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ラスタバン王の給仕  作者: 平 啓
竜石の一日
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7.カラックの思い出した夢

夢見の竜によって思い出された子どもが忘れていたものは、誰もが持つ夢だった。



 間もなくイブライが、王宮に用事があるからと立ち上がった。食事の礼を言い、しばし調達人の見習いに目を止めた後、小さい笑みを浮かべて、ありがとうと言った。

 遠のく蹄の音を聞きながら、カラックは花台の落ちた手すりに歩み寄り、下を覗き込んだ。回収するには、やはり飛び込むしかないかと思った所で、アシェルが脇に来て顔を向ける。

「本当は……誰の死を恐れたんですか?」

 突然の言葉に驚いて見返すと、いつもの柔らかい笑みが問いかけていた。

「俺は元締が、そんなことで逃げ出すとは思えないです……あの、竜との闘いを見たからには」

 片眉を上げたヴァルドが小さく唸り、ふっと息を吐いて手すりに飛び乗った。

「……べつに隠す事もないんだが」

 腰掛け立てた片膝に肘を置き、海原をゆく船を見ながら、ぼつぼつと語りだす。


 カラックは、あの果仕合で、相手の銀の目が歓喜に燃えあがっていく様を覚えている。訓練の時には踏み込むことの無かった世界へ無理やり引きずり込まれ、凄まじい闘気の奔流がどこまでも食らいつき追ってきた。容赦ない銀の煌めきが、応えろと叫び、来いと吼える。気の遠くなる闘いだった。胸を裂かれ、腹を突かれた時は、もうおしまいだと思った。それでも体が倒れない。何より愕然としたのは、もはや相手の銀の目のどこにも人間の姿がない。――竜だ!――牙をむき、迫る眼前の首に思わず剣を振り下ろした。その瞬間、重砲の轟音が大気を揺るがして、我に返った手が止まった。


「で、すぐに気を失って……目を覚ました時、俺を覗き込んでいたタニヤザールの首に包帯が巻かれていた」カラックは喉奥で小さく呻いた。「……俺の剣があいつを殺そうとしたのかと思うと……もう、耐えられなかった」

 口元を手で覆い、深い息をつく。

「このままあいつの傍にいては、また同じような日がくるだろうと……竜と闘い竜騎士になったその時に、またタニヤザールが向かってくるんじゃないかと……あいつの狂戦士の血がそうさせるんじゃないかと」


 だから、ミティレネもウォリスもタニヤザールでさえも、彼がこの邸を離れる際、何も言わなかった。まだ傷も十分癒えないうちの旅立ちだったので、ヴァルドの村に着いた時は息も絶え絶えだったが、母親の長も特に事情を聞く事もなく、受け入れてくれた。ただ果仕合を終え認証を受けた事だけは、はっきりと口に言わされた。


「でも元締は、帰ったんですよね」見習いが明るい声をかける。「エルシャロンでは帰らないと云っていたけれど、まだここにいるってことは、帰ったんでしょう?」

 んん、とカラックは首をかしげて、暫く考えた。

「どうなんだろな。まあ、ミティレネから臨終の床で頼まれたってのもあるが……」歯を見せた笑い顔を向ける。「あれから十年、あいつもジジイになって多少は腕が落ちて、なんとか手に負えるかなと思ってさ」

「そうなんですか?」アシェルは眉を寄せて首を捻った。「あの夢見の一撃を返した時は、凄かったですよ?」

 そいつを忘れてた、と舌打ちしたものの、ヴァルドの笑みは消えない。

「とりあえずは、そうだな。結構ここも面白いからしばらくいるさ」

「だったら、言わなくちゃね」

 問いの目を向けたカラックに、満面の笑みが答える。

「だから、『父ちゃん』とか『ちちうえ』とかですよ」



 傾いた陽の影を長く引いて、軽馬車がタニヤザール邸を出発した。玄関口にはウォリスが立ち、木立の間に見えなくなるまで手を振っていた。

 手綱を取るカラックが鼻歌を歌い、聞くともなしに聞いていたアシェルは、思わず声をかけた。

「元締……その歌」

 御者席横の見習いに、ヴァルドが目だけを向ける。

「え?……ああ、近頃はやってるぞ。『新しい竜の歌』とかいってな」そこで喉奥で笑った。「お前が作ったのか?」

「いいえ……俺は歌は苦手です」

「そうか? 歌詞はどこぞで聞いた事のある文句だったぞ」しばらく前方を行き過ぎる木漏れ日に目をやっていたが、小さく呟く。「エナムスの声で、聞きたかったな」

「……ええ」

 アシェルの胸の内に、浮き岩台地の星空の下で響いた歌声が行き過ぎる。と、思いついたように、小首を傾げて再び御者を見上げた。

「ウリトン川で、夢見の竜が俺達に夢を見せましたよね」

「ああ……」カラックは、ぼんやり頷いた。「それで俺達は、それぞれ昔のことを思い出した訳だ」

「親方はクルトの事、俺はマニーとの旅でしたけど……」探るようにヴァルドの顔を覗く。「……元締は、何を思い出したんです?」

 そこまで言って、慌てて付け加える。

「あ、嫌なら、いいんです。すみません」

 身を縮める若者に、カラックは鼻を鳴らして小さく笑った。

「お前達に比べたら、大したことはない……というか、俺自身がどうのと言うことではないんだ」


 カラックは、四歳までヴァルドの母親の所で育ったと言った。彼自身は良く覚えていなかったが、ウォリスが後で語った所によると、四歳の誕生日にタニヤザール邸に引き取られ、数ヵ月後ミティレネが輿入れした。いきなり母親となった十七歳の娘は、思った以上の苦労をしたようだ。それでも互いが新しい環境だったので、若い母親と子どもが睦まじくなるまでは、たいして時間はかからなかった。

 その後、三、四年ほどは何事もなく過ぎて行ったのだが、次第にミティレネの表情が暗くなっていく。子どもの授からない彼女に対する、親戚からの口出しが厳しくなったのだ。タニヤザールは、まだ十分に若いのだから気にする事はないと慰めたが、留守がちな彼の隙を突くように、気を重くさせる言葉が彼女を責め続けた。やがて笑みが完全に失われ、遂には気鬱から健康を害してしまう。

 そこへようやく身ごもり、喜んだのも束の間、再び彼女の不安は膨れ出す。弱り切った体で、丈夫な子が産めるのか、タニヤザールが生まれた子を愛してくれるのか、妊婦の情緒不安定もあいまって、今まで思いもしなかった夫への不信が芽生えるに至った。それが肝心の本人が不在なため、父親の愛を一身に受けている息子へ向かったのである。


「……で、まあ、ある日、俺は森へ棄てられた訳さ」

 アシェルは驚きの目をあげたが、御者の方は呑気な表情を変える事もなく、淡々と言葉を継いだ。

「お前は、ヴァルドの母親の所へ帰れと……このまま真直ぐ行けば、ヴァルドの村へ着くからと」


 鬼気迫る義母の表情を、子どもは恐れた。しかしそれ以上に、彼女の心の奥にある悲しみを感じ取っていたので、彼女の指さす方向を見ると一言も言わずに頷いた。

 そして子どもは、真直ぐに歩き出したのだ。最初は悲しみが心に一杯に広がったが、大好きな義母親が村へ行けと言うのなら行くしかないと、幼い覚悟に歩を進めた。草の露や木の実で渇きや飢えを何とかしのいで、二日経った夜、光る一対の目が暗闇に浮かんだ。


「いやー、あん時ゃ、さすがにびびったぜ。今なら素手でどんと来いだが、当時はケンカの仕方も知らないお坊ちゃんだったからなあ」

 ケンカの腕でなんとかなるものかと、突っ込みを入れたかったアシェルだが、緊張する喉が固唾を呑むのに音を立てた。


 それからの一日を、子どもは恐怖の内に過ごした。風に不気味に揺れる木々、葉擦れの音。闇に浮かぶ二つの赤光が揺らめき、漏れ響く唸りが近づく。沼地に足を取られ動けなくなった時、子どもは絶望に叫びを上げた。

――来ないで……!!

 風を切る音がして、突然影が現れた。


「……来たんだわ。あいつが」呟いたカラックは長い息を吐き出した。「畜生……どうして、ああいうタイミングなんだか」


 気付いた時には、父親の力強い腕に抱かれていた。沼上の枝からの綱を握ったタニヤザールは、反動を付けて固い地に降りると、こちらに向けられている赤い目を睨み返した。胸の内からのぞいた竜石がその顔を照らし、銀の目が鋭い光を放っていた。向こうの唸りが高くなったのも一瞬で、たちまち萎えた情けない鳴き声が聞こえて、それきり赤い光は消えた。

 暗い森の道を歩みながら、父親は腕の中の子どもに語った。

――母様は心が弱っているのだ……でも、お前の事を心から愛している。お前も母様を愛しているのなら、このことを忘れなさい。

 暖かい腕に抱かれた安心と、心に沁みついている優しい緑の瞳を思う時、その言葉はすぐに子どもの内に入った。

――はい、父上……忘れます。


「んで! 単純な俺は、忘れちまったんだよ!」

「はあ……」見習いが気を抜けた声を上げる。「ホントに、単純ですねえ……」

 その頭に拳骨をかましてから、カラックは溜息をついた。

「ま、そんなこたあ、どうでも良かったんだが、俺にとっちゃ肝心なことまで忘れちまったってことが、問題だったのさ」

「肝心なこと……?」

 痛む頭をさすりながら、アシェルはヴァルドを見上げた。

「タニヤザールのどうしようもないセンセーぶりやら、果仕合の結果の悶々とした悩みやら、竜騎士になった後の恐れやら、まあそんなことがこの十年引っ掛かっていた訳だが……要するに俺は」

 そこまで言葉を継いだ時、馬車が広小路に出て、前方に夕映えの茜に染まる王宮が姿を現した。その光に目を細めながら、カラックの笑みが深くなる。

「タニヤザールに助けられた時、竜騎士の凄さに……素晴らしさに心が一杯になって、自分も竜騎士になりたいと……なるんだと、心底思ったんだ」


 あの森の暗闇の中で、子どもは竜騎士の体が燦然と銀に輝くのを見たのだ。森の獣を退かせる力、絶望の者を助け出す力、闇に光をもたらす力、それらを持つ竜騎士に強い憧れを抱かずにはいられなかった。

 竜騎士になりたい――それは、イディンの子ども達の誰もが持つ夢だった。




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