4.間奏
小さな噴水の水音が聞こえる中庭は、ようやく色のない暗闇から解放されつつあった。初めに白が、ぼんやり浮きあがり、緑が陰の中から染み出るように現れる。背にしている古い石垣を這う蔓バラも、間もなく可憐な黄色を見せてくれるだろう。
イルグ・ダン・ヴァーリックは一度伸びをすると、首と肩を幾度か回し、煙草を取り出そうとして内ポケットに手を入れた。が、それを途中で止め、抱えているサーベルの柄へと移す。石垣にもたれていた背を起こし、片膝をついて中腰になると、ゆっくり振り返り低い石垣の向こうの気配を探る。呼吸を忍ばせ時機を計り、一気に石垣に足を掛けてサーベルを抜きかけた。固い音がして、相手の剣の鞘がサーベルの抜刀を途中で止める。
「やあ、イルグ」
銀の目が、にっこりと彼に微笑みかけた。
「良い所を見つけたな」
礼服の上着を脱いだタニヤザールは、警護隊長の横に腰を下ろすと、騎士の印である剣を肩に抱えた。一見古びた趣のある中庭は、実はよく手入れをされた来賓用の区域で、エルシャロン王宮の中央に位置していた。周囲の回廊の二階は国賓用の部屋が取り囲み、彼らが背にした石垣の正面は、警護隊長の小さな姫の部屋の窓である。それを知っている給仕長は、隻眼の強面をちらりと見、笑みを深くした。
「寝ずの番か?」
「いえ、係の者の警護は万全ですが、まあ、どうせ寝るんだったらここでも良いかと」
王宮務めの兵士、特に上級管理職の地位にある武官は、就役中に寝台で寝ることがほとんどない。特に本国外では常に臨戦態勢をとり、非常事態にいつでも対応できるよう、得物を抱えての仮眠が続く。もちろん接待国から部屋と寝台は用意されるのだが、滅多に使われる事は無かった。
一方本来この必要も無い文官の給仕長とはいえ、タニヤザールは己の騎士としての本分を忘れることが無く、変わらない臨戦の心構えがヴァーリックには嬉しかった。もっともラスタバンを発って以来の多忙に、寝る間も無かったのだが。
「煙草……持っているか? 部屋に忘れてきた」
「あ、はい」
先ほど取りかけた煙草を差し出す。タニヤザールは無造作に一本を抜くと、部下の熾き火から火をつけ、気持ちよさそうに深く吸い込んだ。それが十五年前の出会いの時とまったく同じ動作だったので、ヴァーリックは思わずしげしげと眺めやり、その視線に気付いた給仕長が、細めた目を向けた。
「初めて会った時のことを思い出したか?」
「あ……ええ、まあ」
「お互い、忘れようたって忘れられないか……その片方の目もその時無くしたんだったな」
かつて上官だった男も、すべてを覚えていた。
それは過去の大きな戦役の、天王山とも言える戦いだった。
ラスタバンの士気は落ちていた。いくら攻撃しても落ちない城塞に、脱走兵の噂もちらほら流れていた。日課となった攻撃。びくともしない城壁。早く攻略しないことには、敵の援軍が襲ってくると分っているのにも拘らず、上層部の作戦は出尽くし、どうにも動きが取れなかった。ヴァーリック達下級士官は、会議を重ねるばかりの上官達に不信を募らせ、塹壕の中で顔を突き合わせるたびに、皮肉と揶揄を飛ばし合っていた。
そんな時、騎士の甲冑を身につけたタニヤザールが彼の脇に跳び下りてきて、煙草をくれと言ったのだ。周囲の兵士達は息を呑んだ。長い銀の髪を後ろで無造作に束ね、整った彫りの深い眼差しはこれも銀に輝いている。それまで『美しい』などとは、騎士に対するほめ言葉ではないと思っていたのだが、彼はそう形容する他なかった。
煙草を一本吸い終わるとタニヤザールは立ち上がり、周囲を見回して、自分はお前達の直接の指揮官だと言った。訳あって戦列を離れていたが、今から復帰するとの宣言に、ひそひそと囁き合う兵士達。――今更何のために……!
彼らの内の言葉を抑えきれず、ヴァーリックは彼に言い放った。
――いったい今までどこに行っていたんだ!?
――竜狩りだ。
翌暁、突然決まった総攻撃のことを思い出すと、ヴァーリックは今でも身震いがする。戦さ前の必勝を鼓舞する鬨の掛け声は、本来総指揮官がするものだ。しかしその朝、城塞の丘に向かい幾重にも隊列が並ぶラスタバンの先頭からは、タニヤザールが全軍を臨んでいた。暁の光を頭上に帯び、大剣を掲げ、通る声が響き渡る。
――竜の守りは我らにある!
そして栗毛の馬で、大隊長、連隊長、部隊長達の並ぶ前を疾駆し、その差し出す剣を次々と己の大剣で払って行った。これによって各々の兵は、これから倒す相手の呪いから解かれるのである。ヴァーリックも構えて迫る一打ちを待っていた。と、タニヤザールの来る方向から、地鳴りのような喚声が湧きおこってくる。次第に近づく蹄の音、吹き寄せる風。瞬間、己の剣が高らかに鳴った。突然眩いばかりの銀の光の雨が、凄まじい轟音と共に降り注ぐ。
この時、彼は見たのだ。
翼を広げた銀の大竜が、ラスタバンの部隊の上を横切って行くのを。
激戦だった。敵も味方も多くの戦死者を出し、ヴァーリックも右目を失った。
だが、直属の部下として、タニヤザールの戦いぶりは全て脳裏に焼き付いている。騎馬でどこまでも突進し、城塞の奥深くまで躍り込む。もちろん馬がもつはずがなく、つぶれるたびに敵騎馬を奪うという離れ業を重ねたのだ。しかも、暁に始まった戦闘は昼にも終わらず、夕刻にようやくその勝敗を決したのだが、その間タニヤザールの剣は止まらず、自軍への激励の叫びは絶える事が無かった。
日没の黄金の中、敵城塞の櫓上で勝鬨を上げる竜騎士を、ヴァーリックは右目に巻かれた分厚い包帯越しに見上げた。城塞の高みを吹く風をうけ、鬣の様に逆立ちなびく銀の髪。あれほどの戦闘に対して、タニヤザールは殆ど返り血を浴びていず、変わらず美しい顔と姿は、むしろ不気味に恐ろしくさえあった。
「突撃するだけだったから、分り易かったな、あの時は」タニヤザールは紫煙の行方を追いながら呟いた。「今は、何に突撃すればよいのやら……重機兵で解決するのなら、こんな苦労はしないと言うのに」
ヴァーリックは片眉を上げた。珍しく給仕長が愚痴を言っている。王弟との確執は、思った以上に深いのかもしれない。表向きは王弟、重臣たちが取り仕切っているように見えるが、水面下の手配はすべて彼が行っていた。訪問団一行の安全の確保はもとより、本来の給仕長として、今夜は接待の総括責任も担わねばならない。
「今夜の予定は変わりありませんか?」
昨夜遅くまで、彼が重臣たちと折衝を重ねていたことを知っていたので、ヴァーリックはこの際、変更や追加事項を聞いておこうと思った。
「ああ、夕六刻よりエルシャロン王宮屋外庭園で、中月の宴が催される。献立は庭園側に停泊しているイズレエル・ガレの厨房を使って、先日のもてなしへの返礼料理だ。国王陛下が、気合を入れろと言っていた奴だな」給仕長は、予定をおさらいするように続けた。「招待主人は王弟陛下、主賓はファステリア国王御夫妻、王子お二人。ちなみに、上の王子と、我らが上の姫君の席は隣同志となっている」
「うまく進んでますかね。あのお二人」
警護隊長は思わず軽口をたたき、給仕長の視線を受けて慌てて口をつぐんだ。その様子に軽い笑みを浮かべたタニヤザールは、煙草の最後の一服をゆっくり吸った。
「もう少し、一緒にいられる時間があればいいのだがね……で、料理が一通り終わったところで、そうだな、いわゆる余興だ。音楽家、曲芸師、詩の朗読」
そこで一旦、迷いの間を置いて続ける。
「……竜の御観覧」
「そういや、ファステリアは竜使いの総本山でしたな」ヴァーリックは、このところ仏頂面の続く下の姫へ思いを向けた。「姫君達がさぞ喜ぶでしょう」
「それが……地竜でなく、野竜だと言うんだ」タニヤザールの言葉に、男の隻眼が一杯に開かれる。「……あり得ると思うか?」
問われても、竜の偉大さを叩きこまれた身には、考えられないと答えるしかない。
しばらく噴水のこもった水音だけが響く中、給仕長は手元を見下ろした。短くなった煙草の火を靴の裏で消すと、差し出された警護隊長の手に吸殻を渡しながら、まあ、と肩をすくめる。
「ファステリアが推薦するのだから眉唾ではないと思うが、稀代の竜使いが使うとかいう触れ込みのようだ」
それはそれで心配の種が増える、と大きく息をついた。
「イルグ、肩を貸せ」
ヴァーリックが背筋を伸ばすと、タニヤザールは大剣を抱え直し、その肩に頭をもたせ掛けた。彼が目を閉じる所へ、最後の質問をする。
「結局、重機兵を出すんですか?」
「ああ」口の中から、小さく答えが返る。「王弟陛下が出せと言ってきかない……」
ヴァーリックは思わず舌打ちをしたが、耳元から寝息が聞こえてくると、急いで姿勢を正した。
花は大部分がその色を取り戻した。後はバラの赤が鮮やかに映えれば、中庭は新しい朝に目覚め切る。それは給仕長の一日の始まる時でもあった。
この中庭を見下ろす鐘楼から、エルシャロンの北に聳えるワッシリ山が遠く望まれる。朝焼けに燃えて輝く岩肌。それを間近に仰ぎつつ、調達人達のロバが王都への細道を急いでいた。
この時、エルシャロンの王都門に、竜使いの村からの大きな荷馬車が着いた。巨大な暗幕のかかった檻の傍には一人の若い竜使いがいて、目出し頭巾越しに手元の竜笛を見下ろしていた。
一方、本街道には二頭の馬蹄の響きがこだまする。一頭は空馬で、先を行く馬に跨る男が更なる掛け声を入れた。今、休むことを知らないヴァルドの男が、黒髪をなびかせながら、矢の様にエルシャロンに向かっている。
中庭の休息