3.呪詛
半月が西の山陰に沈んだ。
両腕の筋を切られた猟師は仰向けに地に倒れ、脚を小刻みに震わせている。あたりは幾つかの得物と血痕が残っているほか、激しい剣戟があった跡を残すものはない。イディンにおいて人間同士の切り合いの際、死者が滅多に出ないのは、すぐに返ってくる殺された者の呪いを恐れるためだ。土地へも影響を与えるこの禁忌を遂行するには、獣と同じように刃物で相手の自由を奪い、安送薬で眠らせた後止めをさす。
大男に這い寄ったイブライが、その肩口の傷を覗きこみ、頬を小さく震わせた。僅かに恐怖の色を浮かべて筋切を振り返る。
「大丈夫か?」
エナムスは包帯に血を滲ませた見習いの手を取り、ゆっくり起き上がらせた。まだ目の焦点が合わないアシェルは何度も瞬きし、親方を見上げて小さい笑顔を見せた。
「みんな、いっちゃいましたね」
竜の時もそんなことを言ったな、とぼんやり思い返しながら、エナムスが問いを向ける。
「お前……なんだ、あの剣は?」
「なんだって言われても」若者の困惑した表情。「やっぱり、変ですかね? 船のみんなも言うんです。俺と立ち合うと気持ち悪いって……どういうことなんですか?」
訊き返されてエナムスは唸った。本人は意識してないらしい。
「そいつは普通じゃねえぞ、エナムス! どっから連れてきたんだ!?」倒れたままのマルキウスが吠える。「くそ、こんな奴とは! あの竜使いめ、先に言やいいものを」
「竜使いに頼まれたのか?」筋切は振り向くと、猟師に歩み寄った。「ゴンドバルについている竜使いがいるのか?」
「ゴンドバルにはなんでもいるぜ」マルキウスが鼻でせせら笑う。「イディンのあちこちから来た奴らがよ。お前みたいな……だ、エナムス」
見習いの顔に上った驚きに、親方は肩をすくめた。
「以前はゴンドバルにいたこともあったさ」
「はっ! “いたことも”、か!? 何を今更取り繕ってんだ? ええ? 言ってやれよ。ブルブランでこの見習いが襲われるのは、端から承知していたんだと」
そこでマルキウスは、エナムスに激しく頬を打たれた。しばらくの沈黙の後、猟師の下卑た大笑いが響く。
「隠したいか。そうか、そうだろうな! 手前の正体を知ったら、誰も近づかねえよな!」
喉の奥を震わせながら、マルキウスは呆然としている見習いに目をやった。
「どうだ? こいつは、いい親方だったのか? さっきは危ない所を助けたりして、さぞかし気を許していたんだろうな。可哀そうによ。すっかり騙されてたってことだ」
突然それまでの笑いが消え、首を起こして全身の憎悪をエナムスに放つ。
「ローティのくせに、ラスタバンの調達人と取り澄ましてんじゃねえ! タニヤザールだか何だかのお偉いさんがついた所で、手前の正体が変わるものか! その右手!!」
噛みつくように襲った言葉に、筋切ははっとして右手を握りしめた。
「俺は知ってるぞ……知ってるんだよ、エナムス。俺も西から来たんだ」
瞠目して彼を見つめるエナムスを、猟師は口端を歪めて見返した。
「驚いたか? 忘れさせやしねえ……呪いは消えねえってことをな。ローティが……お前自身がイディンの呪いだってことをな!」
筋切は微かに開いた口の中で何か呟くと、懐に手を入れながらロバに歩み寄った。取り出したのは小さな革袋で、中身をカップに入れ水を注ぎ、それを持って大股に戻ってくる。残る三人は怪訝な目で見守っていたが、突然気付いたマルキウスが恐怖の声を上げた。
「てめ! 安送薬か!」
「親方!」見習いも足をよろけさせながら駆け寄り、その腕に縋りつく。「だめだ!」
「両腕が動かなくなっては、このイディンでは生きていけない」エナムスは猟師から目を離さずに、掴む若者の手を払った。「薬師だって、いつ呑ませようかと待っているじゃないか」
アシェルとマルキウスの視線を受け、イブライがゆっくりと手を上げて、握っていた物を見せる。小さな瓶に入った薄い緑の液体。
「そんなことはない! なんとか生きていけるはずです! 生きていれば……生きていけます!」
必死に訴える見習いを、親方は真直ぐ見下ろした。
「ヴァルドであれば、シーリアであれば、ゴンドバルであれば……そうだろうな。――だがな、ローティは生きてはいけない」また猟師に目を戻す。「……ローティを振り返る者はいない。全てから追われ見捨てられては、生きることはもう呪いだ。役に立たない呪われた者に、誰が近づくものか。マルキウス、そうだ。お前の言う通りだ」
これ以上ないほどの驚愕を浮かべた猟師が、筋切を見詰め返した。たった今、己の口から放たれた言葉が、そのまま返ってきたことに気付いたのだ。ヴァルドを追われ、そしてゴンドバルも追われたろう自分が、今まさしくローティそのものとなった事に。この世界にはローティの居場所はない。存えればヴァルドに戻る望みもあるが、動かない両腕で、それまでどうやって呪いの日々を生きていけるだろうか。膨れ上がった絶望が、心の内を食い破る。
顔を歪ませたマルキウスは、野獣のような吠え声を上げた。まさかの力に弾みをつけて起き上がるや、地に刺してあった自分の剣目がけ身を投じた。
止める間もなかった。
エナムスが急いで駆け寄り、大男の体を抱き返すと、首筋から胸元が剣の刃でざっくりと切り裂かれている。たちまち着衣が噴き出る朱に染まった。
「この、飲め!! 飲むんだ!!」
鮮血で溢れる口を無理やりこじ開け、カップの液体を流し入れる。マルキウスが激しく咳き込み、飛び散る飛沫に筋切は思わず首を逸らした。泡を吹く口端から洩れる呟き。
「ざまあみろ……もう間に合うもんか……せいぜい、この地を呪わしてもらうか……」
脚を引きずりながら寄ってきたイブライが、細いガラス筒の先についた針を、素早く猟師の耳元に刺した。緑の液体が彼の体内に消えて行く。マルキウスは深く唸ると、薬師を凝視した。
「この……何をしやがった」その目がすぐに朦朧となる。「まあ……いい……どうせ、でっかい呪いが……落ちる」
ぼんやりとさ迷った視線が筋切を捕え、唇が言葉の形に痙攣した。
「……フィノムめ……」
瞼がゆっくりと閉じられ、呼吸が次第に浅くなる。
マルキウスは絶命した。
薄暗い闇の中で、赤黒く染まった分厚い胸の動きが止まってからしばらく後、エナムスが呟いた。
「……間に合ったか?」
「わからない」
イブライは長い息を吐き、がくりと腰を地に落とした。顎に片手を当てて、しきりに撫で回しながら言葉を継ぐ。
「自裁だからこちらに難は来ないでしょうが……放っておいては、かなりな面倒が土地に残る可能性があります」
「『魂解き』がいるのか?」
エナムスは、見習いにちらりと視線を送りながら訊いた。彼は呆けたように、マルキウスの遺骸を見下ろしている。
「村長程度の祈りじゃ効きません。まあ、ファステリア王家に頼めば、一級の祈祷師に来てもらえると思います」
そう言うと薬師は億劫そうに立ち上がり、おい見習い君と声をかける。
「この大男の体を森の中まで運ぶんだ。手頃な所に埋めて、呪いが広がる前に結界を張っておくしかない」
イブライが森へ向かったので、エナムスはアシェルに頷いた。
「あいつは歩くだけで一杯一杯らしいから、二人で運ぶぞ」
見習いは無言で親方に従った。
マルキウスを森の中に埋める作業はかなり難航した。その巨体にも拘らず、穴を掘る道具がほとんどなかったからだ。散らばった得物――マルキウスが自裁した剣も使って、ようやく体全体が隠れるほどの穴を掘り、遺体をその中に下ろした頃には、東の空が微かに白み始めていた。土をかけようとして、ふとイブライが口にする。
「一応耳金の文字を読んでおこう」
身を屈めたアシェルは、マルキウスの耳飾りを外した。うっすらとした明け時の暗がりで、すり減った文字が読みにくい。
「レ、レプ……ィス…テリ?」
「レプティス・テル」薬師と見習いが顔を向けると、エナムスは大男を見下ろしながら呻いた。「西の……ずっと西の街だ。今はもうない。こいつの帰るべき土地は滅んでしまった」
遺体の上に土をかけ終え、薬師の指定する植物の苗と石を探し出して、示された場所に置く。最後の作業が終わり、調達人はさすがに疲れを隠しきれない口調で訊いた。
「これで、どのくらい持つんだ?」
「ひと月ですかね。でもエルシャロンから近いから十分間に合うでしょう」
三人は重い体を引きずりながら、楠に戻ると、身を投げ出すようにその根元に腰を下ろした。深い疲労に倦怠感がしばらく漂っていたが、薄闇の中で見習いが不意に呟いた。
「……考えなくちゃ」親方と薬師は若者に目を向けた。「考えなくちゃ……たぶん、マルキウスが言っていた竜使いはオフィルのことだ」
「ああ」エナムスは相槌を打った。「長老の不肖の子の裏にはゴンドバルがいたって訳だ。それが、野竜を連れてエルシャロンへ向かった。何も無いと言う方が嘘だな」
「野竜?」イブライが眉をひそめる。「竜使いが野竜を? 馬鹿な」
「不世出の竜使いだそうだ。少なくとも村人全部の心を鷲掴みするぐらいの力がある」そこでエナムスは鼻を鳴らした。「おそらく、手前の力の可能性とやらを試したくて、うずうずしてたんだろうな。そこにゴンドバルが誘いの手を出した」
「野竜を操ってみないかと?」薬師が小さく笑う。「それはたまらない誘惑でしょうね。しかし、そんなこと本当にできるんでしょうか?」
「不幸なことに、手頃な野竜が見つかったらしい。眠ってばかりの大人しい野竜だそうだ。どう操るつもりか知らんが」
そこでエナムスはアシェルに視線を向けた。
――竜笛無しで地竜を操ることのできる竜使いは、野竜を操れるのか?
「でも、オフィルの目的とゴンドバルの目的が同じとは限らない。大体、オフィルが野竜を操れるかどうかも分からないのに」
見習いの言葉に親方は苦笑した。
「おい、あんまりな言い様だな……まあ、確かにそうだが」
「ゴンドバルの目的が、野竜をエルシャロンに運ぶことにあったら?」イブライが顔を上げて、調達人二人を交互に見た。「野竜をエルシャロンでどうにかするとか……」
「どうにかって、野竜を暴れさせるのか?」エナムスが首を傾げる。「まあ、宴席でやられたらたまらないだろうが、それじゃ、せいぜい性質の悪い嫌がらせ程度だろう」
あ、と出し抜けに声を上げて見習いが立ち上がった。宙を見つめながら、次第に息が荒くなる。
「マルキウスが最後に言った言葉……『どうせ、でっかい呪いが落ちる』って……大きな呪いって」ゆっくり視線が巡り、イブライに止まる。「イディンで一番大きな呪いといったら?」
薬師は眉をきつく寄せると、低い声で言った。
「『竜殺し』だ」答えたものの、首を強く振る。「もちろん竜騎士の竜狩りとは違う。だいたい竜の意思に反して竜を殺すなど、人間にできるはずがない。竜に匹敵する圧倒的な力でないと……」
「重砲なら? 竜の心臓の力で発射されるあの……」
張りつめた沈黙が、若者の言葉と共にその場に降りた。想像するだけで心を凍りつかせる場面があるなとすれば、イディンの生き物にとって、それは竜が地に呪いを放つ姿である。解けることのない一切に死をもたらす呪いが、その地を支配する時――エルシャロンは死の都となる。
底知れない恐怖に、エナムスは喉奥で深く唸った。
「いや……だが、ゴンドバルが重機兵で乗り込むってのか? そんなことをしたら、たちまち戦争だ。ゴンドバルはイディンのすべてを敵に回すことになるぞ」
「乗り込むまでもない。重機兵ならある」
薬師が抑揚も無く事実を告げる.
「王族専用船イズレエル・ガレは、警護用に常時三台の重機兵を搭載している。この重砲の射程距離内に竜がいれば役者はそろう。もちろん、誤射という形にすれば責任はラスタバンに行く」
「でも……それには、イズレエルの重機兵を奪わないと」
言いかけてアシェルは、突然浮かび上がってきた言葉に愕然とした。
――そっちじゃない……
今まで思い出そうとして、なかなか出ずに沈んでいた言葉だ。あの時、あの場所で――自分の感覚が捕えたものだが、その意味が漸く分った。分かって絶句する。
「……そんな」
なぜなら、それを認めるならば、今まで見えていた世界に恐ろしい瑕疵が生まれ、平和な情景が一挙に暴力に満ちたものとなるからだ。それはあまりに想像を超えたもので、とても受け入れ難かった。否定することは簡単だ。思い違いと片づければいい。だが、感覚は自分の真理を叫んで止まない。
――そっちじゃない……!
「アシェル?」
いきなり言葉を切った見習いに、エナムスが怪訝な目を向けた。苦痛に歪む顔を、傷の痛みのためかと思いながら立ち上がり、包帯を変えようとロバに向かう。ふと水が要るか聞こうと振り返った時。若者の後ろに影が動く。
「おい! 気をつけ……」
エナムスが叫び終わる前に、アシェルは背後から掴まれた片腕を、背中に捻り上げられた。首筋に当たる冷たい刃先。
「ゴンドバルの目的が分かったからには、急がなくてはいけない」
見習いの肩越しに覗くイブライの目が白く光った。
「お前……どういうつもりだ」エナムスは腰の山刀を抜き、構えながら低く訊いた。「同じゴンドバルに狙われて……『給仕』じゃないのか?」
薬師が荒い息の中で目を細める。
「……そうだと言ったら、信じますか?」
親方はその目から視線を外さず、大きく息を吸った。
「……いいや」
「私もあなたを信じられない。エナムス」
双方の息遣いの中で、威嚇するような唸りが口元から断続的に漏れ出てくる。
「……そういうことか」
「そういうことです」
「……そいつを離せ」
「あなたが、その山刀を手放したら」イブライは見習いを締め付ける力を一層強くし、首に寄せた刃を更に立てた。「山刀を投げてください」
「イブライ!」アシェルは首筋にある冷たさに身動きできず、目だけを向けて懸命に言葉を継いだ。「駄目だ……こんなことをしては、いけない!」
「したくはない、けれどせざるを得ない」薬師は乾いた口中を湿らすために、ごくりと喉を鳴らした。「君の親方は……あまりにも危険すぎる」
「そんなことはない……そんなことはしない! 親方は!」
腕の関節を逆に締めあげられ、アシェルは痛みに口をつぐんだ。
エナムスが構えを解いて身を起こすと、山刀を脇にだらりと下げた。ゆっくりと前に一歩を踏み出す。
「山刀を投げろ!」
もう一歩と共に腕が大きく振られ、山刀が山成りの軌跡を描いて彼らの中程の所に落ちた。アシェルに押しつけた刃の向こうで、イブライが小さく息をつく。
「……さあ、離せ」
じりっと歩を重ね、筋切が言う。
「まだだ、近寄るな!」距離が不気味に縮まるのを後ろに引きながら、薬師は叫んだ。「鞘も外してもらおう」
鞘には二本の小刀が収めてある。
「親方! もういいです! 十分ですから……」アシェルは痛みに歯を食いしばりながら、擦れる声で訴えた。「イブライは何もしませんから……できませんから。だからもう」
「それは、随分見くびられたものだ」見習いの肩越しの目に、新たに凶暴な光が宿る。「あなたもそう思いますか? エナムス」
「いいや」それでも一歩を止めずに筋切は、首を横に振った。「必要とあれば、何でも刃を入れる……それが『給仕』だ」
「その辺りは信じてくださって感謝します」薬師がそう言うや、刃が微かに動く。冷たく熱い瞬時の痛みと共に、首筋が生暖かい物で濡れ始め、脈の音がアシェルの耳に響きだした。「近づくなと言っているはずだ!」
茫然としている見習いを引き寄せて、イブライは更に後ろに下がり、楠を囲むウツギの下生えの中に入って行く。歩を止めたエナムスが鞘帯の金具を外し、収まっている小刀が相手に見えるよう、前に高く掲げた。
「それも投げろ」
山刀の時と同じく腕を振って放ると、これはもっと飛んで下生えの際で落ちた。
と、筋切がするすると歩を速めてくる。薬師は思わず後ろに身を引き、制止を掛けようとして、いきなり呻いた。ウツギの枝先が腰の傷口を突いたのだ。顔が歪み身を屈め、見習いへ向けた刃が大きく逸れる。突然迫った眼前の恐怖に、薬師は人質の体を思い切り突き放した。
瞬間、恐れた白光が地から噴出する。小さな風と共に冷たい煌めきが肩口を行き過ぎ、頭上で山刀が返る。再び向けられた刃に、激痛の走る脚で背後に跳んだ。が、もはやその先には何もない。
イブライの体は崖の宙に投げ出された。
密生するウツギ中で身を横たえながら、エナムスは激しく息を切らしていた。重労働の後の一刀に、さすがに頬は痙攣し目も朦朧としている。けれど、この圧し掛かる重さは体だけではなかった。何かを失ったような虚脱感が、心の内まで広がっている。
腰には縋りついた見習いが、微かに肩を震わせていた。イブライへの二刀目を振り下ろす直前、彼が体をぶつけて来たため、そのまま横に倒れたのだ。包帯の乱れた髪に触れようとして、手を止める。マルキウスの埋葬で汚れた血と泥を、洗いもしていなかった。気付くと若者が顔を上げていて、イブライは、と訊く。下生えの先を顎で示すと、そちらへ這って行った。
「落ちるなよ」
エナムスはその背に声をかけ、砂袋を持ちあげるように立ち上がった。引きずる歩をロバへ向ける。背後で、見習いの薬師を呼ぶ声が谷に響いた。
「……イブライ!」
革袋の水筒の栓をひねり、両手に水を掛け、掌にこびりついた泥と血を洗う。強く擦るうちにあらかた落ちたが、かわりにいつもの傷跡が現れた。
「イブライ!」
その名が呼ばれるたびに、一本ずつゆっくりと指を折る。やがて片手の指が掌を覆い終えた時、アシェルが崖際からこちらに戻ってきた。両の手には、下生えに放ったままだった筋切の鞘帯と山刀を持っている。
いたか、と訊くと、首を横に振った。
「暗くて、どこに落ちたか分りません」
アシェルは水袋を脇に抱え、親方の前を素通りして楠の根元に腰を下ろした。
まず自分の汚れた手を洗い、次に水を山刀にかけて、握りと刃の汚れたところを丁寧にこすった。幾度かそれを繰り返した後、最後に多めの水を掛け、山刀を宙に振って水滴を払う。そして自分の上着の前を広げ、その柔らかい裏布を使って、山刀の端から端までをこれも丁寧に拭った。
エナムスは、若者のこの作業をぼんやり見守っていた。薬師に山刀を手放せと言われ、あれほど恐慌を来した自分が、今は丸腰でいる事に何の動揺もない。
何と言うこともない、さっきもこのようにすれば良かったのだとの思いが浮かび上がる。薬師は、筋切の山刀を恐れていただけなのだから。
――あれは、何のための一刀だったのか……
その無意味さに立ちつくす彼の前に、歩み寄ったアシェルが山刀を収めた鞘帯を差し出した。
「きれいになりました。もう、離さないでくださいね」
穴の空いた心を、笑顔が奇跡の様に照らした。