3.告白
<旅程>
32日目 深夜
エルシャロン
大風が遥かに吹き進んでいく。その音を遠くに聞きながら、カラックは足元のタニヤザールへ這い寄り、再び首筋の脈を探った。最初は何も感じられなかったが、やがて遠くから確かな律動が戻り、直に小さい呻きと共に鼻と口から息が漏れ出た。弟子は顔一杯に安堵を浮かべて白銀の頭を抱き締めると、すぐさま立ち上がって走りだした。
今日何度も通った場所を駆け抜けた先に、調達人の見習いがぼんやり立っている。
「アシェル!!」カラックは若者を長い腕を巻きこむように抱き、勢い余ってぐるぐる回った。「もう何が何だかわからんが、そんなことどうでもいいや! うまくいったな、こん畜生! この野郎!」
半ば気のふれたような高い笑い声を上げて、赤毛をがしかしと撫でまわす。
「もう心配掛けやがって、まったく! 俺一人生き残ったって……」
「元締」見上げる見習いの頬に、涙の跡が一筋残っている。「……これで、もう大丈夫です」
アシェルは薄い笑みを浮かべるとヴァルドから離れ、周囲を見回した。竜の名残りの中に筋切の山刀を見つけ、拾い上げて走り出す。カラックも後を追った。
息を吹き返した竜騎士はすでに起き上がり、負傷した調達人を抱き抱えていた。その傍には、やはり死から戻った竜使いが身を屈めている。息を弾ませ駆け戻ったアシェルは、沈んだ顔で筋切を覗きこんだ。エナムスの意識は戻っているようだ。
「親方」
見習いが声を掛けると、彼は視線を向けた。
「……竜はどうなった?」
若者が頷いて囁く。
「俺が……剣で殺しました」
エナムスは目を見張った。
「大したものだ……」片手が上がってアシェルの頬に触れる。「可哀そうに……これで“竜殺し”になってしまったな」
その言葉に、竜騎士達と竜使いは互いに顔を見合わせた。
「いいんです。初めてではなかったですから……親方」若者は頬に寄せられた手を取ると、エナムスの目を真っすぐ見詰めた。「……ブルブランで、俺が襲われることを知ってたんですね?」
親方は悲しげな笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「……ああ」
「アムダルカの村人がゴンドバルと知ってましたね?」
畳みかけるような問いに、目を閉じ、再び頷く。
「……ああ」
アシェルは握り締めた手を震わせ、その指に唇を寄せた。小さく息をついたエナムスは目を開き、彼を支えている給仕長を振り仰いだ。
「親父殿。あんたの『給仕』を手にかけた」
頬を強張らせたものの、タニヤザールが頷く。
「名前は?」
「イブライ……」
「確かに『給仕』だ」
「……すまない」そこで筋切は若者と給仕長、ヴァルドの男へと順に視線を回して言葉を続けた。「……イクスミラレスで……アブロンを殺した」
息を呑んだ三人は、茫然と彼を見下ろした。
「なぜお前が……?」
給仕長が先を促す。エナムスは再び小さな息をついた。
「あの瞬間まで、その気はなかった。だが……別れ際アブロンが背を向けた時……急に胸が凍った。あれは……」彼は目を閉じ、苦しそうに顔を歪ませ頬を震わせた。「小さなクルトの冷たさだった。俺の腕の中で死んだ……俺を『父ちゃん』と呼んだ、あの子の……」
「アブロンへ復讐したのか?」
タニヤザールの質問に、カラックが顔を上げる。視線が合うと小さく頷いたので、思い当たることがあるらしい。
「アブロンを恨んではいない。いや、いたのか……」エナムスは首を振った。「アブロンと……イディンの栄光と誉れを帯びる竜騎士を。呪われた者にすら、怒ってはならないと言うあの歌を……」
「歌……『竜の歌』……」
カラックはぼんやり繰り返し、先ほど聞いた『逆の歌』を思い起こす。
――竜は去った
「生きても……死んでも、呪われた者には竜はいない……来ない」その歌詞を知っているかのようにエナムスは呟いた。「だから、俺は怒ってたんだろう。怒って……刃を『竜騎士』に向けた……」
淡々と明かされる言葉に、タニヤザールが眉をきつく寄せる。
「お前が殺したのは『竜騎士』か……?」
問いかけられた筋切は顔を上げると、正面から銀の目を見据えた。
「そうだ、親父殿。いや……『竜騎士タニヤザール』!」
微かな緊張が走る。しかしエナムスはすぐに視線を外し、手を握り続けている見習いに向けた。
「俺の呪いは解きようがない……」
アシェルは握った手を頬に寄せたまま、強く首を横に振った。
王宮の建物や空中船の中から、人々が姿を現し始めた。真っ先に駆けつけたファステリアの護衛長が、負傷したエナムスを見ると医者を呼ぶよう部下に指示し、ラスタバンの面々に問いを向ける。
「夢見の竜は……あの竜の呪いをどうやって?」
「彼が解いた」タニヤザールは、親方を見守り続けている若者を目で示す。「うちの調達人見習だ」
「……調達人?」
面喰った護衛長に、給仕長はステージの向こうの広場に腕を伸ばした。
「あちらに二組の竜の心臓と竜石があるはずだ。竜法院支局の者を呼んで、記録を取ってほしい」
その間にも医師が駆け付け、エナムスの傷を子細に診る。竜から受けた傷だと聞いて険しい表情を浮かべたが軽く息をつき、呪いの傷ではないようだが、いかんせん深すぎると、首を横に振った。
担架に乗せられた怪我人に、タニヤザールが話しかける。
「エナムス。お前はもう、もたない。だが、いろいろ聞かねばならないことがある」
聞いたヴァルドが眦を決した。
「おい! それはないだろう!」
「……いいんだ、元締」筋切は彼を止め、給仕長に頷く。「なんでも話す……自由にしてくれ」
握っていたエナムスの手がアシェルから離れ、担架が王宮の建物へと向かった。運ばれていく怪我人に気付いた人々が、ひそひそと囁き合う。それをずっと目で追っていた見習いは、苦しげに息をすると、たまらず駆け出した。
「親方! 親方!」
建物の入り際に追い付いて担架に縋りつき、ぼんやりとした怪我人に必死に呼びかける。
「親方! 呪いは必ず解けます! ……解けない呪いは無い!!」
強く注がれる青い瞳を見上げている内に、エナムスの中にその言葉が入って行った。澱んだ目に、洗われたような光が宿る。
「……俺の呪いも解けるのか?」
アシェルが放つように頷いた。
「はい……!」
筋切の頬が微かに震える。
「俺に……竜は来るのか?」
若者の唇はしばらく閉じられたままだった。やがて、はっきりと言葉が語られる。
「……魂よ、望み願え。
望み願え、魂よ。」
――望み願え……
「……俺の望みを……お前が願ってくれるか?」
エナムスは自分の望みを、この時初めて知った。絶望の中持つことすら無意味だったものが、彼に初めて願いを持たせた。
「はい!」
アシェルは薄い笑みながら強く答えると、エナムスの震える唇に口付けし、寄せた頬を合わせた。
「俺が願います」
担架が廊下の奥へと運ばれて姿を消す。見送ったアシェルは、再び整理と片付けに忙しい会場に歩を向け、所在なく立ちつくす竜使いの娘と目を合わせた。
「戻ってきたね」
オフィルが唇をかみしめ銀の目を伏せる。
「あなた……本物の“竜殺し”だったのか」
「うん」
短い返事と共に真っすぐな青い視線を注がれて、竜使いは苦しげに喘いだ。
「私は何をしたんだろう……竜を使えると思い込んで……こんなことになるなんて」
「これだけじゃない。こんなもんじゃない……君のしたことは、もっともっと大きい」
アシェルの口が、厳しい裁きのように告げた。
「見えない所で他の人の運命を大きく狂わせたんだ。エナムス、マルキウス、イブライ……君の知らない者達だ。けれど、君の言葉で取り返しのつかないことになった」低い声で宣告する。「君の言葉のせいだ」
オフィルの下顎が激しく震えた。きつく閉じられた目が、にじむ涙を堪える。
「俺達が竜を使うんじゃない。俺達は竜を使えない。もともと俺達には何の力もない」アシェルの手が上がって、黒い巻き毛に触れた。「言葉の力は竜から来る。力は竜のものだ……それを忘れてはいけない」
俺達はただ――と続ける。
「望み願うだけだ」
竜使いがはっとして目を見開くと、若者の頬笑みがあった。
「十年前はありがとう。君の言葉のお陰で逃げられた」
あ――という形にオフィルの口が開く。
――あの子だ……
「これがその『逆の歌』か」
カラックの書きつけた文字を目で追いながら、タニヤザールが呟いた。アシェルがどのように夢見の竜を倒したか訊かれ、忘れないうちにとヴァルドが歌を文字に起こしたのである。
「『竜の歌』で来た竜によって与えられた栄光と誉れが失われ、呪われた者となり、竜が去るのか……まさしく『逆歌』だな」
「でも、俺にはさっぱりわからねえ。『その身を捧げよ』とあるのに、死んだのは竜の方だ」カラックは腕を組んで唸った。「あいつも竜も一切合点のいった納得ずくみたいで……俺の方が悲鳴を上げちまった。あんなのは、二度と見たくない」
見たくないどころか当事者である若者が、これが初めてでないと言ったのを、タニヤザールは聞き逃していなかった。竜の心臓をもたらすことで、竜騎士の亜流と見做されていた“竜殺し”だが、その性格は全然違うのかもしれない。
――いや、完全に違う。
カラックの言う内容からは、闘いの陶酔はどこにもない。それどころか、この意味するところは。
――断罪だ。
「私とお前とで解決の付く問題ではないな……たぶん、竜法院に激震をもたらす代物だ。下手をしたら、イディン法も揺らぐ」
竜法院は最高学府である以上に、イディン法を以て大地を司る総本山であった。最高会議の決定事項は、あらゆる国々の法に勝り、これに敵対する者は大地に仇為すと見做され、断罪の呪いの元に置かれる。その権威のすべてはイディン法に依っていた。これが揺らぐ事は、世界の根底が揺らぐに等しい。
弟子が驚きに目を瞬かせていると、臙脂のガウンをまとった人物が、せかせかとした足取りで近づいてきた。給仕長に目を止め、満面の愛想笑いを浮かべる。
「これはタニヤザール閣下! お呼びいただいて恐縮です。竜法院支局、記録係のティンデルと申します」これも臙脂の帽子をかぶった頭を、深々と下げる。「またも竜を狩るとは素晴らしいですな。ええと、これで九つ目になりますか。いやいや二つですから……」
「いえティンデル殿、二つとも私ではありません」そこで給仕長は調達人の見習いを呼び寄せ、弟子と並ばせた。「今回はこの二人、こちらが業火の竜を倒した竜騎士、こちらが夢見を倒した竜殺しです」
「――“竜殺し”ですと?」
ティンデルは胡散臭そうに二人を見遣った。片やどう見ても平民のただの若者だし、もう一方は、背は高いが騎士の片鱗さえない得体の知れない男である。しかし名高い竜騎士が満足そうに紹介するので、仕方なく記録用紙とペンを取り出した。
「ええ、ではあなたから」とアシェルに向かう。「お名前と……できれば出身を」
「あ……その」見習いは両手を前で揉み合わせ口ごもった。「アシェルです。シーリアのアシェル。出身は……」
船長と船の名前を続ける。
――シーリア!?
記録係のペン先は、もう少しで引っ掛かるところだった。
――外の者!
内心大いに怪しみながら、とにかく言われた船長と船名を書き、綴りを見せて確認を取る。
次に、ではそちら、と言い終わる前に、カラックがぞんざいに言い捨てる。
「ヴァルドのカラック! 出身はセイル・ガシュ!」
セイル・ガシュはヴァルドの東長が本拠地にしている村である。
――ヴァルド?
ティンデルの眉が寄せられ、タニヤザールを振り返った。
「失礼ながら、この方は本当に竜騎士なのですか? 大体、外の者の公認騎士は余り聞いたことがありません」
「おや、全く無いわけでないでしょう」タニヤザールはにこやかに、痴れっと言った。「良いじゃないですか。果仕合相手の竜騎士の私が保証しているのですから」
「閣下が……ですか?」
驚きに硬直する記録係に、竜騎士は優雅に頷いた。そこへファステリアの護衛長が来て、エナムスの一応の処置が終わったことを告げる。タニヤザールは表情を引き締めると、護衛長に謝意を伝え、元締と見習いを振り返った。
「今夜は空中船へ行って、部屋を取ってもらうといい」
行きかける彼を、アシェルが呼び止める。
「終わったら、その……呼んでいただけますか?」
タニヤザールは微笑んで頷いた。再び歩を進めようとして、今度はヴァルドが大きな咳払いをする。
「えへん!!」
一同注視の中、帰り仕度を始めていた臙脂の帽子に近づいた。
「ちょっとティンデルさん。済まないが、もう一個名前を思い出したんだよ。こっちも書いておいて貰えないかな?」
「はあ? 思い出したって、あなた。御自分の名前でしょ? 忘れていたんですか?」
「まあ、よくあることだろ? ほら、長い間使わなかったら、あるのも忘れるってのが」不満そうな記録係の肩を叩いて、カラックは強いて記録用紙を再度用意させた。「えへん、と。いいかい?」
「はいはい。いつでもどうぞ」
ティンデルは憮然としてペンを構えた。
――全く何をもったいぶって!
「ええ、カ、カリオン……」
カラックは眉を寄せて、記憶の奥底から掘り起こすように、頼りなく言葉を綴った。
「カリオン・エル……じゃない。エリ…でもない…エス……」喉から唸りが出て、頭をガシガシと掻く。「やばい、マジに忘れた」
「……『エニヴァル』だ。馬鹿者」
銀の竜騎士が口を挟んで囁く。
「そう! それ! カリオン・エニヴァル……」指を鳴らして、彼へ顔を向ける。「……タニヤザール」
ネヴィド・アシュタル・タニヤザールは、目を見開き唇を震わせた。大股に歩を進めて近寄ると、両腕を広げ、もう一人のタニヤザールを抱き締めた。記録係は目を丸くしてペンを止め、見習いと護衛長は唖然として立ちつくす。照れくさそうに抱擁を受けるカラックと目が合ったアシェルが、くすくす笑った。
「なんだ、そっくりじゃないですか……ねえ?」傍らの護衛長に同意を求める。「髪の色や顔は全然違うのに、体つきが全く同じなんだ」
「御子息でしたか」
護衛長も頷いて、笑みを返した。
珍しく去り難い未練の眼差しの給仕長を、カラックは片手をひらひらさせて見送った。
「はいはい、しっかりお仕事してください」そこで景気良く鼻息を漏らす。「ふん、そうそうに言ってやるもんか」
「何をです?」
アシェルは小鳥のように首をかしげて、元締を見上げた。
「だからさ、『父ちゃん』とか『ちちうえ』とかさ……この野郎、何を笑ってやがる!」
見習いの頭をぽかりとして、包帯が巻かれていることに気付き、慌ててその顔を覗きこむ。
「すまん! 大丈夫か!?」
屈みこんだアシェルが、頭を抱えて悲痛な声を上げた。
「痛いです……頭が割れるようです」
ヴァルドの男は眉を八の字にしてうろたえ、見習いの前に屈んで背を示した。
「そら、乗れ。医務室に連れて行ってやるから」
焼け焦げた服の背中は随分と汚れていたが、アシェルは躊躇なく身を預けた。まるで重さが無いようにカラックは軽々立ち上がり、空中船へ足を向けながら呟く。
「イズレエルなら、身内だから遠慮はいらないからな」
小走りに進む震動に身を任せていると、気持ちよさに眠くなってくる。竜の声を聞き、張りつめてきた心と体が、全ての役割を終えて休息を欲していた。
――でも、まだだ。まだ、しなければならないことがある。でも……
「アシェル」カラックが話しかける。「頑張ったな。あんな親方じゃ大変だったろう?」
「……いえ」見習いは焦げ臭い背で、首を横に振った。「俺は守られてばかりでした」
空中船イズレエル・ガレの通用乗船口で、カラックと顔見知りの船長ノーラと出会い、たいした手間も掛けずに医務室へ案内された。温厚な老医師は、アシェルの頭と頸の包帯を取ると小さく唸り、汚れを取り消毒をしながら傷の付いた経緯を訊ねた。
「額の方はきれいに縫ってあるし、化膿もしてないから問題ないが……頸の方は、もう少しずれていたら危なかったな。運が良かった」
「いえ、ちゃんと考えてました」医師が片眉を上げるのに、アシェルは首を振った。「命にかかわらないように、気をつけていてくれました」
「……そりゃ、相当な腕が無いとできんぞ。襲ったのは外科医か?」
老医師が怪訝そうに訊くと、若者は悲しそうに目を伏せた。
「わかりません。でも、優しい人です。これ……」懐を探って、粉薬の入った小瓶を取り出す。「飲む化膿止めだとくれたんです。お陰で先生の言う通り、化膿してないです」
医師はそれを受け取り、矯めつ眇めつ眺めてから、蓋を取り、臭いをかぎ、指先に撮った少量を舐めた。眉を寄せて大きく唸る。
「もし君の話が本当なら、それが誰か聞かねばならん。こいつは……」難しい顔を見習いと元締に向ける。「先日、竜法院薬師局が開発したばかりの新薬だ。まだ、研究室から出ていないはずなのだが」
アシェルと顔を見合わせたカラックが、眉を寄せて訊いた。
「イブライか……?」
若者が頷くのを見て医師に言う。
「先生、そいつは給仕長に訊いてくれ。俺達には答えられない」
「タニヤザール?」老医師は身を反らし、禿げ頭を掌で撫で上げた。「そっち方面か。いくつになっても、竜法院を引っかき回す奴だ」
更なる爆弾を抱えた彼が、将来起こすだろう悶着に、カラックは内心苦笑した。
処置を終えた医師が、引き続き空になるまで飲み続けるようにと小瓶を返し、医務室を出ようとする二人に最後の声をかける。
「ここを出たら、すぐに風呂にはいりたまえ。そこの若い君は、湯船は無理だから固く絞った手拭いで体を拭うように。けれど、元締! あんたは全身さっぱりさせろ! 鼻が馬鹿になって気付かないだろうが、もう焦げ臭くってたまらん!!」
ファステリアからの伝言を受けたセヴェリは、早足で調達人達にあてがわれた部屋へ向かった。ゴンドバルの陰謀が頓挫し、周囲は安堵の中にいるが、彼の心には大きな屈託が残ったままだった。目当ての扉の前に立ちノックをすると、すぐにそれが開かれる。いきなり目に入った白いシャツに、ぼんやりしていた頭が混乱して、思わず言葉が口をついた。
「給仕長……どうしてここへ?」
が、見上げてみると、顔は似ても似つかない人物だ。眉を上げたカラックが訊き返す。
「タニヤザールからの連絡か?」
「あ……はい」青年は漸く己の使命を思い出した。「……事が終わったので、お二人に来るようにとのことです。乗船口にファステリアの案内人が待っています」
奥に寝ていた若者が起き上がり、二人はセヴェリに謝意を伝えて小走りに去っていく。その後ろ姿を青年は呆然として見送った。シャツは平服であったが、ズボンは明らかに給仕長の礼服であり、何故彼がそれを着ているのか分らない。というより先に、給仕長特注サイズに合う人物がいること自体、信じられなかった。
ファステリアの案内人の元、警護兵が二人立つ扉の中へ入る。薬湯の匂いが充満している寝台の上に、エナムスの血の気の失った顔があった。数時間合わなかっただけで、その頬はこけ、目は落ち窪み、様変わりの激しさにアシェルは息を呑んだ。枕元に立っていたタニヤザールが若者に来るように合図し、自分は入れ替わりにそこを離れる。彼と視線の合ったカラックは、嫌悪の表情を浮かべて囁いた。
「強い気付を使ったな……」
「言うな。エナムスが望んだことだ」給仕長は不機嫌に囁き返すと、寝台傍の若者に言った。「間もなく安送薬を投薬する」
肩越しに振り向いたアシェルは微かに頷くと、再び寝台に目を落とした。
「……親方」
小さな呼びかけにうっすら開いた目が、若者の青い瞳に気付いて微かに笑う。
「親方……苦しかったですか?」
「いや、今は……望みがあるからな……なんということはない」
この有様にして否定できるのは、裏を返せば、この男のそれまでの苦難がいかに深かったかを示していた。乾いた唇から洩れる擦れ声が続く。
「お前が……竜を願ってくれるからな……」
しばらく枕元を見下ろしていた見習いが、唇を歪めて頷いた。
「ええ……解けない呪いはありません……ないはずです」
同じ言葉が、今度は力無く苦しげに囁かれたが、エナムスに気付いた様子は無かった。ただ、これを聞いた二人のタニヤザールが眉を上げ、互いに視線を交わす。
一度目を閉じると見習いは肩で深く息をつき、体を屈めて更に語りかけた。
「俺、親方に言い忘れてました。イクスミラレスでのこと」
背後で眉を寄せたカラックが顔を上げ、エナムスは僅かに首を振った。
「お前が言いたくなければ、それでいい」
「いえ、大したことではないんです。でも、やっぱり親方には言わないと……」アシェルは寝台脇に膝をつくと、筋切の傍に顔を寄せた。「マニーへの土産を買っていたんです。いいカメオを行商人が持っていて……夕方買いに行ったら、すっかり酔っていて、醒めるのを待っていたら夜が明けてしまいました」
カラックは目を瞬かせた。何とも間抜けな理由だが、わざわざ偽る理由もなく、この見習いならあり得ると納得する。エナムスも喉奥でむせる様な笑い声を上げた。
「……本当に……大したことが無いな」
そこで筋切が身じろぎしたので、アシェルは毛布を上げ彼の手を取った。引きあげてその頬に寄せるのを見ながら、エナムスが呟く。
「……マニーによろしくな。一度会いたかったと伝えてくれ」
側にいた薬師が目で合図をし、タニヤザールは頷いた。アシェルには見覚えのある緑の液体が入ったガラス管が取り出され、その先に針が付けられる。もう嚥下のできないほど体が弱っているので、血管から直接注入するのだ。これが最上級の処遇だと若者には分かっていた。
そろりと近づいたカラックに、エナムスが気付く。
「よう、元締」ヴァルドを眩しそうに見上げる。「……凄いな。竜騎士だったのか……伝説持ちのはずだな」
元締は口をへの字に曲げると肩をすくめた。
「半分嵌められたんだ」
「そんなことを言うな。凄かった……」エナムスは目を閉じた。「あれが竜騎士なら……なにも言えん」
凄いな――と再び呟き、大きな息が口から漏れた。話している間にも処置は進み、緑の液体が彼の腕に刺した針から注入される。もうすでに彼の体も限界だったのだろう、薬が効き始める前に、エナムスは眠りに落ちた。
浅い、ゆっくりとした呼吸が始まる。それを見届けると周囲の人々は退出を始め、静かに、一人また一人と部屋を出て行く。アシェルは立ち上がり、エナムスの顔に手を差し伸ばした。愛しむように、唇、鼻、頬、目と指で追い、額まで来ると掌を当て、しばらく目を閉じてそのままでいた。
やがて顔を上げて震える唇を引き結び、体を返す。肩越しに最後の一瞥を送ると、給仕長と元締の待つ扉へと向かって行った。
廊下には、真っ青な長衣を着た竜使いの娘が待っていた。扉を閉じ、その取っ手に銀色の紐を結んだ後、見守る三人に言う。
「ファステリアでは、その時まで部屋の扉を竜使いが守ります。中の方に竜が来るよう願いながら……」
アシェルが驚きの目を向けたので、娘は頷いて青い衣を両手で示した。
「これは蒼天の大路です。竜の来やすいように、竜の通り道です」銀の目を上げて、若者に注ぐ。「あなたはあなたの場所で、願ってください」