表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラスタバン王の給仕  作者: 平 啓
第三部
17/38

3.呪詛

<旅程>

31日目

 夜 楠の木下

32日目

 未明 楠の木下


挿絵(By みてみん)

 半月が西の山陰に沈んだ。

 両腕の筋を切られた猟師は仰向けに地に倒れ、脚を小刻みに震わせている。あたりは幾つかの得物と血痕が残っているほか、激しい剣戟があった跡を残すものはない。イディンにおいて人間同士の切り合いの際、死者が滅多に出ないのは、すぐに返ってくる殺された者の呪いを恐れるためだ。土地へも影響を与えるこの禁忌を遂行するには、獣と同じように刃物で相手の自由を奪い、安送薬で眠らせた後止めをさす。

 大男に這い寄ったイブライが、その肩口の傷を覗きこみ、頬を小さく震わせた。僅かに恐怖の色を浮かべて筋切を振り返る。

「大丈夫か?」

 エナムスは包帯に血を滲ませた見習いの手を取り、ゆっくり起き上がらせた。まだ目の焦点が合わないアシェルは何度も瞬きし、親方を見上げて小さい笑顔を見せた。

「みんな、いっちゃいましたね」

 竜の時もそんなことを言ったな、とぼんやり思い返しながら、エナムスが問いを向ける。

「お前……なんだ、あの剣は?」

「なんだって言われても」若者の困惑した表情。「やっぱり、変ですかね? 船のみんなも言うんです。俺と立ち合うと気持ち悪いって……どういうことなんですか?」

 訊き返されてエナムスは唸った。本人は意識してないらしい。

「そいつは普通じゃねえぞ、エナムス! どっから連れてきたんだ!?」倒れたままのマルキウスが吠える。「くそ、こんな奴とは! あの竜使いめ、先に言やいいものを」

「竜使いに頼まれたのか?」筋切は振り向くと、猟師に歩み寄った。「ゴンドバルについている竜使いがいるのか?」

「ゴンドバルにはなんでもいるぜ」マルキウスが鼻でせせら笑う。「イディンのあちこちから来た奴らがよ。お前みたいな……だ、エナムス」

 見習いの顔に上った驚きに、親方は肩をすくめた。

「以前はゴンドバルにいたこともあったさ」

「はっ! “いたことも”、か!? 何を今更取り繕ってんだ? ええ? 言ってやれよ。ブルブランでこの見習いが襲われるのは、端から承知していたんだと」

 そこでマルキウスは、エナムスに激しく頬を打たれた。しばらくの沈黙の後、猟師の下卑た大笑いが響く。

「隠したいか。そうか、そうだろうな! 手前の正体を知ったら、誰も近づかねえよな!」

 喉の奥を震わせながら、マルキウスは呆然としている見習いに目をやった。

「どうだ? こいつは、いい親方だったのか? さっきは危ない所を助けたりして、さぞかし気を許していたんだろうな。可哀そうによ。すっかり騙されてたってことだ」

 突然それまでの笑いが消え、首を起こして全身の憎悪をエナムスに放つ。

「ローティのくせに、ラスタバンの調達人と取り澄ましてんじゃねえ! タニヤザールだか何だかのお偉いさんがついた所で、手前の正体が変わるものか! その右手!!」

 噛みつくように襲った言葉に、筋切ははっとして右手を握りしめた。

「俺は知ってるぞ……知ってるんだよ、エナムス。俺も西から来たんだ」

 瞠目して彼を見つめるエナムスを、猟師は口端を歪めて見返した。

「驚いたか? 忘れさせやしねえ……呪いは消えねえってことをな。ローティが……お前自身がイディンの呪いだってことをな!」

 筋切は微かに開いた口の中で何か呟くと、懐に手を入れながらロバに歩み寄った。取り出したのは小さな革袋で、中身をカップに入れ水を注ぎ、それを持って大股に戻ってくる。残る三人は怪訝な目で見守っていたが、突然気付いたマルキウスが恐怖の声を上げた。

「てめ! 安送薬か!」

「親方!」見習いも足をよろけさせながら駆け寄り、その腕に縋りつく。「だめだ!」

「両腕が動かなくなっては、このイディンでは生きていけない」エナムスは猟師から目を離さずに、掴む若者の手を払った。「薬師だって、いつ呑ませようかと待っているじゃないか」

 アシェルとマルキウスの視線を受け、イブライがゆっくりと手を上げて、握っていた物を見せる。小さな瓶に入った薄い緑の液体。

「そんなことはない! なんとか生きていけるはずです! 生きていれば……生きていけます!」

 必死に訴える見習いを、親方は真直ぐ見下ろした。

「ヴァルドであれば、シーリアであれば、ゴンドバルであれば……そうだろうな。――だがな、ローティは生きてはいけない」また猟師に目を戻す。「……ローティを振り返る者はいない。全てから追われ見捨てられては、生きることはもう呪いだ。役に立たない呪われた者に、誰が近づくものか。マルキウス、そうだ。お前の言う通りだ」

 これ以上ないほどの驚愕を浮かべた猟師が、筋切を見詰め返した。たった今、己の口から放たれた言葉が、そのまま返ってきたことに気付いたのだ。ヴァルドを追われ、そしてゴンドバルも追われたろう自分が、今まさしくローティそのものとなった事に。この世界にはローティの居場所はない。ながらえればヴァルドに戻る望みもあるが、動かない両腕で、それまでどうやって呪いの日々を生きていけるだろうか。膨れ上がった絶望が、心の内を食い破る。

 顔を歪ませたマルキウスは、野獣のような吠え声を上げた。まさかの力に弾みをつけて起き上がるや、地に刺してあった自分の剣目がけ身を投じた。

 止める間もなかった。

 エナムスが急いで駆け寄り、大男の体を抱き返すと、首筋から胸元が剣の刃でざっくりと切り裂かれている。たちまち着衣が噴き出る朱に染まった。

「この、飲め!! 飲むんだ!!」

 鮮血で溢れる口を無理やりこじ開け、カップの液体を流し入れる。マルキウスが激しく咳き込み、飛び散る飛沫に筋切は思わず首を逸らした。泡を吹く口端から洩れる呟き。

「ざまあみろ……もう間に合うもんか……せいぜい、この地を呪わしてもらうか……」

 脚を引きずりながら寄ってきたイブライが、細いガラス筒の先についた針を、素早く猟師の耳元に刺した。緑の液体が彼の体内に消えて行く。マルキウスは深く唸ると、薬師を凝視した。

「この……何をしやがった」その目がすぐに朦朧となる。「まあ……いい……どうせ、でっかい呪いが……落ちる」

 ぼんやりとさ迷った視線が筋切を捕え、唇が言葉の形に痙攣した。

「……フィノムめ……」

 瞼がゆっくりと閉じられ、呼吸が次第に浅くなる。

 マルキウスは絶命した。


 薄暗い闇の中で、赤黒く染まった分厚い胸の動きが止まってからしばらく後、エナムスが呟いた。

「……間に合ったか?」

「わからない」

 イブライは長い息を吐き、がくりと腰を地に落とした。顎に片手を当てて、しきりに撫で回しながら言葉を継ぐ。

「自裁だからこちらに難は来ないでしょうが……放っておいては、かなりな面倒が土地に残る可能性があります」

「『魂解き』がいるのか?」

 エナムスは、見習いにちらりと視線を送りながら訊いた。彼は呆けたように、マルキウスの遺骸を見下ろしている。

「村長程度の祈りじゃ効きません。まあ、ファステリア王家に頼めば、一級の祈祷師に来てもらえると思います」

 そう言うと薬師は億劫そうに立ち上がり、おい見習い君と声をかける。

「この大男の体を森の中まで運ぶんだ。手頃な所に埋めて、呪いが広がる前に結界を張っておくしかない」

 イブライが森へ向かったので、エナムスはアシェルに頷いた。

「あいつは歩くだけで一杯一杯らしいから、二人で運ぶぞ」

 見習いは無言で親方に従った。

 マルキウスを森の中に埋める作業はかなり難航した。その巨体にも拘らず、穴を掘る道具がほとんどなかったからだ。散らばった得物――マルキウスが自裁した剣も使って、ようやく体全体が隠れるほどの穴を掘り、遺体をその中に下ろした頃には、東の空が微かに白み始めていた。土をかけようとして、ふとイブライが口にする。

「一応耳金の文字を読んでおこう」

 身を屈めたアシェルは、マルキウスの耳飾りを外した。うっすらとした明け時の暗がりで、すり減った文字が読みにくい。

「レ、レプ……ィス…テリ?」

「レプティス・テル」薬師と見習いが顔を向けると、エナムスは大男を見下ろしながら呻いた。「西の……ずっと西の街だ。今はもうない。こいつの帰るべき土地は滅んでしまった」

 遺体の上に土をかけ終え、薬師の指定する植物の苗と石を探し出して、示された場所に置く。最後の作業が終わり、調達人はさすがに疲れを隠しきれない口調で訊いた。

「これで、どのくらい持つんだ?」

「ひと月ですかね。でもエルシャロンから近いから十分間に合うでしょう」

 三人は重い体を引きずりながら、楠に戻ると、身を投げ出すようにその根元に腰を下ろした。深い疲労に倦怠感がしばらく漂っていたが、薄闇の中で見習いが不意に呟いた。

「……考えなくちゃ」親方と薬師は若者に目を向けた。「考えなくちゃ……たぶん、マルキウスが言っていた竜使いはオフィルのことだ」

「ああ」エナムスは相槌を打った。「長老の不肖の子の裏にはゴンドバルがいたって訳だ。それが、野竜を連れてエルシャロンへ向かった。何も無いと言う方が嘘だな」

「野竜?」イブライが眉をひそめる。「竜使いが野竜を? 馬鹿な」

「不世出の竜使いだそうだ。少なくとも村人全部の心を鷲掴みするぐらいの力がある」そこでエナムスは鼻を鳴らした。「おそらく、手前の力の可能性とやらを試したくて、うずうずしてたんだろうな。そこにゴンドバルが誘いの手を出した」

「野竜を操ってみないかと?」薬師が小さく笑う。「それはたまらない誘惑でしょうね。しかし、そんなこと本当にできるんでしょうか?」

「不幸なことに、手頃な野竜が見つかったらしい。眠ってばかりの大人しい野竜だそうだ。どう操るつもりか知らんが」

 そこでエナムスはアシェルに視線を向けた。

――竜笛無しで地竜を操ることのできる竜使いは、野竜を操れるのか?

「でも、オフィルの目的とゴンドバルの目的が同じとは限らない。大体、オフィルが野竜を操れるかどうかも分からないのに」

 見習いの言葉に親方は苦笑した。

「おい、あんまりな言い様だな……まあ、確かにそうだが」

「ゴンドバルの目的が、野竜をエルシャロンに運ぶことにあったら?」イブライが顔を上げて、調達人二人を交互に見た。「野竜をエルシャロンでどうにかするとか……」

「どうにかって、野竜を暴れさせるのか?」エナムスが首を傾げる。「まあ、宴席でやられたらたまらないだろうが、それじゃ、せいぜい性質の悪い嫌がらせ程度だろう」

 あ、と出し抜けに声を上げて見習いが立ち上がった。宙を見つめながら、次第に息が荒くなる。

「マルキウスが最後に言った言葉……『どうせ、でっかい呪いが落ちる』って……大きな呪いって」ゆっくり視線が巡り、イブライに止まる。「イディンで一番大きな呪いといったら?」

 薬師は眉をきつく寄せると、低い声で言った。

「『竜殺し』だ」答えたものの、首を強く振る。「もちろん竜騎士の竜狩りとは違う。だいたい竜の意思に反して竜を殺すなど、人間にできるはずがない。竜に匹敵する圧倒的な力でないと……」

「重砲なら? 竜の心臓の力で発射されるあの……」

 張りつめた沈黙が、若者の言葉と共にその場に降りた。想像するだけで心を凍りつかせる場面があるなとすれば、イディンの生き物にとって、それは竜が地に呪いを放つ姿である。解けることのない一切に死をもたらす呪いが、その地を支配する時――エルシャロンは死の都となる。

 底知れない恐怖に、エナムスは喉奥で深く唸った。

「いや……だが、ゴンドバルが重機兵で乗り込むってのか? そんなことをしたら、たちまち戦争だ。ゴンドバルはイディンのすべてを敵に回すことになるぞ」

「乗り込むまでもない。重機兵ならある」

 薬師が抑揚も無く事実を告げる.

「王族専用船イズレエル・ガレは、警護用に常時三台の重機兵を搭載している。この重砲の射程距離内に竜がいれば役者はそろう。もちろん、誤射という形にすれば責任はラスタバンに行く」

「でも……それには、イズレエルの重機兵を奪わないと」

 言いかけてアシェルは、突然浮かび上がってきた言葉に愕然とした。

――そっちじゃない……

 今まで思い出そうとして、なかなか出ずに沈んでいた言葉だ。あの時、あの場所で――自分の感覚が捕えたものだが、その意味が漸く分った。分かって絶句する。

「……そんな」

 なぜなら、それを認めるならば、今まで見えていた世界に恐ろしい瑕疵が生まれ、平和な情景が一挙に暴力に満ちたものとなるからだ。それはあまりに想像を超えたもので、とても受け入れ難かった。否定することは簡単だ。思い違いと片づければいい。だが、感覚は自分の真理を叫んで止まない。

――そっちじゃない……!

「アシェル?」

 いきなり言葉を切った見習いに、エナムスが怪訝な目を向けた。苦痛に歪む顔を、傷の痛みのためかと思いながら立ち上がり、包帯を変えようとロバに向かう。ふと水が要るか聞こうと振り返った時。若者の後ろに影が動く。

「おい! 気をつけ……」

 エナムスが叫び終わる前に、アシェルは背後から掴まれた片腕を、背中に捻り上げられた。首筋に当たる冷たい刃先。

「ゴンドバルの目的が分かったからには、急がなくてはいけない」

 見習いの肩越しに覗くイブライの目が白く光った。


「お前……どういうつもりだ」エナムスは腰の山刀を抜き、構えながら低く訊いた。「同じゴンドバルに狙われて……『給仕』じゃないのか?」

 薬師が荒い息の中で目を細める。

「……そうだと言ったら、信じますか?」

 親方はその目から視線を外さず、大きく息を吸った。

「……いいや」

「私もあなたを信じられない。エナムス」

 双方の息遣いの中で、威嚇するような唸りが口元から断続的に漏れ出てくる。

「……そういうことか」

「そういうことです」

「……そいつを離せ」

「あなたが、その山刀を手放したら」イブライは見習いを締め付ける力を一層強くし、首に寄せた刃を更に立てた。「山刀を投げてください」

「イブライ!」アシェルは首筋にある冷たさに身動きできず、目だけを向けて懸命に言葉を継いだ。「駄目だ……こんなことをしては、いけない!」

「したくはない、けれどせざるを得ない」薬師は乾いた口中を湿らすために、ごくりと喉を鳴らした。「君の親方は……あまりにも危険すぎる」

「そんなことはない……そんなことはしない! 親方は!」

 腕の関節を逆に締めあげられ、アシェルは痛みに口をつぐんだ。

 エナムスが構えを解いて身を起こすと、山刀を脇にだらりと下げた。ゆっくりと前に一歩を踏み出す。

「山刀を投げろ!」

 もう一歩と共に腕が大きく振られ、山刀が山成りの軌跡を描いて彼らの中程の所に落ちた。アシェルに押しつけた刃の向こうで、イブライが小さく息をつく。

「……さあ、離せ」

 じりっと歩を重ね、筋切が言う。

「まだだ、近寄るな!」距離が不気味に縮まるのを後ろに引きながら、薬師は叫んだ。「鞘も外してもらおう」

 鞘には二本の小刀が収めてある。

「親方! もういいです! 十分ですから……」アシェルは痛みに歯を食いしばりながら、擦れる声で訴えた。「イブライは何もしませんから……できませんから。だからもう」

「それは、随分見くびられたものだ」見習いの肩越しの目に、新たに凶暴な光が宿る。「あなたもそう思いますか? エナムス」

「いいや」それでも一歩を止めずに筋切は、首を横に振った。「必要とあれば、何でも刃を入れる……それが『給仕』だ」

「その辺りは信じてくださって感謝します」薬師がそう言うや、刃が微かに動く。冷たく熱い瞬時の痛みと共に、首筋が生暖かい物で濡れ始め、脈の音がアシェルの耳に響きだした。「近づくなと言っているはずだ!」

 茫然としている見習いを引き寄せて、イブライは更に後ろに下がり、楠を囲むウツギの下生えの中に入って行く。歩を止めたエナムスが鞘帯の金具を外し、収まっている小刀が相手に見えるよう、前に高く掲げた。

「それも投げろ」

 山刀の時と同じく腕を振って放ると、これはもっと飛んで下生えの際で落ちた。

 と、筋切がするすると歩を速めてくる。薬師は思わず後ろに身を引き、制止を掛けようとして、いきなり呻いた。ウツギの枝先が腰の傷口を突いたのだ。顔が歪み身を屈め、見習いへ向けた刃が大きく逸れる。突然迫った眼前の恐怖に、薬師は人質の体を思い切り突き放した。

 瞬間、恐れた白光が地から噴出する。小さな風と共に冷たい煌めきが肩口を行き過ぎ、頭上で山刀が返る。再び向けられた刃に、激痛の走る脚で背後に跳んだ。が、もはやその先には何もない。

 イブライの体は崖の宙に投げ出された。


 密生するウツギ中で身を横たえながら、エナムスは激しく息を切らしていた。重労働の後の一刀に、さすがに頬は痙攣し目も朦朧としている。けれど、この圧し掛かる重さは体だけではなかった。何かを失ったような虚脱感が、心の内まで広がっている。

 腰には縋りついた見習いが、微かに肩を震わせていた。イブライへの二刀目を振り下ろす直前、彼が体をぶつけて来たため、そのまま横に倒れたのだ。包帯の乱れた髪に触れようとして、手を止める。マルキウスの埋葬で汚れた血と泥を、洗いもしていなかった。気付くと若者が顔を上げていて、イブライは、と訊く。下生えの先を顎で示すと、そちらへ這って行った。

「落ちるなよ」

 エナムスはその背に声をかけ、砂袋を持ちあげるように立ち上がった。引きずる歩をロバへ向ける。背後で、見習いの薬師を呼ぶ声が谷に響いた。

「……イブライ!」

 革袋の水筒の栓をひねり、両手に水を掛け、掌にこびりついた泥と血を洗う。強く擦るうちにあらかた落ちたが、かわりにいつもの傷跡が現れた。

「イブライ!」

 その名が呼ばれるたびに、一本ずつゆっくりと指を折る。やがて片手の指が掌を覆い終えた時、アシェルが崖際からこちらに戻ってきた。両の手には、下生えに放ったままだった筋切の鞘帯と山刀を持っている。

 いたか、と訊くと、首を横に振った。

「暗くて、どこに落ちたか分りません」

 アシェルは水袋を脇に抱え、親方の前を素通りして楠の根元に腰を下ろした。

 まず自分の汚れた手を洗い、次に水を山刀にかけて、握りと刃の汚れたところを丁寧にこすった。幾度かそれを繰り返した後、最後に多めの水を掛け、山刀を宙に振って水滴を払う。そして自分の上着の前を広げ、その柔らかい裏布を使って、山刀の端から端までをこれも丁寧に拭った。

 エナムスは、若者のこの作業をぼんやり見守っていた。薬師に山刀を手放せと言われ、あれほど恐慌を来した自分が、今は丸腰でいる事に何の動揺もない。

 何と言うこともない、さっきもこのようにすれば良かったのだとの思いが浮かび上がる。薬師は、筋切の山刀を恐れていただけなのだから。

――あれは、何のための一刀だったのか……

 その無意味さに立ちつくす彼の前に、歩み寄ったアシェルが山刀を収めた鞘帯を差し出した。

「きれいになりました。もう、離さないでくださいね」

 穴の空いた心を、笑顔が奇跡の様に照らした。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ