3.アシェル、竜石に触れる
前代未聞の竜石二つ。竜殺しがそれに触れたときに、思いもよらないことが起きた。
工芸員がテーブルの上に、平たい大小のビロード張りの箱を置いた。
「特に注文も無かったから、カリオンの石は鎖の付いたメダルに嵌め込んだよ。一番身につけ易いからね。悩んだのは君の方なんだ。ええ、アシェル君?」ロジェードはかしこまっているシーリアの若者に目を向けた。「大体竜法院で“竜殺し”の竜石を扱った事なんて無かったようだし、大きさがね。とても身につける事のできるサイズでなくて……」
「いえ、別に俺は……あ、私は身につける気もありませんし」
首を振る彼に、ロジェードは些かほっとしたようだった。小さい箱を手に取り、カラックに向けながら蓋を開ける。
「気に入ってくれるといいけど」
ヴァルドの竜石は、正十八角形の細かな細工のある金のメダルに嵌め込まれていた。もちろん石自体は灰色にくすんでいるので、今は縁取りだけが豪華なばかりである。カラックが手を伸ばして竜石を箱から取り出すと、メダルに付いている複雑な意匠の鎖が小さな音を立てた。
と、確かな拍動が竜石を持つ騎士の手に伝わり、火がともったように石が輝き出す。息を呑んで三人が見詰める中、突然あがる閃光。一瞬光の粒子が彼らの頭上に立ち上り、たちまち元に戻りって規則正しい炎のような明滅が始まった。それが周囲の金の細かな凹凸に映えて、実に美しい。
「……きれいですねえ」
アシェルが大きく感嘆を漏らした。
「いや、すごいね……これは」ロジェードも目を輝かす。「凡人の僕が手にしているときだって、言い知れない力を感じていたけれど……これが、業火の竜か」
カラックは手にしたメダルを目の高さに持ち上げると、その輝きに笑みを送った。
「また会えて俺も嬉しいぜ。どれほどの付き合いになるか分らんが、ま、ヨロシク」
竜石がそれにどう答えたかは、他の二人には分からなかった。
「それで、こちらの方なんだけれど」工芸員はおずおずと大きい箱を、アシェルの前に示した。平たく大きいので、手に持つには安定しないため、テーブルに置いたまま押し出す。「カリオンの方は、いろいろ意匠案が浮かんで楽しかったけれど、これは苦労してね」
「……すみません」
若者が肩を縮込ませたので、ロジェードは慌てて手を振った。
「ああ、御免! 君のせいじゃないよ! 僕の発想力がないせいなんだ。どうしようもない愚痴を言って悪かった」
「そうとも、ロジェよ。玄人の言うこっちゃねえぞ。まして竜法院工芸部の遣り手としてはよ」カラックは鼻を鳴らすと、顎を付き上げて促した。「そら、さっさと開けろ」
学校時代の力関係が戻ったようにロジェードは頷き、急いで箱の蓋を開けた。
大きめの紅茶皿ほどの竜石が現れる。あの時はじっくり見ている暇もなく、アシェル自身、この石を目にするのは殆ど初めてといってよかった。
「やっぱり、でかいな」
ヴァルドがシーリアの心の内を言葉にする。
こちらの竜石の周りは、草花を意匠化した金の曲線が優雅に取り巻いていて、まるで小さな鏡の様な趣だ。
「こりゃ確かに、身につけられんな。腹に巻いても腹がつかえるし、いっそ背中に背負ってみるかい?」カラックが笑って、アシェルに目配せする。「さあ、触ってみろ」
若者は軽く喉を動かすと右手をそっと差し出し、滑らかな石の表面に五本の指先を置いた。間もなく触れている皮膚の疼きと共に、石の奥から白い輝きが現れてくる。それは小さな光の粒の集まりで、次第に回り出し、渦を巻くように広がっていった。やがて石の内側一杯に満ちると、表面の裏側にぶつかる様な閃光があちこちで起こり、徐々に激しさを増して、今にも石が破裂しそうである。
「これは……!」
ヴァルドが呟いた途端、爆発したように光の粒子が竜石から噴き上った。光の波が押し寄せて彼らの周囲を取り巻いていく。
色とりどりの奔流が周囲を巡り、煌めく光の陰にカラックは懐かしい顔が浮かび上がるのを見た。
しかし、いつも微笑みをたたえていた眼差しが、深い悲しみに沈んでいる。
幾筋もほつれて白い額と頬にかかる亜麻色の髪。森奥の湖に落ちる滴のように、涙で潤む緑の瞳。
ミティレネ――母様……。
あれは十三歳の時、学校に入ったばかりの頃だ。早くもタニヤザールへの中傷を受けた少年は一暴れし、とりあえず同級生達の口を塞いだ。大体は気のいい友人仲間になったものの、深く根に持つ者がいた。普段は不穏な視線を向けるだけであったが、ある日乗馬訓練の時間に、聞こえないと思ったか、追い抜きざまに悪口を放ったのである。少年は馬に鞭を入れると彼に追い付き、馬上から飛びかかった。組み合ったまま二人は落馬し、相手は軽傷で済んだが、下になった少年は頭を強く打ち、昏倒状態が長く続いた。
しかし、本人の意識としては一眠りほどのもので、あまりの空腹に目覚めると、枕元に涙にくれた義母親がいた。馬から落ちて三日が経つと言われ、その間彼女が付ききりで看病していたのは、訊くまでもなかった。
何をしてもかまいません――と憔悴しきったミティレネが声を絞り出す。
ただ、死なないでください――と。
切なく訴える瞳に困った少年は、義母親の震える肩に両手を置いて応えた。
――はい、母様。母様のお言いつけを守ります……
少年はその時、初めて彼女の肩の小ささに気がついたのだ。
そして十三歳年上の義母親が、父の妻である事に改めて思い至り、理由の分からない落胆を覚えたのである。
もちろん今ではその正体は明らかで、現在でも僅かではあったが引きずっている自分に、先日の彼女の死が気付かせた。
――俺も青いよな……
内心舌打ちした所で、我に返る。
周囲は変わらず、光の粒子が渦を巻いて舞っている。横のロジェードがぼんやりと空に目を向けているのは、彼も光の陰に何かを見ているのだろう。
――こりゃ、すげえが、いつまで続くんだ?
訝しく思いながら大元である調達人の見習いに目を向けた時、息を飲んだ。アシェルの全身が震えを通り越して、病的なまでにがたがたと揺れている。その口から漏れ出る、擦れた悲鳴。
「元締……元締、助けて……ああ、親方……」
カラックは急いで彼の肩を取り、顔を上げた見習いに瞠目した。真っ青な両の目から、涙が次から次へと溢れ出し、頬から顎を伝って雨水のように滴り落ちている。
「もも、元締……ど、どど、どうしよう……な、涙とまら……なくて、ど、どうし……」
「馬鹿!! 早くその手を離せ!!」
悲痛な訴えに、ヴァルドは彼の右手を掴んで石から離そうとしたが、硬直してびくともしない。
「離れない……離れないんです……」
弱々しく言う間にも、激しく上下するアシェルの膝が次第に力を失い、体が下へと落ちていく。カラックはその脇を抱えて支えると、もう一方の手を竜石に置いて叫んだ。
「こいつを離せ!!」
瞬間、粒子の千々の流れが一つ所に集まり、竜石の中に吸い込まれた。光の流れが消えるや若者の指が石から離れ、彼の体がヴァルドの腕の内に落ちた。
ロジェードは目を瞬かせた。自分が竜法院の応接室にいる理由を思い出し、今まで浸っていた学生時代の甘い思い出に顔を赤らめる。と、巨大な竜石の持ち主が椅子に腰掛け、腫れぼったい顔に手拭きを当てているのが目に留まった。
「ど、どうしたのかい?」
若者を心配そうに見下ろしていたカラックが顔を上げ、息をついて首を振った。
「ロジェ、悪いがこいつは、この竜石を引き取れないとさ」
「ええ?」工芸員が困惑した表情を向ける。「気に入らなかったのかい?」
「いいえ、そうじゃないんです」
アシェルは鼻をすすりあげながら、赤くむくんだ顔で済まなそうに言った。
「とても素晴らしい細工で、俺になんかもったいないくらいで……」
「“竜殺し”は竜騎士と違って、竜石と相性が悪いのかもしれない」
竜騎士の言葉に工芸員は目を丸くした。
「そんなのは聞いた事がない……」
「そりゃそうだ。竜法院だろうが、イディンで“竜殺し”の竜石を細工した者は、お前が初めてなんだ。“竜殺し”について、実際は何もわかっちゃいないのさ」腕を組んだカラックは、顎をさすりながら喉奥で唸った。「本物かどうか知らんが、ギージェの竜石とやらが箱の中に無造作にあったのも、これで何となく分かる気がする……」