長謀殺を画策す