2.襲撃
眼下に取り巻く木々の枝が風に揺れ、陽光がさざ波の様に照り返している。医師と石投げの少年が、村を外れた小高い丘まで調達人達を見送りに来ていた。
「野宿は慣れてますので、心配しないでください。それに御馳走や差し入れまでたくさん頂いて、ありがとうございます」
アシェルが笑顔を向けると、サマディヤが首を振った。
「とんでもない。あなたにした仕打ちを思えば、何をしても償いきれません。せめてものお詫びです」若者の頭の厚い包帯に沈んだ目を注ぐ。「どうか無理をしないように……オフィルのことは、間に合わなければそれで構いませんから」
「できる限りのことをします」若者の眼差しが、今度は医師の横にいる少年に移る。「竜達は収まったかい?」
「うん、でもすごく大人しくなった」イズレクも包帯から目が離せず、自責の念につまされているようだ。「……ごめんなさい」
「すぐ治るよ」
今にも泣き出しそうな顔に優しく微笑み、ぼさぼさ頭を軽く撫でる。
親方がいくぞと声をかけたので、見習いはロバに乗ってその腹を蹴った。見送りの二人に手を振り、森へ続く丘の下り道を降りていく。その背にサマディヤが手を上げて声をかけた。
「竜の守りを!」
ちらりと振り返った若者が思いついたようにロバを止めて、こちらに手綱を返した。掌を正面に右腕が高く上がり、はっきりとした言葉が刻まれる。
「竜の守りを!」
午前と同じように見習いを先にして、速い歩調で道を急ぐ。竜使いの村からファステリアの王都エルシャロンまで、丸二日の道のりである。途中村人が使う宿泊用の仮小屋があるのだが、午後も遅くなっての出立では辿り着けそうもない。
サマディヤの話によると、オフィルは眠りの竜と共に、一昨日の朝村を出発した。こちらの道は大型の馬車が通れないため、オクラーテ経由の道筋をとったのだと言う。アシェルが会ったのは、エルシャロンへ向かう途中の竜使いだったのだ。するとあの時、町のどこかに、いや、あの厩の近くに眠りの竜の入った檻もあったことになる。地竜達の檻が並んでいたのは、たまたま巡業帰りの竜使いの一行とすれ違ったのだと医師は言った。
――夜中のあの笛は、眠りの竜に聞かせていたのだろうか……
思い起こして、アシェルは体の芯を小さく震わせた。
――あんなものを、竜は聞かされていたのか……
「おい」後ろから親方が声をかける。「安請け合いをしてたが、助けるったって何からどう助けるって言うんだ?」
それを聞いた見習いは、「うーん」と唸って首を傾げた。考え込んだ様子でなかなか答えないので、エナムスが眉を寄せ疑い深そうに、お前、ひょっとして、何も考えてなかったなと訊くと、はあ、そうなんですと振り返って、ごまかすように軽い笑い声を上げた。
「でも、どうにかなるんじゃないですか?」
親方は殴りたい衝動を、分厚い包帯に免じてやっと抑えた。しかし思い返せば、この見習いの突拍子もない行動のすべては、その場の思いつきのようだった。突然、言葉が力を持ち、その場を支配する。
地竜を抑えた言葉にしても、あの魂解きの祈りにしても――
陽が傾き始め、木々の茂みを返す光が金色を帯びてくる。強風がおさまった丘の上には、まだ医師と子どもが佇んでいた。それまで身動き一つなかった子どもの手が震えながら上がり、男の手を強く握る。その口から漏れる深い感嘆。
「すごい……光った」紅潮させた頬で医師を見上げる。「先生。金色に光って……青い筋が上って行った」
サマディヤも興奮で目を輝かせながら頷いた。
「……あれが、竜の言葉だよ」
道が森に入ると、夕空の明るい分木立の陰が濃くなり、エナムスは再び周囲に神経を集中させた。風が止んで気配が探り易くなったが、昨夜のことを思い起こすと、いかに最悪の状況だったと気付く。いつ襲われてもおかしくない大風の中、束の間の静寂で気配を察し、向こうも強行せずに引き上げて行った。本気で狙っているのだとしたら、運が良かったとしか言いようがない。
――運が良かった……
心の中で繰り返し、前を行く見習いの背に目をやりながら、またかと思う。
――最初はいつだ?
大王牛。自分が言った。『あれは運が良かったんだ』。あの一瞬、思いもかけず大王牛の怒りが収まり、その隙に獣の四肢に刃を入れる事が出来た。
――次は?
給仕長だ。『君は運がいい……三人が死んでいる』。若者を襲った胸元の白刃は掠り、実害は背後からの殴打だけだ。それで今回。大人顔負けの石投げイズレク。最初はこれも掠り、二度目の直撃でも骨折に至らなかった。『この程度で済んで……運が良かった』、『奇跡的』とすら医師は言った。
――三回……四回か。いや、待て! ジャッロはなぜ、合切袋を返したくなった……!? え?
エナムスは自身の思いつきに混乱して、低く唸った。
と、軽快に揺れていた見習いの上半身が、徐々に前かがみになり、重心がずれていく。
「アシェル!」
急いで前のロバと並び、ずり落ちそうになった体を支えると、見習いは焦点の合わない目を上げた。
「なんか……目が回っちゃって……」
休むかと訊くと、首を横に振る。今更止められるものなら、こんな状態で出発はしなかったろう。エナムスは若者の荷を自分のロバの背にひとまとめに移し、自分は空いた見習いの前に跨った。
「そら、俺に掴まれ。落ちるんじゃないぞ」
見習いは親方の体に腕を回し、その背に身を預けた。再び暗くなるばかりの道を急ぐ。
背にかかる重さを感じながら、エナムスは独り言ちた。
「……これの、どこが運が良いっていうんだ。まったく酷い目に遭ってばかりだ」
しばらく行くと谷川の音が聞こえ出し、道が木立を抜けて崖縁を進むようになった。お陰で空が開け、正面には半月がかかって視界も良くなる。左側はまだ鬱蒼とした森の影が深いが、右側は渓谷が落ち込み、対岸の崖が月の光の中に浮きあがっている。警戒は変わらず怠らなかったが、今のところ気配はない。状況が有利になって――もちろん襲われたら同じなのだが――やや息をついた時、背後の見習いがぼそぼそとした声で話しかけてきた。
「……ねえ、親方。俺って赤毛ですか?」
「はあ?」予想外の言葉にエナムスは戸惑って訊き返した。「何の話だ」
「だから……オフィルもイズレクも俺のこと赤毛だって、村の人も……」小さい溜息。「……嫌だなあ」
「なにを若い娘みたいなことを言っている。赤毛だからどうだってんだ?」
『赤毛は嘘つき』という言葉が船乗りにあると、若者は言った。子どもの頃それで随分いじめられ、マニーに慰められたそうだ。先頃までも、からかい半分に船乗りたちが口にすると、マニーがすっ飛んできて彼らを追い散らしたらしい。
――なんだ、そりゃ?
いささか敬服の念をマニーに持ちつつあったエナムスは、顔をしかめた。
「マニーが言うには、俺のはただの赤毛じゃないんだそうです……光が当たると金色になるから、赤毛だけどホントは金色だって」
それは――マニーも赤毛であることは認めているのではないか? ある意味、親の欲目だ。
「親方……俺って嘘つきですか?」
続く問いに、エナムスは後ろを振り返った。
そこでようやく、若者が何を本当に気にしているのかが分かったのだ。――自分の『言葉』は真実なのかどうか。突然放たれる『言葉』は、真実を示しているのかどうか。
月光の照らす道の先を追いながら、ある情景が心に浮かんで目を細める。
赤毛――陽を受けて、金色に光っていた赤。その真実。
「……マニーは正しい」
筋切は後ろの若者に言った。
急いではいても、いずれどこかで休みを取らなければならない。人間には食事が必要だし、山道を行くロバも無理をしては先が続かない。エナムスはその場所を探しながら進んでいたが、ちょうど森と反対側の崖際に、枝を広げている楠を見つけた。太い幹の周りには、ウツギが崖の向こうへと張り出している。ロバを止めて休むぞと言うと、見習いは腕を離し、ずるずると落ちるように降りた。まだ目が回るのかとの親方の問いに、照れた顔を向ける。
「腹が減ったんです」
半月が西に大分に傾き、夜半近い。普通ならとっくに夕食も終わり、寝ている時刻だ。水の革袋と医師が差し入れてくれた食料の袋を取り出し、楠の根元に腰を下ろす。
「食ったら、包帯を取り替えてやろう。朝晩、替えろとあの長老が言っていたからな」
「……親方」
声をかけたアシェルが、地の草に置いた手を上げて示した。指先についた真新しい血。それを覗いたエナムスの眉がきつく寄せられ、いきなり若者を突き飛ばした。
次の瞬間、頭上の枝から大きな鳥の翼を広げたような影が、風を切る音と共に舞い降りる。半月の光を滑らせた刃が、筋切の山刀に当たって青白い火花が散った。その勢いに共に体勢が崩れたが、すばやく身を起し、次は月の下で再び刃同士が激しい音を立てた。握りを突き合わせての競り合いに、相手が話しかけてくる。
「どうして……ここに、あなたがいるんです?」
エナムスは握り元を力で押し放し、踏み込んで素早く山刀を払った。寸瞬を見切り、相手は軽業師のように宙に舞って後ろに退く。しかし着地にがくりと膝と手を突き、大きく体勢を乱した。
「それは、こっちの言い種だ」
一呼吸も与えず、更に山刀を突きだす。相手がそれをも紙一重の間で避け、地に跳びのいた勢いを利用して体勢を立て直し、逆に長剣の切っ先を向けてきた。それを体を捻りながら払うと、三度目の激しい火花が散り、両者は相対した。筋切は次の攻撃姿勢に入りながら言葉を継いだ。
「……お気に入りの帽子はどこへやった? 薬師殿」
薬師イブライは闇に映える白い歯を見せて、膝をつくと篭手の付いた長剣を構え、防御に身を沈めた。
「勘弁してください……あなたとは気付かなかったんです。エナムス」
筋切はますます厳しい表情になり、首を横に振った。
「手負いは信用できん」
「相変わらず冷たいんですね」イブライは楠の根元に立ち上がった若者に、ちらちらと視線を走らせた。「助けてくれ、アシェル」
「こいつに話しかけるな!」
低い体勢からいきなり近づいた筋切が、渾身の力で山刀を振り下ろした。咄嗟に身を避け剣で受けたものの、腕ごと地に叩きつけられる。仰向けに投げ出さた体が、完全に開いた。その眼上で、山刀の刃が筋切り本来の動きで返り、イブライは来る一刀を予期して顔を歪めた。瞬間、声が懸かる。
「親方! 駄目です!」
頬に風を感じ、気付いた時には、山刀の刃が自分の横顔を映して止まっていた。
朱に染まった右腰のズボンを裂き、現れた傷口に酒精をかける。火に通した小刀の刃を真っすぐそれに差し入れ切開し、刃先を探って体内に残っていた矢尻を取り出した。開いた傷口を、これも火を通した針と糸で縫い合わせ、再び酒精をかける。その後、前もって練り薬を塗っておいた布をあて、シャツを切り裂いたものを包帯代わりに巻いた。イブライはこれらの自分の治療を、一人で行った。終わってようやく口に噛締めていた布をはずし、脂汗を一杯に浮かべた顔を伏せて長い息をつく。
その間、調達人達は黙って見ていた。アシェルが手伝おうとしたのを、エナムスが頑として許さなかったからである。それでも医師からもらった酒精と薬は分け与えたので、薬師はそれで十分と礼を言った。
「……毒矢なのか?」
エナムスが訊くと、イブライは小さく頷いた。
「まあ……自分の作ったものですから、対応の毒消しは飲みましたが、命が助かるだけの効果しかないので……」
腰の矢傷と体内の毒の痛みを抱えて尚、先ほどのような剣戟ができるとは尋常ではない。知識人然とした薬の造詣の深さだけを注目してきたが、やはり本人が言ったようにそれも隠れ蓑だったようだ。戦いの専門的な訓練を受け、高度な技を身につけてきたことは明らかだ。問題はその正体。ゴンドバルの凄腕の密偵か、他国の間者か、ラスタバンであるとしたら――『給仕』の他いない。しかし、『給仕』ならどうしてそう言わないのか。こちらは同国の調達人で、『給仕』に協力するよう命を受けている。
――……いや、明かしたとしても、それをそのまま信じていいのか?
エナムスが疑いに沈んでいる間に、見習いが薬師に歩み寄った。近づくなと声をかける前に水を満たしたカップを、ぐったりしている怪我人に差し出す。イブライはそれを受け取ると貪るように飲み干し、顔を上げて若者に薄い笑みを向けた。
「……すまないが、もう一杯」
「いいよ」
アシェルは微笑み返すと親方の元に戻り、革袋から再び水をカップに注いだ。しかし今度は食料袋を開けて、パンと燻製肉を取り出す。それを咎めるようなエナムスの視線に気づき、確認するように訊いた。
「俺はまだ、食料係ですか?」
しばらく若者の真っすぐな眼差しを受けていた親方は、目を落とすと低く答えた。
「ああ……」
イブライは二杯目の水を、今度は旨そうにゆっくり飲んだ。深い息をつき、いくらか緩んだ顔の前に、薄切りにした肉を挟んだパンが差し出され、驚きに目を見張る。
「……親方はいいと言ったのかい?」
訝しげに訊くと、若者は頷いた。
「俺が食料係だから」
エナムスの方は、こちらに背を向け黙々と食事をとっている。薬師は眉をひそめたが、ありがとうと言うとそれを受け取り、二日ぶりの食い物だなと呟いた。
彼の横に腰を下ろしたアシェルが、パンを口に運んで、そのあまりの美味しさに思わず声を上げる。凄いパンと仕入れたものだねとイブライも感嘆し、チャイ麦パンを野宿で口にするとは思わなかったと笑った。そして若者の包帯に目を留め傷の種類を知ると、外套の内ポケットの一つを探って、白い粉薬の入った小さな瓶を取り出した。
「飲む化膿止めだよ。塗り薬なんかより、ずっと効き目があるから、毎食後一摘みずつ飲むと良い」
それを見たエナムスが、大股に近寄ってきて険しい目を向けたので、薬師は苦笑した。
「私も飲んでいるものですよ……あなたも知っているでしょう? 怪我の死因のほとんどは、化膿の毒が全身に回ったためです」と、突然厳しい視線を送る。「この子を助けたかったら飲ませるんだ」
アシェルは受け取った小瓶を不思議そうに見詰めた後、嬉しげな顔を上げた。
「ありがとう、イブライ」
「肝心なことを訊き忘れていた」
食後アシェルの包帯を変えてから、エナムスが薬師に歩み寄った。
「その矢傷は誰から受けたんだ? それに、俺らを誰と間違えた?」
イブライは上目遣いに見上げていたが、小さく首を振って視線を外した。
「……カラックの元締はいないんですね……ついてない」
それを聞いて、おい、と苛立ちの声を上げた親方に、目を戻して強く問う。
「もうすぐわかります。私も訊きたい。あなた達もどうして狙われているんですか?」
調達人達は顔を見合わせ、エナムスが眉をひそめて訊く。
「……やはり、いるか?」
います、と薬師は声を落として頷いた。
「どうやら同じ相手らしい」緊張に口元を引き締める。「合流するのを待っています」
「お前……!」エナムスは驚きの声を上げ、薬師に詰め寄るとその襟首を掴んだ。「知っていて黙っていたな!?」
イブライは頬を微かに痙攣させ、薄く笑った。
「一人では心細かったので……けれど、あなた方も引き連れてくるとは思わなかった」
「アシェル!!」親方は相手を突き放し、見習いに声をかけてロバへ歩を急いだ。「すぐ出発だ! こんなのに構っていられん!」
「もう遅い」イブライはゆっくり立ち上がり、若者に命じた。「アシェル、得物を抜け」
いきなりの指示を受け、見習いが親方へ戸惑いの目で縋る。ロバの手綱に手をかけていたエナムスは、忌々しそうにそれを払うと、若者を振り向き、頷いてから外套を脱いだ。
「背を楠に向けて離れるな。かかってくる奴だけを相手にしろ」そして薬師を睨めつける。「こいつに少しでも命の恩義を感じていたら、せいぜい守ってくれ。狙われているのはこいつだ」
イブライが見習いに驚きの目を向けた時、黒い影が森の奥から一斉に姿を現した。
三方から跳びかかれたエナムスは、その数瞬の間を見切ると、擦れ違いざまに一人の背に刃を入れた。更に正面から向かってきた影の一撃をかわし、脇下を切り上げる。最初の討手の返す刃を背後に感じ、体を捻ると同時に脇元でその腕を捉え、得物を握る指を切り落とした。
彼らの動きから、獣人だということが分かった。狩りならば、獣の最初の一撃を避けさえすれば、次まで間がある。しかしこの相手からは、途切れることのない攻撃が、必殺の刃先で繰り出されてくる。
人では禁忌とされている殺意。殺人における呪いは、なぜか獣人にはかからない。元来殺意を持つことができないためと言われているが、眼前の敵は明らかに必殺を狙ってくる。暗殺者として訓練された一団なのだ。人間であるこちらが直接相手の命を狙えない分、明らかに不利である。
救いは得物の長さが同じということだろう。長剣に長けている集団相手では、どんな短刀の名手でも勝ち目はないが、同等ならば活路もあるというものだ。ただ、何人いるか見当もつかない。
――カラックの元締めはいないんですね……ついてない。
まったくだと思う。あの万力の男がいればと、これほど願ったことはない。
五人目の腰筋に刃を入れた時、さすがに息が荒れた。年のせいもあるが、もともと一頭仕留めるにも、高い緊張を保つために呼吸を止めるので、反動が直後の荒い息となる。その乱れが、六人目への踏み込んだ一撃がかわされたことに現れた。討手の数がこれ程とは思わず前に出ていたが、体力の消耗を考えると、木立を背に立った方がよさそうだ。
じりじりと相手との間合いを計りながら楠の方を見ると、薬師が左手の長剣と共に右手に短刀を握って応戦していた。常人にはどこが怪我人かと思われる動きだが、討って出られないのは、やはり相当苦しいせいだろう。
見習いの方はと目を向けようとした時、六人目が隙と見て突き掛かってきた。身を返す時、脇腹に一瞬熱い痛みを覚えたが、すぐに相手の見せた肩に刃を一閃させた。
見習いは――健闘している。典型的な船乗りの剣法で、弱くはないと言った腕を振るい、敵と刃を交わしているのだが――
――なんだ、あれは……!?
奇妙な感覚を覚えた時、凄まじい刃風が頭上を襲った。思わず地に身を投げてそれを避けたが、体勢が崩れるや二つの刃先が突き下りてきて、一つは払ったものの、もう一つに肩先を切られる。幸い利き腕でなかったので、射程に入った向こうの肩を逆に切り割り、相手の体を脚で押し払うと同時に起き上がった。
真っ先に目に入ったのは、西の空へ落ちようとする半月の光を映した長剣だった。それを持つ巨体が、喉の奥の笑いと共に親しげに言葉をかける。
「煩いネズミを追いかけていたら、とんだところで出会ったな、エナムスの親方」
そこには浮き岩台地にいた元猟師頭マルキウスが、剣と同じ凶暴な光を湛えた目で見下ろしていた。
「お前こそ、どうしてこんな奴らと一緒にいる?」エナムスはゆっくり後退りしながら、低く問うた。「ヴァルドを追われて、やけくそで寝返ったか?」
「お前がそれを言うか?」相手は蔑んだように笑った。「……聞いたぜ、その取り澄ました面の下をな。正体の知れねえ、訳の分からない奴だとは思っていたが、そういう事かと合点がいったぜ」
「……どういう意味だ?」
今更とぼけるんじゃねえよと叫び、踏み出したマルキウスは、再び剣を振りおろした。体つきに似合わずその動きは俊敏で、間を空けることなく二太刀三太刀目を繰り出してくる。体勢を崩したままでは、短剣の必須である懐に飛び込むことができない。しかし、四太刀目の横払いを山刀でなんとかしのぎ、相手の剣の動きを止めて重心の逆方向を突き押すと、僅かな隙ができた。素早く身を沈め、その胸元に刃を向ける。が、やはり早い動きに身を交わされ、厚い皮の胴着を切り裂いたに止まった。
「どうした? エナムスの親方、冴えないじゃないか? やっぱり王宮務めで腕が鈍ったか?」巨漢は歯を見せて笑い、腰を落として両手で剣を構えた。「……あんときゃ、洒落たことをしてくれたな。様子がおかしいと、獣人村を見に行って驚いたぜ。ローティが情け心か? まったく、らしくねえ」
エナムスは荒い息を整えながら、冷たい視線を放ったが応えなかった。
「ま、お陰でそっちのとんだネズミが飛び出してきたがね」マルキウスは楠の下にいるイブライに声をかけた。「よう、自分で作った毒にぶっすり刺されるってのはどんな具合だ?」
「……なかなか貴重な体験ですね」イブライは剣をふるう合間に、律儀に答えた。言葉も切れ切れなところは、かなり消耗しているせいらしい。「良い論文が書けそうだ……」
そりゃ無理だなとの一声と共に、マルキウスは筋切に討ってかかった。エナムスにとって、体勢は十分整っていた。問題は体力が一撃に及ぶかだった。息を止め、皮一枚で白刃を頭上にかわし、一番低い姿勢から左脇に刃を入れた瞬間、大槌のような肘打ちが頭に落ちてきた。地に叩きつけられ、すぐに体を起こそうとしたが、全身が痺れて動かない。相手の呻き声が聞こえるので、それなり痛手は与えたようだが、朧に見える視界の中で影が立ち上がり、片手で剣を振り上げた。
――これで終わりだ……
ふと心が軽くなった時、乾いた金属音が間の抜けたように響いた。
気付くと先ほどまでの剣戟の音が絶え、妙な静寂が辺りを包んでいる。
耳元で靴が土を踏む音がし、側に誰かが立っているのが分かる。
イブライかと霞む目を懸命にこらして唖然とした。
見習いが彼をかばって、マルキウスの前に立ちはだかっている。
「あ?」
マルキウスも一瞬、何が起こったのか理解できなかった。エナムス以外の二人が、楠の根元から離れてくることなど、考えられなかったからだ。予定では彼が筋切の相手をしている間に、他の隠密達が二人を片づけているはずだったのだが。
周囲を見回して驚愕する。いつの間にか獣人の隠密達は彼らを遠巻きにして、襲いかかる気配すらない。中には怪我をした仲間を抱えて、そそくさと退散している者もいる。
「お前ら!! 何をしている!!」
マルキウスが思わず叫ぶと、隠密の頭らしい獣人が鋭く言った。
「……マルキウス、お前がやれ!」
「なにを……?」
凶悪な形相を一瞬向けた猟師は忌々しげな舌打ちをし、まったく獣人なんぞアテにできないもんだと呟き、再び調達人達に向かった。左腕は切られた脇を押さえているが、健在な利き腕を上げて、長剣の刃先を向ける。
「なんだか知らないが、こちらの本命はお前らしいんだな。シーリアの見習い。この先、お前に生きていられると、不味いことがあるらしい」
それを聞いてアシェルが眉をひそめた瞬間、マルキウスは素早く突いて出てきた。身を避けると、空を裂く唸りと共に刃が脇をすり抜ける。間髪をいれず、二度目三度目の突きが繰り出され、その度に若者は右へ左へと体をかわしていった。
「案外身が軽いじゃねえか……」
マルキウスは不敵に笑うと四度目の突きを入れた。が、此度は途中で刃を返し、逃げた見習いの胴を目がけて思い切り払う。剣の骨を断つ感触が伝わる――はずだった。しかし実際は、また乾いた金属音と共に、払われた剣先が宙を泳いでいる。
今度は声も出なかった。愕然として若者を見やる血走った眼に、僅かに恐怖が上る。それを見るや隠密達が一斉に引いたのだが、マルキウスは気付かない。歯茎が見えるほど唇をめくり上げ、吠え声と共に長剣を振り上げて見習いに襲いかかった。次々に振り下ろされ、また返される刃を、アシェルは少しずつ身を引きながら避けていく。何度が直撃を受けそうになっても、例の軽い刃音で剣を払って、必殺の一刀を寄せ付けない。
マルキウスの注意が若者だけに向いていると見て、背後に忍び寄ったイブライは剣先を向けた。しかし素早く気付いた巨漢が振り向き、逆の一撃で受け跳ね飛ばされる。
「邪魔すんじゃねえよ! くたばりぞこないが!!」
叫んでマルキウスは鼻を鳴らした。
「他の奴には、効くんだよな……」シーリアの構えをする相手に、これ以上ない嫌悪の表情を向ける。「……てめえ、何者だ」
そう言うや振り上げた長剣を地に刺し立て、いきなり若者に向かって躍りかかった。体当たりで地に突き飛ばし、そのまま上に圧し掛かる。得物を握る手を掴み取り、膝で踏みつけ刀を落とすと、今度は鉄球にも似た拳骨を、包帯の巻かれる頭に打ち付けてくる。アシェルは思わず腕でかばったが、激しい連打は腕越しであっても、強い衝撃を傷ついた頭に与えた。
組んだ腕が次第に左右に開きかける、その時。悲鳴のような喘ぎ声がして、鉄拳の嵐が止んだ。
巨体の背後に張り付く黒い影。
筋切が後ろから猟師の振り上げた拳を握り止め、その両の肩口に刃を入れていた。