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ラスタバン王の給仕  作者: 平 啓
第四部
26/38

6.再会

 イクスミラレス領主からタニヤザールへの手紙と契約書類を提出してからは、どこからも何の音沙汰も無く、アシェルは一応料理長預かりになった。その後半月ほど、下働きや解体人の手伝いをして過ごす。タニヤザールなど上層部の動向は知る術も無かったが、彼がしばらく王宮に出仕していないとの噂は耳にした。


 その日もシムイ相手に雑談をしながら芋の皮をむいていると、王宮の通路から大股に近づいて来る者がいる。喪服の正装姿に誰かと思ったが、見知った元締と分かってアシェルは目を丸くした。

「よう。元気そうだな。無事帰れたか」

 貴族然とした服装ながらも、カラックは変わらない気安い挨拶と共に笑い、給仕長が呼んでいると伝えた。ついでに、あの革袋も持ってくるように付け加える。


 急いで身支度を整え駆けつけた見習いを従え、ヴァルドはどんどん王宮の中へと入って行った。表廊下を進んだ先の中央正面口で、行き交う高官達が彼らに視線を投げ掛ける。身分違いの場所に、アシェルは冷や汗が吹き出す顔を俯かせ急いで表へ出た。大玄関前のだだっ広い馬車止まりには、馬車がずらりと並ぶ。カラックがその内の二頭立てに飛び乗り、逡巡する若者を無理やり乗せると、馬車は軽快に走りだした。

 空は晴れて、初夏の風がさわやかに頬をなでる。しばらく身を固くしていたアシェルだが、心地よい振動に次第に気持ちも解れて来た。ただ、元締が物思いに沈んでいるように見え、どうもいつもと勝手が違う。着ている喪服から、誰か亡くなったのかと向ける視線にカラックが気づいた。

「ああ、葬式があってな。ごたごたして、今まで呼ぶのが遅れたんだ」黒服の襟を引っ張る。「タニヤザールの奥方が亡くなったのさ。で、物忌みでしばらく出仕を控えてるってわけだ。だから向かっている所は、タニヤザール邸だな」

「それは」

 御愁傷様ですと見習いが目を瞬かせると、元締は小さく笑った。

「それをタニヤザールに言ってやれや」

 はあ、と頷いたものの、どうも調子が出ない。そこで、あっと声を上げる。

「今日は忘れてしまいましたが、後で先月と今月分の借金を返しますね」

「……何のことだ?」

 カラックが眉を寄せるのに、見習いは驚いた。

「だから、俺が元締に借りた借金ですよ。旅の始めにベントナの酒場で、ベオル酒の代金を立て替えてもらった」

「ベントナ?」腕を組んで考え込んでいる所を見ると、本当に忘れているらしい。「そんなことが、あったっけかな?」

「あったんですよ!」アシェルが喪服の腕に縋りつく。「忘れちゃったんですか? 酒場の請求書の裏に、借用書を書いたじゃありませんか!?」

「ああ、思い出したよ。なんだよ、もういいよ。面倒臭い!」カラックは顔をしかめると、見習いの掴んだ手を振り払った。「どうせ小銭でちまちま返すんだろ? やだよ、財布が膨れてみっともない」

 いつかのジャッロへのセリフをそのまま言う彼に、若者は茫然とした声を上げた。

「小銭じゃないですよ……銀貨ですよ」

「小銭だろが」

 この金銭感覚にはもうついていけなかった。これでよく商取引の最前線で働けるものだと思いながら、アシェルは口をつぐんだ。エナムス親方の言ったことは、どうやら正しかったらしい。

――もう、こんなものは気にするな。どうせ向こうも忘れている。あいつにとっちゃ、どうでもいいことなんだ……


 馬車は間もなく、海沿いに建つタニヤザール邸に到着した。

 玄関には喪中を示す長い白い布が渡されている。中に入るとホール正面に階段と踊り場が続き、壁にかかっているのは女性の大きな肖像画だ。その美しさに、しばし見とれて足を止めたアシェルは、ホールを横切る元締に声をかけた。

「……人間じゃないですね、この方」

 はあ? とカラックが絵を見上げる。

「どういう意味だよ。十五年前のだが、ミティレネはこのまんま人間だったぞ」

「ミティレネ?」

「タニヤザールの先日亡くなった奥方」そこで右奥の部屋を顎で示した。「こっちが書斎だ。中で待っていろってさ」

 広い書斎には様々な椅子が置かれていたが、アシェルが惹かれたのは二面に大きく取られた窓の外だ。新緑の枝越しに紺碧の海が煌めいている。足早にガラス窓を通り抜けテラスに出ると、手すりから身を乗り出して海原を眺めやった。

 湾内に膨らむ幾つもの白い帆から、生まれ育った船とマニーや船長達が懐かく思い出され、胸が締めつけられる。

「里心がついたかね?」

 見習いの胸の内を見透したかのように、背後から声がかけられた。

「わざわざ呼び出して済まない。見ての通りの事情なのでね」

 やはり喪服を着た屋敷の主人は、変わらない真っ直ぐな姿勢で若者を迎えた。部屋へと促された見習いが、「あの」と呼び止める。

「奥方様が亡くなられたそうですね。その……お元気を出してください」

 タニヤザールが銀の目を見開き、屋内のカラックと顔を見合わせたので、アシェルは戸惑った。

「ええと……俺、変な事言いましたか?」

「いや」薄い笑みを浮かべて、タニヤザールは軽く首を振った。「……ありがとう」

 長い腕が抱くように肩に回され、緊張する若者をゆっくりと椅子の一つへと誘う。隣の三人掛けに身を投げ出しているカラックが、見習いの驚きを向けられて小さく肩をすくめた。

「竜騎士は、励まされる事に慣れてないのさ」

 タニヤザールは靴音を立てて執務机についた。ふと海とは反対側の窓を一瞥したが、直ぐに椅子に腰掛け口を開く。

「さて、いろいろあって延びていた、ベド・シェアン以降の報告を受けようと言うわけだ」

「あ、はい」

 アシェルは元締めと頷きあってから、遊牧民の若い一家との出会いと出来事とを話し始めた。 若者の口調は緩やかで澱みがない。タニヤザールは、机に肘をついた手を組んで、相槌を打ちながらにこやかに聞いている。

 やがて話が勇者の武勇伝まで至ると、給仕長の視線がヴァルドへちらりと飛び、口元を隠して肩を震わせた。仏頂面の元締を置いて、報告はベゼク川の遭難事件と赤ん坊の命名に及び、銀の眼差しが優しく見習いに注がれる。彼らとの別れで一端話を止めた時、給仕長は組んでいた手をほどいた。

「それで話がわかった」引き出しから羊皮紙の手紙を取り出す。「遊牧民のトヴァリ族の長から丁寧な礼状が届いてな。何があったのかと思ったが、そう言う訳か」

 言葉の間に、遠くから聞こえ出した低い機械の駆動音と風音が、次第に近づいて来る。それが館のすぐ傍に迫ると、タニヤザールは先程視線を向けた窓に歩み寄り、外を窺った。

「来たようだな」室内の二人を振り向く。「エルシャロンからの高速空中船が着いた」

 しばらくして、この家の執事が玄関で応対する声が聞こえ、来客が招き入れられたようだ。ゆっくりとした足取りと早足の靴音が書斎に近づき、二つの人影が入り口に現れた。

 思わず立ち上がったアシェルの顔一杯に、驚きと喜びが広がった。

「イブライ! ジャッロ!」

「アシェルさん! ご心配おかけしました!」

 満面の笑顔を向ける笛吹きジャッロに駆け寄って、若者はその手を取った。

「良かった……良かった! 無事だったんだね!」

 それから隣の薬師に顔を向け、君も、と言いかけて声を呑む。血色の悪いこけた頬と、憔悴したのは面差しだけではない。体全体もすっかり細くなり、肩から皮帯でつっている左腕が、アシェルの喉を小さく鳴らした。けれど変わらない強い眼光のままに、右手で見習いの顎を取ったイブライは、首筋の傷跡を指で辿った。

「……もう完全に治っているな。すまなかった」

 口の中で呟いた後、姿勢を正して踵をつけ、タニヤザールに向かう。

「ラウィーザ・イェデ・アゼルファラス、ただ今戻りました」

「ご苦労」給仕長は銀の目を細めて低く答えたが、問いたげなアシェルの視線に気づいた。「マルキウスの魂解きに向かったエルシャロンの祈祷師達が、谷にいた彼らを見つけて救助してくれた」

「……彼ら?」

 若者が訊き返すのに、ジャッロが慌てて口を開く。

「すみません、アシェルさん。あっしはずっと、イブライさんと一緒にいたんです」驚く青い目へ、申し訳なさそうに何度も赤い頭が下がる。「あの時も、ずっと崖下にいましたです。はい」

 アシェルとエナムスが来た時、イブライは木の上に、ジャッロは崖を降りたと打ち明けた。激しい剣戟の時もイブライが落ちて来た時も、じっと息を凝らして身を潜めていたそうだ。アシェルの呼びかけに応えなかったのは、エナムスが怖かったためだった。

「あっしはイクスミラレスで、アブロン様を手にか掛けた親方を見ちまったもんですから……」記憶を呼び起こした小男の目に、恐怖が浮かぶ。「慌てて逃げようとした所をイブライさんに呼び止められ、なんでもラスタバンのその手の方だと聞いて、そいで親方のことを話したんです」

 イブライが、エナムスを危険すぎて信用できないと言ったのは、根拠のないことではなかった。アシェルは切なく薬師を見つめたが、『給仕』の視線は真直ぐ給仕長に向けられている。

「私はあの晩、エナムスをずっと尾行していました。彼が仕事を終えたら接触を図り、協力を求めようと思っていたからです。浮き岩台地のマルキウスは、明らかにゴンドバルと接点がありましたから」

 息をつき、言葉を続ける。

「エナムスは予想通りの行動をとりましたが、明け方になり、城外へ出た所で巻かれてしまいました。こちらの正体は知れないものの、尾行には気付いたようです。生い茂る草藪のため探索に手間取っていると、沼縁に人影を見つけました。それがジャッロでした」

 小男がいきなり逃げ出した後に、アブロンの死体を発見し、彼を追ってその事情を聴いたと言う。単独になることをジャッロがひどく怖がるので、以来行動を共にすることになった。

「すぐ、イクスミラレスの在留連絡員に伝えなかったのは、何故かね?」

 タニヤザールが首を傾げる。

「……申し訳ありません」イブライは目を伏せて、眉を寄せた。「そのすぐ後に、裏の大滝の道から来た浮き岩台地の獣人が、村が襲われたと助けを求めて来たのです。出がけに何かあったら知らせるよう声をかけていましたから」

――更なる猟師頭の追撃に、あわやという所で彼の元にいた薬師に救われた。

 アシェルは、イクスミラレスで新しい猟師頭の言った言葉を思い出した。

 マルキウスはその後、東長に制裁を受けたが、イブライ達はゴンドバルに追われる身となった。その中でも僅かながら拾った情報に『竜使いの村』という語があり、エルシャロンに向かった彼らは、調達人達と邂逅したのである。

「それからのことは、エナムスから報告を受けている」

 一瞬カラックが、給仕長に険しい視線を走らせた。と、息をついて『給仕』に移し、ぶっきら棒に声をかける。

「イブライ……ラウィーザか? とにかく座れ」手を振って、彼らのすぐ傍の椅子を示す。「脂汗流して我慢している所なんざ、見苦しいからよ」

 薬師はきつい目を返したが、すぐにタニヤザールが頷いて促した。

「すまん……失念していた。三日前に歩けるようになったばかりだったな」

 『給仕』は目を落とすと、小さく「はい」と返事をし、ジャッロとアシェルの手を借りて近くの椅子に腰掛けた。

 そこで、あのう、と、ジャッロが恐る恐る尋ねる。

「アブロン様はどうしてエナムス親方と会ったりしたのか、お分かりになりますでしょうか?」

 給仕長は小男に優しく微笑みかけた。

「アブロンは、昔、雪山に置いてきてしまった親子のことを、事あるごとによく話していた……忘れず、いつも気にかけていた。それで、イクスミラレスでエナムスを見た時すぐに気付き、後の事を聞こうとしたのだと思う」小さく息をつく。「それは、自分には都合の悪い事と予想はついただろう。相手の持つ恨みがどんなものか……実際エナムスは、自分でも気付かないほどの深い呪いを抱いていた」

 そこでジャッロのドングリ眼に、確固とした銀の眼差しを注いだ。

「しかし、アブロンは逃げなかった。アブロンは真の竜騎士だったからだ」

 竜騎士の言葉に、一杯に開かれた笛吹きの目から涙があふれ出す。若者が手拭いを渡すと、ジャッロは泣き笑いを浮かべて、何度も頷きながら啜りあげた。

 アシェルは寂しげな笑みを送っていたが、口端を引き締め、タニヤザールに顔を上げた。

「給仕長、俺も質問をしていいですか?」白銀の頭が頷いたので、言葉を続ける。「親方は、ゴンドバルの間諜だったんですよね」

 給仕長と『給仕』の間で、素早い視線が交わされ、元締は痛ましそうに若者を見やった。

「でも、給仕長は……給仕長達はそれを知っていたんですよね」

 ジャッロの目が驚きに瞬く。アシェルは苦しそうに顔を歪めた。

「……そんなことを、なぜ、親方にさせたんですか?」


 エナムスはラスタバンの二重間諜だった。


 しばらくの沈黙の後、タニヤザールが口を開いた。

「……エナムスが望んだことだ」

 ヴァルドが鼻を鳴らす。

「あんたはすぐそれだ」

「私が止めなかったと言うのか?」

 カラックは凶悪な目で睨みつけたが、動かない銀の眼差しに付きあたると、喉奥で唸り、それを外した。

「エナムスと知り合ったのは四年前だ。街道一の筋切がラスタバンにいると聞いて会ってみた。それで、私の元に来るよう誘った」

 最初エナムスは、外の者、ましてやローティが王宮務めなどできるはずがないと断った。しかし、なりふり構わないタニヤザールの勧めに根負けし、彼の元に調達人となったのである。その際彼は、自分の過去の全てを話した。

――あんたが抱えた者の正体を知っておいた方がいい。

 イディンの西方で生まれ、年齢は不詳、青年の頃筋切として身を立て、東方へ来た。更なる放浪の後、二年前ゴンドバルから出、ラスタバンと本街道を拠点とするようになったことなど。

「ゴンドバルには思い出す限り五年いたらしい。それ以前の数年の記憶がないと言っていたが、多分それが、クルトとかいう子に関することだったのだろう」

 ゴンドバルはもともと才のある難民を収容し、間諜に仕立てて各国へ送り込んでいた。エナムスもその教育を受けたが、染み込んだ不信が洗脳を受け付けなかった。それでも接触してくるゴンドバルの連絡員を、適当にあしらっていた矢先、タニヤザールの誘いを受けたのである。

――丁度いい。この筋を生かせば、親父殿も楽だろう?

 その必要はないと言ったが、エナムスは独自に動き出した。そしてそれがラスタバンに益をもたらすにつれ、タニヤザールは彼を止めることができなくなっていた。

「今回の旅での新顔を知らせるよう連絡を受けたエナムスは、君のことを伝えたのだ。そしてブルブランで、君の傍から離れるよう指示された……何かが起こるとは知っていたが、まさか君の生死に係わることとは、思ってもいなかったのだろう」

 それでもブルブランでは、いつでも出ていけるよう君を見張っていたはずだ、とタニヤザールは言った。

――多少の危険はいつものことだが、まさかいきなりこんな強行に出てこようとは思わなかった……

 そこでアシェルに尋ねる。

「エナムスが、アムダルカの村人がゴンドバルの者と知っていたと、なぜ分かった?」

 元締と『給仕』も視線を若者に注ぐ。アシェルは前に組んだ手元に目を落とした。

「ゴンドバルがアムダルカで待機するには、前もって俺達がそこに行くことを知っていなければなりません。でも、俺達がデドロンに行くと決めたのは、キャベルの銀竜亭でした。それを知っていたのは、ジャッロと俺達三人……と、イクスミラレスで親方が話した相手です。もちろんラスタバンの連絡員に話し……ブルブランのことが本当なら、ゴンドバルの連絡員にも話したと思います」

 『給仕』に顔を向ける。

「親方は、イクスミラレスでゴンドバルの連絡員に会ったんですよね」

 若者の視線を受けて、イブライは無言で頷いた。

「……でも、どんな結果になるか、親方はやっぱり知らなかったと思います」

 そこでカラックが小さく鼻を鳴らした。

「多分、そこでの山ウズラを何らかの方法で、エルシャロンに運ぶとゴンドバルは踏んだんだな」手で顎を擦りながら考える。「手っ取り早く大量に運ぶには、空中船が一番だが、定期搬送船の予定をいきなり変えられない。そこでエルシャロン行きの船と言ったら、イズレエル・ガレだった訳だ。あの重機兵搭載船」

 もし、その読みが当たっているとしたら、ゴンドバルにとって密航の千載一遇の機会となる。

「でも、それには、親方の協力が不可欠でした。だから空中船に行くまでの間に、ゴンドバルは正体を親方に明かし、手引きを指示したんです」

 アシェルの言葉にイブライが低く唸った。

「……それなら、なぜ空中船で給仕長に報告しなかった?」

 アシェルが唇を噛み、ヴァルドが目を背けたので、タニヤザールが顔を上げた。

「ラウィーザ。エナムスが殺したのは、『竜騎士』だったのだ」眉をひそめ意味を問う『給仕』に答える。「エナムスにとって、手にかけたのは『竜騎士アブロン』であり……『竜騎士タニヤザール』だった」

 小さく息をつく。

「……目覚めた怒りが、私の元にいる理不尽を許さなかった……私を殺し、私から離れた」

 『給仕』の眉がきつく寄せられ、それは反逆――と言いかけたのを、給仕長が厳しい声で制する。

「ラウィーザ。思い違いをするな! それが刃を持つ者を、自分の元に置くという事だ。切っ先は常に喉元に突きつけられている。すでに覚悟はしていた。しかし、それを恐れては何もできない!」

 タニヤザールはゆっくり歩を進め、『給仕』の前に立った。

「……エナムスの山刀を取り上げようとしたそうだな」

 彼を見上げたイブライは、頬を強張らせると俯いた。

「筋切にとってそれは、命を取り上げることと同じことだ。この若い見習いですら、してはいけないと知っていることを、お前はしようとしたのだ」

 容赦のない言葉に、『給仕』は首を振った。

「……では、私に、みすみす殺されろと?」

 目の前で翻った山刀の白刃が脳裏をよぎり、イブライの額に汗が浮かぶ。

「いや……」返る否定。「彼らが自分から刃を置くまで待て」

「そんな余裕は……そんな時間はありませんでした!」

「ならば刃を向けて来た者を、そのまま死に送れ!」

 追い詰められた悲痛な訴えは、激しい光を放つ銀の目に応酬された。荒い息の中『給仕』の肩が大きく上下し、震える右手が動かなくなった左腕を掴む。伏せた顔に、奥歯を噛締めた顎がわなないた。

「……できません」首をゆっくり振る。「私には……とてもできない」


 沈黙が降り、書斎の中を微かな潮騒が響きだす。群青の窓に、海鳥の影が横切った。

――ラウィーザ……

 歌うようにかけられる柔らかい声。

「ラウィーザ」

 再度の呼びかけに『給仕』がぎこちなく顔を上げると、そこには竜騎士の銀の笑みが浮かんでいた。

「闘え」命令のような励ましが降りてくる。「私は、お前に期待している」

 見詰める青年の戸惑いを受けて、タニヤザールは頷いた。

「エナムスは後悔していた。山刀を外すくらい、できないはずはなかったと」

 イブライはきつく目を閉じた。浅い息が続いた口から、囁く声が漏れる。

「……私が……間違っていました」

 薬師の様子を見守っていたアシェルは、彼の震える肩に右手を置き、優しく撫でた。


「アシェル」タニヤザールが声をかける。「あの時、頭がまともだったのはお前だけだったとエナムスが言っていた。よく二人を見極めたな」

 若者は視線を『給仕』に向けたまま、撫でる右手を止めることなく呟いた。

「でも結局、俺は何もできませんでした。二人とも俺の事を思ってくれていたのに……」小さい間があり、ぽつりと付け加える。「……フィノムって何ですか?」

 ヴァルドの喉奥から唸りが漏れた。

「誰が言った?」

「マルキウスが……死に際に、親方を呪って言いました」

 タニヤザールも顔を険しくすると、自分の執務机に戻り、椅子に腰掛け深い息をついた。その様子にカラックは目を細め、見習いを振り返った。

「まあ……早い話が、これのある無しだ」

 彼の示したのは、自分の耳飾りである。

 イディンの民は二、三歳になると、生まれた土地名を記した耳飾りをし、イディンの大地に属する者の証明とした。死の際に竜が大地の者を迎えに来ると、固く信じられていたためである。だから両親や家族を失った子でも、その生まれを少しでも知っている者は、耳飾りを作り与えることが義務付けられている。

「ただ、これを持たない者がいる」ヴァルドの目が優しくシーリアに注がれる。「耳金を受ける前に捨てられ、生まれが分からない子や……両親共にローティの生まれながらの者だ」

 アシェルは自分の耳飾りにそっと触れた。陸に上がる前、マニーが新調してくれた碧玉だった。その台の金には、海の名と船の名が刻まれている。本来捨て子の自分には、持てないものだった。

 一方エナムスは生まれながらのローティだった。

「生まれながらのローティ?」

 シーリアの若者の問いに、ヴァルドは頷いた。

「ローティは、それ以外の者と違って、属するイディンの土地を持たない。いや、持てない。どこへ行ってもよそ者だ。でも、元はと言えばほとんどが、貴族崩れ、街の者崩れ、ヴァルド、シーリアを追放された者……まあ、脛に傷持つ輩だな」

 それでも元の生まれは変わらないので、生まれが竜を保証する。しかし、生まれながらのローティ――両親共にローティである者は、この保証の外にあった。

「でも……親方は耳金をしてました」

 合点のいかない見習いに、カラックは肩をすくめた。

「あれはタニヤザールが、彼をラスタバンに入れた時にさせた物だ。無いと周りが煩いから、するだけしてろと言ったんだな。おい」

 彼の言葉の最後は給仕長に向けられ、タニヤザールが腕をきつく組んで頷いた。

 自分を受け入れる土地はないと、エナムスは言った。そうであっても、耳金があると無いとでは世間の目が違う。どうせ分からないのだから、つけたらいいと勧めると、あんたはそれでも竜騎士かと怪訝な顔をした。大地に属さないとされるローティが、大地の法に忠実であろうとする姿に、タニヤザールは少なからず驚いた。

――だったら私が受け入れる。私の名を刻もう。

 タニヤザールの提案に、筋切は呆れた目でまじまじと見返したものだ。以来彼は、この竜騎士を『親父殿』と呼ぶようになる。

「くだらないことだ。たかが耳金のある無しで……」

 口をついた過激的な言葉に、若いタニヤザールは苦笑した。

「そうは言っても、エナムスが結局苦しんだのはそれだろう?」

 耳飾りを持たない者――イディンの大地に属さない者には、生きては竜の守りはなく、死んでも竜は来ないとされている。生の間の放浪が、死を経ても魂の帰るべき場所を持たない放浪となって続くと。その世界では、喜びも無く、平安も無く、慰めも無く、ただ呪いをもたらす者と、忌み嫌われ追われるしかない。その死後の呪いが我が身に及ぶ事の無いよう、人々は彼らとの接触を避けたがった。生計に関わる表面的な付き合いはあっても、機会さえあれば関係の断たれる事を望んだ。

「それがフィノムですか?」

 若者が眉を寄せたまま更に訊いた。


「……『路民狩り』と言うのがあった」

 エナムスに聞いた話だ、と白銀のタニヤザールが、低い声で話し始めた。

 二十年以上前、イディンの西方では時折それが行われていた。ローティを片端から捕え、まず耳飾りのある者だけを解放する。次に無い者の内、親戚や知り合いのある者は呼びつけ、耳飾りを作らせた上でこれも解き放つ。最後に残った者は薬を飲まされた。命には別条ないが、ただ高い熱だけが五日ほど続く。そして熱の下がった後、解放された。フィノム――不妊のローティの印をつけられて。それによって為政者達は、『呪われた者』の数の抑制を図ったのである。

「エナムスは、成長期にこれに捕まったと言った。彼の印は右の掌に刻まれたが、小刀で消したそうだ」

 アシェルは、エナムスとの最初の挨拶で差し出された、掌の傷跡を思い出した。古傷はすでに厚く皮が覆っていたが、心の内のそれはいつまでも癒されることはなかったのだろう。

「だから……クルトがエナムスの子であるはずがないのだが」

 タニヤザールの呟きに、アシェルが応える。

「クルトは、親方の歌です。親方が生きるための力……生きる証しでした」

 だからそれが潰えた時、残されたものは彼自身である呪いしかなかった。

 でも――と若者は顔を上げた。

「親方は呪いは解けると……望みを持ち、願いました。そして、イディンは応えた」

 青い双眸が、暁の祝福を想起する。

「――竜は来たんです!」




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