2.旧友、創立祭事件を語る
竜法院中級養成学校退学の陰にあった、少年の知らない事件が語られる。
通された応接室も一面が中庭に向き、反対側の切られた暖炉の上には、一頭の竜のレリーフが飾られている。竜の下に彫られた古い竜文字はアシェルには読めなかったが、どうやら竜の名のようだ。高いがさほど大きくないテーブルを、これも繻子張りの椅子が囲み、工芸員は軽く手で示して来客に勧めた。
「タニヤザール縁の竜石を扱うんで、何か悶着はなかったのか?」
腰掛けたカラックの気遣う問いに、ロジェードが薄く笑って肩をすくめる。
「ないことはないけれど、昔ほどではね。数年前、表向きには双方の和解がなって、ここではあんまり問題にはならないよ。法務局の方は、まだまだらしいけど」そこで大きな溜息をつく。「なんせ、今の法務局の局長が、当時君の放校のきっかけとなった事件の当事者だったからねえ」
「ちょっと待て。放校だと? 俺は自主退学だったぞ」カラックは憮然と身を乗り出した。「それに何だ? その事件というのは?」
「おや、知らないのかい?」
ロジェードは意外そうに訊き返すと、眉を寄せて唸った。
「うん……あれ以来、竜法院とまったく接触を断っていたら、御両親が話さない限り知らないのも無理ないかなあ」ちらりと相手に目を走らせる。「タニヤザールと局長がぶつかったんだ。相手が大物だから、あまり口には上らないが有名な話だよ。あんまり有名過ぎて、かえって話されないのかなあ……何しろ目撃者の数がものすごく多い」
それなのに、なぜカリオン少年が知らなかったと言えば――その日、彼は上級生を病院送りにするほど殴り倒し、謹慎室に閉じ込められていたからである。
「あ、少し思い出した。そいつ、公爵の息子か何かで……中級養成学校の学校長の甥とかでなかったか?」
差し挟まれたカラック言葉に、ロジェードは頷いた。
「その学校長が、今の法務局長だよ。なんでも局長とタニヤザールは、学生時代からの因縁があるらしい……詳しい事は分からないけどね」
「それであの上級生は、いつもネチネチと絡んできたのか。あんまり煩いんでサシで勝負しようと言ったら、五人も引き連れて来たんで、さすがに頭に来たんだっけ」目を丸くするアシェルに、弁解がましく哀れっぽい声を出す。「向こうだって、いい体格だったんだぞ。おまけに最上級生の十八歳で、こっちはか弱い十五歳だ。全力出したっていいだろう?」
六人を病院送りにできる十五歳のどのあたりがか弱いのか、ちっとも弁解になっていないのに気付いてないようである。
「で、なんだ。そのタニヤザールと学校長がぶつかった事件というのは?」
ロジェードは周囲を見回したが、小さく息をついて肩をすくめた。
「ま……いいか。今更言った所で、問題になるような事でないしな」
その日は、創立祭の一環としての全校記念講演会があった。
講師は学校長で、講演内容は彼の専門であるイディン法についてである。
巨大な竜法院の講演ホールは、中級養成学校生徒全員――カリオン少年と病院送りにされた六人を除く――と、その保護者である貴族達とで埋まりつつあった。
と、教員席が俄かに色めき立つ。席に近い生徒たちからざわめきが伝わり、ロジェードの隣りの生徒が、タニヤザールが来たと囁いた。振り向いた先の二階のボックス席は、上級貴族の保護者の席で、その一つに今しも正装した男女が、席に着こうとしている。銀を湛えた髪と丈高い姿は、ティムリアの者なら誰でも知っている竜騎士のものだ。
ロジェード達には、彼と竜法院の確執の内容など知る由もない。背景には、竜法院と繋がりの強い貴族からタニヤザールへの高い不評が常にあり、それが生徒内で竜法院に楯突く不穏な者として広まっていた。しかし、誰一人表だって非難することはできない。――彼が竜騎士である事、イディン法の完全な表れであるその事実は、一切の口を封じていたのである。
一方タニヤザールの方も、息子が学校へ入ったからといって、顔を見せる事もなかった。保護者としては常に夫人が姿を現し、学校側も席は用意したものの、今回も彼女だけの出席と安穏と構えていたのだが――
――会場は来る波乱を予想して、一挙に緊張した。
学校長による講演は厳かに行われ、その内容はすばらしいものであったが、会場の空気の半分は、講壇を見詰めているタニヤザールに向けられていた。不気味な沈黙のまま、壇上の学校長に注がれる銀の目は、微動だもしない。隣では夫人が、ささやかな笑みを浮かべて鎮座している。
講演は滞りなく終わったが、問題はこれからだった。参加者を交えての質疑応答。
最初は、数人の優等生よるイディン法の基礎について――多分あらかじめ用意された――質問がなされ、学校長は笑みをもってそれらに応えた。
そして司会者が、震える声で質問対象を会場全体へと振る。
三人ばかり、イディン法に興味ある保護者の質問が立つ。学校長はこれらにも澱みなく答え、最後にちらりとタニヤザールに目を向けた。
手が上がっている。
一瞬一同はぎょっとしたが、夫人のなよやかなレースの手袋と分かって、会場の緊迫が一時抜けた。
ミティレネ夫人は古代史からの関連した質問をしたが、学校長はその問題は範囲が広すぎ、ここでは取り上げきれないが、考察は古代史から現代史の流れの中で、総合的に行われる事が望ましいと答えた。
その時――現代史に用いられたイディン法について、とよく通る声が響き渡った。
タニヤザールが立ち上がっていた。
指名されない者は発言を控えるようにと司会者が慌てて諌めたが、学校長が了解の視線を送ったので、認めざるを得なかった。
以後双方の遣り取りは、さっぱり意味が分からなかったとロジェードは言った。
後日教師達が囁いていたのを漏れ聞くと、イディン法の矛盾をついた、かなり専門的な応酬だったらしい。タニヤザールが放つ問いを学校長が前例を用いて答え、対するタニヤザールは実際がいかに理論と矛盾しているかを突いていく。その解釈をめぐって双方の見解の相違が続くという中で、傍目に口調はタニヤザールが優勢に見えた。延々とした議論の嵐の果て、追い詰められた学校長が低い声で呟いた。これもロジェード達が後から知った事だが、意味する所は中傷の言葉である。
タニヤザールが口を閉ざし、会場は水を打ったように静かになった。
しばらくして、彼は学校長に謝罪を求めた。
学校長は沈黙した。
再度、謝罪をと声が上がる。
応えは返らない。
次の瞬間、一同が目にしたのは空飛ぶ椅子である。
講壇正面、二階のタニヤザール家のボックス席から放たれた椅子が、一直線に学校長に向かい、彼が身を隠した講壇机の上で、凄まじい音を立てて粉々に砕けた。
騒然となった会場をタニヤザールは身を翻して去ると、構内の謹慎室へと直行した。分厚い扉を三度で蹴破り、のんびり昼寝を決め込んでいた息子の襟首を掴んで、こんな所は辞めてしまえと言ったのである。
「だから俺は自主退学だと思っていたが、手続き上はどうなっているか微妙ってところか。しかし……」カラックは腕を組んで、椅子にふんぞり返った。「馬鹿だねえ。俺が言うのも何だが、我が親ながら馬鹿だわ」
「でもねえ、カリオン」ロジェードは、変わらずの弱々しい苦笑を向けた。「……学校長は、君の生まれについて貶めたんだ。だから御両親は、君に何も話さなかったんだと思うよ」