5.午後の光
タニヤザールは、午前中に空中船の厨房と会場となる王宮屋外庭園へ赴き、最後の確認の後、それぞれの現場責任者に後の進行を委ねた。
昼には夜の宴の警備体制について話し合う。相手は、警護隊長、空中船船長、重機兵長、ファステリアの護衛長。その際、ファステリア側に重機兵配備の許可を求めたが、護衛長が洩らした小さな苦笑をヴァーリックは見逃さなかった。さぞ無粋と思われたろうと忸怩たる思いを抱きつつ、とりあえず宴席から離れた配置場所の助言を受ける。途中、宰相補佐オリガというファステリア情報局の重鎮が、この集まりに参加した。
こちら側もゴンドバルの動きを察知し、密偵を放っているようだが、これといった情報は得られてないらしい。今まで何事も無く予定が進行し、どこを探っても怪しい影が見えないことで、オリガの見解に緊張感は無い。
しかしラスタバンとしては、いきなり三人の者が手にかけられ、内二人が『給仕』であった事実は、楽観視するには余りに重大事だった。つまりゴンドバルは、ラスタバンを利用して事を起こすと見てよい。内部監視を殊更強めるよう警護隊長と船長に指示し、ファステリアに対しては国家機密に触れない限り、どんな小さな情報も提供するよう要請して、この会合は終わった。
ファステリアの面々が退出する折、給仕長は、竜使いの運んできた野竜を事前に見たいと申し出た。そうでなければ竜の臨席は固く辞退するとの主張に、相手は例の苦笑を浮かべて承諾し、じき案内の者をよこしますと告げた。彼らを見送ったタニヤザールが、不満げな表情の警護隊長に顔を向ける。
「体面なぞ気にしている場合でない。突っ込むのに形振り構ってられん」
ヴァーリックは、給仕長が彼なりに突撃に入ったことに気付き、気合を入れた敬礼を返した。船長、重機兵長と共に部屋を出たところで、給仕長付の青年が入れ違いに入ってくる。
「セヴェリ」タニヤザールは、控室に向かおうとした彼を呼んだ。「やはり予定が変わった。お前が給仕頭だ。宴席の給仕の動きを総括しろ。賓客表はもう頭に叩きこんであるな。努めてラスタバンの給仕の優秀さを示してやれ。今から空中船に行って、もう宴席までここに戻ってこなくてよろしい」
青年は「はい」と返事をし、給仕のお手本のごとく、ほれぼれするような礼をした。そのまま退室しようと扉の取っ手に手を掛けたが、心残りがあるのか振り返る。
「……ラウィーザは、まだ連絡がないですか?」
「ない」タニヤザールは銀の煙草入れを開いて、煙草を取り出しながら短く言った。青年がまだ扉に動かずにいるのを見て、手を上げて促す。「どうした、早く行け」
扉を開けると、また入れ違いにおとなう者が、野竜への案内人と名乗った。くわえかけた煙草を元に戻したタニヤザールが、剣立てに置かれた自分の大剣を取り上げると、その物々しさに目を丸くする。通用口に用意された軽馬車に乗り込むと、案内人は竜についてあれこれ説明を始めたが、相手が有名な竜騎士であり、なにより剣を手に無言で前を見詰める眼光の迫力に押され、直に口をつぐんでしまった。馬車は石畳みの道を軽快に進み、間もなく竜使い達が控えている屋外庭園端の広場に着いた。
セヴェリ
タニヤザールは、馬車が止まりきる前に座席から飛び降りた。数人の頭巾姿が注視する中、檻の並ぶ広場を見回し、暗幕の掛けられた大きな檻を認めると、真っすぐ足を向けた。竜使い達が動揺するも、ただ一人、幕の前にいる者だけが彼を見据えて動かない。しかし顔を正面に向けた竜騎士は、その傍を素通りすると檻に近づき、いきなり幕布に手を掛けた。甲高い声が空気を貫く。
「触るな!」
瞬間、周囲の人々の動きが固まる。同じくタニヤザールの手も止まったが、すぐさま振り返り、声をかけた竜使いに向かって激しく言い放った。
「私を呪にかけるな!」
再び檻に向き直ったものの、勢いを押さえるように目を閉じ息を整える。やがて顔を上げ、手を伸ばして暗幕を掴み直した。背後に起こる騒ぎにも構わず、長身の体一杯を使ってそれを引き開くと、幕の留め金が中ほどまで音を立てて外れた。鉄格子の中に現れた赤褐色の竜の背。大きさはさほどではないが、黒っぽい翼が完全な野竜であることを示している。
「止めろ!」
覗き込む竜騎士に、竜使いが今度は身を挺して片腕に縋りついた。
野竜が身を震わせた。ずるりと尻尾が引きずられ、翼の向こうにから首がもたげられる。振り返った目は半眼で、瞳の焦点は合っていない。それでも、竜騎士の銀の眼差しを捉えた時、微かに探るような気配が鈍い光の中に宿った。タニヤザールは腕の竜使いを突き飛ばし、脚を広げ、腰を落として身構えた。大剣の柄に手を掛けたまま、しばらく竜の瞳を見据え続ける。周囲は再び緊張の沈黙に落ちた。
だが、いくらもたたずに、野竜が揺らした首をまた翼の向こうに落ち着かせてしまう。軽く息を吐いた竜騎士は、構えを解いて、地に腰を付けたままの竜使いを見下ろした。
「この竜を使えると言うのか、お前は」
瞳を怒りに燃え立たせ、竜使いは起き上がると無言で頷いた。それに対し、竜騎士が不信の笑みを浮かべる。
「まさか……」
と、一歩を踏み出し、その頭巾に手を掛け引き上げようとした。
「止めろ! 何をする!」
竜使いが必死に抵抗するところへ、ファステリアの護衛長が衛兵を引きつれて駆けつけてきた。竜使いの誰かが呼んだのだろう。
「タニヤザール殿!」
思わず腕を掴んだ護衛長を、振り返った竜騎士の細めた目が射抜く。受けた顔に過る一瞬の怯え。直ぐにその手が外されたので、ひとまずタニヤザールも竜使いから離れた。
「この者の素顔が見たい」
思いがけない要求に、困惑した護衛長は首を振った。
「竜使いは自分の村以外で、よその者に顔を見せません」
「顔を見せない輩を、易々と王宮に入れるのか、ファステリアは」
竜騎士の言い様に、護衛長の顔に朱が走る。
「その土地土地の風習があるのは、御存じでしょう? この者の親は村の長で、身元は確かです。失礼ながら、タニヤザール殿。我らが警備体制に、何か過ちでもあるとおっしゃるのですか?」
タニヤザールは、視線をゆっくり護衛長から周囲の衛兵へと移し、最後に自分の足元へと落とした。そして目を閉じ小さく息をつく。やがて踵をそろえ姿勢を伸ばすと、優雅に手を胸に当てて、白銀の頭を深く下げた。
「あなたのおっしゃる通りだ。失礼なことをして、申し訳がない」顔を上げて、護衛長に微笑みかける。「許していただけないだろうか?」
相手の頬に別の朱が差す。予想外の謝罪に気圧され、護衛長は小さく後ずさると、口ごもりながら首を振った。
「いや……分ってくだされば、それで良いのです。あなたのお立場は心得ていますので」
破顔一笑した竜騎士はありがとうと礼を言ったが、目を戻した竜使いには、その笑みも薄くなる。
「せめて、名前だけでも尋ねてよろしいか?」
「オフィルです。タニヤザール閣下」
護衛長が答えるより早く竜使いが自ら名乗る。据えられた挑戦的な双眸に、タニヤザールは顎を引き、尊大な眼差しを返した。
「覚えておこう。竜使いのオフィル。私と同じ色の目を持った者に会ったのは、初めてだ」
そこへ馬蹄の音が鳴り響いて、ラスタバン警護隊の制服の者が血相を変えて馬を飛ばしてくる。
「イルグ?」
タニヤザールが呟く間にも、彼らの元に到着したヴァーリックは馬から飛び降りた。失礼、とファステリアの面々に挨拶を送りながら大股に給仕長の元に歩み寄り、何事かをその耳に囁く。
「……何?」
にわかに表情を厳しくしたタニヤザールは、喉の奥で小さく唸った。
「申し訳ない。急用ができたようなので、ここで失礼する。ここまでの御配慮、痛み入る」
手にした大剣を斜に背負いながら護衛長に軽く頭を下げ、自国の警護隊長が乗ってきた馬に軽い所作で跨った。ファステリア兵士達の敬礼を返しながら手綱を引き、見送る護衛長に言葉を掛ける。
「銀の目を持つ者は性悪だ。気をつけるがいい」
目を瞬かせた相手の答えるより先に、タニヤザールは馬の腹を蹴って王宮への道を駆け出した。腰を鞍から上げ、前傾姿勢のまま唇を噛み締める。ヴァーリックの知らせは、ラスタバンの者の耳飾りを届けに来た者がいるというものだった。
まさか、と思う。もしそれが『給仕』の物なら、これで五人放って、三人が命を落としたことになる。いずれも一騎当千の手練であり、万全の体制と思った自分の甘さを、タニヤザールは悔やんだ。
ふと、先程から疼く左の手甲に目を落とす。愛用の流石が、脈動も激しく光を放っていた。
「分っている」口の中で小さく語りかける。「あの竜に会って穏やかでないのだな。今まで見たことも聞いたこともない竜だが……知っているのか?」
石は強い明滅を繰り返した。
通用口に待っていた若い警護兵が、馬から降りて急ぐ給仕長の後を必死に追ってくる。
「私の部屋へ通してあるのだな」
「は、はい。少し前に王宮門に来たところを、ファステリアから連絡を受けまして、警護隊長が給仕長の部屋へ通すよう指示なさいました」
――体面を気にするな……イルグめ、早速だな。
凄まじい早足で扉口まで来ると、勢いを止めることなく室内へ入った。突然現れた部屋の主に、中で待っていた二人が身をひきつらせて驚き顔を向ける。一人は警護兵、もう一人が彼を訪ねて来た客人だった。埃まみれの上着を纏い、薄汚れた靴を履いた外の者で、本来こんな王宮奥まで入れる身分ではない。
「本街道の行商人で名はトレドスです。ラスタバンの者の耳飾りを届けに来たと言っています」
警護兵に紹介されて、行商人は愛想笑いを浮かべながら、おどおどと頭を下げた。
「へ、へえ、早速この様な所へ通していただきまして、恐縮でございます」
「いや、こちらこそ、わざわざ届けていただいて、感謝している。それで、耳飾りは……?」
銀の眼差しが注がれる中、行商人が懐から取り出した革の小袋を相手に渡す。受け取ったタニヤザールは、動揺を感づかれまいと執務机の向こう側に回った。
――誰だ? ラウィーザか、フェルメか?
袋を傾け掌に落ちて来たのは、金に縁取られた白金の耳飾りだ。長年傍で見慣れた形。
――パシヴィル!
『給仕』の中でも最年長の彼は組織創設以来の片腕であり、後人の指導者としても尊敬を集め、この任務を最後に一線から退くはずであったのだが。
タニヤザールの喉奥から呻きが漏れ、耳飾りを握る手が細かく震えた。と、いきなり机に叩きつけた拳の音に、他の二人がびくりとする。彼らに背を向けたまま、湧き上がる激しい感情を抑えにかかる。
今――すべきことをしなければならない。
肩を大きく上下させて息を整えると、給仕長は行商人へ向き直った。
「確かにこれはラスタバンの者の耳金です……これを、どちらで?」
「へえ、イクスミラレスから本街道を西へちょっと行って、北の山を二つばかり越えたところで。あたしが見つけた時には、もう息がなく、あわてて近くの村の者を呼んで、仮埋葬をしましたんです」
――本街道の北で、なにかあったのか。
「死因は? なにが原因で死んだか分かりますか?」
「それが……」行商人は小さく身を震わせると、手揉みをして顔をしかめた。「口にするのも恐ろしい、すんごい刀傷で……あんな死に方は、ついぞ見たことはありませんで」
タニヤザールは眉を寄せて目を閉じた。
――せめて安送薬を飲まされていれば、いいのだが。
耳飾りを握った掌を開いて一つを摘みあげ、例にもれず刻まれている文字を無意識に読んだ。
『ソリューレモ』
そう、彼の生家は南街道の外れにあった。南へ行く時は常に随行し、特に城塞都市であるこの街には、数か月前一緒に行ったばかりである。街の表裏を知り尽くした最高の案内人で――
そこまで思い至った時、突然その文字の意味に気がついた。たちまち頬が強張る。
ゆっくり振り返り、厳しい視線が行商人へ向けられた。
「なぜこれを、ここへ持ってきた?」
「へ?」トレドスは訊かれた意味がわからず、間の抜けた声を上げた。「え……いえ、ラスタバンの御仁でございましょ? その耳飾りの方は」
「確かに、ラスタバンの者だ。しかし、それをお前はどうして知った?」手にした耳飾りを示す。「ここにはソリューレモと刻まれている。当然読んだであろう? ラスタバンにはソリューレモという街は無い」
現れた齟齬に驚愕が行商人を襲い、ごまかし笑いに口元が引きつりだす。
「あ、いえ、その……他の持ち物に、ラスタバンと分かるものが……」
「あるはずがない!」タニヤザールは言下に断じた。「その様子だと、ソリューレモがどこにあるか知らないのだな。南街道を随分と下り、更に内陸に入ったところにある。ラスタバンですら知る者はあまりいないが、北の者なら更に耳遠い街だ。たとえば……」
敵意を丸出しにして相手を見つめる。
「……ゴンドバル」
突如トレドスが凶暴な顔を向け、袖口からしなやかな鉄線を引き出した。鞭のように振った細い刃が、身を捻るタニヤザールの頬をかすめる。素早い二振り目が襲いかかる直前、長身の体が一気に執務机を乗り越え躍りかかった。押し倒したその襟首を掴み、思い切り殴った一発で賊が気を失う。
「きゅ……給仕長! お怪我は!?」
展開のあまりに速さに、呆然としていた警護兵が我に返った。
「賊ですか!」
直後扉が開き、ヴァーリックが叫びながら駆け込んできたが、すでに部屋の主は警護兵から渡された縄と轡で来訪者を拘束していた。
「イルグ、やっと捉えたぞ」暗い笑みを浮かべ、押し殺した声が口から洩れる。「何とかして口を割らせろ。なにをしても……どんな薬を使ってもいい」
隻眼の警護隊長は口端を引き締めると、ゆっくり敬礼をした。
「はい……給仕長閣下」
警護隊長たちがゴンドバルの賊を連れ出した後、タニヤザールはファステリアの召使に頼んで軽食を運んでもらった。思わぬ不手際を謝罪する接待役に、失礼は予定が全く立たなこちらにあり、余計な気を遣わせて申し訳ないと伝えると、相手はホッと頬を緩めて退出した。自分の様な客人を抱えた御役目は大変だと、苦笑しながら黒茶のカップを手にする。
目を向けた窓の外には、傾き始めた午後の光。
「時間がない」
タニヤザールは独りごちた。賊の自白が間に合うのか、そもそももたらされる情報が役に立つのか、とば口は掴んだとはいえ、ほとんどがまだ未知数だ。チャイ麦パンを手にしたものの、それを味わう余裕もなく考えを巡らせる。
――あの賊は、何故来たのか?
直前の内情偵察か、あわよくば給仕長の暗殺か、今夜の事前工作か――内部混乱を狙ったか。
「混乱……偽情報による誤った方向への誘導?」
それならば、賊によってもたらされた情報とは。
――パシヴィルの死の場所だ。
先の『給仕』達も本街道周辺で命を落としているので、そのまま受け取っても違和感はない。
――だが、ある場所から目を逸らさせるためだとしたら……彼の死に場所が、重大な意味を持つのだとしたら。
タニヤザールは低く呻くと立ち上がり、扉を開けて外にいた警護兵に言った。
「警護隊長に伝えろ。『給仕』の死に場所を特に聞けと。イクスミラレスや本街道周辺の答えはガセだ」
弾かれるように去った兵士を見送り、再び執務机に向かう。空になったカップへポットの黒茶を注ぎながら、十分な量を用意してくれた接待役に感謝する。同じ役目柄、必要な物は互いに分かるのだろう。仲間意識を覚えがらポットを机に置くと、側にあった『給仕』の耳飾りが目に止まった。
込み上げる感傷を押さえつつ、再び手に取り窓辺の光にあてる。いつも輝いていた白金の表面は曇り、ところどころが汚れていた。刻まれた文字、ソリューレモ。文字の終わりが特に汚れているので強くこすると、その下から文字ではない何かが現れた。二つ重なる三角形。
それには――見覚えがある。
つい数か月前行ったソリューレモの街で、パシヴィルの案内のもと、出先で目にした印。そして、そこで起こった事――
左手の竜石がドクンと高鳴った。
「……竜……か!」
これは死に際の『給仕』が残した符牒だ。ゴンドバルの策謀が、竜に関わることであることは、これで間違いようがなくなった。
「やはり銀目は性悪だったな」
竜使いの挑戦的な眼差しを思い返しながら、食事の残りを黒茶と共に腹に流し込み、荒い息をついた。旧友の耳飾りを小袋に収め上着の内ポケットに入れる。彼の命を懸けた情報を、生かすも殺すもこれからだ。しかし、最大の難関が身内にあった。
給仕長の部屋を覗くと不在だった。近場にいたファステリアの召使から、給仕長は国賓の回廊に向かったと聞かされたヴァーリックは礼を述べ、新たな不安に眉をひそめながら歩を向けた。捕えた賊から求めていた答えを引き出し、ひとまず報告に来たのだが、どうやらタニヤザールは王弟に面会を求めに行ったらしい。
王弟の危機意識は、ファステリアのそれよりも更に薄い。『給仕』が襲われた事実を知りながら、原因をその腕の未熟さと捉え、総括責任者の給仕長への不信の念が高まっている。タニヤザールもその心情を察し、こちらからの面会を控えていたのだが、そこを押して出向くとは、尋常ならざる事態と容易に推測できた。だが、王弟は彼の意見を受け入れるのだろうか――
王弟の部屋の外に立っていた警護兵が、ヴァーリックに気付くと扉を目で示した。やはりここかと思った所で扉が開く。戸口に出てきた給仕長が中を振り返り、胸に手を当ててゆっくりと頭を下げた。
「……失礼いたしました」
中からは何の返答もない。タニヤザールは視線を前に据えたまま、すぐ廊下を歩み出したが、警護隊長のいることも気づかずにその脇を通り過ぎてしまう。何があったかと訝しんでいると、扉を閉めようとした王弟付の召使がちらちらと目配せして、自分の頬を軽く手で払った。
ヴァーリックは、驚愕と怒りに顔面を赤くした。急いで給仕長の後を追ったが、その背を見ると、何と声をかけてよいか分らない。――竜騎士が頬を張られるなど、考えられないことだ。
背後の足音にようやく気付いてか、タニヤザールが振り返り、相手が警護隊長だと知って苦笑した。
「……攻めどころを誤った」
その左頬が微かに赤い。――さすがに右頬を張るほどの度胸は無かったのだなと思うものの、ヴァーリックは己の怒りを抑えるのに、かなりの腹の力を必要とした。
「給仕長の言われた場所を、賊が吐きました」近寄って耳元で囁く。「驚いたことに、まったく方向違いです。ベド・シェアン台地の南、トルマリの近くです」
給仕長の喉奥から低い唸りが漏れ出た。
「……そっちか」長い腕を折り込むように胸の前で組む。「随分果てまで追って行ったのだな」
「給仕長」ヴァーリックは上司の心中を覚え、悔しさをこめて尋ねた。「……王弟陛下になんと?」
タニヤザールはちらりと彼に向けた視線を下に落とし、口元を手で覆った。
「ゴンドバルが竜を使う危険性が、ほとんど確定的になったので、今夜の竜の観覧を中止するよう申し上げたのだが」左頬を撫でる。「……受け入れてくださらなかった」
そこで大きく息を吸い、腕を解きながら背筋を伸ばして胸を張った。
「ヴァーリック。重機兵は配備しても、稼働することのないよう封印しろ。竜が出てくるのであれば重砲の出番はない。幸い観覧は女性、子どもの退出後となっている。さすがにファステリアの方も、地竜見物と同じ扱いにはしないようだ」
「いや、しかし」戸惑う警護隊長が首を振る。「本当に竜が出てきたら、どうするのですか?」
「決まっているではないか。竜騎士が倒さずどうする?」
息を呑むヴァーリックの目の前で、竜騎士が強かに笑った。
「この宴の主催者で、竜騎士は私だけだったな」