2.怒りの日
<旅程>
32日目 夜
エルシャロン
人々は一斉に月を見上げた。その白光の中に、更なる輝きが翼を広げたように瞬いている。それまで避難しそこねた者達が、今度こそはと足を早めて王宮内へと入って行く。タニヤザールは、王弟をセヴェリや彼の安全を思い起こした近習達に任せ、ファステリア王と共にその場を去らせた。その際王子がまた首を振ったが、今度は父親の強い命令にあって、従わざるを得なかった。
「センセーは、行かないのかい?」
体の発光が収まったカラックが、大股に近寄りながら訊いた。
「イディン一の竜騎士が引く訳にはいかないだろう?」タニヤザールは顎を反らすと、弟子に微笑んだ。「よく闘ったな」
カラックははにかんだように首をすくめ、そうだ、と言って懐を探った。
「竜石を返さないと」
取り出した石を見て二人は顔を見合わせた。全体に細かなひびが入っており、持ち主の手に置いた瞬間、それは崩れて粉々に砕けた。
「ああ、そうか……」タニヤザールは小さく憐れみの笑みを浮かべ、ポケットからハンカチを取り出すと丁寧に包んだ。「済まなかったな」
不思議そうに見ている弟子に気づいて頷く。
「お前も直に分かるようになる」
彼らの傍をエナムスが目礼をしながら通り過ぎ、見習いの元へと向かった。その背を目で追い、カラックが眉をひそめる。
「二人とも血の臭いがぷんぷんだ。特にエナムスが……」顔をタニヤザールに戻して問う。「何があった?」
「分からん。私も今会ったばかりだ」こちらは、月を振り仰いでいる若者と竜使いに視線を向ける。「あの二人が知り合いとはな。どこで会ったか見当がつくか?」
「俺にもさっぱりだ。どうやら別れて、この二、三日の内に何かあったらしい」カラック達も再び月へ目を上げ、感嘆を漏らした。「また今度は、大きさが特大級だぞ。あれと闘う事になったら面倒だぜ」
彼の言葉通り近づいて来るのは、尋常な大きさの竜ではない。駆け寄ったエナムスと見習いも共に茫然と竜を見上げた。自然と山刀に回された筋切の手に気づき、アシェルがその腕を強く掴む。
「だめだ、親方。行こう、ここにいちゃだめだ……」
見習いは懇願するように腕を引いたが、エナムスは動こうともせず、竜に留めた視線を離さなかった。
彼らの息を飲む中、夢見の竜は銀の滴を瀑布のように煌めかせながら、庭園の広場に降り立った。その頭の高さは、王宮の三階の窓に達しようか。
「……でけえ」
カラックは再度唸った。
地に足をつけた竜が、暫く何かを探すように長い首を揺らめかせる。やがて、月色の眼差しが地の人間へと向けられ、彼らの上を一巡すると、エルシャロン全ての者の上に重い眠りの帳が降りてきた。エナムスが喉奥で苦しそうに呻いて膝をつく。彼に縋りついていたアシェルも、闇の深みに引き込まれていった。
* * *
笛をふくと竜が面白いように動いた。好奇心に満ちた黄色い目が、その音をきくと嬉しそうについて来る。
皆が言う。
――オフィルはすごい。
――オフィルは竜使いの天才だ。
では、あの子は何だったの?
笛も無く竜が喜んでいた赤毛の子。
――だめ! だめよ! その子を追わないで!
大人達はあの子に石を投げた。灰色の肌をした人と村から出され、みんなが追って、その後どうなったか分らない。
訊いても誰も答えなかった。
『竜殺し』?
あの子が?
竜の前でただ笑っていた子が?
あの子になりたいと、こんなに思っているのに!!
* * *
――おねむの精霊がきたよ……
子どもが指差した先に、灰色の影と暖かそうな橙色の灯が近づいてきた。
カンテラを持ち、馬橇を引いていた偉丈夫。
――ローティの親子か。すまん、橇は一杯なのだ。いや、子どもだけでも無理のようだ。乗っている貴族は、お前達が近寄る事さえ否む……悪く思うな。
そうして白魔の中に消えて行った。
この年、イディン中に飢饉が襲った。雪が遥か南の国にまで降り、北国ではすべてが凍りついた。しかも無理をして負った怪我に、筋切の生計の道が断たれる。ただでさえ食物の無い中、役立たずのローティに施す者はいない。
小さなクルトは、彼の腕の中でやせ細った。
少しでも南へと山越えの最中、吹雪に見舞われ動けなくなった。
――父ちゃん……歌って
細い声でせがむのを、一杯に抱きしめてそれに応えた。
暗くなり雪が止んだ。
風に流れる雲の間から、こぼれ出る星々。凍る幾千もの光が容赦なく身を貫いた。
それでも歌い続けた。力のすべてを注いで歌を紡いだ。腕の中の魂を満たすために。
東の空が白み、稜線が浮き上がってくる。黄金の光芒が彼らを照らした。
暁の赤と金の光の乱舞。
天が開けたその時、小さな体は息絶えた。
世界は、栄光の輝きの中にあった。
その名を何度も呼んだ。
必死に痩せた体をこすったが、一度凍えた体は元には戻らなかった。
長く抱きしめても、冷たさだけが胸の中に染み透ってきた。
突き抜けるような深い蒼空の下、雪を掻き分けて固くなった体を埋めた。
薄い色のまつ毛に、雪の結晶が微かに光ったのを覚えている。
外すべき耳飾りはない。フィノムの宿命だった。フィノム――永劫にイディンを彷徨い追われる者。
暁の美しさと遥かな蒼天の下にあっても、満ちる憐れみと祝福の外に永遠に置かれる。
生を許さない厳寒の中で、聳え立つ限りなく美しい白い峰々。
空の藍は底知れず、竜が彼方に飛んでいるのが見えた。
谷から上がってきた風に、目印として置いた小さな上着の裾がはためく。
この時――
それまで凍っていた心が一挙に溶け、その口から叫びがほとばしる。
持てるすべての怒りをこめた慟哭――
己を、人々を、生き物を、空を、山を、大地を、暁を、蒼天を、
そして――イディンを、竜を
――エナムスは呪った。
* * *
自分の叫びで目覚めた。体中から汗が噴き出し、肩で大きく息を付いていた。 心に溢れた荒い想いが顔を歪ませ、噛み締められた顎が震える。
エナムスは、よろめきながら立ち上がると、竜を振り仰いだ。
「……なぜ、思い出させた」
竜が長い首を巡らせて、こちらを見下ろした。白く輝く眼を向け、喉奥の唸りが始まる。それを真正面から受けながら、エナムスは声を絞り出した。
「やっと奥底に収めたものを……どうして表に引き出すんだ」
アシェルが意識を取り戻した時には、筋切は腰の山刀を引き抜き、巨大な竜めがけて歩を進め始めていた。
「自分の事は分かっている。生も死も呪いで満ち……逃げることができないくらい」足の運びが次第に早くなり、山刀の切っ先を竜に向ける。「……それでも! 生きなければならず、生きるためには、抱えていられないこともある! それを!」
竜の双眸がエナムスの動きを追い、唸りと共にこぼれ落ちる白銀の煌めきが増す。
「親方! やめて!」
身を起こした若者は、必死にその後を追った。
筋切は今や全速力で相対し、その怒りを正面から思いの限りぶつけた。
「忘れなければ、どうして解けない呪いの中を生きていける!? なぜ来た!? なぜ俺の前に現れた!? 俺に何をさせたんだ!?」
叫びと共に山刀を握る腕が大きく後ろに引かれる。
「親方!!」
見習いが追いつく寸前、腕が一閃し、山刀が竜めがけて放たれた。
竜の凄まじい叫びが上がる。
その咆哮に眠りから覚めた竜騎士達と竜使いは、苦しそうに頭を揺らしている竜を振り仰いだ。真っ赤になった巨大なその目に、山刀が握りの元まで深々刺さっている。
残った眼が憤怒の光を湛えて筋切を捉えた。しかしエナムスは怯まなかった。怯む理由がなかった。生きるのに抱えきれない苦しみを負って、これ以上呪いの道を歩む力はないと思ったからだ。
彼は最期の絶望を、竜に注いだ。
突然、眼前を覆う暁の光。
竜の白光が、赤と金の煌めきとなって視界一杯に乱舞する。
「……親方」
耳元で囁かれたのは見習いの声だ。暖かい息が首筋にかかり、厳冬の稜線に佇むエナムスに吹き下ろしてきた。それは、あの河での死の淵から己を呼び戻した命の息だ。目覚めた目に映った色――光。暁の輝きと蒼天の青。
それは、かつて彼自身が呪ったものだった。――竜の玉座、竜の大路。
若者の声が更に降りてくる。
「呪いは解けます……必ず解ける。解けない呪いは無い!」
それは今まで聞いたこともない言葉だった。理解することは叶わなかった。何を言っているのか意味すら分からない。
ただ――あのウリトン川での夢見の竜との最初の出会い以来――いや、この若者との最初の出会い以来、それまでのエナムスにとって、考えられない出来事の数々が思い起こされた。
大王牛のことにしても、浮き岩台地の出来事にしても――お前らしくないと言ったのは、カラックかマルキウスか。
『親方』と呼ばれる、その一声一声を、自分の心がどれほど喜んでいたか。
そして、胸にあの冷たさが蘇った後にさえ、自分は笑ったのだ。心の底から――笑うことができた。
呪いの下にある身が、忘れるほどの絶望を抱えて、これほどの不思議があるだろうか。
そこで漸くに気付く。この若者が、彼にとって奇跡そのものだということに。
エナムスは右手を上げて、彼を正面から抱きしめるアシェルの髪に、指を梳き入れた。頬をそれに寄せ、小さく息をつく。得物を投げて以来、止まっていた呼吸が戻ってきた。
しかし憤る竜の目には、彼の呪いの山刀が深く突き刺さったままにある。
その時、三台目の重機兵の上部入り口で、竜によって眠らされた兵士の体が大きく揺らいだ。そのまま操縦席へと落ち、入力鍵のまだ抜いてない重砲の発射桿に、その腕が当たる。
砲口が白熱し、火球が放たれた。
空気が短く鳴り、閃光と爆風が轟く。
再び竜が咆哮した。だが、聞く耳を圧し大気が砕ける程のそれは、前の比ではなかった。
衝撃に地に投げ出された調達人達が見上げる前で、巨体が大きくよじり、尾が弧を描く。光の滴を振りまきながら首が宙に揺らぎ、苦痛の叫びが天を引き裂く。その翼は醜く焼けただれ、背中の肉は深くえぐられていた。
のたうつ前肢の鉤爪が一旦上がり、剣のように斜めに振り下ろされる。それが目前に迫るのを捉えたエナムスは、起き上がりかけた見習いを突き飛ばし、素早く体勢を整えた。構えようと反射的に腰の後ろに手を回したが、握るべき得物は無い。一瞬の混乱に動きが止まる。
振り向いた彼の胸元を、白銀の輝線が切り裂いた。
「エナムス!」
叫んで駆け出したカラックの後を、タニヤザールは大剣を片手に追った。長身の竜騎士達が人とも思えない速さで走り寄ると、見習いが朱にまみれた親方の上半身を抱きあげ、悲鳴のようにその名を呼んでいた。
「親方! エナムス親方!」
一方苦しみの悶えの中にあった竜の目にも足元の出来事が映った。残された真紅の眼がひたと彼らを捉え、再び前肢が上げられる。
「カラック、急げ!」
言われるより早く、弟子は有無を言わさずアシェルからエナムスを引き離した。咆号の一声を上げてその肩に担ぎ、竜の間合いから逃れようと駆け出す。タニヤザールも自失状態の見習いの手を取り走りだしたが、目の端に竜の鉤爪が入ると、顧みざまに大剣を抜いた。
カラックの背後で、裂帛の掛け声と重い剣戟の音が響く。振り返りたい思いを必死に押さえ、ステージを跨ぎ越した先には竜使いが待っていた。その足元に下ろしたエナムスの頬を軽く叩き、返ってきた小さい呻きで、少なくともまだある生に安堵する。肩越しに目をやると、見習いの手を取った竜騎士がステージを越えてこちらに向かっていた。
「……あれを受けたのかよ」無事な姿を認めて、思わず悪態が口をつく。「あんただって十分人間外だぜ」
頭の帯を取り、エナムスの体に止血帯代わりに巻きつけた所で、タニヤザール達が戻ってきた。
「……どこかで見た光景だろ?」覗きこむ竜騎士に、カラックが口端を小さく上げる。が、深く息をついて荒れ狂う竜を仰いだ。「あれは、重砲か? いったい何が起きたんだ?」
「わからん……二台目の重機兵が破壊されてから大分経つし、その間イルグが手をこまねいていたとは思えんのだが……」タニヤザールは唸って、腕を組んだ。「業火の竜には無力だったが、夢見には十分威力があったようだな」
「……てことは、つまり?」
困惑する弟子に、竜騎士は眉をひそめた。
「竜が死ねば、その呪いがエルシャロンにかかる」銀の滴を火花のように撒き散らし、首を大きく降っている竜を見上げる。「イディン最大の呪いが、あらゆる死をもたらす」
そりゃ――と、言いかけて、カラックは口をつぐんだ。
西に傾いた半月が赤黒い塊に変わり、崩れた端から闇の空へ溶けて行く。星々も光芒を引いて流れ、一つ一つ確実に消えていった。やがて、竜の真上の彼方に夜空とは明らかに違う暗黒の滲みが現れる。それは禍々しい生き物のように、じわじわと四方を浸食し、全天を蝕んでいった。
タニヤザールは、ふと寄り添う気配で目を脇に落とした。彼の組んだ腕に、竜使いが震える手を掛けてくる。見上げる銀の目が恐怖に捉われているのを見て、彼はその頭巾に手を掛け、ゆっくりと捲り上げた。ほっそりとした黒い巻き毛の娘が、縋るような怯えた目を向けている。竜騎士がその肩を抱き寄せると、竜使いは顔を相手の胸に押しつけて啜り泣いた。
竜の体は今や月色の輝きから、光を全て失わせる暗黒の闇色に沈んでいた。光が一切閉ざされているのに、見えるのが不思議だった。竜は苦しみに身悶え続け、そのたびに尾は大地を叩き、四肢の鉤爪が空を裂いた。
やがて、銀の滴の代わりに忌わしい漆黒が、重い霧のように地を這い始める。それは見る間にステージを越えて流れ来ると、彼らを押し包んだ。最初に竜使いの膝が折れた。落ちる彼女を支えようとしたタニヤザールも、そのまま地へ崩れた。
「え……おい!?」
カラックが驚いて竜騎士を抱き起すと、薄く開いた銀の目が微かに笑う。だが、上げられた手が弟子の頬に向けられた途端、がくりと全身から力が抜けた。愕然として口元に耳を寄せ、首筋の脈を探ったが、何の反応もない。
「え……ちょっと待て、おい!! センセー!」ヴァルドは恐慌を起こして、その耳元で叫んだ。「やめてくれ! 冗談じゃねぇ! ――タニヤザール!! ネヴィ!!」
荒い息で顔を上げると、調達人見習いの上半身が黒い霧の上に浮かんでいて、茫洋とした青い目が竜騎士達を見詰めていた。その口から、低い呟きが漏れる。
「あらゆる者に死をもたらす、竜の呪いです」
カラックの頬が、強張り震えた。
「じゃあ、どうして俺は……俺とお前は生きているんだ?」
若者の顔に、この場に不釣り合いな優しい笑みが現れた。
「元締は、試練の業火を潜り抜けたから……」ゆっくり立ち上がり、竜を仰ぐ。「俺は、これからしなければならない事があるからです」
……として――と続けたが、カラックには聞き取れなかった。
重く流れる暗黒をかき分けながら、若者は竜に向かって歩み始めた。
――しなければならない事がある。
「アシェル!」以前、見習いが言った言葉を思い出し、カラックはその背に声をかけた。若者が振り返る。「……そいつをするとどうなるんだ?」
アシェルは再び微笑んだ。
「竜の呪いが解けます」
弟子は腕に抱く竜騎士に目を落とし、頬に手を触れてから、また顔を向けた。
「……うまくいくのか?」
「たぶん」
「また、『たぶん』か……」
元締が呆れたように呟くと、見習いは頷いた。
「これから何をするのか、知らないんです……すべき事は、竜が教えてくれる。元締」
アシェルの顔に、初めて苦しげな表情が浮かんだ。何か言いかけたが途中で目を閉じ、浅い早い息に肩が小さく上下する。やがて青い瞳が開いた。
「また、会いたいです」
――アシェル。
ヴァルドの口が声を出さずにその名を呼んだが、再び竜に向かった若者はもう振り返らなかった。
暗黒の色をした竜は、弱りながらも依然呪いの咆哮を放ち続けている。
アシェルはステージを越え、先ほど駆け抜けて来た道筋を、真っすぐ戻って行った。彼に気付いた竜が暗い赤い目を向け、咆哮ではなく高い響く唸り声を上げた。四肢を踏みしめて、苦痛に地に伏していた体を持ち上げ、首を高々に伸ばすと誇り高く彼を見下ろす。しかし翼は焼けただれに小さく縮まり、その背は無残な形を晒していた。
竜の正面に来ると若者は足を止め、目を細めた。顔の前に上げた両手を広げ、親指と中指の先を合わせて形を作り、差し出すように高く掲げる。
大きく息をつき、彼は口を開いた。
「聞け、イディンに叫ぶ者よ……これは、竜からの歌」
作られた手の形から、いきなり黄金の光がほとばしった。それは見る間に膨れ上がり、アシェルの全身を包むと、火花を放ちながら竜へと伸びて行く。
遠く離れていても、カラックには彼の姿の隅々まで、はっきり見ることができた。なによりもその言葉に於いては、満ちる大気のすべてに響き渡った。
聞け、イディンに叫ぶ者よ。
これは、竜からの歌。
イディンは叫びに満ちている。
喜び、悲しみ、そして怒り。
人よ、決して怒ってはならない。
イディンの報いは、その身に及ぶ。
怒りは火のように焼き尽くし、
憤りは返る万本の刃となる。
そこには永劫の滅びだけがある。
………
イディンの者なら誰もが知っている、『竜の歌』の冒頭が唱えられる。だが、そこには何の抑揚もなく、感情もない。この歌の間にも光は増し、竜の体を覆っていく。竜がその身を緩やかに震わせた。
そして人よ、震えるがいい。
栄光はイディンより消えた。
誉れはその手より落ちた。
カラックは眉をひそめた。これは『竜の歌』ではない。たしかに替え唄だが、そこには元の高揚する言葉が一つも無い。
――いや、無いどころか、これは……
裸の身に何を覆うのか。
今やイディンに嘆きだけが上がる時。
頭を垂れて、その身を捧げよ。
――何だと……?
「眠れ、宵闇は褥、銀河は夢路……」
閃光が竜の体のここそこで起き、その度に暗闇の皮膚の奥から白銀の輝きが戻ってくる。ただれた翼と抉られた背も、あふれるほどの光の粒が集まり、その形を戻していく。明らかに竜は再生していた。
竜の歓喜がカラックにも伝わってくる。しかし彼の心は重くなるばかりであった。竜の様子に比べ、歌の言葉があまりに暗い。
再び歌が唱えられ、これは一段高い調子で、一気に紡がれた。
イディンは叫びに満ちている。
喜び、悲しみ、そして怒り。
人よ、決して怒ってはならない。
イディンの報いは、その身に及ぶ。
怒りは火のように焼き尽くし、
憤りは返る万本の刃となる。
そこには永劫の滅びだけがある。
そして人よ、震えるがいい。
栄光はイディンより消えた。
誉れはその手より落ちた。
裸の身に何を覆うのか。
今やイディンに嘆きだけが上がる時。
頭を垂れて、その身を捧げよ。
眠れ、宵闇は褥、銀河は夢路。
……
竜の喜びの叫びが上がり、白銀の溢れるほどの閃光が放たれた。それを見届けると、アシェルは頭上で合わせた手を解き、そのまま掌を竜に向け大気に言葉を刻んだ。
「――竜は去った!」
カラックは立ち上がった。竜は元に戻ったが、黒い死の霧はそのままだ。変わらず、白銀の竜から出て止まることがない。これで終わりではない。いや、これから始まるのだ。
何が――と、そこで思い当たる。『竜の歌』の後半は、明らかに竜騎士を歌ったものだ。それならば、その逆を示すこの歌は、何を意味しているのか。
――全ての栄光を失った者……呪われた者、だ。
「……呪われた者?」
そこで、先に引っ掛かった言葉が過る。
――頭を垂れて、その身を捧げよ……
「……捧げよ?」――誰に? 誰が!?
目の前にいるのは、若者と竜しかいない。呪われた者はどちらだ。
――しなければならないことがあるからです……『贄』として。
聞こえなかった言葉が、不意に耳に響いた。彼はそう言ったのだ。――『贄』!
「アシェル!」カラックは叫んだ。「お前! そういうことか! ……よせ! 止めろ!」
駆けだそうとして、足がいきなり動かなくなり前へと倒れた。振り向いた足元には、息のないはずのタニヤザールが彼の足首を掴んでいる。ヴァルドは顔をゆがませ歯を食い縛ると、両拳を地に叩きつけた。
アシェルは両手を上げたまま、竜を見上げている。完全に体の戻った竜は、しばらく首を揺らしていたが、彼に目を止めると、じっと見据えた。喉奥の唸りが再び上がる。怒りの唸りだ。白銀の滴も滝の様に激しさを増し、怒りの強さを示している。若者の両手が下がると共に、体がかがめられる。顔を伏したまま両膝をつき、両手が順に地に置かれた。
竜が天に向かって咆哮する。その勢いそのままに、開けた口の牙を煌めかせ、地にいるアシェルへと襲いかかった。
――喰われる!
カラックは思わず目を背けた。
どれほど時が経ったか。不自然な沈黙の長さに、カラックは少しずつ顔を上げた。
アシェルはまだそこにいた。すでに立ち上がっていて、眼前には竜が巨大な頭を彼に差し出している。その鼻先を両手で撫でる若者の顔には、優しげな笑みが浮かんでいた。と、気がついたように目を上げ、竜の顔を回り込むと、目に刺さったままの山刀の柄を取り、引き抜いた。竜は唸って小さく身じろぎしたが、大人しくされるままにしていた。アシェルが目の傷に手を当てると、光の粒が集まり、みるみる癒されていく。再び竜の正面に戻った若者は、両腕を広げてその顔面を抱き、頬を寄せた。
カラックは安堵した。この様子だと、とりあえずはアシェルの命は無事らしい。
だが、一体これからどうするのかと思った瞬間、ぎょっとして身が竦んだ。
若者が握っていた山刀が、いつの間にか長剣に変わっており、竜の白銀を受けた光が長く刃を滑っている。
大気がいきなり凍りついた。こぼれる滴も動きを止め、瞬かない張り付いたような光だけが目を射る。
アシェルが竜の鼻先に足を掛け、巨大な顔面によじ登り始めた。竜はあくまでおとなしい。鼻の上をそろそろ進んで目と目の間に来ると、両足を踏ん張って立ち上がる。足元は丁度竜の眉間だ。
カラックは呆然とした。何が始まるのかは明白だ。しかし、これで竜の呪いが解けるのか。
「全然逆じゃねえか!」――これじゃ呪いが解けるどころか……!
「アシェル! 何考えてるんだ? お前!」
――いや、あいつは竜がすべき事を教えると言った。だとしたら、これは竜の意志なのか?
「何故だ!」
長剣を両の逆手に握ったアシェルが、腕を振り上げる。その顔には、もう何の表情もない。
剣が下ろされる一瞬、微かに眉をゆがませたが、刃の切っ先が竜の皮膚を突き破ると、全身の力と体重をそれに掛けた。容赦のない一突きだった。深く、更に深くと押し込んでいく。
吠えるような叫びが上がる。
だが、アシェルのでも竜のものでもない。
カラックは、それが自分自身の口からの悲鳴だと気付いた。
天の端から端を、一直線に光が走り、雷鳴のような音が大地を震わせた。亀裂の入った暗黒の空は、そこから割れるように開けて行く。
長剣の刺さった眉間から、竜の体全体が見る間に白銀の細かい粒子に変わっていった。
と、青い光が天頂から真っすぐ落ち、竜に激突した。衝撃に大地がたわむ。圧せられた大気と粒子が、凄まじい大風となって四方に吹き抜ける。澱んでいた黒い霧が一瞬に吹き飛ばされ、銀砂の星々の戻った夜空へと吸いこまれていった。