1.紹介状
ラスタバン王の食卓には
イディンの珍味がそろっている
給仕長が指揮をして
十人の給仕が皿運び
百人の料理長が腕振るい
千人の調達人が走り回る
そうして並んだ イディンの珍味
大道芸人の歌声とともに、溢れるばかりの花を飾り付けた山車が、次々と広場を通り過ぎて行く。撒き散らされる花びらの下では、春の訪れを祝う人々の歓声が波のように絶え間ない。特に今年は上の姫の婚約を控えていることもあって、楽音の調子が一段と高く上がる。ラスタバンの都ティムリアはイディン一美しいといわれる祭りを謳歌していた。
この朝アシェルは、それまで育った船を降り、王都の港で陸へと揚がった。湾内の船はどれも満艦飾で、祭り気分は海の上まで覆っていたが、中心である中央広場に着くと、めくるめく花の洪水が彼を圧倒した。
晴れ着に着飾った人々、色鮮やかに並ぶ屋台の日覆い。そちこちの踊りの輪では手拍子が上がり、陽気な楽隊の調べに、風までも色が付いているようだ。物珍しげな視線を巡らせるアシェルへは、行き交う誰もが笑顔を向けてくる。子ども、年寄り、金持ち、貧乏人、若い男、そして女。娘達は皆、美しさを咲き競う花のよう。意味はないと知りつつ、誘うような眼差しが通り過ぎるたび若者の顔は火照った。
暑さに襟元を緩め、喉の渇きに気づく。びっしり並ぶ屋台の中から冷たい春リンゴ水の店を見つけ、合切袋を足元に置いて小銭を払った。いささか高いと思われる相場ではあったが、なみなみ陶器に注がれた冷たい液体は喉を潤し、リンゴの春の香りが鼻腔いっぱいに広がった。
すぐ傍から大道芸人が奏でる笛の音が上がる。軽快なリズムが誰の首をも陽気に調子づかせ、やんやとばかりに喜んだ聴衆は、笛吹きの前に置かれた箱におひねりを投げ入れた。
アシェルは飲み干したカップを屋台に返し、自分もなにがしかの小銭を投げようと、足元の合切袋に手を伸ばした。目を疑う。
ない。あるはずのものが影も形もない。
頭の芯がすうっと冷え、しばらく思考が停止する。ぎくしゃくと首を巡らし、やがてあてもなく駆け出した。人の波をかき分け必死に目を配るも、これかと思った二、三の袋はいずれも勘違いで、持ち主達に謝罪を繰り返すはめとなった。
どれほど探したか。ティムリアは広い。中央広場ですら一望できず、中広場、小広場、大通りは両の手足の指を持ってしても余り、路地の数に至っては絶望的だった。
陽が一番の高さに上った頃、疲れ果てたアシェルは消沈して路肩石に腰を下ろした。春先だというのに、汗に赤みを濃くした髪が頬に張り付く。
――やっぱり、やられちまった。あんなにマニーに注意されていたのに……
船を下りる時、いやその前から養母のマニーは口を酸っぱくして言ったものだ。
――アシェルや。陸に揚がったら、一瞬たりとも気を抜いちゃいけないよ。陸の奴らは、みな業突く張りの泥棒だからね。
その時アシェルは、海賊が相手を泥棒呼ばわりするのも何だと思ったものだが。
すっかり全財産を盗られた今は、陸に上がった海賊の情けなさに打ち沈むばかりだ。鼻の奥がつんとなるのを、慌てて首を振り気を取り直した。幸い新しい職場への紹介状は内ポケットにあって、行く宛ては決まっている。俯く顔を振り仰ぎ、深い青の眼差しを中央広場の大噴水の遥か向こうへ投げかけた。
春の日差しの中に白く屹立する、ラスタバン、ティムリアの王宮。
イディンの地を統べる人々の住まう場所。その厨房が、彼の目指す仕事場である。
と、頭上に影がかかった。近くに立つ人の気配に向き直ろうとした時、声が降ってきた。
「これは、お前さんのかい?」
顔を上げるより先に、どさりと足元へ何かが投げて置かれる。それが見覚えのある合切袋と気付き、アシェルはあわてて飛びついた。
「俺の!」
「やれやれ、やっぱりそうか。しけた顔の御上りさんだと思っていたが」
背の高い影が、ぐいっと腰をかがめてアシェルの顔を覗き込む。黒い眼覆い、派手なフリルのたくさんついた黄色いシャツを着た男が、にやにやと白い歯を見せていた。
「潮臭え。陸に上がった海の民ときたもんだ」
「な、なんなんだ? あんたはいったい、大体この袋をどこで……」
無礼な物言いにいささか腹が立ち、いきおい言葉がきつくなる。
「おや、礼を言ってもらいたいね。かっぱらいから取り返してやったんだよーぉ?」
心外というように両手を広げ、身を反らした男の言葉に、アシェルはようやく事の次第に合点がいった。
「そ、それは」合切袋を抱えて立ち上がり、決まり悪げに頭を下げる。「ど、どど、どうも、ありがとうございます」
「いえいえ、どおいたしまして」男は長い腕をわざとらしく回し、体を折って大仰な礼を返した。と、鼻を鳴らして軽笑を浮かべる。「せいぜい気をつけるんだな。陸の連中はみな泥棒と思えって、ママに教えてもらったろ?」
そこで男は甲高い笑い声を上げ、奇妙なステップで細長い体を揺らしながら、人ごみの中へ消えていった。
王宮の裏門へ坂道を上るアシェルの脇を、大きな檻を引いた馬車が通り過ぎた。中の黒い小山の様な塊は、大王牛のようだ。その途方もない大きさに、王宮に納められる物はさすが桁外れだと、思わず驚きの吐息が漏れた。
その馬車が向かう先は、堅牢な裏門だ。門番に誰何され、アシェルは紹介状を示して取り次ぎを願った。しばし城内からの応答を待つ間、柱にもたれて高い城壁をぼんやり見上げる。と、最上部の狭間を行き過ぎる黒い大きな影。始めは何か分からなかったが、あれが噂に聞く重機兵かと思い当たった。強力な重砲を備えた機械歩兵は、イディン各国軍の強力兵器である。中でもラスタバンの保有数は群を抜いており、繁栄を支える陰の力の一端を目にして、アシェルの喉奥が鳴った。
ようやく城壁の影が伸びた頃、門番に呼ばれ駆け寄ると、料理人の白い服を着た少年が待っていた。
「デブアさんからの紹介の人だね」
頷いたアシェルに、少年は付いてくるようにと先を歩み出した。裏門の向こうは歩行者用の階段と車両用の坂道に分かれ、彼らの進む石段は、途中渡された高架で坂道を横切り、城壁を穿つ通路へ続く。石壁に挟まれた段坂を進み内門を通り抜けると、石垣がぐるりと囲む広場が開けた。ここが厨房の裏庭だと案内の少年が振り返った時。
やにわ、すっとあたりが暗くなった。低い機械の断続音と風がおこり、王宮の白壁の上を巨大な影がゆっくりと横切る。見上げたアシェルは目を奪われ、思わず歩を止めた。銀色の空中船が視界一杯の空に浮かび、優雅な曲線を描く船縁を、傾いた日差しが金の鎖のように滑っていた。
「国境についたファステリアの使者を迎えに行くんだ」案内の少年が誇らしげに胸を反らせた。「あれほどの空中船は、イディンじゃラスタバンだけさ」
進路を西に向けた空中船は、僅かに雲のたなびく蒼天を静かに進み、次第に小さくなっていく。最後の光点が見えなくなると、二人はそろって息を漏らした。と、見交わした互いの顔に、自然と笑みが浮かんだ。
裏庭の奥には、王宮の母屋から平屋の厨房が突き出しており、多くの扉からは白エプロンの調理人たちがひっきりなしに出入していた。その一つに、少年が声をかけながら飛び込んだ。
「エナムス親方はいるかい? ほしがっていた見習いが来たよ」
内側でいくつか言葉が交わされたのか、間もなく緑色のエプロンを締めた男が姿を現した。
背は高くは無いが、がっしりとした体つき。白髪の散る短く刈り込んだ茶の髪。なめし皮のような顔の皮膚には、幾本かの深い皺が刻まれている。
「お前か? 紹介状は持ってきたか?」
谷底の暗い影から覗くような眼差しに、アシェルは身を竦めた。
「あ、はい。初めまして……こちらです」
紹介状を差し出すと、男はしげしげと若者の顔を眺めながらそれを受け取った。紙面を広げて目を落とし、書かれている文字を丁寧に追っていく。
「確かにデブアの紹介だな。名はアシェルというのか……海の民のアシェル」
「はい、よろしくお願いします」
アシェルが挨拶をすると、相手は右手を差し出した。
「エナムスだ……まあ、親方ってところか。お前は俺の仕事の見習いということになる」
握った手は大きく、固い皮で覆われる掌には横に走る大きな傷跡があった。が、そのままエナムスの見つめる視線が動かない。思わぬ沈黙にアシェルがいささか気まずくなった頃、漸くついっと顔を逸らし、新参者の肩越しに厨房と斜向かいにある建物を指し示した。
「あれが使用人棟だ。入って一番手前が空いているから、それがお前の部屋だ。荷物を置いて、またここへ出てこい」
そこで石壁に開く通路の一つが、にわかに騒がしくなる。人の怒号に被さって動物の激しい鳴き声が響き渡るや、真っ蒼な顔の男が両手を振りながら庭に駆け込んできた。
「やっちまった、やっちまった! エナムス、えらいこった!」
「グラド!」
エナムスはアシェルを押しのけると、彼の元に走り寄った。
「大王牛か」
訊くより先に牛の咆哮が空気を裂く。通路から小山のような塊が裏庭に飛び込んでくるなり、庭を取り巻く石垣に突っ込んだ。地が揺れ、周囲の石壁に轟く大音響。
「うわ!」
屠殺長のグラドは、首を竦ませた。
「屠殺に失敗したのか! 馬鹿め!」
エナムスの叱責に、グラドは泣き声で訴えた。
「でかすぎて薬の量が足りなかったらしい! おまけに屠殺係が酔っ払っていて……」
「そんな奴、縛り首にしてしまえ!」
「もう、あいつに潰されてペチャンコだ!」
石垣の前でしばらくもがいていた牛が激しい鼻息と共に立ち上がり、その体から噴き出す怒りが、見えない激しい渦となって広がっていく。
呆然と立ち尽くすアシェルは、喘いで目をつぶった。裏庭に膨れ上がるイディンの怒り。
鋭い呼び声と共に鎧をまとった屈強な男達が十数人、それぞれに鉄線を編みこんだ綱を持って現れた。
「重歩兵のお出ましだぜ。グラド。始末書、減俸は確実だな」
「屠殺係が死んじまった時点で、覚悟はできているよ」エナムスの言葉に答えながら、グラドは目を血走らせた。「何とかしてくれよう、兵隊さん達よう……」
大王牛の黒い巨体を取り囲んだ兵士達が、それぞれに掛け声とともに綱を渡す。牛の角や足に分銅が絡まるたびに鋭く硬い音が響き、たちまち牛の周りにはクモの巣のように綱が巡らされ、兵士達の剛力によって微動だもしない。
息を呑みながらエナムスがグラドに囁く。
「……薬師を早く呼んで来い」
「あんまり規格外だから、薬の調合に手間取っているらしい」
「くそ、役に立たない奴らだ」
空気中に張りつめた力が高まり、それにつれて怒りも増す。悲しみと突き上げる憎悪。
牛の四肢が僅かに動く。兵士達の足の地面を擦る音が、微かに耳障りに始まる。初めは短く、次第に断続的になり、終いには長く引くようになった。
アシェルは眼を見開いた。――いけない!
「まずい!」
エナムスが叫ぶ。
再び中庭は、牛の咆哮に激しく大気が渦巻いた。はちきれんばかりの力を筋肉にみなぎらせ、牛が身を躍らせると、まるで糸操りの人形のように兵士達が宙を舞った。振り飛ばされた体が次々と周囲の壁に激突し、逃げ惑う人々の悲鳴が高く上がる。
吹き荒れる憎しみの嵐。突進する黒い大玉の弾丸が、石垣や建物への激突するごと瓦礫と呻く人間達の山を築いていく。
警笛が無秩序につんざく中、エナムスは屠殺長の腕を引き寄せた。
「グラド、重機兵をよべ! 重砲でないと、もう収まらん!」
「冗談じゃねえ、それじゃ木っ端微塵になっちまう!」グラドが食ってかかる。「十年に一度の超大物の大王牛だぜ! そんなことをしたら、俺の馘が……」
いきなり地を踏む重い金属音が鳴り響いた。庭端にある大型車両用の大門が、巻き上げられる鎖の軋みを伴い見る間に開けられていく。現れた黒光りする鋼鉄の機体。二本足に半球の頭部がつき、そこから突き出た砲身の先には黒い闇の穴がぽっかりと空いている。更なる避難命令に、倒れている者を担いだ人々が王宮内や庭外へ逃れて行った。
「ああ、俺の馘……」
「言わずもがなだな、重機兵が出て」
瞬間、エナムスはぎょっとして言葉を失った。
激突を重ねた黒牛が、またも身を起こしている。もはや見えるはずのない眼が次の目当てを探り、激しい息遣いと共に新たな憤りの鉾を向けた先。その直線上には枯れた噴水池があり――
「あいつ、なんで、まだこんな所にいるんだ!」
その水竜の石像にしがみついているのは、まぎれもないあの赤毛の新入りではないか。重機兵の砲身が低く唸りながら、大王牛に照準を定めて行く。
「逃げろ! 馬鹿野郎!」
エナムスの怒号にも若者は身動きできず、ただ眼を見開いているばかりだ。
牛が地を蹴る。エナムスは奥歯を強くかみしめると、身を低くして駆けだした。
――間に合うはずがない!
アシェルの目の前で、一つ一つがゆっくりと動いていった。
獣の体全体から立ち上る憤怒の黒い炎。血で塞がれたはずの牛の眼に、燃える揺らめきが見える。黒い山が動いた。と思う間に、眼前に迫ってくる。
闇の奔流が世界を覆い、狂気の渦がすべてを飲み込む。耳を突く激突音。足元の台石が崩れ、石畳に叩きつけられた。
と、一瞬、緩む怒り。
その一瞬に、更に暗い影が視界の端に地を這うように現れ、鈍い光が二度三度と閃く。
突然の無音。束の間、漆黒の静寂が下りた。
遠くで人々の歓声が聞こえる。吹きすさぶ風のような音は、どうやら自分の呼吸らしい。
「おい」
呼び掛けが、アシェルをこの世に戻した。
「大丈夫か?」
顔を上げるとエナムスが荒い息で見下ろしている。
「あ、ああ……」
返事をしようにも、舌が喉の奥に張り付いて言葉が出ない。エナムスが腕をとって引き立たせたが、よろよろと腰が泳いで、またその場に落ちた。
「すごい! すごいぜ、エナムス!」
グラドが狂喜して駆け寄ってくる。探すまでもなく眼前には大王牛が身を横たえ、立とうとして叶わず、激しく身もだえしていた。屠殺長は興奮に大きく腕を回しながらは叫んだ。
「半端じゃねえとは思ってたが、これほどとは、おったまげたもんだぜ! 街道一の『筋切』の名は伊達じゃねえ!」
そこでアシェルは、ようやくエナムスの手に握られた山刀に気がついた。四肢をひきつらせ、動けない牛。それぞれの脚の付け根につけられた、鮮やかな切り傷。
――『筋切』……路上の民?
ぼんやり戻した視線が、変わらず見下ろしていたエナムスの目と合った。ひそめられた眉下の細い光に、若者の頬が強張る。ゆっくり上がる山刀。その刃をエプロンで拭った『筋切り』は、腰の後ろの鞘に収めると、顔を動かさず屠殺長に言った。
「早く薬を打ってやれ。動けなくても、苦しいままじゃいかんだろう」そして堅い表情のまま新入りに訊く。「……本当にデブアの紹介なのか?」
アシェルは空唾を飲み込み、コクリと頷いた。それで今は納得するしかないと思ったのか、小さく息をついたエナムスは再び若者の腕をとり、今度は腰を支えて立たせると、その尻を勢いよく叩いた。
「そら、しっかり踏ん張れ。いつまでも腰を抜かしているな」相手が何とか自分の足で立つのを見届けて頷く。「まあいい。使用人棟は何とか無事だから、荷物を置いて、まずここの片付けに入ってもらおうか?」
「はい」
引きつりながらも笑顔を向けたアシェルは合切袋を拾い上げ、歩を踏み出しかけて振り返った。
「あの、ありがとうございました……親方」
薄い笑みを浮かべたエナムスが、何も言わずに手を振りながら厨房へ向かう。
一方 背後の大門では、砲頭を収めた重機兵がゆっくりと姿を消して行った。
* * *
アシェルは水場のそばに陣取ると、籠一杯のジャガイモの皮むきを開始した。数日前、大王牛に壊された石垣の修復のため、裏庭には石工達の石鑿の音が響いている。
あれだけの混乱の中、大王牛の暴走で命を落としたのは、奇跡的にも酔っ払った屠殺人だけで、屠殺長グラドの処分も減俸ですんだのは破格の取り扱いだった。もっともそれだけ、最上級の大王牛が望まれていた証しではあるのだが。
花曇りに渡る風が、石垣の上に枝を張るチェアリの花びらを運んでくる。通路の城壁の向こうから微かに聞こえてくるのは、屠殺場の祈りの声だ。今日は何事もなく済んだらしい。
イディンの獣たちは、人間にとって畏怖の対象だった。その心は、向かう人間の心を映す鏡だ。少しでも怒りや、憎しみ、恐れを持って当たると、獣たちは激しい攻撃の矛先を向けてくる。だから獣を殺すためには、相当の慎重さを持ってかからねばならない。たとえば、食料とするための屠殺。屠殺人は平静を持って獣にあたる。僅かも恐怖を覚えさせないよう、死の苦しみを与えないよう、薬――安送薬を与えて静かに息を止める。深い祈りをもって。
それを怠れば、先日の潰された屠殺人のような運命が待っていた。
食糧倉庫から見習いの少年が、泥つき蕪の束を抱えて水場に来た。
「シムイ、泥落としかい?」
初日に案内された少年とは顔馴染みとなり、親しく言葉を交わすようになっていた。
「そうなんだ。花祭りが過ぎたっていっても、まだ水は冷たいだろ? やんなるよ」
引き樋から溜め桶に注がれる水を憂鬱そうに眺めるシムイへ、その心情が微笑ましいアシェルが申し出る。
「俺がやろう。水扱いは慣れてるから」
「そうかい、助かるよ! じゃ、その間皮むきは俺がやる。こっちは得意なんだ」
そばかすだらけの顔がぱっと輝き、たちまち皮剥きの小椅子に腰を下ろした。
「アシェルはここへ来る前に花祭りを見てきたのかい? いいなあ、俺は三年前奉公に上がってから全然だ。五年は我慢しろと親方は言うけどさ、そんなに待っていたら忘れちまうよ」
色々話しかけてくる少年の歳は十四で、その背はアシェルの肩ほどしかない。
――やっぱり、十八で初奉公ってのは、遅すぎるよな。
自分の世間知らずを見せつけられるようで、アシェルは内心苦笑した。もちろん海では下っ端ながら懸命に働いてきた。それでも船は自分の家であり、船員たちは気心の通じた家族に近い。船を降りる前の晩、すぐ上の兄イが寂しそうな目で呟いたものだ。
――このまま船に乗っているわけにはいかないのか?
アシェルには答えられなかった。ただ十八の今、自分はイディンの陸の上で生きていかなければならない事だけは分かっていた。
ちらりと目を上げ、芋の皮をむくそばかす顔を窺う。十一の時から家族と離れて働いている事だけでも、アシェルにとってシムイは立派に尊敬の対象だった。使い走りとはいえ、その白いエプロン姿は三年の実績ですっかり身につき、傍目にはいっぱしの料理人に見える。各々が違う環境のもとにいた者が集う仕事場は、やはり船とは勝手が違うのだ。
――白いエプロン……
そこで自分の腰元に目を落とす。緑色のエプロン。使用人棟に荷物を置いた彼にあてがわれた、エナムス親方と同じもの。
その意味をアシェルは知っている。緑は血の色を抑えるためだ。先日の大王牛は、静かに息の根を止められると、エナムス親方のもとに運ばれた。彼は手持ちの大きな山刀で、牛の皮を剥ぎ、鮮やかな手つきで次々と獣の体を解体していった。素早い無駄のない動作。
――親方は解体人だったのか。ということは……
その下で働く自分は、解体人の見習いということになる。若者は小さな溜息をついた。
――王宮の厨房の料理人は、町の者しかなれないっていうのは本当なのかなあ……
王宮務めとは堅い仕事だとマニーは喜んだものだが、さて実情を聞いてどう思うだろう。
「アシェル!」
呼ばれて顔を上げると、王宮の奥へ続く通路からエナムスがやって来た。今日は珍しくエプロンを外し、こざっぱりとした上着をまとっている。大股で水場に近づいてくるの姿に、シムイが皮むきの小椅子から弾かれて立ち上がり、小桶の蕪に跳びついた。
「何をやっているんだ、蕪の泥落とし? そりゃシムイの仕事だろうが。俺がお前にやっておけと言ったのは、芋の皮むきだけだぞ」
冷や汗をかき、しきりに手を動かす料理人の見習いを、エナムスがじろりと睨む。
「あ、いえ親方。俺が変わろうと言ったんです。シムイのせいじゃありません」
アシェルが慌てて弁護すると、親方は不機嫌に鼻を鳴らした。
「俺達は便利屋じゃないんだ。あんまりいいように使われるな。とにかく仕事が入った。芋の皮むきもすぐに止めろ」
「仕事?」アシェルは屈んでいた背を伸ばし、首をかしげた。「解体の手伝いですか?」
「解体?」エナムスが眉を寄せる。「何を寝ぼけたことを言っているんだ。俺たちの本業だ」
親方の拳骨が軽く若者の胸板をたたく。
「調達に出かけるぞ。長旅だ」
シムイとグラド